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2010年11月 2日 (火)

三里塚現地調査

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 昨日、三里塚の現地調査にお2人を案内してきました。1人は、先日、10・10三里塚に初めて参加されたカメラマンのSさんで、ここ数年、バングラディシュやカンボジアなどで農民の暮らしを軸に活動を続けておられます。もうお1人は、全く目が見えない中で「障害者」解放、三里塚に取り組んでこられたKさんです。

 前夜現地に入り、市東さんのところに泊めていただいたのですが、夜中のすごい雨音に「明日は大丈夫だろうか」と目が覚める。しかし、市東さんとゆっくりとお話をさせていただきながら飲んだ泡盛が効いたかよく眠れて、朝、起きると青空が一部に覗いていて、思わず「ほっ!」。7時前なのに、反対同盟の宣伝カーがもういない。市東さんのお話しでは先週から、月、水、金と東京高裁前での「天神峰現闘本部裁判控訴審」で不当な訴訟指揮をちらつかせる井上裁判長への抗議の街宣に出かけたとか。思わず、身が引き締まる。

 萩原進さんの車をお借りして、成田駅にお2人を出迎え。実は、現地調査で梯子を上るところが3か所あり、Kさんをどういう風に案内したらと心配していたので、まずそれを聞くと「手で触れれば大丈夫です」と明快なご返事。あとはご本人に任せようととりあえず胸をなでおろす。091111

 まずは市東さんのところへ。電車が遅れた関係で、着くとちょうど10時のおやつの時間で、現闘の皆さんと一緒に台所におられたので、しばらく歓談。Sさんのバングラでの話しにみなさんが興味を示された。雨季になればあたり一帯が冠水するような地域なのに、アメリカ型の地下水を汲み上げての農法によって、地下のヒ素が溶け出して、貧しい農民に被害が、という話に引き込まれました。お仕事の邪魔になってはと、話しを打ち切って調査に。

 最初は、市東さんの自宅前の畑の誘導路脇の監視台に。Kさんが上手に梯子をあがられ、私などがよく頭を打つバーも難なくこなして台の上に。「すごいなぁ」と、その「運動神経?」に思わず感心。監視台から夏を過ぎて東峰神社の立木がすくすくと育っているのが手に取るようにわかります。2メートルを超えたかな?(右上写真は、昨年秋のもの)これで、滑走路は5メートルから10メートルは短くなっているはず。 ここからは「へ」の字部分が非常によくわかる。正面に見える第2誘導路や、第3誘導路の問題を説明。Kさんが、誘導路を自走するジェット機の異様な音に「気持ち悪い音だ」と早速反応。市東さんが、自走するジェット機の音の方がひどいと裁判で証言されたことを紹介しながら、音に対して敏感なKさんに感心。10111_2

 それから団結街道の封鎖と第3誘導路工事を監視している西側の監視台へ。第3誘導路計画の位置関係を具体的に説明。Sさんが、写真をしょっちゅう撮りながら、具体的に聞いてこられる(これは最初から最後まで)。団結街道の歴史、1910年ころの日露戦争後の不況の中で、天皇財産の放出。天神峰部落の入植と開拓。市東市太郎さん(孝雄さんの祖父)が入られた時の様子などを話す。

 先日デモをした道を通って南台の畑へ。市東さんが草取りをしておられた(左写真)。具体的に、畑の位置と農地裁判での「41-9」問題を説明。機動隊員が、監視台にあがってこちらの様子を窺っている。さらに天神峰現闘本部の裁判の話しと成田治安法問題などを話す。

 東峰神社に。立派に育った立木を前にしながら、2001年6月の空港会社、機動隊による立木伐採の暴挙と、裁判、そして反対同盟の全面勝利によって、新しいお堂と鳥居ができたことを話す。また、開港直後の2003年1月の全日空機B767のスリップ事故の話しも。本当に恐ろしい空港だ。さらに、この神社の由来、東峰地区の戦後の入植、開拓の様子を、萩原さんの話しを交えながら説明。

 そこから東峰十字路近くにある、滑走路に50メートルと迫る開拓道路へ。この空港の異様さが感じ取れる場所だ。ここでは当たり前のようにある2重のフェンスが、沖縄や岩国の米軍基地でさえないことも話す。「我々がフェンスの中に空港を追い込んだのだ」という萩原さんの話しを思い出す。着陸しそこなって慌てて上空に上がるのを何度もここでは見るが、初めて来たパイロットにとって、滑走路間際に迫る東峰神社やこの開拓街道に驚いての結果ではないかと思う。

