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2016年7月30日 (土)

今週の産直野菜 (7月30日)

16730 今日は早々と三里塚から野菜が届きました。

 モロヘイヤ、じゃがいも、玉ねぎ、キュウリ、とうがらし、ニンジン、オクラ、ズッキーニ、空芯菜、ピーマン、セロリ、なす

 以上12品。小さめの段ボールですが、内容はぎっしり。暑さに負けず、ありがとう。モロヘイヤは久しぶり。
 ずっと前に、夏場に援農にいくと、このモロヘイヤの収穫作業だとわかると、「ほっ」としたものです。立ったまま指先でつまみ採る作業で、しかもモロヘイヤの茂みの中ですから、気持ちがいい。
 この時期の大半の援農は、とってもとっても出てくる草取り。これが厳しい。懐かしい思い出ですが、先日、萩原さんが関西に来られて、草取りなどの作業が遅れていると予定を切り上げて帰られましたが、大変なのです。盆前のこの時期は・・・。

 Img_1623今週の日曜日は、伊方原発再稼働反対で、全国集会としては初めての原発前の現場での集会。全国から700人が集まってにぎやかに闘いました。高江の現実の中でしたが、ここでも警察の余りの横暴に怒りが。
 ここで、私たちは有名になった再稼働反対のTシャツを着ているのですが、先日の「三里塚闘争50周年 7・3東京集会」で売られていたImg_1608Tシャツ(当然、私ももっていますが)を着ている人がいて、思わず記念写真。
 しかし、往復800キロを超えるのを半分運転して、4時間近い闘争をやって、・・・・疲れた。今週前半、完全にダウン。「歳を考えろ!」の忠告も。しかし、分乗してですからドライバーがいなければ仕方がありません。情けないことですが・・・。
 また、野菜をしっかり食べて、この猛暑を乗り切ろう!

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2016年7月23日 (土)

今週の産直野菜 (7月23日)

16723 先ほど三里塚から野菜が届きました。

なす、唐辛子、オクラ、じゃがいも、ピーマン、セロリ、空芯菜、玉ねぎ、ニンジン

 以上、9品です。

 昨日、関西電力本店前の座り込みに、東京からNさんが突然訪れてくれ、びっくりした。彼女と、7月3日の「三里塚闘争50周年集会」、そして17日に開かれた熱田派のみなさんの「50周年集会」の話題に花開いた。釜日労の方からも。
 それぞれが、新たな成田空港の拡張攻撃に反撃する貴重な集会として成功したことは、本当に喜ばしいことだ。

 しかし、昨日の沖縄・高江での機動隊による県道封鎖と、泊まり込んでいた300人の住民、市民に500を超える機動隊が襲い掛かったテレビやネット上などの早朝からの報道を、怒りをもって多くの人たちが注目していただろう。
 安倍政権による周辺を埋め尽くすような機動隊の暴力支配は、1879年の「処分官」松田道之による500名を超す軍隊、警察を率いての琉球処分の強行、琉球国を滅ぼした明治政府の侵略政治を思い起こさせた。それは単なる行政的な手続きではなく、沖縄の「すべての米軍基地を撤去しろ」という民意を踏みつぶす帝国主義的、強権的な侵略支配という以外に表現方法を見出すことができない。これをテレビを観ながら許している私たちの問題でもある。
 あの6月19日、暴行・虐殺された女性の追悼集会で、若い20歳の女性が「私だったかもしれない。私の友達だったかもしれない」とした訴えの最後に、「安倍首相とヤマトの皆さんは第二の加害者だ」と断罪したことをどう受け止めているかだと、この間、機会あるたびに訴えてきたが、今こそ、その言葉が重く私たちに問いかけていることを考えよう。

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2016年7月16日 (土)

今週の産直野菜 (7月16日)

