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2011年8月10日 (水)

8・6ヒロシマ 平和の夕べ

1186

 会場は満席。

 1186_2 この集いは08年から始まり、初めは被爆電車に乗り合わせ奇跡的に一命を取り留めた米澤鐵志さん、09年が被爆二世で産婦人科医の河野美代子さん、昨年10年が現代文明の愚かさを話され、まるで原発事故を予言されていたかのような高史明さんだった。

 今年は「はだしのゲン」の作者でゲンのモデル、中沢啓次さん。河野美代子さんのインタビューでお話しが進む。

 中沢さんは今年初めて、平和式典の招待状が来たので行ってみられたそうです。1186_3 「しらけムードだった。あの日の8時15分は地獄の中を這いずり回っていたのに、鳩を飛ばして平和になるかと思う」とおっしゃっていました。「聞くほうがヘドが出るような話しを差し込んで欲しいと思う。それがリアルだ」と。そして私たちに、ヘドが出るような地獄絵図を話してくださいました。

 ―― その日の空は真っ青で、B29が一機、白い飛行機雲を引いて飛んできた。「なんで空襲警報が鳴らんのかね」と思っていた。友達のお母さんが「今日の登校場所はどこか?」と尋ねてきて、すんでのところで校門をくぐらなかった。そのおかげで校舎の下敷きにならずに助かった。立木がつっかえ棒になって塀を支えて、空間ができて助かった。しかし友達のお母さんは電車道まで吹き飛ばされてまっ黒こげで、目だけがこっちをにらんでいた。怖くて走り出した・・・。1186_4 途中、半裸の人、皮膚がズルッと垂れて爪で止まりその皮が体につくのが気持ち悪くて手の先を体から離して幽霊のように歩く人、おびただしいそういう人がいた。家に走っていくと、母は物干し台にいて助かったが、父、姉、弟が家の下敷きになっていた。身重の母と、家族を引っ張りだそうとしたが、梁や柱はびくともしない。通りがかりの人に助けを求めても、その人たちも自分のことで必死。そうしているうちに火の手が迫ってきた。3人を助けられなかった。

 その後、母と生まれたばかりの妹との生活が始まった。厳しい生活。みんな。そういう時は人間の本性が出る。母は傘を盗ったと警察に突き出され、二度としないと一筆書かされた。自分は後頭部に原爆の水ぶくれがあったが、その傷をつついて何度も割られ、はやし立てられた。

 手塚治虫の宝島が好きで、自分も漫画家になりたいと思った。どうしたら漫画家になれるかと考えて、中学を出て看板屋になった。デッサン力、レタリングなど、漫画の勉強になる。東京の出版社に原稿を送っていろいろと教えてもらいながら勉強した。1186_6 漫画家で食べていけなくても看板屋で食べられると、22歳の時上京。しかし、東京で被爆したと言ったらひどいことをされた。最初は原爆のことを漫画にしなかった。躊躇があった。そんな時、母が7年間の入院生活の末62歳で死んだ。火葬にしたら骨が残らなかった。「原爆は母の骨まで奪うのか」と思った。「日本人の手で戦争責任をなんとかしたか?」という気持ちから「黒い雨にうたれて」を描いた。命短い被爆青年が悪徳アメリカ人を次々と殺していく話。 過激だ、とどこからも拒否された。出版されれば読んでもらえる、と思い、エロ本の出版社に持ち込んだ。「出そう」と言ってもらえた。しかし「あなたも私もCIAに捕まるかもしれないぞ」と言われた。「喜んで」と言った。 ――

 中沢さんのこういう真っ直ぐな所はどこから来ているのだろうか。それはお父さんにあると思った。毎日夕食の前に「天皇制は間違っている」「この戦争は間違っている。お国のために死ぬなどというのは間違っている」と、繰り返し繰り返し聞かされたそうです。1186_7 そういうお父さんのことは人の知るところとなり、特高に連れて行かれて拷問に遭い、帰ってきた時にはやせてやつれていたそうです。中沢さんの絵本にも出てきますが、「麦のように真っ直ぐに生きろ」というのがお父さんの教えだったそうです。

 ―― 戦後、天皇が広島に来た時、学校で半紙にクレヨンで日の丸を作れと言われた。天皇の車列を迎える小旗だった。日の丸振って万歳しろと言われたが「誰が許すか」という思いだった。風の冷たい日だった。首に噛み付いてやりたいと思った。下駄で蹴った小石が天皇の車に当たったのを覚えている。――

 不屈の被爆証人、中沢さんのお話しを聞けて本当によかった。肺がんで入院されたと聞いていたので心配でしたが、本当に良かったです。しかし、8月後半にはまた治療のために入院されるそうです。どうか治療がうまくいって、もっとお話しを聞かせていただきたいです。

1186_9   リレートークでは、政教分離裁判に取り組んでこられた草薙順一弁護士が、日本は天皇教の国だが、原発安全教の国でもある。イェリングが唱えた「国民の抵抗権」がある。闘争だ、と力強いお話し。敗戦時に国民の手で戦争責任を裁かなかったことに大きな問題があることも強調された。

 1186_10 もう一人のリレートークは元京大原子炉実験所の小林圭二さん。今、「原発を早く再稼働しろ」という財界 VS 子どものいるお母さんたち、となっている。お母さんたちは頑張っている。滋賀でも京都でも。必ず同じような事故が起こる。東電も国も加害に無責任、戦前の軍部と同じ、と話された。

 1186_11 全てが終わって、友だちと、「え? もう6時半? 短く感じた」と話していました。ほんとにあっという間の3時間でした。もっと聞きたいお話しばかりでした。

               (岩崎晶子記)

 (管理人より、 最後の写真は集会で熱唱した早苗NENEさんです。)

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