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2010年11月30日 (火)

沖縄県知事選挙闘争に行って

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 24日の昼から出かけ、沖縄県知事選挙の最後の3日間と投票日を沖縄で過ごし、昨日夕方に帰ってきました。結果はご存知の通り非常に残念な敗北に終わりました。(最初の写真は、27日夜の新都市での最後の決起集会が開かれる前の様子。)「沖縄の未来を拓く市民ネット名護」の皆さんとずっと一緒に動かせていただきました。

 101125 25日(木)は、まず7時ごろにキャンプシュワブ前の座り込みの現場に。6月に伺った時には120枚余りだった全国からのいろいろな横断幕、激布が、160枚を超え、キャンプシュワブの金網に張り付けるのに30分近くかかります。終わりころに、宜野湾の市長選挙の応援に駆け付ける前の稲嶺進名護市長が、この現場に駆けつけ、参加していた40人余りの一人一人と握手(右写真は、嘉陽のおじいと稲嶺市長が握手)。

101126  それから那覇に向かう。国際通り、国道58号沿い、県庁前での伊波洋一候補と稲嶺市長の街頭宣伝の周りで、のぼり旗をもちながら手を振り道行く皆さんに挨拶。最初は少しぎこちなかったが・・・(左写真は国際通り、右下は県庁前で辺野古の「守る会」の横断幕も)。

 今度は、金武町でチラシのポスティング。ものすごいアップダウンに息が切れながら・・・。しかも、起伏がありすぎて、自分がどこにいるのかわからなくなり迷い子。車で迎えに来てくれてほっ。101126_2

 名護の「市民ネット」の事務所で一休みした後、その近くの交差点で夕立ち。手を振ってお辞儀をするのだが、4~5台に1台ぐらいから手を振ってくれたり、会釈の返事が。力をもらってお辞儀がだんだん深くなる。

 26日は7時過ぎから名護の58号線の交差点で朝立ち。統一選対が中心で50人くらいかな? 終わってから名桜大学の前の交差点で「選挙に行きましょう」「伊波さんをよろしく」と。ジュゴンのパフォーマンスも。その後、名護市内のポスティングに。101127_2 一休みしてからもう一度名桜大学前で昼立ち。お昼休みの後、事務所近くのポスティング。小さいパン屋さんにおばあが座っていたので、入っていくと、厳しい表情で「誰?」と誰何される。思わず緊張しながら「伊波さんをよろしく」というと、にっこり笑って手を挙げてくれて、ほっ。最後は、事務所近くの交差点での夕立ち。

 27日は、名護の伊波陣営全体で朝立ち(左上写真、中央の手を振っているのが東恩納琢磨市議)。それから名桜大学の下宿やマンションへのポスティング。101127_4 一休みしてから那覇へ。中央選対がある事務所に集合して、時間が早すぎて休憩。三々五々に各地の「市民ネット」の皆さんが集まってきて、風船デモで、夜の決起集会が行われる新都市まで。結構長い距離のデモ。

 新都市の大きな交差点の4隅に、それぞれ黄色いのぼりや、黄色いTシャツを着た人たちを中心に、集まってくる。1000人くらいだろうか。

 101127_7 夜が遅い沖縄でもさすがに暗くなりだした6時に集会が始まった。照屋寛徳さんや糸数恵子さんなどの挨拶が次々と。遅れて駆けつけた伊波候補が演壇に(左写真)。熱気が高まり、盛り上がる。

 集会の最後に団結ガンバロウをした後、伊波候補が集まった人々の渦の中に。一人一人と握手をしていく(右下写真)。すごいうねりが交差点のそれぞれの角で起こっていく・・・。101127_8

  やっと終わったかなと思ったら、風船デモで終始「伊波コール」を続けておられたまよなかしんやさんに、ここでこそやるべきと声が。唄い始めたまよなかしんやさんの周りに人垣が。歌に合わせ踊りだす人も。子供たちも踊りだす。3曲唄い終ったところで、子供たちから「アンコール」の声。もう一曲(左下写真)。

 101127_9 それから帰ろうと車を置いている中央選対の建物に。すると、これから候補者が帰ってくるのだという。安次富浩さんなど40人くらいの方々と出迎え。奥さんと、二人の子供さんもたすきをかけて伊波候補と一緒に。4人が残っていた一人一人と握手をしていかれる(右下写真)。最後にご家族で記念写真。101127_10

 翌日は、投票結果が出るまではおやすみ。私は知花昌一さんにお会いするために「やんばる」の森の南にある山奥に、辺野古のテントの人たちに連れて行ってもらう。辺野古や高江の座り込みを続けておられる節子さんの家の屋根が台風で飛んでしまったので、皆さんで茅葺をやりなおしておられるのだ。

 行くと、少し遅れて知花昌一さんと知花盛康さんもお孫さんと一緒に。合わせて10数人が集まってこられた。101128 命綱をつけて屋根の上に上がり、下から茅の束を上げて、横木を置いてひもで固定していくのだが、初めての私には物珍しく、必死でお手伝い。周りに生えている茅を切ってきて束ね、そのまま上にあげていくから重いこと(右下写真は束ねられた茅)。

 昼休みに、昌一さん、盛康さんと三里塚の現状などを報告し話し合うこともできて、沖縄行きの一つの大事な仕事が済んでほっ。夕方、作業が終わるころには疲れでふらふらに。101128_2

 それから名護の「市民ネット」の選対事務所に。安次富浩さんを始め、長い選挙戦を闘いぬいてこられた皆さんが集まってこられる。結果は、予想外の投票率の低さで、残念ながら伊波候補の敗北だ。宜野湾市長選がかろうじて勝利したことで、踏みとどまることはできた。

 最後に安次富浩さんから、「我々は負けているわけではない」「おじい、おばあの悔しさをばねに明日からの闘いをやろう」とのまとめがあり、散会した。

 敗けた悔しさはありますが、名護の皆さんの支えと励ましで、楽しい4日間を過ごすことができ、沖縄の新基地建設反対、普天間基地即時撤去の闘いへの大きな私なりの足掛かりを作れたことを強く感じながら帰ることができました。ありがとうございました。しかし、今日も体の節々の痛みと疲れが残っています。

 (追記)選挙の総括的なものは自分の荷ではないと思い、絵日記的な報告となりましたが、目取真俊さんのブログ「海鳴りの島から」http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/03ba127a33693bdf23843a04e4d0ade5に、当を得た総括的な内容と提起がされていますので、ぜひご覧ください。

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2010年11月24日 (水)

実行委ニュース 別冊発行

101120_2 関西実行委員会の機関誌「実行委ニュース」の別冊号が、先日20日に発行されました。この9月19日、沖縄の名護ヘリ基地反対協共同代表の安次富浩さんを招いて大阪で開かれた「三里塚と沖縄を結ぶ集会」のすべてを報告した「報告集」です。是非、お読みください。詳しくは、当ブログの連絡先、「関実」事務局へお問い合わせください。

 とりわけ、今週末28日投票というかたちで、現在沖縄で進んでいます県知事選挙に対する沖縄の皆さんの代表的な想いが、安次富さんから詳しく語られています。

 さて、昨夕以来テレビ、ラジオで、そして今朝の新聞各紙で、「北朝鮮、韓国に砲撃」とにぎにぎしく報じられ、日本政府は直ちに「許しがたいものであり、北朝鮮を強く非難する。韓国政府の立場を支持する」(朝日新聞)と声明を発表しています。私(管理人)も、死者や様々な住民への被害が双方に出た事態を憂え、「戦争行為」に強く抗議するものです。しかし、政府の声明や、マスコミの論調には大きな懸念を表明せざるを得ません。

  これも詳しくは事実が明らかにされないまま、大きな問題となったことですが、韓国の哨戒艦が沈没したとき、「朝鮮民主主義人民共和国(以降『共和国』とする)の潜水艦に撃沈された」と大騒ぎになりました。この時、この海域では米韓合同軍事演習が行われており、その海域に共和国の潜水艦が気づかれることなく近づくなど不可能ではなかったのか。またすぐ近くでアメリカ軍の潜水艦が同じときに沈没したと言われています。こうした事実を何一つ知らせ、検討されることなく、日本のマスコミは「北朝鮮がやった」と一方的に報じ、それ以降、「北朝鮮脅威論」が大手を振り、その後の「尖閣列島問題」と相まって、「抑止力論」が跋扈した経緯を思わざるを得ません。