16716 先ほど、三里塚から野菜が届きました。

 トマト(ミニと大)、玉ねぎ、ズッキーニ、じゃがいも、とうがらし、ニンジン、空芯菜、きゅうり、なす、ピーマン

以上、10品です。現地は雨不足のようで、大変ですね。一昨日は少し降ったようですが。

 昨日の関西電力本店前でも、どこでも、とりあえず先日の参議院選挙の結果が話題に。改憲勢力が3分の2を占め、自民党の単独過半数を許してしまった。
 いろいろ「強がり」を言っている傾向が強いですが、いずれにしろ沖縄の高江の村に投票日翌日の早朝、直ちに機動隊が100人規模で入り、連日、膨大な資材や機材が運び込まれている。しかも来週には、警視庁を始め全国の警察から500人規模の機動隊が投入されるという。村民がわずか160人という小さな村にですよ。
 和解で動かないはずの辺野古の陸上工事も開始されるとか。こういう強引な中から現実を作っていこうというのが安倍政治です。1933年のナチズムの台頭に学んでいると言われますが。こんなことが、どうして許せるでしょうか。
 私たちの闘いが、この現実をどうはね返すことができるかだと思うのです。その中から、先日、「三里塚闘争50周年 7・3東京集会」の素晴らしい成功をかちとった三里塚の闘いへの新たな大衆的うねりを創り出せるかだと思います。

 みなさん、暑い夏がやってきましたが、熱中症に注意しながら、頑張りましょう!

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2016年7月14日 (木)

三里塚50周年 7・3東京集会 関生・西山直洋さん挨拶

関西生コン執行委員 西山直洋さん

 みなさん。こんにちは。三里塚闘争50周年、ほんとにご苦労様です。

 1673まさに国家権力を相手に50年間も闘える、これはもうまさに完全勝利するしかない、答えが見えています。

 私たちも関西において、このたたかい全面的に支援、連帯していかなければならないということで、現在、大阪を中心にいろいろ協議に入っています。

 私は労働組合なので、どういうことをしたらいいのか。署名はもちろんのこと、できることからやって行くわけですが、やはりこの闘いを継承させていかなければいけない、繋いで行かなくてはいけない、いうことを労働組合の中でまず一つ方針化してね、継続する。これなくしては、この三里塚闘争のひろがりもないのではないか、いうふうに考えています。

 1673_2いま、非常に、子どもたちの教科書を見てびっくりしたんですが、たとえば獨島、竹島問題。地図で書いて、この島はどこの国が支配しているかとかそういうクイズみたいなのが教科書にのっているんです。その中に、中国、ロシア、共和国、韓国の国旗を書いて、「選びなさい」と。こんなん、教科書に載せていいんですかね。これは、まさに洗脳ですわね、子どもたちへの。だから学校自身がそういう教育の流れになっている。

 そうであれば、労働組合は真実を仲間に伝えていく、こういう闘いを継続しなくちゃあいけないなということで考えています。

 1673_3関生も、三里塚と一緒のように50周年をもう迎えました。で、51年目です。そして私たちも闘いを継続するために、新たな拠点、会館を立て直して今スタートしています。その中で、この50年という節目をステップにして、ここにも書いていますが、「これからも闘おう」と、その踏み台にしていくということで、みなさんとともに頑張って行きたいという風に思います。

 最後にですが、現在、この「三里塚50周年」、これ、関西の方でもほんとに盛り上げて行こうという闘いの議論を進めています。労働組合を中心に、市民団体を中心に、そしてもちろん今まで闘ってきた先輩方を中心にした大きな取り巻きで、この50周年事業を関西でも行っていこうと企画していますので、その時にはみなさんのお力添えをまたよろしくお願いしたいと思います。

 ありがとうございました。

 

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2016年7月13日 (水)

耕作権裁判 集会・デモと口頭弁論

Photo
 7月11日、耕作権裁判の口頭弁論があった。裁判長がまたまた代わったので、裁判に先立って集会と裁判所へのデモが、125人の参加で行われた。

 法廷では、裁判長の交代にともなう被告(市東さん側)弁護団の陳述が1時間余りにわたって行われた。裁判長を説得しようとする弁護団の意志があって、傍聴している私たちにも、耕作権裁判、Photo_2
そして最高裁で審理されている農地法裁判の全体像がよくわかった。

