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2014年8月31日 (日)

『実行委ニュース』 149号発行

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 関西実行委員会の『実行委ニュース』を発行しました。会員のみなさんのところには、もう届いていると思います。

 今号は、市東さんの農地裁判控訴審の10・8口頭弁論を前にして、9・28「三里塚農地裁判は、いま」学習会の案内をメインにしています。

①巻頭言は「土を守り、命を守る農業を続ける市東さんを応援しよう」と題して、安藤眞一事務局次長が。
②「許すな!成田第3滑走路計画」(関実事務局 I さん)
③「ダンゴ虫に驚きながら・・・」と、久しぶりに援農に関西から行ってくれたT さんの報告文。
④「6・25農地裁判控訴審の報告」(当ブログより)
⑤「7・13現地闘争 農地を強奪し、暮らしを破壊する第3滑走路計画を許すな」(当ブログより)
⑥「10・8市東さんの農地裁判控訴審闘争に全力を」
⑦「10・12三里塚現地全国集会に結集しよう」
⑧「沖縄・辺野古への工事強行に抗議する」
そのほかに、9・29「三里塚農地裁判は、いま」学習会の案内、「Xバンドレーダー搬入反対!9・28全国集会 in 京丹後」の案内、「三里塚裁判の日程」、そして「カンパのお願いと、関実賛同会員参加のお願い」と盛り沢山です。

 この実行委ニュース、そして「9・29学習会」チラシ「14.9.28学習会チラシ.pdf」をダウンロード を使って、市東さんの農地署名の取り組みを広げながら、10・8東京高裁、10・12三里塚現地に結集しよう。

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2014年8月30日 (土)

今週の産直野菜(8月30日)

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 先ほど、三里塚から今週の産直野菜が届きました。

 空芯菜、玉ねぎ、じゃがいも、ミニトマト、ピーマン、オクラ、万願寺唐辛子、かぼちゃ、モロヘイヤ、ゴーヤ、きゅうり 以上11品です。

 少し雨のために気温が低く、空芯菜もモロヘイヤも旅の疲れまあまりなく届きました。

 昨夜、「狭山再審を求める市民の会・こうべ」の例会で、辛淑玉さんのお話しを聞いた。

 辛淑玉さんは、まず冒頭、この日、谷垣法相によって2人の死刑が強行されたことに触れ、「殺される側は、とにかく誰でもいい(支援者などがいない)、ただただ自分の「業績」として、殺人が行われただけだ」と弾劾され、アウシュビッツの映像で、殺す側の問題を語られた。そして石川さんの「死刑」の問題を。そして韓国などを例にあげながら新自由主義によって今、世界で人びとが生きていけなくなりつつあることを示し、シングルマザーの問題などいろんな差別の問題、とりわけヘイトスピーチに象徴されるレイシズムの問題を、この国による「上からのレイシズム」、そして「子どもたちを守るには、憲法を変えよう」といった中流女性たちの運動などを紹介しながら「下からのレイシズム」を語られ、「在特会」に象徴される運動がすでに「少数者の運動」ではないのだと指摘された。それに対して、私たちがどうつながり、抗っていくのかが問われていると。

 「人権ということをどう思うか」という問いに答える形で、「人権というのは人間の思いあがり、傲慢の中から生まれた」「人権などはない」とされた上で、「私もゴキブリりを見れば踏み潰すし、部屋に入ってくる虫を殺すけれど」と言いながら、「あらゆる生きものとの共生」「ひとりひとりの多様性を守っていけるか」が、こうした流れに抗していく大きなポイントではないだろうかとされた。大いに共鳴した。

 2メートル足らずのかぶりつきに座っていて、速射砲のごとく辛淑玉さんの言葉が、話しが飛び出してくるのについていくのがやっと。しかし、めっちゃ面白く、そして示唆に富んだ話しだった。

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2014年8月26日 (火)

小田原紀雄さん 逝去 (69歳)

