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2010年12月29日 (水)

日本農民の名において収用を阻む

Photo  今年も残すところ3日を切りました。月並みなことかも知れませんが、少し今年を振り返りたいと思います。

 昨日ご紹介した萩原さんのことばに「閣議決定から44年、国策と真っ向から対決する抵抗の闘い」とありましたが、この言葉が、もっとも象徴的にこの一年を表現しているのではないでしょうか。

 戦後、日本は日米安保体制の下、米軍支配を脱し、「高度成長」と言われる「経済発展」をとげます。その(軍事を含む)政治、経済の根幹的なものとして航空政策が上げられるでしょう。それをいったんまとめあげたものが「45・47体制」「航空憲法」と呼ばれた1970年(昭和45年)の閣議了解、1972年(同47年)の運輸大臣通達だと言われています。それは非常に保護主義的性格の強いものでした。この過程で、成田空港、そして関西空港のプランが打ち出されたのです。「羽田・国内―成田・国際」の分離政策は、その保護主義の故にありえたのです。

 しかし、この日本の航空政策における保護主義は、戦後体制の世界的破綻と新自由主義の流れの中で、早くも1980年代に「航空の自由化」の流れに取り残される事態を生み出します。世界ではLCC(格安航空)が、この過程の象徴として、早くも1980年代後半に生み出されてきています。「アジアにおける盟主」であろうとした日本にとって、その保護主義的政治体制ゆえに、正にそうした政治過程に入ったその時に、その根幹ともいうべき航空政策で決定的な立ち遅れに直面したのです。それは全日空の国際線への参入に示される幾つかの小手先の手直しではいかんともしがたい桎梏とさえ化してきていたのです。その悲鳴が、2006年の「アジアゲートウェイ構想」だったのです。しかし、巨大な利権が渦巻く航空政策に何一つ抜本的な手を打つことができずにそれ以降をすごしてきたその結果が、現在の日本航空の破産という事態なのです。日本が帝国主義として世界で、アジアで生き残れるかどうかの根幹において破綻しているという事態を「日本航空の破産」、「航空政策の破綻」は突き出したのです。それは港湾においても同じ事態が起こっており、現代の世界経済のかなめともいうべき運輸、流通の分野で日本が3流、4流の力しか持たないことを示してしまっているのです。

 05 政権交代という歴史的事業を成し遂げたはずの民主党政権が、こうした恐るべき事態を官僚から、帝国主義として存在し続けるために突きつけられ、この5月に「アジアゲートウェイ構想」の焼き直しでしかない「成長戦略会議」の「構想」を打ち出さざるを得なかったし、「日米合意」だったのです。1945年の敗戦という事態を経ながら、結局は、基軸的な警察、軍隊を始め官僚体制をそのまま引き継ぎ、民主党政権も含め民衆支配という意味での政治体制は何一つ変わることなく今日まで来てしまったことの端的な表現が、今「坂の上の雲」が、司馬遼太郎がもてはやされる理由ではないのでしょうか。

 それ故に、民主党政権は、正に危機感に駆られ、この1年、自民党政権以上の強権的な、強暴な成田空港の完成、羽田の国際化(羽田・成田の一体運用)の道に転がり込んできたのです。「成田空港の地位の低下」への地元財界、自治体などの危機感をむしろ「チャンス」として使い切り、正に帝国主義としての存亡をかけた航空政策として成田空港完成(拡張)、反対運動潰しに全力を挙げてきたのです。いかにそれが展望のないものであろうとも、そこにしか道がないとして三里塚反対同盟に、三里塚闘争に襲い掛かってきたのです。この点を絶対に軽視してはなりません。

 44年間、「国策」を相手に闘いぬき、70年代の多くの農家の条件派への転落、80年代から90年代の「3・8分裂」を契機とした分裂をも潜り抜けてきたからこそ、そして70年代の「東峰十字路事件」を口実とした弾圧を始めとした幾多の国家権力機動隊による弾圧と脅しをはね返してきたからこそ、三里塚反対同盟は、この強暴な新たな攻撃の始まりに一歩もたじろぐことなく、また遅れることもなく、2・25天神峰現闘本部裁判反動判決の攻撃を実力ではね返し得たし、5・17の市東孝雄さんの実力決起を軸に決起し、この1年を闘いぬいてこれたのです。それは日本共産党との決別に始まり、最初の写真にあるように「日本農民の名において収用を阻む」と、農民として、農民運動として国の国策に真っ向から反対しぬいてきたからこそできたのです。

 24 三里塚闘争が「過激派の運動」と言われるほどに労働者、市民の支援との団結によってこの44年支えられてきたことは事実です。しかし、その軸に、反対同盟農民がどっかと座り、今日、「TPP粉砕へ、260万農民の先頭に立ちます」と言い切れる主体として存在し、闘いぬいているからこそ、それは可能だったのです。

 先日、ブログ「旗旗」で、草加さんが「三里塚に関する自己批判(と要望)」という一文を書いておられますhttp://bund.jp/modules/wordpress/?p=7037。この12月12日にたまたま彼にお会いしたときに、彼の雰囲気があまりに重いのに怪訝に思ったのですが、この一文(12月18日にアップ)を読んで理解できたような気がしました。三里塚闘争が置かれている現局面を理解する上で、貴重な一文だと思います。できるだけ多くの方が、読んでいただければと願います。しかし、三里塚闘争を語るときに、もっとも肝心要の「三里塚闘争とは何か」という点での、この一年の「国策」と対決しえた、そして45年目の闘いに突入した三里塚農民のありようへの視点が、ここで書かれていることへの視点がそこには欠落しているという点で、非常に残念なものになっているように思うのです。「国策」と対決しぬくことを通して築いてきた三里塚闘争の歴史という点で、反対同盟の農民にとって「3・8分裂」とは何だったのかということを欠いたまま、反対同盟を、三里塚農民のありようを語ることはできないのではないかということにもなると思います。それほどに「3・8分裂」とは、反対同盟にとって正に「国策」に対してどう闘いぬくのかをめぐっての深刻な論争であり事態だったのです。それは、その後の今日に至る27年、あるいはこの一年の闘いが物語っていると思います。もちろん、この一年の三里塚の厳しい闘いの中に草加さんご自身が終始身を置かれていたからこそ書けたのだとは思いますが。 (続く)

 

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