 空港会社NAAは、市東さんが耕作している南台の畑(右図A~C)について、BとDが契約して借りている畑として、最高裁で審理中の農地法裁判で強制収用をしようと図っている。Dは市東さんが親子3代、100年にわたって一度も耕したことなどなく、畑の南側に住んでいた石橋政治が植木の苗木生育などに使われていたことが明らかになっている。そしてAとCは、市東さんが不法に耕作していたので「明け渡せ」とするのが、この日の耕作権裁判だ。

 いろいろな問題がこの日語られたが、特にNAAの主張の論拠は、市東東市さん(孝雄さんのお父さん)と地主の藤﨑が交わしたとされる「境界確認書」と「同意書」。ところがこの書類の市東さん、藤﨑の署名が偽造されたものであることが裁判の初期に明らかになった。NAAは、それを否定するが、それならばこの二つの書類が作られNAAが所有するに至った経緯を示す文書類があるはずだとして争われ、Photo_3「存在しない」とするNAAに対して東京高裁、千葉地裁が「あるはずだ」という当然の論拠で提出命令を確定。抗告したNAAに対して最高裁が抗告棄却をしているのだ。それでも、NAAは「存在しない」と開き直っている(左写真は法廷後の報告会)。
 ならば、民事裁判のルールにのっとり、裁判所は「訴えは無効である」としてNAAの訴えを棄却すべきなのだ。また、農地法裁判を審理している最高裁もまた前提が崩れているのだから高裁決定を棄却すべきなのだ。

 Photo_4代わった内田裁判長は、右顧左眄しながら、とにかく裁判を維持することに腐心している。どこかで打ち切り、市東さんの農地を強奪することをねらっていることは明らかだ。本当に許せない。耕作権裁判の決定的重要性を受け止めよう。次回、10月17日、次々回、(来年)1月30日の耕作権裁判(いずれも午前10時半から、千葉地裁)を傍聴しよう。

 同時に、9月7日に呼びかけられている最高裁へのデモと第3回署名の提出、そして要請行動に市東孝雄さん(右写真は、この日の報告会で挨拶する孝雄さん)、反対同盟とともに立ち上がろう!

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2016年7月12日 (火)

7・3 三里塚東京集会報告

7・3三里塚50周年 東京集会報告

              尼崎・伊丹実 弥永

 7373日、東京墨田区のすみだ産業会館にて、三里塚闘争50周年を記念する集会が630名の結集で開催されました。

 税金の不当使用

 最寄り駅であるJR錦糸町駅に降り立つと駅前は大変な人だかり、「さすが東京」と感心したのですが、よく見るとその中には数十人の公安警察が改札から出てくる私たちをチェックしているではありませんか。この間「政治とカネ」が何度も問題になっていますが、この多数の公安警察の動員も明らかに税金の不当使用であり、舛添前都知事以上に指弾されるべきではないでしょうか。「しかし公安の連中みんな若いなあ」「ちゃうちゃう、こっちが年とっただけや」などと話しながら会場に入りました。

 「大地の乱」の思い出

 萩原富夫さんの司会で始まり、まず市東孝雄さんが主催者挨拶として北原事務局長のメッセージを代読しました。そういえば30周年東京集会の時は会場で北原著の「大地の乱」を購入し、北原さん直筆のサインをしてもらったなあと懐かしく思い出していました。その達筆ぶりには感心したものでした。またお元気な姿を拝見できるよう望むばかりです。 

 次はおなじみの浪速の唄う巨人、趙博さん(通称パギやん)のミニライブ。歌が上手なのは当然ですが、最近はスピーチも大変オモロイ・・何度も会場を笑わせました。

二人の新鮮なお話

 そしてゲスト・スピーカーとして2名の方が登壇しました。まず新崎盛吾さん。(あの沖縄近現代史の新崎盛暉氏のご子息とのことです)彼は新聞労連委員長ですが、この肩書きでこの集会に参加すると何かと周囲から雑音が入るらしく「今日は一記者として話します」と断わったあと三里塚との関わりを語りました。それは第二滑走路建設過程の時に共同通信成田支局に勤務し、反対同盟農民に何度も取材したことが始まりだったとのことです。(取材に応じてくれることもあるが拒否されることも度々あったそうです)そして支局からのメッセージがなかなか中央に正確に届かず悔しい思いを経験したとのことです。沖縄にルーツを持つ彼は、この状況が本土の沖縄への無理解とリンクして考えられたのです。

