人を踏み付ける国策とは ― 沖縄・福島・三里塚 ―
人を踏み付ける国策とは
ー 沖縄・福島・三里塚 ー
2013年の成田空港自由化とは何か?
日米航空交渉(日米同盟)の影
成田空港反対(三里塚)闘争の今
成田空港は、1966年、佐藤政権の下でわずか数週間という期間で立案、閣議決定が強行されました。そこには地元対策などの民主的装いすらかけらもなく、機動隊暴力を振りかざし、札束による農民、地主の懐柔のみという驚くべき公共事業としての姿がありました。1990年頃「ボタンのかけ違い」などという言葉が流行りましたが、とてもそんなものではなく、未だに1500人にのぼる警察官の常駐と米軍基地でも見ることのできない2重のフェンスがその破綻を象徴しています。そして47年が経った今も、計画された滑走路のうち横風用滑走路が断念され、完成の目処すらたっていません。三里塚反対同盟の農民のみなさんが、少数になったとはいえ未だ空港用地内にとどまり闘いを続けておられる根拠は、この47年にわたる国のかかげた「国策」の非民主的、権力的あり方への怒りと告発です。沖縄、福島で「国策」への怒りが大きく膨れようとしている今、三里塚、成田空港をめぐり何が起こっているでしょうか。
成田空港自由化への動き
一昨年、2010年10月25日、日米航空協定が結ばれ、成田空港の自由化を軸とした新たな空の態勢が作られました。以降それをモデルに、イギリス、韓国、香港、オーストラリア、カナダ、シンガポール、ベトナム、インドネシアなど現在までに17ヶ国を上回る国々と成田空港自由化の2国間協定が結ばれています。
この日米航空協定の交渉は、1984年に始められましたが、幾度か暫定協定を結んだものの、最終合意に25年も要した2009年末に基本合意に到達し、翌2010年に正式合意したのです。
戦後、1952年の「独立」をもって産声を上げた日本の航空業界をめぐって結ばれていた日米の航空協定は、極めて不平等な条約でした。日本航空の国際線利用客が世界一になった(83~87年)ことを背景に、そして当時、全日空が国際線への参入を強く求めていたこともあり、この不平等をただしたいという日本政府・運輸省(当時)によって1984年にアメリカとの航空協定の改訂交渉が始められました。
当時、アメリカは、空港の数だけでも日本やイギリスの数十倍というその巨大な国内の航空市場と航空産業のずば抜けた力を背景に、世界の国々に航空自由化を求める交渉に入っていました。そのアメリカにとっては正に「渡りに船」の改訂交渉でした。しかし、各国にとって軍事にも関わる航空協定は、アメリカの航空における力が巨大すぎるだけに保護政策を基調としていました。実際にも、日本以外でアメリカとの航空自由化を最後まで拒否し続けたのが、国内の航空自由化を世界に先駆けて行っていたイギリス(2007年自由化)であったことも、この辺の事情を示しています。
しかし、日本の運輸省(後に国交省)・航空局は、「原子力ムラ」という言葉が生まれる前から「航空ムラ」と言われたように、多くの許認可権を有し、独自の権益をもった権力機構でした。それを可能にしたのが「空港特会」(空港整備特別勘定)という独自財源を今に至るも持っていることです。規制緩和、行政改革の嵐が吹き荒れた第2臨調においても、運輸省の機構改革は行われたものの、航空局にはほとんどメスが入らず、そのままでした。航空局は、「航空憲法」(注1)を廃止し、自由化へ舵を切ったかに見せる航空法の制定を行いました(2000年)。しかし、アメリカ(世界)に対して成田空港についてその狭隘さを理由として交渉が最終局面に入っていた2007年でさえ、自由化を拒み続けていました。
このように国交省はアメリカとの航空交渉の中で終始一貫自由化を拒み続けてきましたが、2009年末~2010年、鳩山首相の沖縄の普天間基地問題での変節、アメリカ追随への転換と軌を一にして、成田空港の自由化へとアメリカの要求に全面屈服した基本合意をします。その結果生まれたのが、2010年5月の国交省の新成長戦略、成田・羽田の一体運用、成田空港の自由化・拡張への道だったのです。
