住民犠牲の上に立つ成田空港自由化
新空港反対東灘区住民の会の『おしらせ』第87号が発行されました。巻頭を転載します。
住民犠牲の上に立つ成田空港自由化
市東さんの農地を守ろう
政府・国交省は、2010年、新成長戦略を打ち出し、「ヒト・モノ・カネ・情報」の流れを重視するとしました。その柱に首都圏空港容量の拡大、羽田・成田の一体運用を実現することと、成田空港の自由化を据えました。そして、1984年以来続けられてきた日米航空交渉が、この年に最終合意されました。
1952年、サンフランシスコ条約で日本の独立が実現する中で航空法が制定され、ヨーロッパなどに10年近く遅れて日本の空の戦後の歩みがはじまりました。そこで結ばれた日米航空協定は、それまで日本の空を独占していたアメリカの実績を前提とした不平等な協定でした。
日本は、日本航空が世界一の旅客数を誇る(1983年~1987年)実績を背景に1984年、不平等を改善したいと日米航空協定の改訂に向けた交渉を開始しました。ところが、アメリカは国内の航空自由化を1970年代後半から劇的に進め、世界で飛び抜けたその巨大な航空市場と航空産業の力を背景に世界に航空自由化を迫っていた時でした。実際にも、ヨーロッパでは1992年にオランダと、アジアでは1997年にシンガポールと航空自由化協定を最初に結んで航空自由化を世界で進めようとしていました。
当初、自由化に抵抗した国交省
日本は、この世界での航空自由化の流れと国内での新自由主義的流れの強まりの中で、2000年、首都圏空港を除く国内の空港の自由化を認め、国内について「参入・撤退の自由」「価格競争の自由」を認め航空法を改正しました。しかし、アメリカの自由化要求には首都圏空港の緩和は「狭隘さ」を理由に拒否し、国際運賃についても「IATA運賃」を盾に拒否しました。
しかし、関西空港と中部空港の破綻がそれぞれ明らかになる中で、成田空港の拡張、首都圏空港容量の拡張を決断せざるを得なくなり、2003年、市東さんへの農地明け渡し要求へと動き始めました。また、IATA運賃がヨーロッパで独占禁止法違反であると断定され(2006年)、アジアでの航空運賃が急激に下がる中で、追い詰められていました。そうした背景の下、アメリカの圧力で成田空港の自由化、運賃の自由化を認めた日米航空協定の改訂交渉が最終合意にたどりついたというわけです。
アメリカ追随に梶を切った2010年
ご存知のように2010年という年は、5月28日、日米同盟が叫ばれ、秋には菅政権によって突然TPP参加の意志が明らかにされました。羽田・成田の一体運用、首都圏空港の容量拡大、成田空港自由化の新成長戦略、そして日米航空協定最終合意とは、政権交代を実現した自らのマニュフェストを投げ捨て、アメリカ追随に大きく政策転換をした民主党政権の流れの中で起こったのです。
辺野古新基地建設、オスプレイ導入、あるいはTPP加盟がもたらす住民、国民への破局的な犠牲の強制は言うまでもありません。成田空港の自由化を水路とする新成長戦略の航空政策もまた、空港周辺住民への重大な犠牲の強制を前提としていると言わざるをえません。
何よりも親子3代、100年をかけて耕し、無農薬・有機栽培を実現している超1級農地を、国・空港会社が農地の区分地図を偽造し、数々の農地法違反を犯してまで、市東さんから強奪しようと裁判にかけるなどという国家犯罪がどうして許せるでしょうか。また、その国家犯罪を支え、「国策裁判」によって農地強奪の手先に裁判所・司法が立つことなどどうして許せるでしょうか。
そもそも30万回の離発着、あるいは24時間化は、狭い内陸空港であることから周辺地域に騒音被害などの深刻なくらしの破壊が引き起こされることは必定です。
私たちは、住民の犠牲を当然とし、しかも市東さんの農地を強奪することでしか実現できない成田空港の拡張、自由化の動きに絶対に反対です。
9・16三里塚集会(関西)、10・7三里塚全国総決起集会に全力で参加し、野田政権の住民無視の国策強要に反対していきましょう。
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