 また故萩原進さんとは何度も酒を酌み交わし「いつまでここにいるのか?」と尋ねられ「ずっといたらいい」と言われたことが印象に残っていると語りました。最後に50年の歴史に敬意を表し話を終えました。

 次にフリージャーナリストの天笠啓祐さんから1967年初めて三里塚を訪れ、その後72年からは原発問題にも取組んでいると自己紹介がありました。氏は50年前の閣議決定(高度経済成長)から71年の強制代執行(グローバリズムの台頭)を経て中曽根政権の「戦後政治の総決算」と進み「農業はもういらない」(86年前川レポート)と農業切捨ての政策が露骨になっていく中で、三里塚が農業農民の先頭に立ってそれに抗い闘い続けていることの大きな意義を訴えました。そして今日、WTO(多国籍企業)で種子を支配し、FTAEPAなど大企業優先の協定を厳しく批判し、「車を売って食料を買う、この延長線上にあるのがTPPです。グローバル化は食の安全を奪うものです」と警鐘を鳴らしました。そして最後に「三里塚と共に農民(生産者)と消費者の結びつきが大切」という言葉で話しを締めました。

 今回のこのお二人の講演は普段の全国集会では聞けない新鮮で貴重なものでした。

各地、各戦線から

 その後当該の市東孝雄さんが「今日はやって良かった。私は農業が好きです。農地は命、安倍をひっくり返す闘いをします」と決意を語り、関西からも全日建運輸連帯労組関西生コン支部の西山執行委員が「関西でも(50周年企画の)協議に入っています。闘いを継続させなければ拡がりはない」と挨拶しました。

 また沖縄の安次富浩さんは「参院選に勝利して安倍政権を打倒することで沖縄の闘いを前進させる。三里塚―福島―沖縄の連帯を」と、同じく金治明(キム チミョン)さんは「沖縄は海の三里塚闘争」と辺野古の闘いをこれからも三里塚のように実力闘争として闘い続ける決意を明らかにしました。(今回の参院選は改憲勢力3分の2を許す結果となりましたが、沖縄だけは現役閣僚に大差をつけて伊波さんが勝利しました。大阪、兵庫の惨敗を考えると本当に沖縄の皆さんに申し訳ない気持ちでいっぱいです。)

 その後各地各戦線からアピールが続き、最後に萩原富夫さんが集会宣言と行動提起を読み上げ東京集会を終えました。

創意と工夫で

 今回はいつもの全国集会と異なり、50年の歴史に思いを馳せる発言が多かったのですが、どの発言も決して昔を懐かしむだけのものではなく、不屈の闘いはこれからも続くことを感じさせるものであったと思います。確かに私たち支援者の高齢化などの問題はありますが、これからも創意と工夫で「市東農地死守」の闘いに全力を尽くしたいと思います。

 各裁判闘争への参加と109全国集会へ共に頑張りましょう。

 

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2016年7月 9日 (土)

今週の産直野菜 (7月10日)

16710 先ほど三里塚から野菜がとどきました。

 トウモロコシ、じゃがいも、ナス、玉ねぎ、ニンジン、ニンニク、空芯菜、ししとう、セロリ、きゅうり、ピーマン

 以上、10品です。

 昨年夏なかった空芯菜が久しぶりのお目見え。先日、小さいナスが1個、転がるように入ってきましたが、今回はナスは立派。しかし、細いキュウリが遠慮しいしい1本。思わず、「なに、これ」と(スミマセン)。