国交省・航空局、航空ムラの権益をどうやって守るか、アメリカ追随を図るか否かがこの過程の全ての基準でした。航空協定締結と菅首相によるTPP加盟宣言とが同じ時期(ともに2010年10月)だったということが象徴的です。成田空港周辺に住む住民への影響、また自由化がもたらす様々な問題の本質的な検討、検証など一切行われないままでした。国交省は、この大事な経緯と問題を隠すために、マスコミを使い「羽田・成田の競合、せめぎあい」を大宣伝し、千葉県や成田市など地元自治体、千葉県財界を使嗾(しそう)し「成田空港完成」「成田空港の発着枠30万回化」キャンペーンを行わせたのです(「四者協議会」(注2)による「発着枠30万回」合意 2010年10月13日)。
闘いの現状は? これほどの人権侵害、住民犠牲が許されるのか
今、国・国交省は、このアメリカとの新たな航空協定、成田空港の自由化の方針を「国策」として掲げ、2013年発着枠27万回化の実現を条件とした成田空港の自由化、そして2014年の発着枠30万回化実現を国際公約として打ち出し、各国との2国間交渉を続けています。
そのために発着枠27万回化には、第3誘導路の2012年3月末供用開始に向けた建設工事の強行。そして発着枠30万回化には、空港用地内に住む市東さんの農地を強奪し、暫定滑走路の誘導路が「へ」の字に曲がっている問題を解消しようとしています。
30万回化とは、昨年までの1.5倍の発着枠であり、これまででも相当な周辺地域への騒音被害が出ているだけに、深刻な周辺住民への環境破壊、生活破壊が引き起こされることは必至です。しかも、旧誘導路と第3誘導路からそれぞれ100メートルしか離れていない市東さんの住宅は、誘導路を自走する航空機の爆音、振動、耐えられない臭気によって住むこと自体が困難な状況となります。
また、市東さんの農地は、親子3代、100年にわたって耕されてきた1級農地です。空港敷地内にあるとはいえ、空港計画による強制収用で奪うことが出来なかった農地です。「問題ない」と暫定滑走路の建設を強行しながら、今になって「邪魔だから」と本来は農地を守るために制定された農地法を使って裁判で取り上げようとしています。しかし、空港会社の農地取得が農地法違反を犯しており、しかもその根拠とされる農地の区割りの図面が偽造されたものであることなど、様々な国・空港会社による違法が裁判の過程で明らかになっています。ところが裁判所は、国の方針を前提に、これらの違法、デタラメを看過し、国交省・空港会社の「国策」強行を手助けする国策裁判を強行しようとしています。
全日空は、2010年10月、自由化の動きに間髪を入れず「前後1時間、供用時間を伸ばせば、事実上24時間化だ」とぶち上げています。イギリスの基幹空港であるヒースロー空港は、成田空港と同じ並行した2本の滑走路を持つ内陸空港ですが、24時間使用され50万回の発着枠をもっています。航空業界にすれば、これが目標なのです。とんでもない話です。「国策」のためには、住民の生活や環境、営農のことなど構っておれるかとでも言うのでしょうか。
9・16「この国の農業と三里塚」の集いにお集まりください
私たちは、このような理不尽な「国策」の押しつけを見過ごすことはできません。47年も闘い続けておられる三里塚農民の国への怒りと、農への篤い想いを全面的に支持します。別紙ご案内にありますように、9月16日、「この国の農業と三里塚」の集いを開催します。9月10日の農地裁判、10月7日の三里塚現地での全国総決起集会と、三里塚は重大な局面を迎えております。ぜひ、お集まりください。
(注1)航空憲法=1970年閣議了解、1972年運輸大臣通達によって以降の航空政策の基本が決められ、廃止される1985年まで、一切がこれによって取り仕切られた。(注2)四者協議会=国、千葉県、空港会社、成田空港圏自治体協議会(成田市を中心に芝山町など地元9自治体で構成)の4者で成田空港の運用規制などを話し合う。(2012.8.18)
―『憲法の改悪に反対する元教職員ひょうごネットワーク』機関誌32号(2012年8月末発行)に寄稿させていただいたものです。
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