福島被災農民の怒りを共有するために・・・
5月20日の裁判を前に、萩原進さんが行かれた福島の訪問報告記をいただきましたが、もったいないので、当ブログへの転載をご本人に了解いただきましたので、転載いたします。なお写真が、印刷物からのコピーですので見苦しい点、お許しください。写真はクリックしていただければ大きく見れます。
4・27~28福島現地訪問報告 (萩原進)
4月27日~28日、東日本大震災、福島原発事故で被災した福島県の農民のみなさんの所へ激励かたがたお邪魔し、3・27集会で寄せられたカンパを手渡し、野菜など支援物質を届けてきました。聞きしにまさる被害の深刻さとひどさに言葉を失いました。この実感を共有してもらうための報告です。被災農民の怒りと向き合い何をなすべきか、どう連帯すべきか、考えていきたいと思います。(右上写真は、いわき市小名浜近く 28日)
私とドライバーのF君は4月27日の朝8時、野菜や米農家の小川さんから預かった米、さらにペットボトル入り水などを積み込んで成田を出発しました。
まず向かったのは福島市の果樹農家Oさん宅(左写真)。3・27全国集会に被災地からのメッセージを寄せてくれた福島市の果樹農家です。
最近やっと作付規制も解除されたそうですが、風評被害や原発による放射能被害の今後を考えると実際に出荷できるのかどうか、不安を訴えていました。そこで野菜をカンパ。それでも菜の花プロジェクトというチェルノブイリ救援団体の協力も得て、土壌調査や勉強会を立ち上げて、60軒ほどの周辺農家との連携を始めているとのことでした。
「被曝覚悟で留まる」
次に30キロ南に下った本宮市のSさん宅(右写真 27日)を訪問。3・27集会のメッセージで「中通り 酪農家」と訴えていたお宅です。Sさんに野菜と3・27集会のカンパを手渡しました。Sさんは「自分たちも原発反対の闘いをやってきたが、三里塚のような絶対反対の姿勢が足りなかったことを悔やんでいる」と語り、さらに「農民は個々バラバラでは殺される。団結していきたい」と語っていました。
連れ合いの方の「自分たちはもう被曝している。こんな危ない所に来てもらわなくていいですよ」という言葉には参りました。 『農民に逃げる所などない。この地に留まり家族、地域みんなと農民として生き抜く』という決意を語られたものと受けとめました。(左写真は、Sさん宅の乳牛 27日)
しかし今回の訪問をきっかけに、原発反対運動を共にした仲間を再結集させたいという言葉を聞き、こちらも勇気づけられました。
夜は三春町の宿へ。いわき市の元労働者Oさんも一緒です。宿には火力発電所復旧工事の職人や労働者が多数泊まっていて、東京電力の権力的体質への怒りを口にしていました。
翌日はいわき市のRさん宅(右写真 28日)へ。「浜通りの酪農家」という名でメッセージを寄せてくれたお宅です。
今回まわった中では、もっとも原発に近い場所です。Rさん宅では子供を避難させているとのことでした。Rさんも原発に反対して闘ってきた一人。「当時、村八分のようなあつかいを受けた。しかし、放射能は原発賛成・反対に関係なく降り注ぐ」と 悔しがっていました。(左写真は、Rさんが飼っている黒毛和牛 28日)
最後にOさんの案内でいわき市の津波被害の現場を見て回りましたが、「言葉を失う」とはこのことです。Oさん自身も大変な被害を受けたそうです。3月11日の直後からガソリンもない、ライフラインは止まる、物はないの3重苦で、家から出られなかったそうです。三春の宿での風呂が1週間ぶりだ、とも語っていました。
被災現場では、人に対してカメラを向けることもはばかられ、車内から撮影しました。(右写真は、いわきし小名浜港周辺 28日)重い問いをつきつけられたというのが訪問しての実感です。
今こそ農民は怒り連帯しよう
津波被害の甚大さ、深刻さに衝撃を受けた訪問でした。(左写真は、いわき市小名浜港周辺 28日)同時にきびしかったのが放射能被害です。これは自分たち成田の農民も他人ごとではないいう意味で身につまされました。訪問記にも記しましたが、本宮市のSさん宅で言われました。「自分たちはすでに被曝している。逃げる所もないし、あっても逃げることもできない。20頭の牛を放っぽり出して逃げるわけにもいかない。逃げた所でいつまでそこにとどまるのか。 一蓮托生、死ぬときは一緒」という話しに衝撃を受けました。(右写真は、いわき市小名浜港周辺 28日)安易な激励や慰めの言葉など受け付けない厳しい言葉でした。「ともに闘いましょう」との言葉でこちらの決意を伝えました。
福島はじめ東北、茨城、千葉などの農民を、ここまで苦しめる原発の存在というものに改めて憤りを感じると同時に、 しかし、現実に起きてしまった事故と人体への被害という問題とどう向き合うのか。考えさせられました。(左写真は、宿泊先から車で10分ほどの所にある滝桜。風評被害で観光客はまばら 28日)
逃げればいいのか。そうじゃないだろう。農民にとって、畑や田んぼから離れて農民としての暮らしや生き方があるわけではありません。まして、三里塚闘争を45年間も闘いぬいてきたわれわれにとって、他の場所に逃げて三里塚闘争を続けられるはずもない。(右写真は、いわき市四倉で。右がOさん 28日)
その場所に踏みとどまって「原発」に示された現代社会の腐敗と非人間性を告発しつづける、これ以外に生き方、闘い方はないと思います。
それでも三里塚を思う言葉には勇気づけられました。「以前から三里塚闘争を支援してきた自分たちは当然原発建設反対だった。不十分ながら運動もしてきた。しかし、建設を許してしまった事実は重い。三里塚のように絶対反対で原発反対を闘いぬきたい」と。(左写真は、いわき市四倉で 28日)
さらに、今回の訪問を「原発反対で闘ってきた人々の再結集の機会にしたい」「農民はバラバラでは殺されちゃう。団結しなければならない」という思いも聞くことができました。「次の全国集会には参加します」と約束してくれました。三里塚の闘いも今回の震災を経て新たな前進を実現しなければならない、と肝に銘じた訪問でした。
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コメント
放射能に我慢することはありません。すぐに逃げてくださいと言いたいです。避難先は、求めれば、勝ち取れます。そんな好意、支援は、必ずあります。
投稿: 避難してほしいが。 | 2011年5月27日 (金) 19時45分