 8月23日午後6時に亡くなられた小田原紀雄さんの告別式が、埼玉県羽生市の羽生の森教会で多くの方々が参列するなかで行われました。朝5時前に家を出て、葬儀に参列し、帰ってきて、まだ事実を受け入れがたい自分を、彼ならこうするだろうと呑みながら慰めています。

 なかなか三里塚現地の闘いに参加してくれない彼に、何度も「三里塚に来いよ」と「偉っそう」に言ったものでした。数年前、故・萩原進さんの意向もあり、三里塚の闘いをどう支援していくのか彼と相談し、話し合う中で、彼が70年頃の三里塚に結集し、その闘いへの非常に熱い想いを持っていることを知り、自分が「偉っそうに言った」ことを恥じたものでした。その彼といろいろ動いてみました。その成果が、今年の「2・16ほんまやばいでTPP」集会でした。壇上で、萩原進さんと大野和興さんに討論していただくことを準備しました。しかし、直前の年末に進さんは亡くなられ、大野さんは歴史的な大雪で秩父から出て来れず、主役を2人とも欠く集会になってしまい、私が壇上から集まられたみなさんに「詐欺のようなものですが」とお詫びすることから始まる集会になってしまいました。しかし、みなさんの想いと熱気に支えられ「2・16集会」は大成功しました。今から考えると、小田原さんは、すでに病に犯され歩くのも不自由な大変な中で、東京から駆けつけ、二次会、三次会にも参加され、「今度は東京でやな」と言われておられたのです。彼が、闘病の中で唯一、羽生の森教会で説教に携われた今年の6月1日の教会の「週報」の彼自身の文章にも「2月の後半から、ほとんど意識が混濁していて、しばらくの間なにがなんだかわからないで過ごしたようです」と。この部分を読んで、思わず絶句しました。

 同じ「週報」にこんなことも彼は書いています。少し長いですが、引用します。「京都の先輩で、隠退した精神科医の田中さんに(連れ合いのいない間にこっそり)電話して様子を尋ねたところ、「ドヤッつらいやろ、小田原。アルコール依存の辛さはそこだよ。体からアルコールはすぐ抜ける。しゃあけどな、その後の寂寥感がたまらんから多くはもどる。だから隔離病棟に入れるんだよ。ここを耐えろ。大飯原発再稼働阻止に独りでテント担いで突入して死んだ吉岡を思え。これを耐えられなくて何が革命家じゃ。吉岡に再会できるんか」と怒鳴られた。 きのう一日中、「インターナショナル」や「同志はたおれぬ」を声を殺して歌ってのたうちまわった。そういえば「祈り」なんてこんなものだったかとも改めて思った。 恥ずかしいことですが、もう少しです。折れた心を必ず立て直します。ごめんなさい。」

 この過程で行きたいと思ったのですが、病人を苦しめることになるかと、遠慮してしまったことが、ついに2月16日以降、一度だけ東京女子医大にお見舞いしただけで(その時は、「5月にはどこかに出没するぜ」とお元気そうだったのですが)、お会いできないままになってしまいました。
 葬儀で、同じ埼玉の芸術家Mさんにお会いし、思わず握手し、しばらく話すことができましたが、大阪での昨年末の彼の作品展でお会いし、「埼玉の小田原さんのところに寄った折に3人で呑みたいですね」と約束し、小田原さんに電話で伝えると嬉しそうに「やろう」と言っておられたことも思い出しました。

 小田原さんの文章にある吉岡、萩原進さん、そして小田原さん。この3人が、この数年の私の三里塚闘争についてのもっとも重要な相談相手でした。しかし、その3人が、そろってわずか2年の間に亡くなってしまいました。

 小田原さん、そして萩原進さん、吉岡の3人の想いを引き受けて、三里塚闘争の勝利に向け、自分の人生をかけることを改めて誓いながら帰ってきました。

 月並みですが、小田原さんのご冥福を心からお祈りいたします。

                三里塚関西実行委員会 松原康彦

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2014年8月24日 (日)

辺野古新基地反対  辺野古を訪れて

14819_2  18日夜に名護に入り、19日はカヌー隊に伴走する平和丸に乗船させてもらい一日、海に。20日、21日は、キャンプシュワブゲート前の座り込みに朝のテント設置から参加させてもらい、22日に翌日の「2000人集会」に参加できないことを残念に思いながら、神戸に帰りました。