 101124_2 私たちの国は、日本軍(関東軍)の自作自演による「盧溝橋事件」を作り上げ、満州、中国への侵略、15年戦争、敗戦へと流れ込み、2千万人といわれるアジアの民衆を殺戮した歴史を持ち、当時のマスコミが軍部と政府の発表をのみ一方的に大宣伝し、国民に事実を知らせなかった歴史を持ちます。

 今、知事選挙が行われている沖縄では、この春まで「米軍基地撤去」が県民の8割の意見であると同時に「日米安保はいらない」という意見が圧倒的でした。しかし、「尖閣列島問題」以降、「抑止力論」が幅を利かし、「日米安保支持」が増えてきたと聞きます。これを利用し、自衛隊の「与那国島への配備」を切り口とした沖縄への自衛隊の2万人配備が目論まれています( 「海鳴りの島から」http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/f2f05f48e95629d854aebdff61d8512f参照)。この流れが、仲井真候補(現知事)の知事選挙での初期の優位を生んだと言われています。伊波洋一候補とともに仲井真候補も普天間基地の「県外移設」を言っているように伝えられていますが、仲井真候補は決して「県内移設反対」を言おうとしません。明らかに選挙に勝つために「県外移設」と言っているにすぎません。こうした選挙でのペテン、インチキがこれまで沖縄で、名護でどれほど繰り返されてきたでしょうか。

 こうした政府やマスコミによる政治、世論操作の誤り、愚を繰り返させてはなりません。徹底した日米従属のもとでの「日米安保体制」の愚を改め、なによりも沖縄における米軍基地の撤去を実現していくことが必要です。アジアでの本当の意味での友好善隣関係を構築し、平和を希求していくためには、私たちヤマトにとっても今回の沖縄の県知事選挙は決定的な意味を持っています。前宜野湾市長である伊波(いは)洋一知事の実現を何としても勝ち取り、米軍基地撤去、「日米安保はいらない」という流れを築いていかねばなりません。昨夜来のマスコミによる独断的な共和国への「バッシング」 を見るにつけその思いを強くしています。

 

 なお、今日から、数人の人たちとともに沖縄の県知事選挙のお手伝いに沖縄に行きます。26日の三里塚の市東孝雄さんの「農地法裁判」「行政訴訟」が気がかりですが、逆方向に行ってきます。沖縄現地で、パソコンが借りれれば、沖縄の様子などお伝えしたいと思いますが、29日まで、お休みするかもしれません。残された日はあまりありませんが、みなさんの周りでも、できることを、伊波(いは)洋一沖縄県知事誕生に向けて取り組まれる事を願ってやみません。

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2010年11月22日 (月)

関西空港反対集会とデモ (11月21日)

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 昨日11月21日、暖かい快晴に恵まれ、関西空港に反対する集会が、大阪の海と空を戦争に使わせない会(略称「海と空」)、淡路町空港反対同盟、関西新空港反対明石住民の会、新空港反対東灘区住民の会の4団体が呼び掛けて、大阪ナンバの浪速公園で開かれ、65人の皆さんが集まられました。

 101121_2 集会司会は、「海と空」の長澤さん。「大阪全体の問題として、大阪のど真ん中で初めて集会を開いた」とこの日の取り組みの位置づけを明らかにして開会。

 「海と空」代表の青木道夫さんが、主催4団体を代表してあいさつ。まず「海と空」を昨年秋に結成して以来、淡路の永井満さんを招いての関空闘争の歴史の学習、大阪大空襲の跡地の見学会、大阪港の中国人強制連行など軍都大阪についての有元幹明さん(元総評港地区協議会議長)を招いての学習会、この11月には関空二期島の見学などを行ったこの一年の活動を振り返った。その上で、不等沈下し広大な荒れ地として放置されている二期島に9千億円が投入され、関空全体で依然として1兆3千億円の負債があることを批判した。101121_3 そして民主党の成長戦略会議として、「島ができているんだから」とばかりにLCC(格安航空)の導入など、「カネ、モノ、ヒトをつぎ込んでいけば何とかなるんだ」と空港の利権に群がる連中のために、淡路の騒音問題や、泉佐野市の財政破たんに象徴されるように住民のことなど一顧だにしないで、巨額の税金が今もなお投入され続けていることを糾弾した。そして「大阪空港の廃港」を手始めに、「沖縄の負担軽減」を口実に米軍の訓練機能の関空への誘導など軍事空港への道を宣言するなど、大阪府知事橋下のこの間の言動を批判して、あらためて大阪で関空反対の取り組みをしていくことの意義を訴えたのです。101121_4

 連帯あいさつの冒頭、神戸空港の中止を求める市民の会事務局長の白石さんは、神戸空港の財政破たんと海の破壊を報告して、空港を廃港し、護岸を取っ払って元の海に戻すまで共に頑張っていきたいと訴えた。風をおこす女の会からは、女性に対する貧困と暴力が吹き荒れている現実を指摘する中から、「在特会」などに負けることなく、水曜行動、意見書採択運動を行ってきた中から、この11月25日、日本軍「慰安婦」問題を立法によって解決を求める120万署名の国会への提出行動を、ハルモニたちや韓国の国会議員とともに行うことが報告された。101121_5 続いて立った関西合同労組大阪支部からは、関空闘争は橋下打倒闘争抜きには語れない、そして橋下打倒闘争にとって関空闘争は重要な一環であると訴えられた。「大阪維新の会」の動きは、「大阪都構想」など大阪を破壊する独裁者に橋下がなろうとする策動だと糾弾した。そして真っ向からこの橋下を批判し打倒していく闘いが必要だと訴えた。そしてとりわけ教育への橋下の攻撃を批判し、12月19日、教育労働者を中心にした橋下打倒の集会が開かれることを訴えた。

 ここで、三里塚芝山連合空港反対同盟からの「三里塚と関西をはじめとした住民の力、そして闘う労働者・農民の力を結集すれば、関空、成田の軍事空港化は必ず阻止できる」との力強いメッセージが司会から代読して紹介された。(「10.11.21反対同盟メッセージ.pdf」をダウンロードここをクリックしてご覧ください。)

 101121_7 ここで、「気分転換に」と司会に促されながら、高槻医療福祉労組執行委員長の吉岡一彦さんがギター演奏と歌を披露。なかなかの熱演でした。吉岡さんは、この後、1時間余りのナンバ中心街に向けてのデモの間中、デモの最後尾で歌と演奏を続け、道行く人々の注目を集めた。その迫力に脱帽。

 さあ、リレートークです。最初に立った淡路町反対同盟事務局長の安藤さんは、「今日は関空闘争の第3ステージの初日だ」とこの日の闘いを位置づけた。第1は、1968年淡路に始まる兵庫の住民を軸にした闘い。第2は、1994年9月の開港以来の泉州での闘い。改めて、今日を起点に大阪にもう一度関空反対の大きなうねりを生み出そうと訴えた。そして私たちの「生き血を吸って」延命しようとする彼らに、私たちこそが「頂門の一針」を刺すことができる。101121_8 「絶対に廃港にしよう」と。

 続いて関西新空港反対明石住民の会のTさんから、冒頭、三里塚への連帯、そのために年末団結野菜市への協力が訴えられた。そして「自衛隊は暴力装置だ」という民主党幹事長の国会発言を「よくぞ言ってくれた」として、「自衛隊は軍隊だ」と。ご自分が幼かった時に明石、そして川崎航空への空襲があったことを引き合いに出しながら、戦争の被害者性と加害者性、その延長としての沖縄問題を訴え、「強い気持ちを持ってこの大阪湾を二度と戦争に使わせない」ように頑張ろうと訴えられた。

 新空港反対東灘区住民の会のAさんからは、この日の前日発表された関空と大阪空港の統合事業運営会社の設立問題に対して、国が100%出資して関空の借金の面倒を見ようとするものでしかないと糾弾。すでに投入された補助金だけでも705億円にもなり、この金があればどれほどの福祉ができただろうかと指摘。101121_9 そして関空で新たな利権づくりをやろうとしている、そして軍事使用への道を開けようとする橋下大阪府知事への怒りを表明した。

