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2012年5月 1日 (火)

狭山現地調査に行ってきました

429日から30日、「狭山再審を求める市民の会・こうべ」が狭山現地調査を行うことになり、参加しました。神戸から6人がワゴン車で現地へ。全国連狭山支部による学習会、現地調査の案内をしていただきました。

現地に到着し、さっそく前夜の学習会です。確定判決(寺尾判決)が実際にどうなのかという視点から、大きく変わった街並みの中で、40数年前に想いを馳せながら、「おかしいじゃないか」ということなどを感じ、考えて欲しいと明日に向けての注意です。

その上で、狭山や埼玉の部落の歴史的な形成過程などを話していただきました。

 翌朝、午前9時、狭山市駅から現地調査のスタートです。

まずは、石川一雄さんが実際に196351日に歩いた「真実のコース」を歩いてみました。

12430犠牲となった中田善枝さんが通った川越分校は今は看護学校。石川さんが「通っていた」パチンコ屋とか、途中で声をかけられた八百屋さんなどが駅前の中央のとおり(馬車道跡)にあった跡をたどりました。

石川さんが雨をしのいだ「荷小屋」や、善枝さんがインクを書いた郵便局がこのあたりにありました(本屋さんの駐車場)。八幡神社のほうに入っていって、途中にもう更地になっているパチンコ屋があり、そこで何人かの人と石川さんは会話をしています。石川さんのアリバイを証言している人が何人かいて、調書に取られているはずなんですが、公判には採用されていません。部落の側でうろうろすると親爺さんに黙って仕事をさぼって来ているから、バレて怒られないように駅の西側(駅正面側)近くでうろうろしていたのだそうです。

賑やかな駅前は部落の反対側で、駅入口はこちらにしかなく、駅舎の通路か、外の踏切を渡らなければ部落(駅の東側)には行けません。「芦原と一緒や」「西宮も一緒」と芦原のTさん。

そのあと、狭山第3次再審闘争勝利現地事務所へ(石川さんの元の住居跡)行きました。石川さんご夫婦は残念ながら出かけておられてお留守でした。

完全に燃えていったん何もなくなりましたが、原寸大の模型がプレハブの中に作られています。

普通の目線で十分見える高さです。本来の意味での鴨居は高さが6尺以上で手が届かないので、現場を見て「どう見ても鴨居じゃない」との声が。そもそも「鴨居」と表現することで意図的に高くて手が届かないと印象づけ、3度目に見つかったと強弁しているのです。裁判長が現場検証すればすぐに分かることですが、現場検証を一度としてしてきていません。

3間あって、6疊と4疊半、3畳。3疊の間に六造さんが居て、家を守っていた。一雄さんが戻ってきてその3疊の間にしばらくおられたが、支援者と会うために出かけている間に燃えたのです。

今度は、確定判決で描かれている石川さんの行動に基づいて歩いてみました。

判決では石川さんは牛乳を買って飲んで捨てたことになっています。このころは、石川さんのような生活環境なら空き缶や牛乳瓶は拾って小遣い稼ぎをしていたはずです。歩きながら飲んで捨てるはずがありません。しかもその時は弁当箱を持っているわけですから、弁当箱を小脇にかかえて牛乳瓶を持って。当時の労働者は「アルマイトの弁当箱」は貴重品で必ず持って帰っていました。石川さんももって帰っています。善枝さんの自転車を押しながら弁当箱を持っているという状況で、確定判決のような挙動ができるでしょうか。それが不可能だから確定判決では弁当箱のことに一切触れていません。石川さんが手ブラで歩いていたと思い込んでしまいがちですが、この点は非常に大事です。当時の部落の労働者の実態を知らない感覚の人が書いたらああいう作文になるということではないでしょうか。

12430_351日、荒神様でお祭りが行われ沢山の人がいましたが、石川さんを見かけたという人は一人もいませんでした。善枝さんを見かけたという人もいません。善枝さんはこの近くの第2ガード、あるいは第1ガードで目撃されたのを最後に目撃者はありません。確定判決と違い、そこから車でレストランか、誰かの家に連れて行かれたのではないかと言われています。お腹の中には昼食で食べたカレーの跡はないはずで、カレーにもなかったトマトなどが検出されていることから、最後の目撃から後で食事を誰かとしている筈なのです。その場合、当然、推定死亡時刻がもっと遅くなるはずなのです。

12430_4出会い地点から教科書やカバン、ゴムひもが発見されたとされる溝のところに歩いていく間、道の両側に結構広い畑が今も残っていました。数人の人がこの日も農作業をしておられた。非常に見通しが良く、ここを自転車を押しながら善枝さんを脅しながら歩いていくというのは無理があるのではないでしょうか。

