« 2011とめたいんや戦争!守るんや命!3・21行動 | トップページ | 3・27三里塚全国総決起集会へ »

2011年3月23日 (水)

オープンスカイと日本の航空政策(試論)

 敗戦後、米軍占領のもとで日本の航空の自主運行が一切禁止されたが、1952年7月航空法が制定され航空庁の内局として航空局が発足した。そして1970年閣議了解、1972年運輸大臣通達のもとに成立した「航空憲法」をもって航空局のもとに航空政策が進められていった。「市場での事業者間の競争を回避することによって、合併したばかりの東亜をはじめとする各事業者間の経営状態の安定を図ることであり、ローカル線を中心とした不採算路線への内部補助を可能にし、国内航空ネットワークの整備・安定を図るものであった」「航空憲法は『路線権あれども経営権なし』と称されるように非常に厳しいものであったが、それらは事業者自身が望むものであり、規制に対する批判は行われなかった」(有斐閣、「公共政策の変容と政策科学」2007年、今後(A書より)と表記)。1984年第2臨調による行政改革の流れの中で運輸省の機構改革が大幅に行われたが、国際交渉などを担当する国際航空課が国際運輸観光局に移管されただけで、航空局の機能は何一つ変わることなく今日まで継続されてきた。その結果が、自由化に舵を切ったと言われながら今日の「管理された競争」(A書より)という日本の航空政策の全面的な行き詰りと、「成長戦略」の名の下で進められる羽田国際化と成田ハブ化(拡張)、関空・大阪の一体化といった強引な航空政策の見直しが、その航空局の徹底した主導のもとに行われているのだ。航空政策については、政権交代の当初から「政治主導」などありえなかった。

 アメリカの流れに簡単に触れておくと、アメリカでは1938年の民間航空法によってCAA(民間航空庁)として発足したが、1940年、独立規制委員会としてCAB(民間航空協会)に発展し、路線、運賃などすべてにわたる強力な規制機関となってアメリカの航空政策を進めた。しかし、1970年代からCAB規制が連邦政府内でも問題とされた。新自由主義を進めたフォードは、1974年、CAB委員長を大統領指名で交代させ介入を始めた。これによって規制当局CAB自身と議会の公聴会などによる航空自由化の論議が進み、1978年航空規制緩和法が成立。ついに1984年CABそのものが廃止され、完全な航空自由化が生まれた。この自由化には、フォード、カーター(1977年~)の両大統領による直接的介入が大きく寄与をしたと言われているが、日本の航空局による航空政策支配には、当時の中曽根首相も関与が難しかったと言われている(A書より)。

 一つの例として、1992年9月、アメリカとオランダにおいて世界で初めオープンスカイ協定が結ばれた。資源もなく、人口も少なく、消費力の小さいオランダが運輸と観光に力を入れようとしてとった政策だった。そしてスキポール空港は成田の1.5倍、世界第4位の旅客数を、そしてKLMオランダ航空は国際線旅客数で世界第5位を占めるまでになっている(2008年)。

 このオランダの成功はヨーロッパ各国の2国間協定の自由化を一気に進め、2008年になってイギリスの自由化は、ついにアメリカとEUの航空協定を可能にして、同時並行的に進んでいた香港を皮切りに始まったアジアでの航空自由化がどんどんと進んでいった。

 他方、ベネルクス3国という人口わずか46万、国土面積は神奈川県くらいしかないEU(欧州連合)のほぼ中心に位置するルクセンブルク空港は、貨物取り扱いに特化し、自由化の中で成長し、世界各国から受け入れた貨物をトラックでEU全域に輸送することで効率化を上げ、貨物扱い量は羽田空港を上回る世界23位(EU5位)を占めている。このことで、国民一人当たりのGDPは世界1位なのだ。この空港は、日本の市場に強い思いを抱いて関西空港への乗り入れを希望したが、日本の航空局は拒否し、小松空港での取り扱いとなっている。このため小松空港の貨物取扱量は飛躍的に伸び、成田、関西、中部、福岡に継ぐ国内5番目の規模に成長した。関西空港が成長戦略の中で「貨物空港としてのハブ化」を標榜しながら、航空局は小松経由での関西空港行きを認めているだけで、未だに直行便は許可していない。しかも、以遠権を認めていないため、ルクセンブルクにとっても関空は魅力のないものとなっている(冬幻社新書 「血税空港 -本日も遠く高く不便な空港」より 以降(B書より)とする)。これが航空局による日本の航空政策支配の一端だ。