 最後に、この間の滋賀県警による携帯電話の名義をめぐって行われた不当な逮捕をされた障害者解放委員会のSさんから、不当な弾圧に対する怒りと支援への謝辞が述べられた。

 ここで、橋下大阪府知事への抗議の申し入れを前提とした「集会決議(案)」(「10.11.21集会決議.pdf」をダウンロード)が司会の方から読み上げて紹介され、全員の拍手で採択された。

 101121_10 最後に、淡路町空港反対同盟代表の永井満さんから集会のまとめが。冒頭、「大阪のど真ん中で関空反対の集会が開かれたことは大変な歴史的な出来事だ」とされた。その上で、大阪湾を包囲する湾岸住民の闘いを42年にわたって発展させてきた淡路の闘いを振り返られ、1971年の自らの三里塚での体験と、闘い劈頭の故・戸村一作委員長や北原鉱治事務局長をはじめとした三里塚反対同盟の多くの皆さんの力によって淡路における「一坪運動」などが勝ち取られたことを触れて、関空闘争は三里塚反対同盟が作り上げたとさえ言えると語られた。そして、「今日は原点だ」「原点から闘いは広がっていく」「確信をもってこの運動を広げていこう」と呼びかけられ、「関空を軍事使用させるなど絶対に許せない」と核心を提起された。

 101121_11 最後に「海と空」の皆さんで、一生懸命準備したカラフルなプラカードによるシュプレヒコールの練習が予定されていたのですが、デモの時間が来たということで省略。めっちゃ残念!

 本当に気持ちのいい晴天のもと、いよいよデモに出発。最初の内こそ人通りはまばらでしたが、日本橋に近づくころから歩道には休日ということもあり、たくさんの人が。101121_12 65人で、どんなデモになるだろうかという主催者の心配をよそに、人々の注目を集めながらデモがナンバまで1時間余りをかけてやり抜かれました。

 解散地点で「海と空」の代表の青木さんからまとめの挨拶があり、団結ガンバローを全体でやって終わりました。

 参加されたみなさん。本当にご苦労様でした。

 

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2010年11月21日 (日)

「私たち抜きで、私たちのことを決めるな」(11月17日)

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 11月17日、衆議院厚生労働委員会において、「障害者自立支援法」の改訂案が国民年金法改正案との民主党、自民党の取引という形で、6月に廃案になったものとほとんどそのままに提出され、審議もなく可決されるという暴挙が強行されました。

 101117_2 この日、午前10時に新装なった(あまりの豪華さに、「税金の無駄遣いだ」と怒りが)衆議院第1議員会館に集まって、「怒っているぞ!障害者切り捨て全国ネットワーク」の人たち5人と一緒に、厚生労働委員の議員の部屋に要請行動に回りました(右写真)。

 それから国会議事堂正面の歩道に移り「『障害者自立支援法』を廃止せよ」というビラ配りです。時折氷雨が降る寒い中でしたが、続々と全国から障害者の皆さんが急を聞きつけて集まってこられます(左下写真)。

 101117_3 午後1時から、10月29日、日比谷公園に入りきれない1万人の集会を実現してこの民主党政権の動きに「ノー」を突き付けた「10・29全国大フォーラム実行委員会」が主催して国会議事堂正面の歩道で、600人近くが結集して緊急の集会が開かれ、次々と「私たち抜きで、私たちのことを決めるな!」と怒りの声が上げられます(最初の写真は、この集会の最後にシュプレヒコールを国会に向け叩きつけているところ)。

 集会を終えて3時から委員会審議が始まるので、多くの皆さんが傍聴に向かわれ、私たちはしばらく休憩してから、衆議院の議員面会所に。議面には、テレビがあり、厚生労働委員会の様子が映し出されています。101117_4 傍聴に行けなかった多くの皆さんが固唾をのんで画面を見つめておられます(右写真)。少し遅れて3時15分ごろ「障害者自立支援法改訂」の審議が始まりました。最初に日本共産党、そして社民党からの反対討論が10分ほど行われましたが、なんとそれだけで、賛成討論どころか一切の審議もなく採決に入り可決されたのです。そのあいだの時間、わずか14分です。画面では傍聴席の怒りの声、ヤジが聞こえてきます。

 そもそも障害者自立支援法違憲訴訟団と民主党政権(長妻前厚生大臣)との間で話し合いが進められ、「障害者制度改革推進本部」が設置され、この1月には、基本合意書が訴訟団と政府の間で交わされて和解し、「みんなで一緒により良い制度を作ろう」と「障害者制度改革推進本部」の論議が多くの障害者の代表が加わって進められてきたのです。

 ところがこの動きを無視し、自民党などによって「改訂案」が提出され、6月国会で廃案になったのです。それを国民年金法の成立を急いだ民主党政権が、自民党から改めて出されてきた(ほとんど字句もそのままの)「障害者自立支援法改訂案」を政治取引として、この日の委員会が開かれたのです。これ自体が到底許されることではありません。

 国会議事堂前の歩道で、あらためて抗議の集会が持たれました。震え上がる寒い、氷雨が降る中で、400人の人々が集まって、次々と抗議の声を上げられました。「1年も経たないうちに大の大人が、基本合意を無視する。こんなの政府じゃない」「あんなのは審議じゃない」「完全に裏切られた」「怒りと悲しみで胸がいっぱいです」と。「あきらめることなく、衆議院本会議、参議院の闘いを続けていこう」とまとめられ、この日の闘いを終えました。

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2010年11月20日 (土)

今週の産直野菜(11月20日)

101120  今週の産直野菜が、さきほど三里塚から届きました。実は、この火曜日の出荷作業を裁判の後手伝おうとして、富夫さんから「今日は手がいらないから遊んでいていいよ」と言われたのですが、手伝わせていただきました。葉物もなく品数が確かに少なく6品でした。萩原さんとも「この時期は普通だったら葉物が入りますよね」と話していました。それが頭にあったものですから、箱を開けてびっくり。3日の違いで、こんなにも違うのだ。「野菜だより」も、「1ヶ月遅れですが、これから品目が増える予定です」と書いています。

 届いたのは、里芋、ネギ、大根、ニンジン、じゃがいも(豊しろ)、ゆず、かぶ、小松菜、ラディッシュの9品です。先週現地は、雨が多く寒かったですが、届いた野菜も、なんとなくしっとりとしています。

 今週の「野菜だより」には「日常スナップ」が掲載されています。市東家のおばあちゃんネコ・オミは、泊めていただくと必ず布団の上に乗ってきて寝ようとします。朝起きると、私が動くからか、横においてあるジャケットの上などにちゃんと寝ています。萩原家のコロンは、何度も挨拶しているのに私にはいまだに吠えます。先週も。親しい人には無言で尻尾を振るのに。山本先生のお孫さんのむっちゃんにはわずか2度の出会いでじゃれついているのに。人を見るのだ・・・。

 「野菜だより」にもっともっと現地のみなさんの様子、特に野菜の様子、ダメなときも含めて知らせていただければと、期待しています。

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鈴木さんの一坪裁判口頭弁論 (11月18日)

101118 11月18日、鈴木さんの一坪裁判が千葉地裁で開かれました。

 鈴木幸司さんが逝去されたことに伴い一坪共有地継承手続きとして、「三里塚地区周辺に土地をもつ会」は、会則13条の「会員が死亡または脱退したときは、その共有地の持ち分は本会の理事会が空港反対の意思を持つものを指定して取得させるものとする」に基づいて鈴木謙太郎さんと加代子さんが継承するとしています。

 ところが原告の千葉県側代理人は、単なる個人の財産相続として処理し「全面的価格賠償方式」を適用して処理を進めたいとし、それを受けてあの天神峰現闘本部裁判で2・25反動判決を強行した仲戸川裁判長は、加代子さんの継承を認めない、つまり「土地をもつ会」所有を認めたくないという意図を露骨に示しています。この日の口頭弁論が、この点での原告、被告双方の意見を求めるという形になったため「被告」が決まらないために実質審理が進まないという事態になりました。この「土地をもつ会」をめぐる論点は、判決の時点での判断で済まそうとしていた裁判所の意図が、鈴木幸司さんの逝去でこの時点で判断を明らかにしなければならないところに追い込まれたという点で、一つのこの裁判の大きな山場になったと言える事態となっています。

