耕作放棄地がとめどもなく増えている現実に「農業の厳しさ」を嘆き、「どうやって減らすのか」と私を含め多くの人が考えていると思う。「限界集落」などという言葉も生れ、「耕作放棄地は悪だ」とも言えるような気分になっているのではないだろうか。
ところが『有機農業の技術とは何か』(2013年、農文協)を著した中島紀一さんは、以下のように「耕作放棄地は自然地への回帰だ」と語りかけている。私はカルチャーショックのような思いをもって読んだ。
一度、中島さんの意見に耳を傾けてみてください。
-「いま「耕作放棄地は悪だ」という大合唱が続いているが、耕作放棄地はそんなに悪なのだろうか。「耕作放棄地は雑草地になる」と書いたが、これは農学的には必ずしも正確ではない。そこは「間もなく野草地になる」と言うべきなのだ。雑草という言葉の農学的意味は、耕す田畑にはびこるやっかいな野草のことで、耕さない土地に普通に生える草は雑草とは呼ばない。それや野草である。野草地にはしばらくすれば丈の低い雑木が生え始め、そこは藪地となる。藪地はウグイスたちの棲み家となり、藪地が増えれば、春先にはウグイスたちの素敵な歌が聞こえてくる。こうした耕作放棄地のその後の行方は、大まかに言えば自然地への回帰ということになる。」
「(耕作放棄地の野草地への回帰で)野草地のこうしたあり方を回避して、上述した万葉植物園のような野草地を実現していくには、耕作放棄→耕作再開→耕作放棄の繰り返しが最適のように思われるのである。こうした取り組みの中で土の中で眠っていたさまざまな埋土種子(シードバンク)が一斉に芽生える時が巡ってくる。 / 耕作放棄地対策を焦る必要はない。耕作放棄地が広がる今の状況は、土地利用に余裕が生れている局面と理解することもできる。この稀有な余裕を活かして、改めて、しっかりと土地と向き合い、「農地」と「自然地」の相互性について、次の世代の人々と、あるいはこれまで耕作とかかわってこなかった一般市民の方々と、考え合ってみたいものである。」
「耕作放棄地の拡大の一般的背景に地域農業の空洞化の結果があることは明らかである。にもかかわらず、その構造的問題を問うことなく、農地所有者の「利用管理放棄」の責任だけを、それが反社会的な行為であるかのように追求するという現在のキャンペーン的な論議の在り方に異様な雰囲気を感じてしまう。ことに「いつまでも利用改善されない場合には強権発動すべし」といった主張がさほどの抵抗感もなく語られている現状は異様だ。 / ・・・空き家もまた多数存在している。そこに賃借売買の流通改善の必要性はあるとしても、所有住宅が空き家だというだけで空き家所有者が社会的に指弾されることはない。住居は空き家にしておくと老朽化して価値は劣化するが、後に述べるように農地の場合は、耕作を止めれば自然地への回帰が始まり、そこには自然的な豊かさが回復していくのに、である。」
「農地と自然地は相互的なものであり、農地の基礎は自然地としての土地の性状がある。耕作を止めれば農地は自然地に回帰していくのであり、それは決して異常なことではない。耕作によって喪われていたさまざまな自然地の性状は、耕作を止めることによって次第に回復していく。自然地としての豊かさは回復し、土壌の肥沃性や生物性も改善されていく。・・・耕作放棄地は絶滅危惧の生きものたちの有力な逃げ場ともなっている。・・・/・・・日本列島という日本の国土の基本は、海も含む自然地である。その自然地としての日本の国土の普遍的な利用形態の一つとして農地というありかたがある。林業地も畜産草地も同様である。農地も林業地も畜産草地も自然地の一形態であり、そこには、それぞれの社会的有用性を求める利用形態が作られてきた。併せて、自然地としての在り様についての、利用者のそして社会のしかりとした認識と自然地としての保全管理についての適切なルールが必要なのである。しかし、これまでのところこうした視点は欠落しており、そのルールの在り様はそのアウトラインすら見えていない。 / ・・・現代社会では、知床、白神、屋久島などの世界遺産地を除いては、それ(自然地)は「原野」「荒蕪地」としてしか認識されていない。農地でも林業地でも畜産草地でもない自然地は、秘境であればその価値は認められるが、人々が暮らす身近な場所では「未利用地」=「藪地」として問題視されてしまうのが現状である。」-
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