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2019年7月10日 (水)

追悼  森田恒一さんご逝去

 長く三里塚関西実行委員会の世話人を務めていただいていた牧師の森田恒一さんが、7月7日午後4時44分にご逝去されました(102歳)。心からご冥福をお祈りいたします。

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 森田先生は、1940年関西学院神学部を卒業され、朝鮮北部、中国との国境近くの会寧、清津で朝鮮の人々、特に青年たちと交わりながら牧会を続け、敗戦間際に召集されて従軍、ソ連参戦による逃亡の上で日本に戻られました。その経験から「平和と民主主義」を厳しく求められ、亡くなられるまでの74年間を「あの暗黒の時代を繰り返してはならない」と訴え続けられました。その主張から、一度は教会を追われ、長距離運転手で糊口を注がれたと聞きます。

 8・6ヒロシマにその想いを重ねられ、長く島根県の益田教会で活動を続けられ、日本基督教団中国教区の議長を務めておられました。1981年、大阪の岸和田教会に赴任されました。その8月6日、関西空港の岸和田での説明会闘争の現場に居られ、警察機動隊、大阪府の住民無視の暴力的対応(私をはじめ14名が事後逮捕、私をはじめ8名が起訴)を目にされて、知人の加邉永吉さん(故人、当時三里塚関西実行委員会事務局長)を頼って、三里塚関西実行委員会に入られました。その後、関西新空港反対泉州住民の会の代表に就かれ、関西実行委員会の世話人に加わられました。そして、泉佐野市議8期を務め、その渦中で亡くなった国賀祥司さんを泉佐野市議選に強く推したのが森田さんでした(1986年)。

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 お連れ合いの長期治療が深まる中で、森田さんは千葉県佐倉におられた娘さん家族のもとに身を寄せられ、三里塚関西実行委員会世話人を辞され、代わりに「三里塚闘争を続けたい」という意志の下に三里塚芝山連合空港反対同盟の同盟員になることを反対同盟に申し出られ快諾されました(2006年ごろ)。それ以来、森田さんは三里塚全国集会があれば「主催者あいさつ」を集会冒頭にされることが習わしとなり、私たちを喜ばせました(冒頭の写真は、2010年10月10日、2枚目が2013年3月24日、いずれも三里塚現地全国集会)。

 「開会宣言は、94歳になられた森田恒一さん。森田さんは、自らの1940年ごろの朝鮮北部での伝道の中での朝鮮人への日本の権力による弾圧になぞらえながら、市東さんへの農地取り上げ、天神峰現地闘争本部解体に向けた裁判所などの攻撃に対し、「国家犯罪」と弾劾し、この日の集会とデモの成功と闘いへの決起を呼びかけられました」(『関実・三里塚ブログ』より、2011年3月28日)

 森田さんは2013年3月24日の三里塚全国集会まで毎回「開会あいさつ」をされ、その春に、出身教会である益田教会から「老人ホームが新築・整備されたので帰ってきてほしい」と要請され、三里塚反対同盟員を辞退され、益田に移られました。移られても99歳まで自分で運転されて益田教会に行き、時には説教壇に立たれたそうです。娘さんの強い要請で運転は諦められたものの、昨年、山本善偉さんの逝去の報を伝えに訪れた二男の山本幸造さんにかくしゃくとして応えておられたそうです。

 まさに「天寿を全うされた」森田恒一さん、重ねて心からのご冥福をお祈りし、お別れとさせていただきます。

            三里塚関西実行委員会   松原康彦

 

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