 それから東峰墓地へ。ここでは自然と大木よねばあさんの話しになる。よねばあさんの墓の椿の木が新しい花の芽をつけてうっそうと大地に根付いている。Kさんが手で触って驚いている。島村さん、萩原さんの木の墓標にも手で触りながら、戦後の開拓部落の話しや、市東東市さん、島村良助さん、そして大木よねばあさんといった貧しい中で闘いを貫いたこと、戸村精神のことなどにも話しがいく。

 それから萩原さん宅に。作業場でしばらくお話しをお聞きすることができた(最初の写真)。Sさんのバングラディシュの農民の様子から、「どこでも農民が食えなくなっている」「人間は土によって生かされているのだ」といったお話しや、地下水の話しなどが次々と。「時間が押していますので」と想いを残しながら次へ。車で、東峰の森の奥へ。北原さんの一坪と萩原さんの清水の畑で第2誘導路が100メートルの幅しか取れなかった一番奥の場所に。この森が東峰の住民の生活と営農にとってなくてはならない「入会」の森であることなどを説明。0806_2

 それから横堀へ。横風用滑走路の北側部分のど真ん中にそびえる鉄塔と横堀の小屋。岩山大鉄塔をご存知の人なら見たことがある金城実さん制作の「闘う農民像」がここに飾られている(右写真、像の左に鈴木加代子さん。08年撮影。奥にぼやけて見えるのが貨物ターミナルと第2ターミナル)。ターミナルからはこちらが見えないようになっているが、成田空港の破たんが最もよくわかる場所だ。Kさんが「何か工事をしているのですか」と。ターミナルビルとこちらの中間地点で大掛かりな工事がされている。誘導路の補修だろうか。それとも最近言われているLCC専用のターミナルビルの工事かな?

 それから菱田の郷へ。途中の道で転向してしまった秋葉某とすれ違い、驚く。大看板の前で、1984年前後の成田用水闘争、「敷地内を裏切れない」と一人になるのも辞さず闘いぬかれた鈴木幸司さんの話しや、「用水攻撃」の悪辣さに話しが自ずと行く。ここでもKさんが「水が流れている音がする」と。日頃水のないところにきれいな水が流れている(後で、鈴木謙太郎さんに確かめたら、昨夜の雨で山から流れ出ているとのこと)。

 それから鈴木さんのお宅に。謙太郎さんとしばらく話す。加代子さんは、9度以上の熱で臥せっておられるとか(昨日の「農家便り」にさっそく書いていただいている。「元現闘さん」とはKさんのこと。「援農あんま」で各同盟宅をまわられたとか。加代子さんが鈴木家に入られたころ、用水闘争直後の頃に伺ったのだそうだ)。昨夜の雨で畑が水を含んでしまい、機械が沈んでしまうので里芋の畑で仕事ができないと言っておられた。天井にある、「蚕棚」にSさんが興味を示し、Kさんが「触りたい」と言われるので、謙太郎さんが降ろしてくださった(左下写真)。凄いほこり。戦後すぐのころまでやっていたそうで、これを100枚近く、座敷の畳を上げてそこに住んでもらったとか。まさに「お蚕様」だと実感した。10111_3

 それから岩山記念館に。ここではちょっと迷いながら、たどり着く。下にある団結小屋に一人で住んでおられるTさんが出かけているのか、いつもある車がない。記念館の屋上に。そこで、鉄塔決戦の話し、1977年5月6日のだまし討ちによる鉄塔破壊の攻撃の様子を話す。そのあと三里塚に来るようになられたKさんも、これは知らない。Sさんは、飛び上がっていくジェット機の写真を。Kさんが「大きいジェット機は低周波の音がすごい」とうめかれる。やはりすごい音への敏感さだ。

 最後に、北原鉱治事務局長宅へ。突然にもかかわらず、上げていただき、お話しを伺うことができた。「尖閣列島」のことなどから「きな臭くなっている」と語られ、労農連帯を軸に頑張っていかないといけないとも。11月4日には、韓国の労働組合が43人も三里塚現地に入るのだとも。予定をすでに大幅に過ぎていることをお伝えし、お話しに心を残しながら失礼しました。

 それから急いで萩原さん宅へ。萩原さんに成田駅まで送っていただいて帰途に。久しぶりの、充実した現地調査ができました。

 話しをするのに夢中で、写真をほとんど撮れなかったのが残念。

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コメント

現地調査はライブ。毎回違う話が聞ける様子がわかります。
それに、変わっていく現地。
久しぶりに私も現地調査に連れて行ってもらいたいと思いました。

投稿: でっかい | 2010年11月 2日 (火) 14時25分

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