 この日、反対同盟弁護団は、裁判の争点をめぐる民法学の専門家の意見書を提出し、同時に第20、21の2つの準備書面を提出し、その意見表明を行いました。まず第20準備書面では、「全面的価格賠償方式」を適用する上で最高裁が求めている「特段の事情」という点で、千葉県の根拠(土盛りしてNAAに売却する)が意図している「抽象的必要性」では「客観的合理性」は認められない。権利の乱用である。そもそも成田空港の国際機能が低下しているなどが主張されました。第21準備書面では、成田空港の貨物取扱い量のこの2年の低下の現状を指摘し、新たな貨物ターミナルをNAAが作る必然性などない、成田空港の衰退、没落は明らかであり、そもそも国交省の成長戦略なるものは希望的観測に過ぎない。101118_2 また原告側が、中曽根が「軍事使用を拒絶している」などという主張は虚偽の主張に過ぎないなどが主張されました。

 裁判後、控室で報告会が行われ、「被告」をめぐる論議によって「土地をもつ会」所有問題をめぐった重要な山場に裁判が入ったことを確認し、次回3月10日の口頭弁論の重要性が確認されました。鈴木謙太郎さん、いとさん親子の「頑張ります」という挨拶のあと、萩原進事務局次長から「次回、山場として大結集をお願いしたい」という訴えで終わりました。

 次回口頭弁論は、3月10日(木)午前10時半から、千葉地裁601号法廷です。

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2010年11月19日 (金)

団結街道裁判 第1回口頭弁論 (11月16日)

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 すでに現場から第1報を送りましたが、11月16日、千葉地裁で成田市に団結街道の用途廃止処分の取り消しを求め、空港会社に妨害物の撤去を求める「団結街道裁判」第1回口頭弁論が開かれました。市東孝雄さんの営農妨害であるばかりでなく、反対同盟の闘争拠点である団結街道への通行権を妨害しているとして、市東さんはじめ反対同盟17人が原告になっています。

 101116_2 裁判冒頭、原告を代表して市東孝雄さんが陳述を行いました。まず「道をもとにもどせ」と語気荒く、被告席を睨み付けたうえで、「1日、120台から140台もの車が使っている道をなぜ廃止できるのか」「私だけでなく使っていた人たちは納得していない」「今も、告知する看板もないために、日に4台も5台も入ってきて、閉鎖されていることを私に文句を言われる」と怒りを込め現状を訴えられたのです。

 弁護団から葉山代理人をはじめ5人が立って、訴状について説明されました。団結街道が使われてきた江戸時代からの歴史的経緯と、原因となっている「暫定滑走路」について、そもそも「円卓会議」で「凍結」されたはずのものが2002年「暫定」として供用が開始され、今ではいつのまにか「B滑走路」と表現されている国、空港会社のペテンが明らかにされました。そして3月16日の成田市議会以降の閉鎖に至る経緯の不当性を明らかにした上で、閉鎖そのものの道路法10条違反、生活権、通行権、基本的人権などの憲法違反が具体的に明らかにされたのです。

 そして市東さんを始め反対同盟に通行妨害を排除する請求権があることを明らかにするとともに、空港会社NAAは、この道路に対して無権限者であると明確にしました。さらに、740数万円という破格の安い価格決定をした成田市を批判しました。

 最後に弁護団より被告成田市に対して、成田市が「訴えを棄却すべき」とする根拠が明らかにされていないことを問いただしたところ、成田市側代理人は、なんと「原告適格を争点にする」「原告全員だ」と説明したのです。市東さんを始め反対同盟の権利を無視するこの暴言に、弁護団のみならず、傍聴席から猛然と怒りの声が上がったことは言うまでもありません。

101116_3  法廷の後、場所を移して記者会見が開かれました(最初の写真)。鈴木謙太郎さんの司会で始められ、まず冒頭北原鉱治事務局長が反対同盟を代表してあいさつをされました。北原さんは「裁判に勝って、判決で負けるというのはどういうことだ」「正義のためにどうせ人生をかけたんだろう」と参加者に呼びかけられ、「尖閣列島」問題や「千島列島」問題が叫ばれる状況を「どうみますか?」と問いかけられた。そして「65年前の日本の国が敗戦したことを思わざるを得ない」「成田空港の軍事使用は世界の戦争につながる」「成田空港を廃港にすることは日本の未来に希望を持たせることになる」と語られたのです。

 101116_4 続いて立たれた市東孝雄さんは、笑みを浮かべながら「またやってやろうじゃないかという気になりました」と想いを語られた上で、「ああいうことを平気で言う(成田市)代理人は住民無視の行政を示している」と怒りを明らかにされたのです。

 弁護団から補足的な説明が行われた後、記者などからの質問が行われました。

 そして、出荷作業があるため時間がないので、最後に萩原進事務局次長がまとめの挨拶をされました。「天神峰部落の人たちがそれまでの道路を車が行き交うことができるような道に作ってきた。便宜上『市道』になっていたが日常的に管理していたのは部落の人々なんだ」「それを壊すというのは、市東さんを叩き出す、東峰の住民を叩き出す。『あんたら市民じゃないんだ』と叩き出そうとしているのだ」と事態を明確にし糾弾されました。101116_5 北側運輸大臣の時に大臣が東峰住民に手紙をだし、「『北延伸すれば南側は買収しませんよ』と半分脅し、半分泣き言を言ってきた」と暴露された上で、これを国が「ボタンの掛け違え」と謝ったとマスコミが大騒ぎしたことに触れつつ、「これで売らなければいいんだとわれわれは喜んだ」と語られました。しかし「今、『南延伸も考えている』とNAAは第2誘導路、第3誘導路と敷地でもなかったところに敷地を拡げている」「ターミナルビルを拡げると」と糾弾し、「『20万回から30万回へ』というのも、『24時間化』も既成事実を積み上げていくこんなやり方を許してはならない」と指摘されました。そして「部落を作っている道路をつぶすというのは、家1軒つぶす以上に許せないことだ」とこの闘いの重要性を明らかにされたのです。

 この日は現地に泊めていただくために、萩原さんたちと一緒に乗せていただき、昼食を萩原さん宅でいただいた後、産直の会の出荷作業をお手伝いしてから、三芝物産に泊めていただきました。夜は寒かったです。

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2010年11月16日 (火)

団結街道裁判

団結街道裁判
先ほど団結街道の通行妨害をやめろと訴えた団結街道裁判の第1回口頭弁論が開かれました。詳しくは帰ってから報告しますが、なんと成田市の代理人は訴えそのものの棄却を求めた。理由を問われて、なんと原告適格がないというのだ。営農破壊された市東さんの人権を否定するこんな言い草が許せるか!現闘本部への通行権を奪われた反対同盟には人権がないと言うのか。裁判後の記者会見で、市東さんは、またやってやろうじゃないかという気になったと闘いへの決意をかたられ、萩原さんは、あんたがたは市民じゃないんだとたたきだそうとしているのだと怒りを顕にされました。明後日は鈴木さんの一坪裁判がありますので現地にとどまります。

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2010年11月15日 (月)

三里塚、現地を訪れて

 先日、11月1日、カメラマンの塩田亮吾さんを三里塚現地調査にご案内しました。その折の感想と写真を届けていただきましたので掲載いたします。(写真は、クリックしていただければ、少し大きく見えます。)

~三里塚、現地を訪れて~

10111  11月1日、台風の過ぎ去ったこの日、私は三里塚を再訪した。初めて足を踏み入れた10・10の集会では見ることのできなかった現場や、気づかぬままの点を質すための現場調査だ。細かな説明を聞きながらの訪問では、三里塚の現状や、反対同盟の歴史を感じることができる調査となった。(右写真「10・10のデモ行進。反対同盟の北原さんと市東さん。」)

 Photo 三里塚を歩くと、横堀鉄塔など空港としての破綻性や、違和感を覚える事が無数にあり、いくら書いても書ききれるものではない。そこで三里塚を初めて訪れた者として、象徴的に感じた点を幾つか挙げようと思う。(左写真「空港の中に突如現れる横堀小屋。四方を高いフェンスに囲まれている。」)