 14819_4 14819_3 前日18日に大浦湾側(左写真)と辺野古崎(右写真)の2ヶ所、「調査」 のヤグラが建てられた。そして工事領域全体という広大な範囲に各ヤグラの前にあるブイ(フロート)が張り巡らされ、そこに近づけないように右上写真のように海上保安庁(以後、海保)のゴムボートが我が物顔に走り回っている。14819_6 14819_5 辺野古のフェンス横の浜で準備していたカヌー隊(左写真) を迎えに行き、先ずはロープで曳航(右写真)。海保のゴムボートと警備艇がしつこくついてくる。途中で、カヌー隊を離し、辺野古崎のヤグラ近くの長島へ。 猛然と海保が迫ってくる。14822 しかし、この日、そして20日は「拘束」はなかった。海保が「逮捕するぞ」と言わず、「拘束するぞ」というのは、その行為の法的根拠がないということなのだ。許し難い違法な暴力だ。20日、21日とカヌー隊はブイに触りに行き、22日には、Sさんが飛び込んでブイの周りを泳いだ。驚いた海保が10名ほど飛び込んでSさんを「拘束」。辺野古の浜に運んで解放した。しかし私が帰途についた22日、追い詰められた海保が凶暴な暴行を行い、2人が「拘束」され、1人は頚椎捻挫のケガを負わされた(右沖縄タイムス記事)。14820

 キャンプシュワブゲート前のテントは毎日、午前8時に建てはじめ、8時半から、午後4時半までその日の昼間の行動、午後7時から夜の行動。私は、テントの組立から、昼間の行動に参加。19日は、時折、スコールが襲う中でテント張り。この週は、14820_2 月曜に350人、火曜日には250人。なかなか賑やか。火曜日には、基地敷地内での工事のための砂利ではなく、明らかに埋め立てのための頭の大きさ程度の石を運び込もうとしたトラック3台に対し、「何に使う資材だ」と迫り、ついに追い返すという闘いが勝ち取られ、14820_3 少なくとも21日まで入らせていないことが、山城博治さんから報告された(左写真、手にしておられるのがその石)。14820_4 問題の「殺人鉄板」は少し下げられたというものの今もゲート前に敷かれたままだ(右写真)。午前中、テントの中での集会を挟みながら3回のゲート前での周回デモとゲート前での抗議行動。14820_5 昼からも2~3回の周回デモと抗議。14820_6 入ってきたダンプカーに対して直ちに「帰れ!」「埋め立ての資材を運ぶな」と抗議のコールが叩きつけられる。テントにはいろんな人が来る。14820_7 20日には、『標的の村』の監督の三上さんと、「主演」の安次嶺さん一家が高江から駆けつけられた。14820_8 21日には超党派の国会議員が、山本太郎さんなど10人、訪れ、まず海をカヌー隊とともに視察して、最後にテントに寄られて交流を深めた。三線の演奏と唄に合わせて、踊りも。14821 21日には京都から駆けつけたミュージシャンの唄も。私も、20日、21日と続けて挨拶をさせてもらった。
 パトカーなど警察車両がテントを訪れる車を待ち構えて「直ちに動きなさい」と嫌がらせ。不当なフェンスが歩道と車道の間に張り巡らされて、ついに20日には事故が。21日に懲りずに妨害するパトカーに怒りが爆発。山城さん(写真中央)を先頭に「違法な脅しをやめろ。フェンスを撤去しろ」と抗議をした。
 14823 21日から、ゲート前での行動が終わり休憩に入ると、ダンプカーが6台、10台と連なって入ってくる。無線で連絡をとって、こちらの動きに合わせているのだ。直ちに、テントの道路反対側の土手に監視の人間を立てて、積荷を確認して、前述の「石の積載」かどうかを確認することに。「石の積載」であれば直ちに実力で入らせないことが確認された。