 先週の「7・3東京集会」がほんとに内容豊かに大成功。こんどは、私たちの番だとひしひしと思います。

 16710_2そんな中、今日の荷物と一緒に『“霞が関に攻め上ろう!” 萩原進反対同盟事務局次長・追悼集(増補版)』が。1年ほど前に、富夫さんに求められて「追悼のことば」を書いていたのを完全に忘れていました。
 手前のページに関生の西山直洋さんのメッセージの下に、亡くなられる2日前に、関生のみなさんを案内して実現した交流会の写真が。中央に進さん、背中を向けている私と反対側に西山さん、クマさんが一番手前にはっきりと。
 「50周年」ということの中で、進さんのことを思い出して仕方がない。去年、こんな文章を書いたのだと思いながら、追悼文の最後に「進さんの三里塚闘争にかける激しいまでの想い、国への怒りと恨みを、私たちの想いとして」と書いているが、それをどう具体的にしていくのか、「50周年」の中で問われています。

 野菜をしっかり食べて、頑張ろう!

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2016年7月 8日 (金)

耕作権裁判 口頭弁論

 みなさんへ。

 耕作権裁判の口頭弁論が、裁判官が代わって、7月11日(月)午前10時半から、千葉地裁601号法廷で開かれます。

 耕作権裁判は、最高裁で審理中の「農地法裁判」と一体のもので、市東さんの農地を守る上できわめて重要です。
 審理が重要な局面に入ろうとしているところで、常套手段のように裁判長を変えてきた司法のありかたに対し、三里塚闘争とはなにかをつきつける、更新手続きとしての弁論が行われます。
 反対同盟としては、この重要な裁判に、7月3日の「東京集会」で明らかにしたように、当日午前9時から裁判所近くの千葉市中央公園での集会と、裁判所へのデモを呼びかけています。

 7月11日、集会・デモと裁判に行こう!

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2016年7月 7日 (木)

7・3東京集会 新崎盛吾さんの講演

みなさん、こんにちは。○○○の委員長をしております新崎盛吾ともうします。共同通信の、記者を長年やっておりまして、今、記者の方は休職をして労働組合の委員長という事で発表をしております。

73あの、○○○の委員長がこういう場で話しをするというのはかなり異例のことではないかなという風に思っております。まず最初に言っておかなければいけないのは、私は今日は〇〇〇の委員長ということではなくて、「一記者」として、「成田に関わってきた一記者」としてお話しをさせていただきたいということ、そして○○○が組織として成田空港反対闘争を支持しているとかいうことではないということをまず最初に申しあげさせていただきます。

なぜこんなことを申しますかといいますとですね、ここにでるということが決まって以降、いろんなところから私のもとに雑音が入ってまいりました。いろんな「誤解もどき」ものが大半なんですけれども、やはりそういう雑音、組織として気にする人もいっぱいおりまして、特に○○○には〇〇新聞とか○○新聞まで入っているもんですから、いろいろあるわけでございます。

そういう中で、なぜ私が今日、ここに立ってみなさんにお話しするという気持ちになったのかということも含めて、今日はお話しをさせていただければと思っております。

私が今回のこのお挨拶をお引き受けした理由というのは二つございます。私が長年の記者生活の中で三里塚、三里塚闘争というものにかなり関わっていた、私の記者生活のある意味で転機となった時代であった、そのことが一つ。そしてもう一つは私の出身が沖縄であるという、この二点でございます。

今日は、沖縄・福島と結ぶということで集会が行われるということでその想いを強くしたわけでございますけれども、私が沖縄の出身であると今申しましたけれども、出生は東京でございます。私の祖父母は四人とも沖縄の人間なのですけれども、うちの両親は私が生まれた時は東京にいて結婚していたということです。沖縄では、昔、長男はともかく子だくさんで、下の方の人間はなかなか沖縄では生活が出来なかった、そういう歴史がございました。私の父親も出生地は東京なんですね。そして私の母親は、沖縄戦が間近に控えた時に対馬丸という疎開船があるんですけれども、この対馬丸と同じ船団の別の船に、当時2歳の私の母親は乗っておりました。

やはり、沖縄にルーツを持つ者はどこかしらそういう戦争の被害者ということがあって、一つ間違えば自分がこの世になかっただろうなということを考えさせられる、そういうルーツがございます。