Photo_2 

 ご存知の通り、成田空港は高いフェンスに囲われており、内部を覗けぬようになっている場所が多い。やけに高い鉄の壁は異議を唱える声を押し込めようとするNAA(その背後にいる政府)の意思の表れのようであり、高圧的なものを感じる。(右写真「飛行機が現闘本部と畑を避け、への字誘導路を迂回してくる。」)

 2_2 しかし、私をもっと驚かせたのは空港の周りは二重のフェンスで囲まれているという事実だ。これまで在沖縄・在韓国米軍基地の幾つかを見てきたが、これ程までに厳重な警備体制を目にしたことは少ない。空港側の危機感が透けて見える。(左写真開拓道路から望む成田空港。フェンスは2重に張られ、厳重な警備を敷いている。」)

10111_3   もう一つ象徴的な事例として感じたものは、岩山記念館である。鬱蒼とした林の先に、一見して人の手が入っていないとわかる佇まい。周囲には草が生い茂り、鉄塔に上がる鉄製の階段は錆びて腐食し、いつ足が抜けるとも限らない。鉄塔の骨組みにも蔦が絡まり、その上を驚くほどの頻度で飛び立っていく飛行機。(右写真「岩山鉄塔の上空を多くの飛行機が飛び立っていく。」)

 これまで成田治安法という存在を知らないで過ごしてきたが、この法律にかかった建造物は修繕などの手を入れる事ができず、放置されているそうだ。Photo_3 1年間の時限立法とはいえ、強制的に建築物の使用するような法律が存在し、毎年更新され続けているという状況に改めて事態の異常さと、それを一般に知らしめないメディアに憤りを禁じ得ない。(左写真「デモ隊とぴったりと張り付く機動隊。」)

10111_5   延々と視界を防ぐフェンスと、デモ時の重装備で固めた機動隊の群れ。激しい実力闘争が行われてきた三里塚であるが、ジェラルミンの盾で道を塞ぐ光景には強い違和感を覚える。(私を含め)成田近隣の住民でさえ、現地の実態を知る人は少ない。(右写真「轟音と共に着陸機が頭上を飛び交う。」)マスメディアの黙殺からなる世間の無関心がこの異常な状態を許し、政府とNAAの強制的な行いを助けているのではないだろうか。

                     塩田亮吉

 3 塩田さんから届けられた写真のうちの1枚「市東さんの南台の畑。冷たいフェンスに囲まれている。」はすでに昨日のブログの記事に使わせていただきました。あと一枚が、左写真「第3誘導路建設の工事を監視する。」です。

 

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2010年11月14日 (日)

団結街道廃道取消訴訟 第1回口頭弁論が16日に

05 11月16日(火)午前11時より、団結街道廃道取消訴訟第1回口頭弁論が千葉地裁で開かれます。 

 6月28日未明、コソ泥のように空港会社NAAが、機動隊に守られながら団結街道を封鎖(右写真)し、30日には、その前提となった第3誘導路の建設を国交省が事業認可を強行。そして7月26日、千葉地裁で市東さんの耕作権裁判の口頭弁論が開かれている最中に市東さんの南台の畑(右写真「天神峰現闘本部」の先)をフェンスで囲むとともに、第3誘導路の工事開始を発表した。

 怒りなしには書けないこの過程でしたが、これに至る「団結街道」問題についてもう一度振り返っておきたいと思います。

 成田市は、2月3日、NAAとともに市東さん宅を訪れ、「第3誘導路計画に伴い団結街道を廃道にする方針であり、そのための議案を3月成田市議会に提案する予定」だと通告に来て追い返されました。そして成田市議会は、ほとんど審議をすることなく団結街道の廃道を3月16日の本会議で決議したのです。

 ここで留意すべきなのは、成田市議会には「市道」であることを廃止する権限はありますが、「道路」であることを住民から取り上げる権限はありません。団結街道は、江戸時代から地図に現れ、1910年代の御料牧場の払い下げ、天神峰部落などの入植によって、天神峰を中心に、取香、十余三などの重要な生活道路になっていました。地方自治法などの整備によってその道路の管理が国から成田市に移管はされていますが、成田市の所有物ではありません。公共工事などによって道路を廃止するには、住民の生活圏と移動の権利を守る立場から道路法によって、住民などその道路を利用する関係者の同意の書類を添付して、廃道の申請がされなければならないことが規定されています。つまり、成田市が「市道」を廃止しようと、今も1日150台の車が行き来し、何よりもそこに住む市東孝雄さんが、毎日5度、6度と営農のために使っている道路を廃道にする、当然にも「売却する」権利も資格も成田市にはないのです。

 ですから成田市が市道の廃止を決議し、2ヶ月の縦覧が終わって5月17日に「売却」の手続きに入った(これ自体が違法行為なのです)からと言って、所有もしていない(「売却」されたのは6月14日)民間企業でしかないNAAが、この日に、何の権利もないにもかかわらず「道路閉鎖・通行止め」の看板を立てることなど明らかに道路交通法などに違反する違法行為だったのです。それをとがめた市東孝雄さんを千葉県警が逮捕し、23日間も拘留し、起訴さえしようとしたことなど、到底許すことのできない違法なことであり、重大な人権侵害だったのです。この国家権力を動員した不当、不法な攻撃に対し、ハンマーでぶち壊す闘いに決起した市東孝雄さんの闘いは正当な権利の行使であり、当然の怒りの発露だったのです。ここに三里塚闘争をめぐる、 三里塚農民と国家権力との44年にわたる関係が凝縮しているのです。

 10111 すでに明らかにしているように成田市には「売却」する権利も資格もないにもかかわらず、6月14日、1坪1万円にもならない(周辺の地価相場の数十分の1)743万円でNAAに「売却」しました。冒頭述べたようにNAAは、6月27日の緊急現地集会が開かれた翌日の未明3時ごろに団結街道の閉鎖を強行し、7月26日、反対同盟、支援が裁判傍聴で出払っている隙を狙った市東さんの農地のフェンスによる囲い込みを強行し、同時に第3誘導路の着工を宣言したのです。このコソ泥的所業に、NAAの犯罪性、不当性が何よりも如実に現れています。(左写真「市東さんの南台の畑。冷たいフェンスに囲まれる」塩田亮吉さん撮影・11月1日。立っておられるのは市東孝雄さん)

 三里塚反対同盟は、市東さんの営農を妨害・破壊し、周辺住民の生活を阻害するとして7月1日「通行妨害の禁止」を求める仮処分を千葉地裁に申し立てました。市東さんの営農と生活に深刻な影響をもたらし、周辺住民の生活にかかわる緊急性を要したこの仮処分の申し立てに対し、千葉地裁はようやく10月13日になって反対同盟に対する審尋を行うという体たらくでしかありません。ここには、正に千葉地裁、裁判所が国家権力の意志を体現し、行われた「違法」を追認し続けてきた、天神峰現闘本部裁判の仲戸川裁判長や、最近の市東さんの裁判での白川裁判長に象徴される、卑劣、不当な裁判所の姿勢が垣間見えるのではないでしょうか。

 今回、明後日、11月16日午前11時から開かれる団結街道裁判第1回口頭弁論は、こうした団結街道をめぐる経緯を見るならば、6月、7月のNAAによる事態を既成事実として追認し「訴える権利はない」と門前払いが強行される恐れすらあります。

 2・25天神峰現闘本部裁判において実力決起の闘いが「仮執行宣言」を許さなかったように、市東孝雄さんと萩原富雄さんの実力決起と完全黙秘の闘いが起訴攻撃をはね返したように、そして先日11月5日、天神峰現闘本部裁判控訴審の結審攻撃をはね返したように、反対同盟を先頭に、11月16日の千葉地裁を三里塚に関わる全ての人の怒りを体現するような闘いで、審理を行わせ、団結街道閉鎖を粉砕する道をこじ開けようではありませんか。

 民主党政権は、この最中、5月17日(市東さんが逮捕された日だ!)「成長戦略会議」の報告として航空政策の見直し、「成田・羽田一体運用」「成田のLCC・貨物専用化」による「成田ハブ化」を強く打ち出し、自民党政権ですら躊躇してきたような反動的な攻撃を、三里塚闘争、反対同盟農民、とりわけ市東さんにかけてきています。裁判所の反動的な「拙速審理」もまたこうした政権、国家権力の意志からに他ならない以上、私たちは全力で立ち向かわなければなりません。11・16、千葉地裁に決起しよう!

