一昨日、千葉市文化センターで「市東さんの農地取り上げに反対する会(以下「市東さんの会」と略)」が主催して、「『百姓としてこの地に生きる』 市東さんと語ろう ― 12・12映像&トーク、農民パネルディスカッション」が、約100人の参加で開かれました。関西からも2人が参加。
全体司会は足立満智子成田市議(「市東さんの会」事務局)が勤められます。 「市東さんの会」の共同代表の井村弘子さん(右写真)からの開会のあいさつの後、「今年の異常気象と降ってわいた市道閉鎖の権利侵害」と題する31分の映像が上映されました。この異常気象の中での市東さんの営農の様子と営農破壊に対する闘いの様子が詳しく映され、関西でも使いたいなと感心。上映中から、「市東さんの会」の事務局の三角忠さんと吉川洋千葉県議が、市東孝雄さんにいろいろと聞いていかれます。
まず市東さんから10年前にもどってくるまでの、焼き鳥屋での20年の勤めの経緯や、普通に農業をやっても食っていけないが、「産直」でやっていけば何とかなるという萩原さんの勧めなど、日ごろ聞けないお話しが。頭で考えることと現実は違い、慣れるのに3年かかったとも。種のまきどころと野菜の成長、そして収穫がピタッといったときにほんとにうれしいと。そして種をまけばできるってもんじゃないと。 今年のサツマイモは、食べれば食べれるんだが4割を捨てたと。そしてTPPなどに関連して、「食」っていうのはほんとに大事だし、それに従事する人がもっと声を上げるべきだとも。そして最後に、「『金をもらって畑をどこかに移せばいいんだ』とよく言われます。土というのは上土だけ移して、よそでよくなるかというとそうじゃない。土地や土はどこへも持っていけない。その土地のものだ。親の遺志を継いでやるとかいうのじゃなくて、自分なりに闘争しながら土地を守っていく、そういうことを強く感じています」と熱く想いを語られ、話しをまとめられました。
その後、反対同盟顧問弁護団を代表して大口弁護士から市東さんの農地裁判の報告があり第1部を終了。
休憩の後、第2部は、4人の専業農家による「農こそ公共―市東さんの農地問題から農業の大切さを考える」と題したパネルディスカッションです。
坂本進一郎さん(右写真)は秋田県大潟村で、今は11町歩、1400俵の稲作農家。今年は戸別補償130万円を受けても170万円の減収だったとか。国の政策は血が通っていない。今や農業はあるのかないのかわからない状態だと語られます。
知花盛康さん(左写真)は、今は島ラッキョウ単品を作られ、すべて東京に出荷しておられます。最初は、50品くらい花を作っていたが農薬で体をこわし、85年ころに返還された残波岬の農地にハウス団地を作り、そこでいろいろなものを作ってきたと。「何を作ってるんだ」と聞かれると「借金を作っている」と冗談を言うのだと。読谷では米軍支配下で95%の土地が基地に。復帰後も73%が基地だった。
小川浩さん(右写真)は、千葉県匝瑳市で30町歩の稲作農家。80人くらいの人から150枚くらいの田んぼを借りている「大規模な小作人」と言われました。 10町歩を戸別補償の対象としたが、その部分だけで108万円の減収だという。コメの価格の下落は「担い手」がやっていけるかどうかの瀬戸際に来ているとも。
鈴木謙太郎さん(左下写真)は、当初は反対同盟でも最も強い地区だったが、成田用水をめぐって自分一人になっていると自己紹介。東峰と違い古村で、自分で8代目、産直を初めて28年になるとか。戸別補償には無縁だが、今年の異常気象、とくに7、8月の高温は観測史上でも初めてで、キャベツ、ブロッコリー、白菜は自家消費分しかできなかった。
それぞれまったく違う形態の農業なのでかみ合う論議にはなかなかなりません。
現在問題となっているTPPについては、みなさん強い反対の想いを語られました。坂本さんは「本来生活が先にあるべきなのに、貿易が先にあり、農業を金儲けに代えようとしている」と。知花さんは、具体的数字をあげながら、「波及的部分も加えれば、沖縄では1262億円の損失が起こり、農業(子牛や養豚も加え)は壊滅的な打撃を受ける」「怒りが足りないのではないか。沖縄に基地を押し付けたのはヤマトだ。その上、こんな事態を押し付けるのか。絶対に私は許さない」と。鈴木さんは、「その前にやることがあるだろう。ブルドーザーで日本の農業をつぶしていくようなものだ」と。小川さんは、「これまでもアメリカからのでんぷんの輸入、オレンジ、牛肉でそれぞれの分野がダメになった。今回の千葉県の試算でもコメの9割がダメになり、残った1割も6千円前後になる。1万円でもあわないと言っているのに、これでどうやって再生できるというのだ」「農業の存廃がかかっている」と。
最後に司会から促されて、知花さんが小学校6年生(1959年)の時の体験として、宮森小学校の校舎に米軍のジェット機が墜落し、その手前の家々がジェット機の噴射した炎で焼かれ、小学生を中心に17人の命が奪われ、200余名が負傷したその煙が出ている現場に駆け付けた模様を話されました。この時も沖縄国際大学へのヘリ墜落(2004年)と同様、学校のまわりにはロープが張り巡らされ、誰も近づけなかったと。そして「米軍基地の中に住んでいる沖縄で、平和な小金の花咲くような土地に基地を変えていきたい」とまとめられました。
会場からも何人もの質問が行われましたが、最後に井村共同代表が立って、戦時中の「農業をやる人がいなくなって、コメがなくなり、5人家族で3日に1合のコメの配給。一日、サツマイモだけを食べるような暮らしだった」「人が食べるものがなく餓死するようなあの時代を繰り返してはならない」「もっともっと農民、農業を大切にすることが必要だ」「我々はもっと声を出さなければだめだ」と訴えられ、まとめとされて、パネルディスカッションを終えました。司会(コーディネーター)を務められた「反対する会」事務局の林伸子さん、大変な難役を、本当にご苦労様でした。
集会の最後に、「群馬・市東さんの農地を守る会」から報告が、そして「反対する会」の会計の小川さんからまとめと訴えがおこなわれて、3時間半にわたる集会を終えました。みなさん、ご苦労様でした。
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