73_2そして、その三里塚においても、やはり沖縄から生活が出来なくて流れてきて、そして三里塚の地で開墾をした、そういう沖縄の歴史があった。これもやはり私の中では想いとして強く残っております。

そしてもう一つ、沖縄も今、米軍基地、特に辺野古の新基地建設に関して大きな運動が起きています。これはもう今に始まったことではないんですけれども、やはりこれも日本の国の政策というものが地元の意志を無視して押しつけられた。これは三里塚闘争が始まった時もまったく同じ構図だったろうという風に思っていますし、これは沖縄と三里塚を結ぶ大きな共通点だろうと思っています。

私は1967年に生まれて、1972年、沖縄の復帰と同時に沖縄に渡りました。いちおう、親父(【注】新崎盛暉さん)は当時、都庁に勤めていたんですけれども、その傍らで沖縄の戦後史という研究もやっておりました。そして30を過ぎたころに、沖縄で、当時沖縄大学という私立の大学なんですけれども。つぶれそうな大学があってですね、そこから沖縄の研究ができるということに飛びついて、都庁を辞めて沖縄に来て、今から考えるとなんという無謀なことなんだろうと思うわけですけれども、それで自分の故郷にもどった。当時私は小学校に上がる前ぐらいです。当時、小学校の時に、沖縄の復帰直後の生活を経験しておりました。

当時、まだ私は幼いですから、復帰闘争の状況など良くわからないわけですけれども、当時、小学校の中ではですね、沖縄の方言を使う友だちがいると、先生が「方言つかっちゃだめよ」と怒るということがあったり、そういう小学校生活を送り、そして中学からいろいろ事情があって東京に出てくるわけですけれども、東京で、やはり沖縄に対するいろんな無理解、「道にパイナップルなってるの」みたいなことを言われたりというのが、当時70年代の状況でございました。

そういうことが一つ。そしてもう一つ、私が1990年に共同通信に入社をし、そして96年から99年まで、三里塚、成田支局というところに記者としておりましたけれども、その時というのはちょうど成田空港が2本目の並行滑走路ができるというので、用地買収が進んでいくという、そういうかなり動きのある時代でございました。

私が96年に行ったときというのはまだ天神峰団結街道があって小林嘉吉さん(【注】小川の間違い)、○○さんのところからまだ天神峰の部落が市東さんのところまでちゃんとあって、東峰では、東峰だけでなく木の根にもまだ反対派農家が当時、7軒残っていたいう状況でございました。

実は私、その前、93年から96年までは3年間千葉支局に行っておりまして、千葉支局で成田、三里塚というものを見ていた。そこでは当時、最初は県警を担当しておりましたんで、成田といえば集会を見に行き、機動隊がいっぱいいる中で集会が行われているという状況を見にいくというのが当時の認識でございます。歴史としては当然のことながら反対同盟というのは分裂をし、北原派というところは一番過激に、といったら怒られますか、活発に活動されていたいう状況だったと思っております。

73_3そういう認識の下に成田の支局に来て、そして実際現地に入って取材を始めるわけでございます。当時の成田支局というのは3人くらい記者がいて1人は、空港、特にあのころは二本目の滑走路を間近に控えて用地問題といういいかたをしておりましたけれども、平行滑走路の用地買収はどういう風に進むのかというのが、マスコミの一番の焦点だったわけですね。

当然、私どもはいろいろな反対派農家の、まあ、いろいろあって追っ払われたりしたこともあるんですが、それでも何度も行って、少しでもお近づきになろうと努力をするわけですね。たまにはお酒を呑ませていただいたり、あるいは野菜や卵を買わせていただいて、それでつき合いを深めていくということをやるわけでございます。そうするとやっぱり反対をしている方々の一人一人の顔というものがしっかりと見えてくるんですね。なぜこの人は反対をしているのか。それはたとえば熱田派であったとしても、小川派であったとしても、いろいろなこだわり、その空港反対への思い、自分の土地を守りたいという思い、それはやはり同じものなんだなということをものすごく感じました。