 なお、1日おいて、11月18日には、鈴木さんの一坪の強奪を狙った「一坪裁判」が午前10時半から千葉地裁であります。これもまた、重要な闘いです。「敵の土俵であっても、こちらに引き寄せ、現地と一体の闘争として闘いぬこう」という反対同盟の訴えに、16日、18日と闘いぬいて応えようではありませんか。

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2010年11月13日 (土)

今週の産直野菜(11月13日)

101113  今、三里塚から今週の産直野菜が届きました。

 サツマイモ、ネギ、大根、小松菜、じゃがいも(豊しろ)、ゆず、しいたけ、それに沢山のピーマン。以上8品です。

 「農家便り」からも伝わりますが、今年の三里塚現地は散々のお天気に悩まされ、野菜はほぼ一か月の遅れとか(「野菜だより」より)。生落花生が届かないのは本当に残念です。来た日にさっとゆがいて食べたあの美味しさが味わえないのは・・・。

 さて今週は、16日から18日まで、三里塚にお世話になるので、この野菜をどうしよう・・・・。ピーマンが多すぎる・・・。16日は、団結街道裁判、18日は、鈴木さんの一坪裁判。いずれも午前中に千葉地裁で。往復していては大変なので、現地に。

 さて、昨日、神戸のハローワークで関西合同労組が、「生活・労働相談」のビラまきをするので、手伝いました。「被災地総行動参加団体連絡会」で一緒に取り組むことになりましたので。ハローワークの前で、そこに来られた皆さんに、「おはようございます」と手渡していきます。1時間で、200枚余りがまけたでしょうか。初めての経験でした。

 ひとつ気になったことは、「障害者」の皆さんの割り合いが多いことでした。もちろんビラを渡しながら気がつく範囲なのですが、それでも多いのです。不況と合理化を理由に、労働者の地位が厳しくなっているのでしょうが、中でも「障害者」のみなさんが、差別され、真っ先に切り捨てられている現実が反映しているのではと、暗澹たる気分になりました。こんなことが許されるかと。

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2010年11月12日 (金)

金稔万さん本名(民族名)損害賠償請求裁判

101111

 昨日、大阪地裁で「金稔万(キムインマン)さん本名(民族名)損害賠償請求裁判」第3回口頭弁論が開かれました(上写真は、法廷後の裁判所前歩道での報告会)。私は開廷の20分ほど前に510号法廷に着いたのですが、もう満席で入れず、10数人の方と一緒に法廷前の通路で待っていました。そのため、中の様子は全くわかりません。ご本人の金稔万さん(左下写真)が「当たり前に名前が名乗れる社会を求めて」と訴えを書いておられますので、それを全文、ご紹介します。

「私は、1960年に生まれた在日コリアン2世です。名前は金稔万といいます。神戸の長田で生まれ、両親は済州島出身です。日本の学校で教育を受けました。大学生の時に初めて同胞の民族サークルに出会い、本名を名乗りました。大学を卒業し就職して通名にもどったりしましたが、ここ10年は本名を使っていました。101111_2

 2010年5月、私は日本国政府ならびに大林組とその下請け3社に対する損害賠償請求裁判を大阪地裁にて提訴しました。それは、私が本名で日雇として働いていた梅田阪急百貨店の解体工事の現場において、突然『通名』を強要されたという『事件』に対する損害賠償請求です。

 本名か?通名か?名前を名乗るというごく当たり前の日常茶飯事の『小さな出来事』をめぐっての裁判です。この裁判のことを在日2世の友人に話しをすると、子供がファーストフードの店に本名で面接に行ったらパスポートを見せてくれと言われたそうです。数年前から入管に外国人の就労を報告することが義務付けられたことに連動する安直な窓口的な対応と思われます。私が働いていた現場でも、『外国人就労届』を出さなければならないから通名にしてほしいと言われたのです。

 日常生活において在日同胞が当たり前に本名を自然に名乗ることが、残念ながらこの日本の社会では大変難しいようです。(最近、ベトナムの若い子供たちも名前のことで悩んでいることを知り、驚きました。)少しでも多くの在日同胞や在日外国人の若い子弟が本名を自然に名乗ることができる社会にするために、この裁判がひとつの問題提起の場になればと思います。

 在日同胞のみなさん。そして日本人の皆さん。多くの人々のご支援とご賛同をお願いしたいと思います。」

 この日の報告会で、キムさんの方から、「外国人就労届」が大きな裁判の争点となっていることが報告されました。そして、「永住権を持っている在日外国人は、届け出る義務はないのです。不法就労することはありえないから」と。

 金稔万さんは、この8月22日早朝、「免状不実記載」と「有印私文書偽造」の容疑で不当に逮捕され、多くの皆さんの抗議によって、9月1日に起訴猶予で釈放されました。キムさんがドキュメンタリー監督として、「日本軍性奴隷」問題への日本政府の謝罪を求めている大阪の「水曜デモ」への「在特会」の襲撃などを映像に収めたりの行動が、日本官憲の目障りとなったのか、ご本人によれば「この裁判の提訴が原因かもしれない」とも言われていましたが、「キムさんが弾圧・逮捕されるなら、誰がやられてもおかしくない」と私は感じました。現に、つい先日11月1日、「携帯電話を借りて使った」ことを理由に「詐欺容疑」として障害者が逮捕され、昨日釈放されるというとんでもない警察犯罪が起こっています。0941

 金稔万さんは、私たち関西実行委員会の呼びかけた「三里塚援農」にも応じられ、これまで3度、三里塚現地を訪れ、集会に参加したり、援農をされながら、三里塚の映像を撮られております。左写真で、鈴木さん宅の下にある菱田砦の大看板の前でカメラを構えているのが金稔万さんです。

 不当な弾圧に屈せず、差別を訴えている金稔万さんの闘いを、皆さんの周りで支援の輪を拡げてください。近日中に、この裁判のためのブログが立ち上げられるそうです。

 なお、この裁判の次回、第4回口頭弁論は、2011年1月13日(木)午前11時から、大阪地裁510号法廷です。傍聴に駆けつけよう。

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2010年11月11日 (木)

在日外国籍無年金障害者問題についての兵庫県との交渉

101110

 昨日、11月10日、在日外国人無年金障害者の早期救済をめぐった兵庫県と障害年金の国籍条項を撤廃させる会、兵庫在日外国人人権協会など36団体との話し合いが行われました。

 兵庫県からは健康福祉部の障害福祉課(当該)と高齢社会課、産業労務部の国際交流課が出席しました。

 本来は国が年金制度における差別的状況を改めるべきですが、その立場に立っていたはずの民主党が政権を取ってもなお、改善されていません。「撤廃させる会」の20年にわたる闘いと努力によって、兵庫県下の各自治体は、県との「共同事業」としてこの年金制度の不備を自治体の責任で「特別給付金制度」で対応しようと、2008年までに、制度的無年金者への年金相当の支給を行うことを実現してきました。しかし、12年も前に「共同事業」を呼びかけた兵庫県の方が、様々な理由をつけ対応を怠ってきました。昨年、ようやく県も制度的無年金高齢者については完全実施を実現しましたが、障害基礎年金1級相当の無年金者に月額7425円の格差が残され、障害基礎年金2級に相当する無年金者には、未だに助成されない状態が続いているという中での話し合いでした。

 話し合い冒頭、障害福祉課西村副課長(写真で立っている人)は、以下のように回答しました(「撤廃させる会」李相泰さんからのメールから引用)。

 「『兵庫県は相変わらず財政状況は厳しく、行財政全般にわたる改革、新行革プラン3年目であり、事務、事業総点検の厳しい状況下にある。そのことを踏まえた上での回答であることを理解していただきたい』という冒頭発言がなされた。その上で、①障害基礎年金1級に該当する重度障害者について、検討の結果、団体(今日の36団体を指す)からの要望を受け、また現在県下の市・町が2分の1を拠出している状況から、要望額である7454円引き上げて4万1500円の満額を障害福祉課として予算要求していきたい。②障害基礎年金2級に該当する中度障害者について、同じく団体の要望である33004円、障害年金の2分の1額を予算要求していきたい。など」と回答したのです。

