山本先生が、3・27三里塚全国集会、4・9部落解放同盟全国連大会にそれぞれ参加し、思いのたけを語られた。ほんとにお元気です。それに自信をつけたか、
突然「沖縄に行きたい」と言いだされた。「無理でしょう・・・」と言うわけにもいかず、「ダメもとで」と知花昌一さんに相談し、5月17日~20日の旅行を決定し、航空券を予約した。
幸い直前、「腰は痛いが、大丈夫」とご本人。杖に頼って3本足の先生と私の「弥次喜多道中」が始まった。
17日、那覇空港について、カーナビのセットを間違え遠回りしながら7時すぎに読谷についたものの暗い中でわからず、思わず昌一さんにSOSを発信(以降は、カーナビで大丈夫でしたが)。着くなり先生、昌一さん、私の3人で旧交を温め、宴会。泡盛4合瓶1本を開けて、「寝ましょう」と。昌一さんが経営する民宿「何我舎(ぬーがや)」に3日間お世話になる。
翌日18日、午前中は金城実さんのお宅へ。前夜、酔っ払って帰ってきて土間に毛布を掛けて寝ておられた実さんが起きだし、先生と抱き合うようにして挨拶。コーヒーを肴に、実に2時間余り、実さんの彫刻を始めるきっかけをはじめ、デッサンなしで作られる彫刻の話しの独演会。断片的にお聞きしたことがあるものの、めっちゃ面白く、先生と私は、もっぱら聞き役。録音していなかったのが残念。それに、私はここには何度もお寄りしているが、酒抜きは初めて。
失礼して、車を飛ばして、残波岬の近くのレストランで沖縄料理、豆腐チャンプルなどを美味しくいただきました。
それから近くの知花盛康さん宅へ。盛康さんの連れ合いさんとは、先生が沖縄に行きだしたころからの知己。4人であれやこれやと話していると、今日は京都の中学生4人の民泊とか。先生は、子どもたちにあってから帰りたいと言いだして、待ている間、1時間余り、畳の上で横になられ、眠られた(これが、この夜の交流会に元気で過ごされる源に)。2時間近く待って子どもたちが来ると、ほんとに嬉しそうにご自分と沖縄の係わりなどを話される。ほんとに子どもたちが好きなのです。
そしてやっぱり「先生」や。子どもたちの民泊への想いを一通り聞かれてから、失礼した。
何我舎にもどって、1時間余り休んだ頃に、金城実さんや辺野古の金治明さん、三線の宮城さん、盛康さんも遅れて駆け付けられ、結局、10人余りの交流会。あいにくの雨でしたが、屋根の下でバーベキュー。三里塚の現局面への先生の話しが中心。
「ライオン」と異名をとられたように久しぶりで大声で「叫ばれる」。沖縄では大声で有名な金城さんも顔負け。私が顔負けするほどに相当呑まれたようですが、最後まで一人一人と肩を抱き合い、そばにいる私を心配させた。
ぐっすり眠れた先生は、翌朝19日、お元気に起きてきた。金城さんの原稿をパソコンで打つことを頼まれた私は、二日酔いの中で、早朝からやりあげ、昌一さんに添削してもらって、先生と二人でまず金城さんのお宅に。それから一路、辺野古の浜へ。安次富浩さんにお会いしたかったが、
連日の活動で疲れからか風邪で休まれていた。しばらくテントで話しをした後、キャンプシュワブ前に。先生は2年前、キャンプシュワブの闘いがはじまる前の5月に来ておられて、この現場は初めて。てっきりテントの横あたりで揉めているとイメージしておられたようで、現場に立って驚いておられた。ちょうど島ぐるみのうるま市の方々50人程などが来ておられ、集会をしておられた。それだけでも興奮気味の先生を、
おばあの島袋文子さんの横にすわっていただいた。しばらく怪訝そうにしておられた文子おばあが、先生の話しを聞き、まわりのみんなから「おばあも、まだ10年やれるね」と言われ、先生と抱き合うようにして、中座された。
その前にちょうど来られた山城博治さんが驚いたような表情をされながら挨拶に来られ、「96歳の人がいる。話をさせろ」とみなさんから声が。私も横に立って、話しはじめられた先生は三里塚のことを十数分訴えられたうえで、
「国策といえども、諦めるわけにはいかない。皆さんと一緒に死ぬまで闘う」と。大きな拍手が起こったことはもちろんでした。
それから関西の神戸行動、大阪行動から現地のカヌー隊に入って頑張っているY君が働いているレストランにつれていってもらって昼食。出勤してきたY君にばったり。
驚いたような顔をする彼に別れを告げて、時間があるようなので、高江に足を延ばした。
先生は『標的の村』はご覧になっているが、辺野古からさらに1時間半、車を飛ばして、北部ヤンバルの森の中でテントを組み闘っている現場に立って、感激。ちょうどノルチゲラなどの産卵期(3月~6月)で、動きも少なくテントには6人くらいの方々が。一応の位置関係や、ヘリパッド建設とオスプレイの説明を受けられ、その上で、涙ながらに「沖縄のみなさんにもうしわけない」と繰り返しながら、ご自分の学徒動員から、
その後の70年の歩みを語られた。みなさんからは驚きの感嘆の声が。「帰ってからもう一度『標的の村』を見せてくれ」と私に。
そこから引き返して、名護の「ジュゴンの海」を尋ねて、金さんとしばしの交流。それから読谷に帰って、前日のレストランで沖縄料理に舌鼓。
「このまま寝るのははやいな」という先生のことばにとびついて、泡盛を一本購入。何我舎にもどって二人で、「大成功」を確認し、祝杯をあげた。なんと3分の2を空けてしまった(翌日、昌一さんから「寝てなかったのか、なら一緒に呑んだのに」とご不満のことばを)。
朝起きると、3週間前から行方不明になっていた20歳の女性が遺体で発見されていたことが沖縄タイムスのトップ記事にあるのを見せてもらった。
空港への帰途に就くなかで、嘉手納基地の正門前では、「米軍基地撤去」の大きな横断幕が貼られ、機動隊が防御の準備をしていた。その1時間後くらいから抗議闘争が闘われたと後で聞いた。
正直、
「何かあったらどうしよう?」という不安を抱えながらの先生の沖縄旅行でしたが、なんのなんのめっちゃお元気でした。「闘いが先生を作ってきた」とよく言われましたが、96歳になってなおそうなのですから、素晴らしい先生の人格、お人柄にあらためて脱帽した4日間でした。
念のためにと帰ってきて3日目の今日、お電話したら、「帰ってきた翌日はさすがにぼーっとしていたが、もう大丈夫」だそうです。ご安心ください。次は、三里塚の『7・3東京集会』ですね。
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