特に、もう亡くなってしまって非常に残念なんですけれども、萩原進さんとやはり何度も酒を呑む機会がございました。その時に、いろんな会社があって、いろんな記者がいて、私はその中でも一番農家のところに顔を出したつもりでいるんですけれども、当時はですね。萩原さんからいわれた一言がいまだに残っているんですけれども、「お前、いつまでここにいるんだ。ずっといたらいいんじゃないか」という風にいっていただいたことがございました。

あのぅ、どういう思いだったかはわかりませんけれども、そういう形で距離を縮めていくと、いわゆる「どこどこ派」みたいな話しとか、空港反対運動という十派ひとからげなものとは違ったものが私には見えてきて、それで用地買収などで買収が進んでいくことなどがあるんですけれども、それでも、国交省の発表だけではないようなものを一生懸命現地から書こうと努力したつもりではあります。それがどれくらい世の中に影響を与えたのか、その辺はどうしても忸怩たるものはあります。それは沖縄で、今、那覇支局から一生懸命出してもなかなか東京では大きく載っからないという那覇支局の記者の想いと共通するものかなと考えております。

私がもう一つ、三里塚に来て個々の農家の顔が浮かぶということと、もう一つ当時びっくりしたのは、東峰という部落でしっかり夏祭りが行われ、そして毎年区長が決まり、ここはしっかり、「どこどこ派」ということじゃなくて、住民がしっかり結びつきながら暮らしていた、そのコミュニティを守っていた、東峰神社とか墓地とかいったところをしっかり整備しながらやってきた、そういうことだったろうと思っています。そのコミュニティというものが少しずつ、用地交渉の時に見たものはそういうコミュニティが少しずつ壊されて、農家が一軒、一軒バラバラにされながら買収が進んでいく、そういう構図でした。

そういう中で、用地内にいる島村さんであったり、市東さんであったりを、しっかりその人たちがいる間は守るんだというコミュニティのつながり、東峰地区のつながり、そういうものは、私は、ある意味、外から見ていたのではわからない反対運動の姿という、その強さというものを見たような思いがいたしました。

私はその後、99年から成田から東京の社会部に行きまして、後、警視庁の公安担当、後、国交省担当という形で、今度は逆からそれを観るような立場になったわけですけれども、それを経ても、成田での連帯というんでしょうか、取材においての連帯というのは余り変わりませんでした。

そういう経験があったからこそ、経営者の側ではなくて、労働組合の側で、この○○○の委員長という立場を引き受けるということになったんだろうという風にも思っております。

空港反対運動というものについての是非ということは最初に申しあげたとおり、私が今の○○○の委員長であるという立場ではなかなか申し上げ辛いのではありますけれども、この三里塚闘争の50年の歴史に対して敬意を表す、ということをもって私のご挨拶とさせていただきたいと思います。ありがとうございました。(拍手)

【なお、文中の「○○○」は、管理人の判断でこのようにさせていただきました】

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2016年7月 6日 (水)

7・3東京集会 集会アピール

三里塚闘争50周年!これからも闘うぞ!
農地を守り、沖縄・福島とむすぶ
   
7・3東京集会アピール

 

 1966年7月4日閣議決定から50年。地元住民を無視した暴力的な空港建設に反対し、「農地死守」を不屈に貫いて生き闘って勝利してきた50年です。

73成田空港は、いまだ完成していません。これは、闘う農民と労働者、学生、市民の共同の勝利です。この勝利を引き継ぎ、新たな闘いへ打ってでましょう。

50周年は、まだまだ通過点です。追い詰められた政府と空港会社は、24時間化とB滑走路北延伸、第3滑走路建設に向けて動き出しました。

 この攻防の先端にあるのが市東孝雄さんの農地取り上げ問題です。三代100年耕し育てた農地は市東さんにとって命と同じです。「この地に生きていく」その心と生き方はカネに換えることなどできません。市東さんの譲れない思いは、多くの人々の共感を得て、支援の輪が全国に広がりつつあります。農地法による強制収用を許さない《最高裁・緊急5万人署名運動》をさらに拡大し、農地取り上げ判決の取り消しを勝ち取ろう!

