みなさん、こんにちは。○○○の委員長をしております新崎盛吾ともうします。共同通信の、記者を長年やっておりまして、今、記者の方は休職をして労働組合の委員長という事で発表をしております。
あの、○○○の委員長がこういう場で話しをするというのはかなり異例のことではないかなという風に思っております。まず最初に言っておかなければいけないのは、私は今日は〇〇〇の委員長ということではなくて、「一記者」として、「成田に関わってきた一記者」としてお話しをさせていただきたいということ、そして○○○が組織として成田空港反対闘争を支持しているとかいうことではないということをまず最初に申しあげさせていただきます。
なぜこんなことを申しますかといいますとですね、ここにでるということが決まって以降、いろんなところから私のもとに雑音が入ってまいりました。いろんな「誤解もどき」ものが大半なんですけれども、やはりそういう雑音、組織として気にする人もいっぱいおりまして、特に○○○には〇〇新聞とか○○新聞まで入っているもんですから、いろいろあるわけでございます。
そういう中で、なぜ私が今日、ここに立ってみなさんにお話しするという気持ちになったのかということも含めて、今日はお話しをさせていただければと思っております。
私が今回のこのお挨拶をお引き受けした理由というのは二つございます。私が長年の記者生活の中で三里塚、三里塚闘争というものにかなり関わっていた、私の記者生活のある意味で転機となった時代であった、そのことが一つ。そしてもう一つは私の出身が沖縄であるという、この二点でございます。
今日は、沖縄・福島と結ぶということで集会が行われるということでその想いを強くしたわけでございますけれども、私が沖縄の出身であると今申しましたけれども、出生は東京でございます。私の祖父母は四人とも沖縄の人間なのですけれども、うちの両親は私が生まれた時は東京にいて結婚していたということです。沖縄では、昔、長男はともかく子だくさんで、下の方の人間はなかなか沖縄では生活が出来なかった、そういう歴史がございました。私の父親も出生地は東京なんですね。そして私の母親は、沖縄戦が間近に控えた時に対馬丸という疎開船があるんですけれども、この対馬丸と同じ船団の別の船に、当時2歳の私の母親は乗っておりました。
やはり、沖縄にルーツを持つ者はどこかしらそういう戦争の被害者ということがあって、一つ間違えば自分がこの世になかっただろうなということを考えさせられる、そういうルーツがございます。
そして、その三里塚においても、やはり沖縄から生活が出来なくて流れてきて、そして三里塚の地で開墾をした、そういう沖縄の歴史があった。これもやはり私の中では想いとして強く残っております。
そしてもう一つ、沖縄も今、米軍基地、特に辺野古の新基地建設に関して大きな運動が起きています。これはもう今に始まったことではないんですけれども、やはりこれも日本の国の政策というものが地元の意志を無視して押しつけられた。これは三里塚闘争が始まった時もまったく同じ構図だったろうという風に思っていますし、これは沖縄と三里塚を結ぶ大きな共通点だろうと思っています。
私は1967年に生まれて、1972年、沖縄の復帰と同時に沖縄に渡りました。いちおう、親父(【注】新崎盛暉さん)は当時、都庁に勤めていたんですけれども、その傍らで沖縄の戦後史という研究もやっておりました。そして30を過ぎたころに、沖縄で、当時沖縄大学という私立の大学なんですけれども。つぶれそうな大学があってですね、そこから沖縄の研究ができるということに飛びついて、都庁を辞めて沖縄に来て、今から考えるとなんという無謀なことなんだろうと思うわけですけれども、それで自分の故郷にもどった。当時私は小学校に上がる前ぐらいです。当時、小学校の時に、沖縄の復帰直後の生活を経験しておりました。
当時、まだ私は幼いですから、復帰闘争の状況など良くわからないわけですけれども、当時、小学校の中ではですね、沖縄の方言を使う友だちがいると、先生が「方言つかっちゃだめよ」と怒るということがあったり、そういう小学校生活を送り、そして中学からいろいろ事情があって東京に出てくるわけですけれども、東京で、やはり沖縄に対するいろんな無理解、「道にパイナップルなってるの」みたいなことを言われたりというのが、当時70年代の状況でございました。
そういうことが一つ。そしてもう一つ、私が1990年に共同通信に入社をし、そして96年から99年まで、三里塚、成田支局というところに記者としておりましたけれども、その時というのはちょうど成田空港が2本目の並行滑走路ができるというので、用地買収が進んでいくという、そういうかなり動きのある時代でございました。
私が96年に行ったときというのはまだ天神峰団結街道があって小林嘉吉さん(【注】小川の間違い)、○○さんのところからまだ天神峰の部落が市東さんのところまでちゃんとあって、東峰では、東峰だけでなく木の根にもまだ反対派農家が当時、7軒残っていたいう状況でございました。
