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2014年5月14日 (水)

山本世話人、沖縄に招かれて

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 5月10、沖縄・読谷で、『5・10三里塚・沖縄集会』が、三里塚から市東孝雄さんはじめ6人が、14510_2 同じく話しを求められた山本善偉世話人 はじめ関西から4人が参加して 開催されました。

 集会に先立って、宮城正明さんと知花昌一さんの三線演奏と唄が披露されました。

 まず山本先生から学徒動員から93歳までの人生、闘いの現場に立つことをとおして、小川源さんや知花昌一さんとの出会いを通して、人間観、社会観、世界観が変わってきたことが、松原との対談という形で語られました。1971年、結核で入院中に先生がスクラップした三里塚闘争の新聞のファイルが回覧されました。14510_3 (対談しているため、この部分写真がありません)
 辺野古、高江の闘いの現状の報告のあと、韓国の済州島海軍基地建設阻止闘争の報告が、ク チュンソ氏(左写真・群山米軍基地被害相談所所長)から行われました。
 福島の果樹農家・大内孝さんから想いのこもった「福島・三里塚・沖縄ともに闘おう」というメッセージが寄せられ、14510_4 代読されました。
 もう一つの連帯挨拶が、市東さんの農地取り上げに反対する会の内田さん(右写真)、山口さんから行われました。

 14510_5 さあ、市東孝雄さんの登場です。最初の挨拶の後、スライドで農地の様子や、ビニールハウス、作業場などの現場の様子、団結街道や誘導路の様子が分かりやすく説明されました。そして、農地裁判をめぐる闘いと、第3滑走路建設への企などをかたられながら闘いへの自らの想いをかたられました(詳報は別途に)。

 質疑応答が行われたあと、沖縄の会を代表して、知花昌一さんがまとめと閉会の挨拶をされました。

 20人近くが残って、土砂降りの雨の中、近くの知花昌一宅へ移動し、賑やかな交流会が夜遅くまで行われました。殆どのみなさんが、知花さん宅にある「何我舎(ぬ~がや)」に泊まり、山本先生と私を残して市東さんを先頭に、翌朝早く辺野古に右翼が来るとの情報があり、辺野古に向かいました。

 14511 山本先生と私は、「何我舎」に昼過ぎまでゆっくりさせていただき、法事から帰って来られた昌一さんに、島ラッキョウとにんにくを栽培しておられる農民の知花盛康さんの新居に送っていただきました。しばらく歓談のあと、盛康さんの案内で残波岬や、前日の集会・交流会でお会いしていた陶芸家の大宮さんの工房を訪ねました。連れ合いさんは、読谷山花織を工房の隣の部屋でしておられます。それから彫刻家の金城実さんのアトリエを訪問。ちょうど出来上がったばかりの木彫りの作品「大逆事件」(幸徳秋水と朝鮮の義士・安重根(アン ジュングン)をテーマにした作品)を前に金城さんから説明していただく。作品ができるきっかけなどが語られ、同時に安重根についての史実なども紹介していただく。泡盛をいただきながら、「反天皇を言い、昌一の日の丸焼き捨てを支持するウチナーが、安重根を義士とするワシに批判してきて喧嘩になる。これをどう思うか」と厳しく迫られてきた。いろいろ話し合うことができました。少数民族や差別されるマイナーな人々を許容できない、存在として想像できない我々日本人の中にある民族意識の「観念」と、沖縄、台湾、朝鮮の人びとの中に生まれた「本当の日本人になろう」という帰属意識がからみあい、金城さんのお父さん(金城さんが1歳の時に戦死)に象徴される「犬死に」が生まれたことなどを語り合いました。金城さんの厳しい、凄い舌鋒に疲れ、いささか酔いました。
14512  それから再度知花盛康さんのところに送っていただいて、夕食をいただき、泡盛に舌鼓をうちながら交流を。盛康さんのつれあいさんと山本先生は数十年の既知の仲。抱き合うようにしてお互いの再会を喜んでおられました。

 翌朝、キムさんの案内で辺野古の浜へ。オスプレイが2度もテント上空に飛来。私たちがついてすぐ、隣接するキャンプシュワブの浜に、14510_7 14輌の水陸両用艇が並び訓練の準備を始めた。合間には、辺野古漁港の中にイワシの大群が迷い込んできて、海の色が変わる。次々と起こる出来事に山本先生がまっちゃハイになっているのがわかりちょっと心配に。
 14512_3 この日、テント村の「村長」が具志堅徹名護市議(左写真、右側)。丁寧に辺野古の闘いの歴史と現在を語って下さいます。
 旧知の平良悦美さんにもお会いでき、先生は嬉しそう。次々といろいろな方がテントを訪れます。座間味島の集団強制死で家族でただ一人生き残ってこられた女性など、入れ替わり立ち代りテントを訪ねてくるみなさんと、ほんとに楽しそうに会話を楽しんでおられる。14512_4 三里塚の市東さんの裁判の話しを誰かれなく話される。最後に関西学院中等部を1947年に卒業された方がたまたまきておられ(先生は1946年10月に英語教師て赴任)、先生に気付かれ抱き合うようにして懐かしい共通の知人の話しにもりあがります。その奇遇(右写真の看板左の方)にわたしたちもびっくり。

 辺野古周辺や大浦湾を案内してもらった後、14512_5 足を伸ばして、本部半島の北側にある屋我地島の綺麗な景色と海を案内してもらい、ほんとにきれいな海岸におりたってみたりして一時を楽しみました。左写真はその時のスナップ。山本先生も私も、超珍しい写真です。中央がキムチミョンさん。
 この頃から雨が降り出す。再び「何我舎」に戻り、今度は、知花昌一さんと3人で、沖縄や三里塚を遅くまで泡盛やもずくなどに舌鼓をうちながら、語り合いました。なにしろ山本先生は昌一さんが大好きですから。

 翌朝、知花家を後にして空港へ。休み休みとはいえ、93歳の先生の体調がもつだろうかというのが最大の心配事でしたが、なんのなんの、「これならもう一度行けそうや」と嬉しそうに語る山本先生と三宮でお別れしました。

 ほんとに収穫の多い、意義ある沖縄旅行でした。先ほどお電話したら、今朝も、先生はお元気そうです。沖縄のみなさん、ほんとにお世話になりました。

 

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