「成田空港の自由化」について (その2)
自由化を拒み続けた国交省
2010年10月、日米航空協定が最終合意に達し、2013年、年間離発着27万回化達成を前提とする成田空港の自由化が決まった。
実は、国交省(航空局)は、少なくとも2007年初頭までこの日米航空交渉の中で、「自由化」を拒み続けていた。
もちろん世の趨勢は自由化への流れの中にあった。1995年、細川内閣による「規制緩和」の流れの中で、航空輸送産業の規制の問題が大きく取り上げられていた。国交省(航空局)もその勢いをかわしきれず、航空自由化に向けて大きく政策を転換せざるをえなかった。しかし、批判をかわすために始められたものでしかなく、自由化を方向づける全体の理念、全体像が欠如し、本質的には自由化をうまくすり抜け、国交省、航空業界がもつ巨大な利権をいかに守るかに、国交省(航空局)の思惑は置かれ続けた。それは原子力ムラといわれる今日の国、経産省、電力資本を軸とした思惑のありようと本質的、体質的に同じものであった。
アメリカと世界の動き
世界の航空業界は、1970年代のアメリカでの国内航空政策の全面的自由化、同じくイギリスでの国内空港政策の民営化への新自由主義による政策転換の中で大きく自由化への流れにあった。それでも、2国間の国際協定となると、アメリカ以外の各国、とりわけイギリスをはじめとしたヨーロッパ各国の保護主義的な政策が壁となって、アメリカの自由化への要求ははね返され続けていた。
第2次世界大戦末期の1944年、戦後世界の航空体制を確立するためにアメリカが呼びかけてシカゴで会議がもたれた。アメリカは、唯一戦禍を受けず、無傷の数千の空港と軍用機の生産で巨大化した航空産業を持っていた。その巨大な物質力を背景にアメリカは、各国に航空自由化を求めた。イギリスをはじめ国土が焦土と化していた各国はこのアメリカの要求を団結してはね返し、「領空主義を前提とした事前許可制を是とする国家介入の保護主義が色濃く導入された」シカゴ条約を、国際航空体制の基礎として取り決めた。これが1980年代の新自由主義の時代にあっても機能していたのだ。日米航空協定が、1984年に改訂交渉が始められながら26年もかかったのは、新自由主義の先端を行くはずのイギリスとアメリカの自由化が、アメリカとEUとの自由化協定が成立した2007年までずれこんだことが示すように、それほど特異なこととは思われない。それぞれのもつ「利権」をめぐってのせめぎ合いであったのだ。
アメリカは、イギリスやフランスなど大国との自由化交渉をいったん諦め、貿易自由化に国の活路を求めていた小国との自由化交渉に全力を投入した。それがヨーロッパにおけるオランダとの自由化(1992年)、アジアにおけるシンガポールとの自由化(1997年)であった。この2つの小国は国の背後に生産拠点をほとんど持たず、世界貿易の中継地点として生き残ることを望んでいたのだ。そしてこの2国の自由化が成功し2国の経済が発展することを通して、ヨーロッパ、アジアの自由化への道がこじ開けられていった(ドミノ理論)。
国交省(当時は運輸省)の動き
1981年からの鈴木・中曽根両内閣の「増税なき財政再建」、行政改革の流れの中で、運輸省(当時)の機構改革は行われたものの、航空行政を進める航空局については、航空輸送事業の特殊性から再編成は適当でないとして、ほとんど旧来のままに温存された。この判断を背景に、「航空憲法」と言われた「45・47年体制」を見直し、「航空憲法」を廃止(1985年)してもなお、その下で作られた「空港整備特別勘定」が今日まで残されたことが、冒頭述べた「国交省、航空業界がもつ巨大な利権をいかに守るか」ということを可能にした。