実は私、その前、93年から96年までは3年間千葉支局に行っておりまして、千葉支局で成田、三里塚というものを見ていた。そこでは当時、最初は県警を担当しておりましたんで、成田といえば集会を見に行き、機動隊がいっぱいいる中で集会が行われているという状況を見にいくというのが当時の認識でございます。歴史としては当然のことながら反対同盟というのは分裂をし、北原派というところは一番過激に、といったら怒られますか、活発に活動されていたいう状況だったと思っております。
そういう認識の下に成田の支局に来て、そして実際現地に入って取材を始めるわけでございます。当時の成田支局というのは3人くらい記者がいて1人は、空港、特にあのころは二本目の滑走路を間近に控えて用地問題といういいかたをしておりましたけれども、平行滑走路の用地買収はどういう風に進むのかというのが、マスコミの一番の焦点だったわけですね。
当然、私どもはいろいろな反対派農家の、まあ、いろいろあって追っ払われたりしたこともあるんですが、それでも何度も行って、少しでもお近づきになろうと努力をするわけですね。たまにはお酒を呑ませていただいたり、あるいは野菜や卵を買わせていただいて、それでつき合いを深めていくということをやるわけでございます。そうするとやっぱり反対をしている方々の一人一人の顔というものがしっかりと見えてくるんですね。なぜこの人は反対をしているのか。それはたとえば熱田派であったとしても、小川派であったとしても、いろいろなこだわり、その空港反対への思い、自分の土地を守りたいという思い、それはやはり同じものなんだなということをものすごく感じました。
特に、もう亡くなってしまって非常に残念なんですけれども、萩原進さんとやはり何度も酒を呑む機会がございました。その時に、いろんな会社があって、いろんな記者がいて、私はその中でも一番農家のところに顔を出したつもりでいるんですけれども、当時はですね。萩原さんからいわれた一言がいまだに残っているんですけれども、「お前、いつまでここにいるんだ。ずっといたらいいんじゃないか」という風にいっていただいたことがございました。
あのぅ、どういう思いだったかはわかりませんけれども、そういう形で距離を縮めていくと、いわゆる「どこどこ派」みたいな話しとか、空港反対運動という十派ひとからげなものとは違ったものが私には見えてきて、それで用地買収などで買収が進んでいくことなどがあるんですけれども、それでも、国交省の発表だけではないようなものを一生懸命現地から書こうと努力したつもりではあります。それがどれくらい世の中に影響を与えたのか、その辺はどうしても忸怩たるものはあります。それは沖縄で、今、那覇支局から一生懸命出してもなかなか東京では大きく載っからないという那覇支局の記者の想いと共通するものかなと考えております。
私がもう一つ、三里塚に来て個々の農家の顔が浮かぶということと、もう一つ当時びっくりしたのは、東峰という部落でしっかり夏祭りが行われ、そして毎年区長が決まり、ここはしっかり、「どこどこ派」ということじゃなくて、住民がしっかり結びつきながら暮らしていた、そのコミュニティを守っていた、東峰神社とか墓地とかいったところをしっかり整備しながらやってきた、そういうことだったろうと思っています。そのコミュニティというものが少しずつ、用地交渉の時に見たものはそういうコミュニティが少しずつ壊されて、農家が一軒、一軒バラバラにされながら買収が進んでいく、そういう構図でした。
そういう中で、用地内にいる島村さんであったり、市東さんであったりを、しっかりその人たちがいる間は守るんだというコミュニティのつながり、東峰地区のつながり、そういうものは、私は、ある意味、外から見ていたのではわからない反対運動の姿という、その強さというものを見たような思いがいたしました。
私はその後、99年から成田から東京の社会部に行きまして、後、警視庁の公安担当、後、国交省担当という形で、今度は逆からそれを観るような立場になったわけですけれども、それを経ても、成田での連帯というんでしょうか、取材においての連帯というのは余り変わりませんでした。
そういう経験があったからこそ、経営者の側ではなくて、労働組合の側で、この○○○の委員長という立場を引き受けるということになったんだろうという風にも思っております。
空港反対運動というものについての是非ということは最初に申しあげたとおり、私が今の○○○の委員長であるという立場ではなかなか申し上げ辛いのではありますけれども、この三里塚闘争の50年の歴史に対して敬意を表す、ということをもって私のご挨拶とさせていただきたいと思います。ありがとうございました。(拍手)
【なお、文中の「○○○」は、管理人の判断でこのようにさせていただきました】
最近のコメント