 これは満額回答であり、この日の交渉の目標が達せられたのですが、しかし、予算措置がされたわけではなく、昨年も、80%ではありましたが障害福祉課は予算要求し、結局2級相当についてはゼロ回答になってしまったなどのこの4年の経緯もあり、李相泰さんは「率直に喜べない」と言われています。

 「撤廃させる会」の代表、佐藤耕壽さんから、この問題を取り組み始めてから20年を経た思いを込めた話しがされました。「この4年、兵庫県は私たちを『嬉しがらせて、泣かせてくれた』。1989年12月、学校の進路説明会で、パネラーになった卒業生から、『同級生の仲間がもらっている障害年金を韓国人だから出せないと言われた。先生から差別してはいけないと言われたが、これは差別と違うんですか』と。そんなことはないはずだと区役所や市役所を調べて回って事実と分かった。年金法は、その成立時そもそもで国籍を理由に在日外国人を排除した。1982年の難民法を受け入れた時にこの差別は無くされるべきだったのに、82年1月1日に20歳を過ぎていたら対象から外すとして分断された。などなど」経緯を語りながら、佐藤さんは、無年金状態に置かれている人たちの想い、気持ちを受けとめるべきだと語られ、「もう20年、この辺でケリをつけてほしい」と訴えられたのです。

 あと、何人かの方から兵庫県に対し、予算措置を取れるよう全力で頑張るよう、それぞれの立場から要望が行われました。

 兵庫県との話し合いが終わってから、簡単な総括と打ち合わせが行われ、「予算措置が行われるまで気を緩めず、できることをしていこう」と話し合って別れました。

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2010年11月10日 (水)

神戸市役所でビラまき

101126_2 今朝、神戸市役所前で、出勤してくる神戸市職員に向けた「神戸空港の中止を求める市民の会」のビラまきを行いました。10年近く続けている毎月1回、恒例のビラまきですので、神戸市の職員も承知しているのか、最近は取る人と取らない人がはっきりしてきて、今日は5人でやって1300枚でした。しかし、寒かったです。右写真は、そこで訴えた10月26日の国交省(大阪航空局)での申し入れをする讃岐田訓市民の会代表(京都学園大学教授)です。

 以下が今日まかれたビラの1面です。

「神戸空港の国際線の緩和など論外」と国交省

国土交通省に神戸空港問題を問いただす

 10月26日、市民の会は、讃岐田代表を先頭に、淡路、大阪の住民とともに関西の空港問題について大阪航空局(国交省)に申し入れを行いました。
 矢田神戸市長は、8月1日、井戸兵庫県知事などとともに国交省に前原大臣(当時)を訪れ、神戸空港について、①運用時間の延長、②発着枠の拡大、③国際線の規制の緩和とそのための法整備などの要望を申し入れました。
 神戸空港の建設のために借り入れた2千億円の返済のめどがまったくなく、空港の管理収支の改善の展望がありません。こうした現状から、神戸市・兵庫県による国への要望は、神戸空港の破たん問題の先送りでしかなく、市民への犠牲をさらに巨大化させる恐れがあります。こうした点から、市民の会は、①このような神戸市・兵庫県の要望を拒否することと、②神戸市に市民と話し合うよう指導することを国に申し入れました。

規制緩和などあり得ない
 これに対して国交省の関空課の課長から、5月の国交省の成長戦略会議で、関西空港と大阪空港の一体運用が報告されているが、神戸空港への言及が全くないことに触れながら、運行時間や便数について考える余地はありませんと明快に規制緩和などする意思がないことを明らかにしたのです。
 神戸では、先日も神戸医師会が主催して、「医療ツーリズム」の名のもとに生体肝移植などのための高度医療に力を注ぐ前に、地域医療の破たん的な現状に力を注ぐべきだという集会が持たれましたが、これに関連して神戸空港にアラブなどの金持ちのチャーター便の導入がもくろまれています。また先日就任したばかりの市村国交政務官は、「利権のばらまき」よろしく「神戸の海外直行便」を打ち上げています(神戸新聞10月1日)。

関空の足を引っ張る国際線など
 1011 これに対し、国交省関空課の課長は、「関西空港の国際線の強化に必死になっている最中に、その足を引っ張るような神戸空港の国際線など論外で、考える余地もありません」と明確に答えました。
 そして、この10月4日、神戸市公聴課が、これまで3回続けてきた話し合いを中止すると一方的に通告してきた(10月4日)問題については、神戸空港は神戸市が管理する空港なのでと言葉を濁しつつも、「機会があれば、話し合われたらどうですかと言ってみましょう」と答えざるを得ませんでした。
 最後に、私たちの方から、「国交省は本来大阪湾を管理する部局ではないのか。大阪湾が、神戸空港の埋め立てによって、『死の海』になりかけていることに無関心でいることは許されない」と抗議の意思を伝えて、市民の会としての神戸空港問題の国交省への要望を終えました。  (以上です)

 しかし、寒かったです。

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2010年11月 8日 (月)

全国連芦原支部 第7回定期大会

10117  

 昨日、西宮の若竹会館で全国連芦原支部の定期大会があり、参加し挨拶をさせていただきました。

 冒頭あいさつに立たれた全国連中央本部中田潔書記長は、狭山第3次再審開始を求めて闘ってきたことを振り返り、特に10・31奈良において新しい狭山闘争の共同の闘いを作り出してきた、石川一雄さんを迎え力強い大きな流れを作る節目の闘いとして勝ち取られたことを確認されました。10117_3 そして来る12月に予想される三者協議に向け、全国的規模での要請行動による闘いへの決起を、完全な証拠開示を要求し、糾弾闘争として貫こうと訴えらえました。さらに、現在の全国連の枠を超える部落の「実態調査」への全面的な取り組みを、差別をはね返し生活を守っていく闘いへの大きな基礎的資料として作り上げていくためにやり抜こうと訴えられました。

 関西合同労組石田委員長からは、奈良での10・31狭山集会での石川一雄さんの獄中での具体的な経験を踏まえた「この人生は素晴らしい」「心の豊かさをとりもどした」という想いに感動したことを語りながら、狭山闘争、芦原支部の闘いに共に闘っていく決意を明らかにされた上で、団結を守るには、差別・分断、排外主義と闘うことが最も大切だと訴えられました。

 10115 私からは、東灘区住民の会、関実として、2日前の天神峰現闘本部裁判の敵の結審攻撃を押し返した闘いを報告するとともに、その日、東京高裁前で全証拠の開示、狭山第3次再審開始を訴えておられる石川一雄さんとの劇的な交流(左写真)を報告し、芦原支部、全国連とともに闘いぬくことを表明しました。

 寺下眞治芦原支部書記長から、今年の活動報告が、「狭山再審闘争を全力で闘いぬいたこの一年」として明らかにされた上で、第1に差別糾弾闘争を徹底して推進してきた一年であったとを明らかにしました。そして第2に、住宅追い出し攻撃をかける西宮市による差別行政との闘いを報告し、「いよいよ正念場」と団結し勝利しようと訴えられました。

 青年から全国青年部大会の報告、決算報告が行われた後、東口博芦原支部支部長(右下写真)から「運動方針」が提起されました。10117_4 まず、部落差別とたたかう何者にも負けない団結を作り上げようとされたうえで、① 狭山第3次再審に勝利しよう。② 住宅闘争をはじめとする要求闘争に勝利しよう。③ 全国連・芦原支部を大きくするために力を貸してくださいと訴えられました。

 そして番町支部(準)、南武庫之荘支部(準)からそれぞれ報告と意見表明が行われたあと、役員人事案と各議案を承認して、団結ガンバロウで定期大会を終えました。

 大会後場所を移して、加古川から駆けつけられた岡本さんも交え、遅くまでなごやかな交流会が行われました。大会前に、結婚披露の宴に出て駆けつけた私には少しヘビーな交流でしたが、青年に「三里塚の現地調査に行こうよ」と誘うのを忘れませんでした。

 

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2010年11月 7日 (日)

今週の産直野菜(11月6日)

