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2018年8月 4日 (土)

惜別の辞     松原康彦

 

 18128_2山本善偉先生、97年と9ヶ月の人生、ほんとうにご苦労様でした。今年の128日の狭山集会「獄友」で石川一雄さんと握手をした時の先生の満面の笑みが示すように、そして1975年の関西新空港反対東灘区住民の会の代表就任、1977年の三里塚関西実行委員会世話人就任、以来亡くなられるまで現職をまっとうされ、闘いぬかれました。私のFacebookの先生の逝去を伝える記事に多くのみなさんが「大往生」と書かれたように、正に大往生としか表現できない凄いものでした。

 その先生の98年近い人生の中で、その過半を超える54年をご一緒させていただけたことを心から感謝いたします。その暖かい優しさと真っ直ぐな生き方が、三里塚を軸とする困難な「政治」の世界の中で、幾度か挫けそうになる私を支え、励ましていただけたこと、そしてこうして「惜別」を語れる身でおれることに何より心からの感謝をささげます。ほんとにありがとうございました。

 先生と酒を酌み交わしながら2年余の歳月をかけて出版した『ライオン吠える』(2015年出版)に先生の人生の多くが語られていますので、ここでは割愛させていただきたいと思います。

 そこには詳しく触れられていませんが、先生も私も木の根の小川源さんとの交流から三里塚闘争に関わるようになりました。しかし、三里塚闘争はその後、『3・8分裂』(1983年)という三里塚反対同盟の分裂と、党派対立の渦中に好むと好まざるとに関わらず巻き込まれました。先生と私もそうでした。小川源さんは熱田派に行かれ、先生と私は運動の流れの中で北原派に合流しました。その後、小川源さんが亡くなられた時、当然にも先生は葬儀に行かれるだろうと考え、私は行くのをやめました。先生以上に家族を挙げて交流していただけに、家族からの非難も受けました。同じ問題に悩まれているだろうと気を使い、この問題をどうされたか先生にお聞きしたのは1年以上たってからではなかったかと思います。先生も、運動の厳しい対立を考え行かれていなかったのです。しかも、先生は、この過程の「分裂」について「なぜそうなるのかいまだにわからない」と、亡くなられる最後まで言われながらです。

 三里塚闘争は、国家権力が総力をかけた農業潰し、空港建設の事業であっただけに、それと対決する私たちの運動内部にも『3・8分裂』に象徴される様々な政治的な蠢きが北原派の中にも、私たち三里塚関西実行委員会の中にもありました。その中で木の葉のように揺れ動く私を、先生は常に見守り、私の想いを聞き、それを常に支えてくださいました。そのことがなければ、今もなお私が三里塚に、それも非常に重要な位置をもって関わり続けてこれたことが果たしてできただろうかと、今、率直に思います。それは今日の、沖縄、狭山、そして特に「すべての原発の廃炉」を求めた厳しい若狭での現地闘争を続けている「若狭の原発を考える会」への私のかかわりを全面的に支持し、心配してくださっていたことにも表れています。考えれば考えるほど先生のお気持ちに対する感謝の念は大きくなるばかりです。

 実は、このことは今年の関西実行委員会の団結旗開きに「若狭の原発を考える会」のみなさんが木原壯林さんを先頭に参加してくださることを聞いて、来られる予定の1時間も前から先生が待っておられたことに如実に示されています。

 先生。先生の「大往生」を前に、私も、先生には追いつけないだろうとは思いますが、目いっぱい現場に立って、闘いの仲間の一人として頑張ってまいります。先生が亡くなられる3日前にお会いしたときに「歩けるのはいいなぁ」と言われたことを忘れません。先生の「動けない俺に代わって、現場で闘ってくれ」とその時に言われた言葉を先生の遺言として、これからの道を歩みます。見守ってください。

 安らかなお眠りにつかれることを心から念じて、私の「惜別の辞」とさせていただきます。

                 201884
                    松原康彦

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