 それに対して、日本でも1983年の全日空と海運会社による日本航空貨物(NCA)の事業申請、1984年の日米航空協定の暫定的取り決めを背景とした全日空のハワイ・チャーター便申請は、「航空憲法」による規制に風穴を開けるものとなり、航空自由化への動きが開始された。この渦中、1年間にわたってアメリカに調査員を派遣した運輸省(航空局)は、アメリカにおける徹底した自由化の問題点として、「①事業者の収益悪化、②運賃の一部上昇、③主要空港の混雑、④辺地へのサービス低下」などを挙げた(Aより引用)。

 1984年航空政策の転換が言われたものの、航空局は米国の規制緩和には否定的で、航空憲法の見直しの必要性を認めつつ、羽田拡張と関空の完成をまつ1993年まで基本的には先送りするという中途半端なものだった。結局航空憲法はまもなく廃止されたが。そのために、それまでの航空審議会という航空局の追認機関ではなく、事業者を排除した運輸政策審議会航空部会が1985年9月に発足した。しかし、アメリカのCAB廃止を含む論議の展開とは本質的に異なり、これまで日本の航空政策を批判する専門家が皆無だった(そうです)こともあり、またこの航空部会専門委員として新自由主義経済の専門家が加わらなかったことによって、結局航空局の追認機関としてしか機能しなかった(A書より)。この点で、最近出た主張で「以上の諸政策は、本来的な航空・運輸政策というよりは、高度成長を支えた建設土木事業としての空港建設がその中心であった」(「展望 8号」)とするが、いささか実際の経緯を踏まえない雑駁なものではないだろうか。利権を柱とした「空港建設」のラッシュという問題は、それ自体として航空政策と関連して独自の問題として論じられるべきだろうし、「航空憲法」が形成される過程で起こった成田空港建設への1966年のあの事態は、そのような「建設土木事業」の問題というより(候補地の綱引きという事態はあったものの)、航空政策の形成過程の必死さが引き起こした暴虐極まりない、非民主的手続きとして見るべきではないのだろうか。

 そして羽田、成田の空港容量の現実を背景としながら、羽田、成田の徹底した従来通りの規制をする一方での関西、中部、地方空港の自由化をすすめた。しかし、それとても「以遠権」を認めないなど極めて規制が激しいものであった。それゆえ「管理された競争」と言われたのだ。こうした現実にいらだつ自民党安倍政権が、さらなる自由化を求めて打ち出したのが「アジア・ゲートウェイ構想」であった。とりわけ「焦点の羽田空港の国際化については『骨抜き自由化』『玉虫決着』などと揶揄され」(B書より)ている。「具体策と言っておきながら、ほとんど抽象的な内容ばかりだ」(B書よりの引用)というのである。

 イギリスのヒースロー空港は、08年第5のターミナルビルを建設してアメリカとのオープンスカイに臨んだ。敷地面積では成田と同規模でありながら24時間使用で50万回の離発着を実現して、国際線旅客数では世界1位なのだ。それ故に、成田空港について地元財界などを使嗾して「24時間使用、30万回の離発着」が目標として掲げられたのだ。航空局として、それしかないと考えていたからではないだろうか。