 昨日23日、「止めよう新基地建設! みんなで行こう、辺野古へ」と呼びかけられた「2000人、ゲート前県民大集会」がご存知のように3600人の規模で勝ち取られた(写真は、下地さんのFacebookより借用)。厳しい暑さの中、暴力的な防衛施設局、沖縄県警、海上保安庁に一歩も退くことなく対峙し、調査阻止、工事阻止に向け沖縄の皆さんの闘いが前進しています。
 私たちも、三里塚の市東さんへの農地取り上げ、第3滑走路建設のデタラメ極まる国策の押しつけをはね返し、沖縄のみなさんの闘いに応えよう。

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2014年8月23日 (土)

今週の産直野菜(8月23日)

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 先ほど三里塚から産直野菜が届きました。クロネコの兄ちゃんが汗タラタラ。思わず冷やしたお茶を「どうぞ」。

 ピーマン、じゃが芋、玉ねぎ、きゅうり、なす、ミニトマト、モロヘイヤ、ゴーヤ、青唐辛子、オクラ、枝豆 以上11品。

 関西は連日大雨の被害が報じられていますが、三里塚はどうなのでしょうね。この時期の大雨は、こう続くと土砂崩れがなくても、農作物には影響があるでしょうね。心配です。

 沖縄に行く行き帰りの時間がもったいないので、気楽に読もうと、珍しく帚木蓬生の先日出版されたばかりの『天に星 地に花』を持っていった。天候からくる饑饉、そして領主による無理難題。そのことへの農民の決起が、農作業の丁寧な記述の中で展開していきます。農民と庄屋、農民と医者の関わりが医者の目を通して優しく語られる。帚木さんの小説はもともと大好きなのですが、久しぶり、10年ぶりくらいに読んで、浸りこんでしまい、大作でしたが、沖縄の行き帰りの中で読んでしまいました。江戸時代の農民の姿を知りたかったので、小説の虚構というのはあるでしょうが、楽しみました。

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2014年8月16日 (土)

「耕作放棄地は悪か・・・」

耕作放棄地がとめどもなく増えている現実に「農業の厳しさ」を嘆き、「どうやって減らすのか」と私を含め多くの人が考えていると思う。「限界集落」などという言葉も生れ、「耕作放棄地は悪だ」とも言えるような気分になっているのではないだろうか。

ところが『有機農業の技術とは何か』(2013年、農文協)を著した中島紀一さんは、以下のように「耕作放棄地は自然地への回帰だ」と語りかけている。私はカルチャーショックのような思いをもって読んだ。

一度、中島さんの意見に耳を傾けてみてください。

 

-「いま「耕作放棄地は悪だ」という大合唱が続いているが、耕作放棄地はそんなに悪なのだろうか。「耕作放棄地は雑草地になる」と書いたが、これは農学的には必ずしも正確ではない。そこは「間もなく野草地になる」と言うべきなのだ。雑草という言葉の農学的意味は、耕す田畑にはびこるやっかいな野草のことで、耕さない土地に普通に生える草は雑草とは呼ばない。それや野草である。野草地にはしばらくすれば丈の低い雑木が生え始め、そこは藪地となる。藪地はウグイスたちの棲み家となり、藪地が増えれば、春先にはウグイスたちの素敵な歌が聞こえてくる。こうした耕作放棄地のその後の行方は、大まかに言えば自然地への回帰ということになる。」

「(耕作放棄地の野草地への回帰で)野草地のこうしたあり方を回避して、上述した万葉植物園のような野草地を実現していくには、耕作放棄→耕作再開→耕作放棄の繰り返しが最適のように思われるのである。こうした取り組みの中で土の中で眠っていたさまざまな埋土種子(シードバンク)が一斉に芽生える時が巡ってくる。 / 耕作放棄地対策を焦る必要はない。耕作放棄地が広がる今の状況は、土地利用に余裕が生れている局面と理解することもできる。この稀有な余裕を活かして、改めて、しっかりと土地と向き合い、「農地」と「自然地」の相互性について、次の世代の人々と、あるいはこれまで耕作とかかわってこなかった一般市民の方々と、考え合ってみたいものである。」

