三里塚闘争50年(尼崎・伊丹実行委『抵抗の旗』より)
三里塚闘争50年
農地法最高裁闘争を闘いぬこう
これからも三里塚と共に闘い続け生き抜こう!
いよいよ三里塚闘争が50年という節目の年になりました。反対同盟が結成されたのが1966年(右写真・反対同盟結成大会)、そして71年の2度の強制代執行との闘いはじめ、農地を守るため国家権力との凄まじい闘いが続きました。そして同盟内や支援党派の幾度の分裂を乗り越え「農地死守、実力闘争、一切の話し合い拒否」の原則を堅持して今日も闘いは続いています。まさに日本の、いや世界の歴史でも稀にみる反権力闘争ではないでしょうか。これからも農地法裁判最高裁5万人署名(昨年末で1万人を突破)を推し進め、耕作権裁判と共に市東農地強奪阻止に全力をあげましょう。
三里塚とのかかわり
三里塚闘争が始まった時、私(弥永)はまだ高校生、遠く離れた千葉の地でいったい何が起こっているのかさっぱり理解できませんでした。しかし71年の強制代執行で、人が乗っているやぐらが無慈悲に引き倒されていくのをテレビで見た時は衝撃を受けました。そして何より、大木よねばあさん一人で脱穀作業中に機動隊から暴行を受け放り出され、作業小屋を破壊されるというニュースに接した時「日本は法治国家ではない」と強く憤りを覚えました。しかしその時は未だその後現地に行くことになるとは全く思っていませんでした。
開港決戦に興奮
初めて三里塚の地に立ったのは77年4月のあの2万3千人が結集した全国集会でした。人の多さとカラフルなヘルメットの色に圧倒されたものでした。そして翌78年の開港阻止決戦、管制塔占拠闘争と横堀要塞戦で国家の威信をかけた開港が阻止されるという現実を目の当たりにし興奮したものでした。まさにそこは戦場でした。そしてようやく三里塚闘争を正面から見据えるようになりました。
公安に鍛えられる?
そのころから公安警察による私への監視やいやがらせが始まりました。駅での待ち伏せ、職場の幹部のスパイ化、あげくは仕事の相手先まで乗り込み私を社会的に潰す策動を繰り返しました。そして80年に実行委を結成すると、その攻撃はエスカレートしました。まず結成当時の世話人を極めて卑劣な方法で潰し、そして私には全く無関係のゲリラ事件などを口実にして、職場と自宅に80年代に計6回の不当ガサをかけてきました。無論公安も口実にした事件と私が無関係なことは百も承知でした。その証拠に毎回ガサの時間はきっちり1時間と決まっていて、時間が来るとたいした押収品がなくともさっさと引き上げていきました。なんとしても早期に実行委を叩き潰したかったのでしょう。そして現実にそれを機に実行委から離れていった人もいました。
しかし私は逆により三里塚に引き込まれていくようになりました。それは「不当な弾圧を受けてしょんぼりした人生など絶対いやだ」「あんな卑怯者たちに負けてたまるか!」という気持ちがガサのたびに強まっていったのです。公安警察の目論見ははずれ、逆に私は彼らに鍛え上げられたと言えます。
国賠訴訟で反撃
90年代に入り、淡路の安藤さん、神戸の竹田さんとともに「不当ガサ兵庫国賠訴訟」を足かけ9年にわたって闘いました。その間、永井代表、山本世話人をはじめ多くのみなさんに支援に駆けつけていただき、また裁判を通じて楽しい交流の場も増え、本当に充実した闘いができました。
判決はいわば「強制捜査が100%必要ではなかったとは言えない」という意味合いのもので、まさに苦し紛れの判決でした。敗訴にはなりましたが、この裁判を機に関西ではこの種のでたらめなガサが簡単にはできなくなりました。やはり「おかしい事はおかしい」と正面突破するということでしょうか。
これからも三里塚とともに
2000年代になると30年近く勤めた会社が倒産し、経済的に苦しい日々が始まりました。そして2010年代になると年々病の数が増え、数年前には結成以来30年以上続いていた「全国集会への連続参加」が体調不良でストップするはめになりました。
経済的、体力的には辛いものがありますが、しかしやはり「心はいつも三里塚」「三里塚の大地に立てば答えは解る」。産直野菜をしっかり食べてこれからも頑張ります。
3・27成田集会へ行きましょう。
尼崎・伊丹実行委員会 弥永修
(同会機関紙『抵抗の旗』 第280号より転載)
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