イギリス、アメリカ国内における航空自由化の流れの中に身を置いた財界の新自由主義、規制緩和の合唱の中で、運輸省は高官をアメリカに派遣し、アメリカの規制緩和の実態を半年にわたって調査した(1983年)。その結果、①事業者の収益悪化、②運賃の一部上昇、③主要空港の混雑、④辺地サービス低下などの問題を確認した。その上で成田空港の暫定開港を強行(1978年)したものの、成田二期工事の行き詰まりにより、1984年頃には、「日本の空港容量は限界に近づいており、事業者が自由に新規路線に参入することは困難」と判断していた。国会で航空局長が「航空の自由化といっても実益のないことだろうというのが基本にありまして」と発言していた(1985年 『公共政策の変容と政策科学』 2007年1月 秋吉貴雄著 有斐閣より引用)。当時、運輸省は、関西空港(1994年開港)、中部空港(2005年開港)の巨大2空港の開港で問題は暫時解決するものと考えていた。そして航空業界の自由競争の促進ということについても、「空港能力の制約の下においては、その実施は極めて困難ではないか」との見解を表明していた(1986年 前掲書より)。このあたりの経緯について伊東光晴京大教授は「航空憲法の廃止で各社は競って新路線獲得に動く。しかし、運輸省の許認可権はそのまま残っている。免許を与えるかどうかは、お役所のさじ加減一つだ。規制緩和とは言っているが、実質的には権限強化だ」と批判した(1986年1月、朝日新聞)。
とは言うものの、日米航空交渉でのアメリカからの自由化圧力、そして政財界の「規制緩和・自由化」、新自由主義の合唱の前に、2000年、新規参入の緩和と成田・羽田を除く国内空港への海外航空会社による自由化に踏み込まざるをえなかった。しかし、この時期、関西空港の破綻(海外からの便数が増えないだけでなく、JAL、ANAの日本の航空会社が、欧米便を全面撤退した)と続く中部空港の破綻の前に、国交省は、それまでの航空政策の全面的見直しを迫られた。首都圏第3空港論や横田米軍基地の返還論などが実質的に見込めないことが明らかになる中で、必然的に羽田・成田の首都圏空港の容量拡大しかないことは自明の理であった。世界的な不況、金融恐慌に襲われた経済的行き詰まりの突破をかけようとするときに、「空港能力の制約」と自らの権益を守るための開き直りが許されない状況に追い込まれていった。しかし、羽田の第4滑走路の建設が行われようと、国内航空路線における羽田の重要性は、首都圏一極集中が極限的に進む中で、いかに新幹線網を整備しようが削ることは出来なかった。必然的に、暫定滑走路開港(2002年)を強行したとは言うものの、土地収用法が失効し事業認定を取り下げて半ば諦めかけていた成田空港の拡張、完成へと進むしか道はなかったのだ。それが2003年の市東さんへの農地明け渡しの要求であり、2006年の耕作権解除申請、不法耕作の言いがかり的裁判へののめり込みであったのだ。しかし、それでも、日米航空交渉の中でのアメリカからの強い自由化要求には依然として応じようとしなかった。2007年初頭のIATA運賃を口実とした国際線の「運賃自由化」拒否はこのことを示している。
また、アジアゲートウェイ構想(2007年5月)を審議していた「戦略会議」の座長を務めた伊藤元重東大教授は、「『オープンスカイ政策』という文言を入れることに国土交通省は難色を示した」(『日本の空を問う』 2007年8月 伊藤元重共著 日本経済新聞社刊)と書いている。
国交省、航空村の巨大な利権
では、国交省は自由化を拒むことで何を守ろうとしたのか。それは国交省がもつ巨大な利権であることは明らかだ。ただ、原子力ムラがそうであるように、その実態は私たちにはほとんど見えない。
それまでの空港整備の時代は終わったとして、それまでの「空港整備法」が、2008年「空港法」に改正された。それについてこういう指摘がある。「2008年に施行された新しい法律であるにも関わらず、『指定』、『認可』、『立ち入り検査』といった用語が出てくるのは、効率的に民間資本を活用しようとする社会情勢に逆行するものと感じざるを得ない。・・・(中略)・・・空港整備法から空港法への転換という大きな制度変更であるにも関わらず、制度設計の検討は手短に行われて、法律が制定された印象を受ける」(『航空グローバル化と空港ビジネス』 2010年7月 野村宗訓共著 同文館)と。日米航空交渉が基本合意に達する2009年末のわずか1年あまり前のことだ。ここに、必死で流れに抗って自らの利権を守ろうとした国交省の姿が見えないだろうか。