 「耕作放棄地の拡大の一般的背景に地域農業の空洞化の結果があることは明らかである。にもかかわらず、その構造的問題を問うことなく、農地所有者の「利用管理放棄」の責任だけを、それが反社会的な行為であるかのように追求するという現在のキャンペーン的な論議の在り方に異様な雰囲気を感じてしまう。ことに「いつまでも利用改善されない場合には強権発動すべし」といった主張がさほどの抵抗感もなく語られている現状は異様だ。 / ・・・空き家もまた多数存在している。そこに賃借売買の流通改善の必要性はあるとしても、所有住宅が空き家だというだけで空き家所有者が社会的に指弾されることはない。住居は空き家にしておくと老朽化して価値は劣化するが、後に述べるように農地の場合は、耕作を止めれば自然地への回帰が始まり、そこには自然的な豊かさが回復していくのに、である。」

 「農地と自然地は相互的なものであり、農地の基礎は自然地としての土地の性状がある。耕作を止めれば農地は自然地に回帰していくのであり、それは決して異常なことではない。耕作によって喪われていたさまざまな自然地の性状は、耕作を止めることによって次第に回復していく。自然地としての豊かさは回復し、土壌の肥沃性や生物性も改善されていく。・・・耕作放棄地は絶滅危惧の生きものたちの有力な逃げ場ともなっている。・・・/・・・日本列島という日本の国土の基本は、海も含む自然地である。その自然地としての日本の国土の普遍的な利用形態の一つとして農地というありかたがある。林業地も畜産草地も同様である。農地も林業地も畜産草地も自然地の一形態であり、そこには、それぞれの社会的有用性を求める利用形態が作られてきた。併せて、自然地としての在り様についての、利用者のそして社会のしかりとした認識と自然地としての保全管理についての適切なルールが必要なのである。しかし、これまでのところこうした視点は欠落しており、そのルールの在り様はそのアウトラインすら見えていない。 / ・・・現代社会では、知床、白神、屋久島などの世界遺産地を除いては、それ(自然地)は「原野」「荒蕪地」としてしか認識されていない。農地でも林業地でも畜産草地でもない自然地は、秘境であればその価値は認められるが、人々が暮らす身近な場所では「未利用地」=「藪地」として問題視されてしまうのが現状である。」-

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2014年8月13日 (水)

山本世話人がテレビに

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 今日のMBSテレビ『ちちんぷいぷい』で、「93歳の元出陣学徒・・・平和のための戦い」と題して、山本善偉関実世話人の特集(?)が19分にわたって流された。「学徒動員」の歴史的経緯や、1943年、東京の明治公園(10月)で行われた関東の出陣式での答辞と神戸での山本先生の答辞がほとんど同じであることが具体的に比較されて示された。先生ご自身が日頃そのことを指摘され、「真実を知らされることなくマインドコントロールされていた」と語っておられたことを解りやすく説明し、精神科医が「知らず知らずに単語で刷り込まれている。本当の意味で『自分で考える』ことの難しさを理解しなければならない」とコメントしていたのが印象的だった。

 三里塚の1971年の映像が流される中で先生が教職につく中で「平和のための戦い」をされたと紹介された。先生は「あの時はまだ行っていなかったけどな」と言いながら、嬉しそうにしておられた。2011年5月、東京高裁で90歳で逮捕された画面では、「私は言うべきことがあってあそこにいた。何も法など犯していない」という趣旨のことを言っておられることが紹介されていた。
 そして今年の8・6ヒロシマでの先生の行動が紹介され、93歳になっても「平和のために戦い」続けていくという想いが、「被曝69周年 平和の集い」での壇上からの発言を紹介する形で示された。

 3日間も密着取材をして、どんなものになるのだろうと心配していたが、予想以上の出来栄えで、先生も本当に嬉しそうだった。

 写真は、Facebookに早速アップしてくださっていた奈良のKさんのものを勝手に使わせていただきました。この映像は、多分、関西と四国地方にしか流れていないとは思うのですが・・・。

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2014年8月 9日 (土)

今週の産直野菜(8月9日)

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 先ほど、台風11号が近づくなかで、三里塚から産直野菜が届きました。

 ミニトマト、じゃがいも、玉ねぎ、なす、ピーマン、きゅうり、ししとう、モロヘイヤ、オクラ、つけうり 以上10品です。

 オクラが順調すぎるのか多い。毎食に食べています。今日のモロヘイヤは、可愛くてきれいですね。 虫がどっかに行ってしまった?