 これに対して民主党政権前原は、「アジアゲートウェイ構想」をそのまま受け継ぎつつ、羽田国際化を具体的に打ち出すことで航空局の弱点を批判し、「新成長戦略」としたのだ。しかし、オープンスカイが求められている「自由な受け入れ」を実現するには羽田空港は絶対的に狭隘(国内線の需要を無視することはできない)という「航空憲法」以来の「羽田空港は国内線」という呪縛からは自由ではありえない。それ故に、「成田空港ハブ化」は、一部で言われているような「お題目」などでは断じてない。いやむしろ、関西空港のハブ化を唱えながら、むしろアメリカを始め開港期のご祝儀相場的就航はあったものの、どんどん撤退し、現在の体たらくに陥入り、大阪空港との合併で現実を糊塗し生き延びようとするのがやっとではないか。そして成田空港には40国以上の就航希望が今もなおあるのだ。やはり「成田ハブ化」は、日米合意、TPPに生命線を置く菅政権にとって、超一級の「国策」なのだ。

 ところが成田空港は「ざっくり言えば、20万回の成田の発着枠全体の4分の1ずつのシェアーを米国とJALで分け合っている。成田空港における米国は、相手国のナショナルフラッグキャリアに匹敵する既得権益を持っているのだ。残り半分のシェアーをANAやその他多数の諸外国で分け合っている」(B書より引用)。アメリカによる日本占領の残渣というものだろう。アメリカのアジア路線は、1995年日本経由が38%あったが直行便が47%だったものが、2006年には直行便は62%と飛躍的に伸びており、関連して空いた米国の成田空港の枠をJALが使ってしのいでいるのだそうだ(B書より)。(注・空港の発着には「祖父権」という商習慣があり、すでに路線を確保し発着実績のある会社が権利を放棄しない限り、その発着枠は固定され、順番待ちの会社は新規に路線参入できない。)それゆえ、成田空港の整備、完成、拡張は、「成田ハブ化」の絶対的条件として、「アジア・ゲートウェイ構想」を前にすでにこうした意味で浮上していたのであり、アジアにおけるハブ空港争闘戦に、3周、4周も遅れているとはいえ、そうであればあるほど強暴な日本帝国主義の意志として「成田ハブ化」は絶対的なのだ。

 昨年、2・25天神峰現闘本部裁判で「仮執行宣言」=本部解体の道を粉砕され、団結街道閉鎖、第3誘導路建設開始を強行しながら、市東孝雄さんの実力決起を軸としたこの1年の三里塚の闘いは「反戦の砦」に相応しく、「成田空港ハブ化」の攻撃をぶっ止め、勝利してきたのです。

 今年に入って、菅政権は、第3誘導路建設の本格工事に着手するとともに、日米合意の意志として、沖縄東村・高江ヘのヘリパッド建設を強行し、成長戦略の目玉である原子力政策の成否をかけて自ら設置許可を下していないにもかかわらず、山口県上関への工事に、海上保安庁の部隊を前に出して着手した。そして、天神峰現闘本部裁判控訴審において、法廷後の記録、調書を偽造してまでして「5・20判決」を強行しようとしている。これは昨年出来なかった現地闘争本部の解体を持って一気に三里塚闘争破壊、成田空港完成、拡張への悪辣な攻撃を開始しようとしているということだ。

 「成田空港の位置の低下」論によって三里塚闘争の現在を語ることは、不十分とはいえこれまで述べてきた日本の航空政策の流れと菅政権の立ち位置から見て決定的に不十分であると私は考える。「完成できない」待機論への道を開けるものとして、批判せざるを得ない。

 3・27三里塚全国総決起集会が向かっている情勢は、以上のことからも明らかなように、「反戦の砦」を掲げた三里塚闘争45年をかけた決定的な決戦情勢となっている。東北関東大震災という被災者にとって、人民すべてにとって深刻であるとともに、この国を変える絶対的な機会ともなっていることからも、反対同盟が呼び掛ける「闘いの中から被災者救援を取り組もう」という提起は決定的に重大だ。まなじりを決して、3・27全国集会に総決起しよう!

 折に触れてこの「試論」を詳細に論じて膨らませていくことが出来ればと念じていますが、まだまだ資料不足は否めず、皆さんからの批判の声を期待します。

|

« 2011とめたいんや戦争!守るんや命!3・21行動 | トップページ | 3・27三里塚全国総決起集会へ »

「日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 2011とめたいんや戦争!守るんや命!3・21行動 | トップページ | 3・27三里塚全国総決起集会へ »