殺害現場とされている所、森になっていたところは見る影もなく住宅街になっています。

12430_5誰の悲鳴も争う声も聞いていないと証言されている小名木さんがいて農作業をしていた畑の場所など(今は住宅と駐車場)がすぐそばに見えます。声が十分に届く(聞こえる)位置です。見晴らしも良く風通しもよかったから、声は周りですぐ聞き取れたはずです。おまけに静かなところですから。

このあと、死体が発見された場所やスコップ、荒縄、芋穴などの場所をまわりましたが、そこでは住んでおられるみなさんに遠慮して、声を出さずにそっと指差すことしかできません。
 そもそも
200メートルも離れた場所に54キロある善枝さんを上むいて抱きかかえて傷も付けずに運ぶことは、いくら力のある石川さんでも無理だろうと声があがります。

部落のゾーン(1.5キロ四方くらい)の中にわざわざ死体を埋めたことを地図で確認。そこに部落への差別的な意図を感じます。

駐車場に戻り、車で移動し、今度は、確定判決で石川さんが脅迫状を持っていったとされるコースを行ってみました。

 12430_7
 教科書、カバン、ゴムひもなどが発見されたとされる溝で
今は住宅街になって溝が作られていますが、以前は森のキワで、森から流れ落ちてくる雨水がたまって流れていたところだそうで、川というほどのものではなかったそうです。

 川(溝)の土手沿いに歩けばいいのに、調書では行ったり来たりしながら捨てていることになっています。不自然だ。また教科書が雨の中で捨てられたのなら、ドロドロになっているはずなのに、きれいなままで発見され、しかも丁寧におかれていたのは、変だし、後で置かれたからじゃないかということでした。ストーリーを合理化させるために置いたんじゃないか。それになぜわざわざカバンから出して捨てたんだろう。そのまま捨てればいいのに。またカバンが中田栄作氏が「革のようなカバン」と行っていることからも発見されたものが「革鞄」であることはおかしい。などなど証拠をめぐって疑問が次々にみなさんの口からでます。

 また、カバンが発見されたことにより、調書のつじつまが合わなくなることを恐れて調書の日付が書き換えられた疑いがあることと、カバンの発見に関わる調書だけが日付だけじゃなくて時刻(午後5時)まで書かれており、作為を感じざるを得ないと指摘も。

 この後、石川さんが「脅迫状」を自転車に乗って届けたとされるコースに従って車を走らせて、堀兼の部落へ行きました。お茶やいろいろな野菜を作っている広い畑が一帯に広がり、先程までの雰囲気とは大きく異なります。堀兼農協(捜査現地本部が置かれた)からタバコ屋の跡、石川さんが中田家の場所を聞いたとされるU家とすぐそばの中田家(立派な門構えと、今も大地主を思わせる家)、I養豚場、佐野屋跡と犯人が潜んでいたとされる茶畑などを見ながら「やげん坂」(善枝さんが通学路とした)を通って見ました。ほぼ20分以上も自動車でもかかり、雨の中を自転車で真っ直ぐに行かないで、こんな複雑な経路をとったという確定判決のおかしさを思いました。

12430_8ファミリーレストランで昼食をとって休息と交流をした後、お兄さんの石川六造さんを訪ね、奥さんの手作りの漬物やたけのこやこいも、わらびなどの山菜料理を美味しくいただきながら、30分ほど交流の一時をもちました。

六造さんは、「家にばっかりいて、毎日、4人、5人と来るからお茶を入れるのが上手になっただろう」と楽しそうに話されます。最近、大腸と小腸の間の癌の手術をされたとか。しかし、声は本当にお元気です。部落解放同盟埼玉県連狭山支部支部長の名刺をみんなに配られました。「同じことやってんだから、一緒にやらないと」「俺は毎日、日曜でここにいるんだから来ればいいんだよ」と。

六造さんご夫婦にお礼を言い、関西への帰途につきました。

現場に立ってみて、確定判決のストーリーに、「それはないよなぁ」という確信を非常に強く持ちました。石川一雄さんが、わずか一日の短い間にこれほど複雑に、時間をかけてするはずがないだろうし、証拠といわれるもののどれをとっても「作られた」ものであることを改めて確信しました。

初めての狭山現地への訪問で、当時とまったく様変わりした状況でしたが、石川さんの無実をあらためて確信するとともに国家権力による差別犯罪に新たな怒りを覚え、本当に有意義な現地調査でした。狭山再審実現に向け多くの皆さんと共に頑張っていきたいと決意を新たにしました。

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