小田原紀雄さん 逝去 (69歳)
8月23日午後6時に亡くなられた小田原紀雄さんの告別式が、埼玉県羽生市の羽生の森教会で多くの方々が参列するなかで行われました。朝5時前に家を出て、葬儀に参列し、帰ってきて、まだ事実を受け入れがたい自分を、彼ならこうするだろうと呑みながら慰めています。
なかなか三里塚現地の闘いに参加してくれない彼に、何度も「三里塚に来いよ」と「偉っそう」に言ったものでした。数年前、故・萩原進さんの意向もあり、三里塚の闘いをどう支援していくのか彼と相談し、話し合う中で、彼が70年頃の三里塚に結集し、その闘いへの非常に熱い想いを持っていることを知り、自分が「偉っそうに言った」ことを恥じたものでした。その彼といろいろ動いてみました。その成果が、今年の「2・16ほんまやばいでTPP」集会でした。壇上で、萩原進さんと大野和興さんに討論していただくことを準備しました。しかし、直前の年末に進さんは亡くなられ、大野さんは歴史的な大雪で秩父から出て来れず、主役を2人とも欠く集会になってしまい、私が壇上から集まられたみなさんに「詐欺のようなものですが」とお詫びすることから始まる集会になってしまいました。しかし、みなさんの想いと熱気に支えられ「2・16集会」は大成功しました。今から考えると、小田原さんは、すでに病に犯され歩くのも不自由な大変な中で、東京から駆けつけ、二次会、三次会にも参加され、「今度は東京でやな」と言われておられたのです。彼が、闘病の中で唯一、羽生の森教会で説教に携われた今年の6月1日の教会の「週報」の彼自身の文章にも「2月の後半から、ほとんど意識が混濁していて、しばらくの間なにがなんだかわからないで過ごしたようです」と。この部分を読んで、思わず絶句しました。
同じ「週報」にこんなことも彼は書いています。少し長いですが、引用します。「京都の先輩で、隠退した精神科医の田中さんに(連れ合いのいない間にこっそり)電話して様子を尋ねたところ、「ドヤッつらいやろ、小田原。アルコール依存の辛さはそこだよ。体からアルコールはすぐ抜ける。しゃあけどな、その後の寂寥感がたまらんから多くはもどる。だから隔離病棟に入れるんだよ。ここを耐えろ。大飯原発再稼働阻止に独りでテント担いで突入して死んだ吉岡を思え。これを耐えられなくて何が革命家じゃ。吉岡に再会できるんか」と怒鳴られた。 きのう一日中、「インターナショナル」や「同志はたおれぬ」を声を殺して歌ってのたうちまわった。そういえば「祈り」なんてこんなものだったかとも改めて思った。 恥ずかしいことですが、もう少しです。折れた心を必ず立て直します。ごめんなさい。」
この過程で行きたいと思ったのですが、病人を苦しめることになるかと、遠慮してしまったことが、ついに2月16日以降、一度だけ東京女子医大にお見舞いしただけで(その時は、「5月にはどこかに出没するぜ」とお元気そうだったのですが)、お会いできないままになってしまいました。
葬儀で、同じ埼玉の芸術家Mさんにお会いし、思わず握手し、しばらく話すことができましたが、大阪での昨年末の彼の作品展でお会いし、「埼玉の小田原さんのところに寄った折に3人で呑みたいですね」と約束し、小田原さんに電話で伝えると嬉しそうに「やろう」と言っておられたことも思い出しました。
小田原さんの文章にある吉岡、萩原進さん、そして小田原さん。この3人が、この数年の私の三里塚闘争についてのもっとも重要な相談相手でした。しかし、その3人が、そろってわずか2年の間に亡くなってしまいました。
小田原さん、そして萩原進さん、吉岡の3人の想いを引き受けて、三里塚闘争の勝利に向け、自分の人生をかけることを改めて誓いながら帰ってきました。
月並みですが、小田原さんのご冥福を心からお祈りいたします。
三里塚関西実行委員会 松原康彦
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