 この秋は、辺野古の闘い、名護市議選、沖縄県知事選、秘密保護法、集団的自衛権、原発再稼働、京丹後へのXバンドレーダーと恐ろしいほど課題が集まって、どれもが重大な局面にあります。その中で、10月8日の市東さんの農地裁判控訴審、それも裁判長の交代という重大な局面を迎え、しかも第3滑走路建設問題から、直後の12日の現地での全国総決起闘争も重要に。ほんとに目が回りそうですが、夏バテしないようにしっかりと野菜を食べましょう。

 管理人は18日から22日まで、沖縄・辺野古の闘いに駆けつけます。何ができるか、役に立つのかと思いますが、辺野古の闘いは、沖縄の皆さんの問題というより、いまや私たちヤマト、日本人がこれまで安保を沖縄に押しつけ、米軍基地を沖縄に押し付けてきた「責任」が問われた、重大な局面だと思います。できることをしていきたいと思います。16日の野菜が盆休みで、よかった・・・。

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2014年8月 8日 (金)

小農による農業経営・農法の基本

  幕藩体制が確立し、小農経営の自立が進行した1680年ころに書かれたとされ、作者不詳の農業技術の集大成と体系化を試みたと言われる『百姓伝記』という書物がある。そこにこんな一節がある。
 
-「不浄をそまつにしては、作毛みのることすくなく、しだいに土やせて、薄田畑となる。然らば土民もしだいに身上おとろえ、一類・けんぞくを失うことたがいなし。そのわざを大切につとむる土民は、土をこやし、作毛をよく作出し、諸民をやしなうこと、おのずから仏菩薩のさいだんなり。」-(以上、大野和興著・編による『百姓の義』(1990年)より引用)-
 
これを読んで「凄い」「こんな時代に、ここまでまとめたのだ」と感嘆の声を思わず上げた。
 
17世紀は、「幕府や諸藩の灌漑水利事業の実施」によって農地が拡大し、それに併せて「農民世帯の形態の変化」が大きく起こり、「農民は、成年に到達すれば、誰もが結婚して家族を形成するようになる。そして・・・・耕地拡大が増大する人口を吸収したので、17世紀中は、人口制限の必要はなく、資源との均衡の限界まで増加し続けた」のだ。(この節の「  」内と内容は、『岩波講座・日本通史 第1巻、速水融』による)
 
当時、世界最大の100万都市であった江戸では、下肥(不浄)が近郊農家の貴重な資源として買い取られていた(『ウンコに学べ』有田正光・石村多門共著、2001年に詳しい。めっちゃ面白い)。
「排泄物の全量を集めて土に返した日本では、下水に流れたのはわずかな量の生活排水だけだった。江戸には総延長が150キロにも及ぶ世界最大の下水道が網のように地下を走り・・・・当然、下水に流れる生活排水も少なく、江戸時代の隅田川は河口の佃島付近でさえ白魚が豊富にとれるほどの清流だった。同時代のパリを流れていたセーヌ川より、はるかに清らかだったことは保証してもいい」(『大江戸リサイクル事情』石川英輔 1997年)のだそうだ。
 
この17世紀の人口増と耕地の拡大によって、『百姓伝記』にあるように、戦後1950年代まで300年以上にわたって営々と続けられてきた日本の小農による農業経営、農法の基本が形成されたのだ。
 
なお、18世紀に入るとこの人口増、耕地拡大はいずれも行き詰まったそうである。

 「関実・三里塚ブログ」が2週間近くお休みだった(忙しかったのですが)ことをお詫びし、「最近、こんなことに嵌りこんでいます」という「管理人」のお詫びをこめたメッセージです。

 

 

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