 そして本日の集会は、三里塚と沖縄・福島との連帯集会として開催し、国策と闘う強固な連携と陣形を築きました。先月起きた、沖縄での米軍属による女性暴行殺害という痛ましい事件を繰り返してはなりません。沖縄への差別と犠牲の押し付けを許さず、辺野古新基地建設阻止から「全ての基地撤去へ」と闘おう。

 73_2福島での放射能による健康被害は深刻です。子供たちの命を守る運動を支援し、国と東電の責任を追及しよう。すべての原発の再稼働阻止・廃炉へ闘おう。

 世界の新自由主義・資本主義体制は崩壊の危機を深めています。立ち上がった韓国、フランス等の労働者のストライキ闘争を支持し、労農連帯・国際連帯の輪を広げていこう。

 戦争と改憲、格差と貧困、国益・国策優先の安倍政権を、何としてもこの参議院選挙で打倒しよう。市東さんの農地死守へただちに立ち上がり、千葉地裁・最高裁闘争へ攻め上ろう。

《行動方針》

 711(月)市東さんの耕作権裁判・千葉地裁デモ(9時・千葉中央公園)

 97(水)最高裁デモ&第3回署名提出行動

 109全国総決起集会

  201673日 三里塚芝山連合空港反対同盟

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2016年7月 5日 (火)

7・3東京集会 市東孝雄さんの挨拶

73

 みなさん。お疲れ様です。

 今日は、ほんとは、こんなに集まって、ほんとはいっぱい来てもらいたいと思いましたけれども、実際にこう、みなさまのお顔を見て、やってよかったという気持ちが十分にあります。

 この「沖縄・福島と結ぶ三里塚闘争50年」。あらためて50年ということを考えてみますと、同盟の最初からの「農地死守」「軍事空港反対」。このたたかい、諸先輩の、今日見えておられる方々もそうですが、その方々の偉大なるたたかいだなぁと、あらためて思っています。

 73_2私はまだ三分の一くらいしか携わっていませんけれども、まあ、この十年、私の農地問題でほんとうに皆様の署名とか裁判、そのほか援農というかたちがあります。ほんとにお世話になっています。

 あらためて言うのもなんですが、私は、農家というか、農業が好きです。生まれた土地でね、誰にも文句も言われず100年やってきた土地です。それを「空港をつくるから、どけ」とそういうような攻撃がかかってきたわけですけれども、やっぱりそれは絶対に譲れない、やっぱり農地は命だ、耕す者に権利あり、そのことを改めて問いたいと思います。

 ですから、これからも皆さまとともに、天神峰で、出来るだけ長く農業をし、それから空港反対もたたかい、今の安倍政権をひっくり返すようなたたかいを、まず、三里塚現地からあげていきたいと思いますので、みなさま、これからもよろしくお願いいたします。

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2016年7月 2日 (土)

今週の産直野菜 (7月2日)

1672 先ほど三里塚から野菜が届きました。

 ピーマン、ニンニク、きゅうり、じゃがいも、ししとう、玉ねぎ、セロリ、トウモロコシ、ニンジン

 以上、9品です。

 久しぶりのセロリ。我が家はほかの野菜とまぜて、毎朝のジュースです。

 ニンジン、じゃがいも、玉ねぎとそろうと、肉じゃが・・・。

 明日は、いよいよ『三里塚闘争 50周年! これからも闘うぞ ― 農地を守り、沖縄・福島とむすぶ 7・3東京集会』です。Img_1356早朝出て、趙博(パギヤン)のミニコンサートには間に合います。早速、セロリの野菜ジュースで元気をつけて、さあ、東京へ! 山本先生とご一緒します。お元気です。

 Img_1357左の写真は、今週の火曜日、先生の所へ伺って、明日の打ち合わせなどをしたときの先生のお宅の写真です。右の写真は、先生のお宅にある小さな畑です。近所の方が無農薬の野菜を作っておられて、きれいにして頂いています。

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