また、こういう指摘もある。「このように(成田空)港内での営業権は権益化しており、国交省のOBを受け入れている企業や、空港会社の資本とOBを役員にしているファミリー企業によって独占されている。『天下ったOBは高額の報酬と運転手付きの専用車、個室を与えられ、子会社を渡り歩いて一生安泰なのである』(『週刊ポスト』 03年3月7日号)。成田空港会社が「国交省の本丸」と称される所以である」(『生まれ変わる首都圏の空港』 2009年3月 杉浦一機著 交通新聞社)。
成田空港が民営化され株を上場すると言われて久しいが、未だに実現していない。一般株主が生まれればこのような無駄遣いは直ちに放逐されることは確実だろう。前社長の森中も民間からだったが、この7月に新たな社長となった夏目誠は、日本国有鉄道生え抜きで、JR東日本で駅売店「キオスコ」を成長させた現場から抜擢されたという。こういう人間から見れば当然にもこの「国交省の本丸」の現実は見過ごせないであろう。この春、成田空港の関連会社のほぼ4分の1にあたる1万人近くが整理され、多くは羽田空港に移ったと言われる。成田空港の経営悪化が原因とも言われるが、確かに、成田空港は厳しい経営状態にあるものの黒字を維持している。新しい社長と株上場を準備する上での整理の面がなかっただろうか。あるいは、日米航空交渉の過程でアメリカからの指弾があったとも考えられるがどうだろうか。
しかし、国交省の利権、権益についてこうした幾つもの断片的な指摘があるが、いずれにしろ国交省独自の財源的なものがなければ、こうしたことは可能ではない。それが最初の方で指摘した「空港整備特別勘定」なのだ。この「空港整備特別勘定」は、国の一般財源(税金)への依存度は12%に過ぎないと言われ、その規模は毎年4000~5000億円と言われている。「道路特別勘定の一般財源は66%、港湾特別会計の一般財源は70%の割合であることを踏まえると、空整特会は、他の特別会計と比べて圧倒的に受益者負担で成り立っている」(前掲書『航空グローバル化と空港ビジネス』)、特異な自主財源と言えるものなのだ。しかも、「空港使用料と航空機燃料税は、JALとANAの負担がそれぞれ900億円。一般会計経由のものを含めれば、両者の負担はそれぞれ1000億円を超えていた」(『再上場の功罪を問う』 2012年9月 町田徹著 講談社現代新書)というのだ。実に、JALとANAが「空港整備特別勘定」の4割から5割を負担しているのだ。町田は「空港整備勘定は、・・・・航空官僚や交通族議員の利権の温床」と同書で断じている。
こういう指摘がある。「路線開放の圧力はますます高まり、日本の空港が各国の航空会社との競争にさらされ、しのぎを削る。そんな競争に、JALやANAが勝ち残れるか。国交省は、そこに不安が残るから、思い切った政策を打ち出せないまま、逡巡しているように映るのである」(『血税空港』 2009年5月 森功著 幻冬社新書)と。つい最近にも、中東のエミレーツ航空が日本の旅客の満足度2位になっていることを紹介した上で「こうした中で日本の航空会社は何を強みに戦っていこうとしているのか。世界規模の大競争の中で、日本の航空会社が買収の標的になる可能性も皆無とは言えない時代がやってきた」(日経ビジネス 2012年7月2日号)と結論づけられている。
国交省が、2009年末、アメリカによって基本合意に追い込まれるまで、実は自らの利権とJAL、ANAとの関係で自由化を拒み続けていたのだということが理解いただけただろうか。
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