10116  昨日、11月6日、三里塚からの産直野菜が届きました。実は、先週は援農を予定していたので、産直野菜はパス。そのため2週ぶりの野菜です。

 里芋、ネギ、大根、小松菜、ピーマン、サツマイモの6品。いつものこの時期だと夏植えた葉物がもっとあるのですが、少し寂しいですね。ネギや大根を入れる関係で大きな箱で来ているのですが、ガラガラ。先日、1日に伺った時に萩原さんに聞いたのですが、いつもだと夏に出るはずの虫が、猛烈な暑さで居なかったのですが、9月涼しくなるとともに大発生。ですから、小さい目の段階で食われるのではなく、大きくなった野菜が食われるために、葉物はどれも穴だらけ。先々週のチンゲンサイなどひどかったのを思い出しました。これも無農薬野菜だからお目にかかれると思って、大事にいただきましょうね。

 さて、野菜のご報告が一日遅れたわけは、荷物の着くのが昼を過ぎて3時前になったため、写真だけを撮って飛び出したからです。何をしに飛び出したのかだって? 山本先生の卒寿のお祝いをごく内輪でしたからです。

山本先生の卒寿のお祝い

 10115 山本善偉先生は、この10月19日で90歳になられました。今も本当に驚くほどのお元気です。右写真は、一昨日の天神峰現闘本部裁判闘争での高裁包囲デモの一コマです。杖をお奨めしているのですが、持つとかえって疲れると、今も杖なしで歩かれます。4・25沖縄に行く時も、「みんなに迷惑をかけるかも」と覚悟を決めて行かれたのですが、無事に帰ってきてから、6月、7月、10月、11月とすでに4度も千葉、東京にとかえって元気に出かけておられます。壇上に立てば、今も激しい言葉が続きます。(と言っても、降りてこられたご本人は「何を言ったかわからない」そうですが、内容も凄い!)

 そんなこんなで、ほんとにごくわずかの、それもご本人と、たまたま帰ってきておられた次男坊さんを加えて9人というささやかな人数で卒寿のお祝いをすることに。10116_2 ほんとに多くの皆さんに声をおかけしなかったことをお詫びします。声をかければ大変なことになって、ご本人に負担をかけ、病気になるかもということでこういうことに。本人からも、お祝いなし、飲むだけならやろうということで、先生のご自宅で。

 最初に白石さんの音頭で乾杯を(左写真)。白石さんの左におられる連れ合いの治美さんが、この中では一番先生とのお付き合いが長く、ほぼ50年。一番短いのが、写真左端の(次の写真の左) I さんで、数年かな? 10116_3 続いてI さんが集めてくれた「まだまだ長生きして頑張ってください」との願いを込めた緑色の「激布」が、先生に渡されました(右写真)。

 後はハチャメチャとしかいいようがありませんが、ほんとにいろんな先生にまつわる話が次々と飛び出します。60歳になる次男坊さんからも、「親父は俺を本当にかわいがったのか?」と追及も。

 10116_4 この日は祝いなしということで、白石さんからは「めでたい」とほんとに立派なタイのお刺身(左写真)と三里塚の里芋の煮っ転がし、らっきょの酢漬け。私からはおでん。何人もがお酒。来れない人からもお酒が。お酒が山積みの雰囲気。さすが先生の卒寿のお祝いです。

 10116_5 メインは、少し高かったですがお寿司の盛り合わせ(右写真)。ほんとによく飲み、語り合い、楽しいひと時でした。「山本先生。『敵より1日長く』という言葉がありますが、一日でも長く、私たちの、三里塚の先頭にお元気で立っていてください」と願いながら、帰途につきました。

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2010年11月 6日 (土)

天神峰現闘本部裁判控訴審 第2回口頭弁論 (11月5日)

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 昨日、東京高裁で天神峰現闘本部裁判控訴審の第2回口頭弁論が開かれ、井上裁判長の結審策動をはね返し、次回口頭弁論を2月4日に開かせる勝利をもぎ取った。10115_2(右写真は、デモ前打ち合わせを進める鈴木謙太郎さん) 関西からも、永井満代表世話人、山本善偉世話人を先頭に10人が参加。

 この間、現地支援連を先頭とした連日にわたる東京高裁前で、延べ1万枚に達するビラまき、街頭宣伝が繰り広げられた。10115_10 そしてこの日、全力決起した三里塚反対同盟を先頭に、125名の結集による公判廷前の高裁包囲のデモ、そして傍聴闘争、そして1時間にわたる弁護団の奮闘が、井上裁判長、国家権力による結審攻撃を粉砕したのだ。

 デモを前に、日比谷公園霞門で「打ち合わせ」。鈴木さんが「証人調べと現地調査を是非やるべきだ」と始められた。あいさつに立った北原鉱治事務局長は、第1審の仲戸川裁判長の不当な訴訟指揮と2・25判決を弾劾するとともに、「こちらが追い詰めている」からだと核心を提起された。弁護団を代表して「90年1月16日、夜中中闘いぬいたことを思い起こそう」「今日の法廷は徹底的に重要だ」との発言を受けて、さあ、デモに出発。(右写真は打ち合わせ)10115_4

 昼休みの出てきた官庁街の職員たち多数が、驚いて注目する中をデモが貫徹された(最初の写真)。

 さあ、傍聴に。高裁前にさしかかるとなんと、石川一雄さんご本人がマイクを手に、狭山差別裁判の再審開始を訴えておられるではないですか。立ち止まって激励。山本先生と石川さんががっりと握手(左下写真)。

 10115_6 傍聴席は小さく、こちらから入れたのは30人足らず。ほとんどが法廷前の廊下に座り込んで待機(私も)。閉廷後の報告会での話しから再現します。

 この日、裁判長は明らかに結審を狙っていた。しかし、弁護団は、①NAAの準備書面に対する反論の準備書面、②証人調べ(石橋恵美子はじめ、公団職員など8人を申請)の必要性を主張する準備書面、③文書提出命令申し立て、そして前回すでに提出された実地検証の申し立てを軸に、猛然と陳述、弁論を行ったのです。冒頭、井上裁判長が最近出版した「理論と実務の基本書」と銘打った著作『民事控訴審の判決と審理』を持ち上げながら、第1審仲戸川判決の不当性を明確にし、とりわけ石橋恵美子証人の偽証を軸に組み立てられた論理の破たん、事実調べなしの審理打ち切りの不当を明らかにした。

 10115_7 井上裁判長は、ついに審理を打ち切り結審とすることができず、2月4日の次回口頭弁論の期日を決めざるを得なかった。大勝利だ。しかし、その中でも、井上裁判長は、論点を「付帯決議(仮執行宣言)をつけることが控訴理由のひとつなのか、控訴審で付帯決議を申し立てることが違法なのか、どちらかはっきりさせる」と原判決を維持した上で「付帯決議を付けるか付けないかを考えたい」と。葉山弁護士は「油断も何も全くない」と警鐘を鳴らされた(「報告会」で)。

 部屋がなく、弁護士会館のロビーで開かれた報告会(右上写真)で、まず北原事務局長から「(弁護団の)突込みがすごかったよね」「前進した」と勝利を確認。10115_8 葉山弁護士からは、「早期結審策動を粉砕した」、同盟、支援連の連日の闘いを「大きな闘いの成果だ」と称賛された。続いて次々と弁護団6人から発言が。遠藤弁護士は、高裁の審理は大半が1回か2回で終わり、3回目まで行ったのはわずか6%に過ぎないと「拙速審理」の状況を紹介され、「我々は少なくとも3回目を勝ち取った」と語られた。

 10115_9 最後に萩原進事務局次長から、「全体で闘いぬいた。見事だった」と勝利を確認された上で、傍聴席からヤジひとつ飛ばず、退廷命令ひとつ出せなかった(外に居て、不思議でしたが・・)ために裁判長は雰囲気を変えれなかったことに触れて「ヤジひとつ飛ばない中で、かえって裁判長がピリピリしていた」「こういう闘いも必要なんだ」と。そして「1万枚のビラなど、ボディブローのように効いている」「これから一回、一回が勝負です。一回勝ち抜くことで、奴らはものすごい打撃を受けている」と地平を確認したうえで、「次回もデモをやりましょう。闘いぬきましょう。そしてそれを現地に帰していこう」と提起されたのです。

 次回口頭弁論は、2月4日、午後2時、東京高裁へ。その日、今回を上回る態勢で、高裁包囲デモを勝ち取ろう!

 

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2010年11月 5日 (金)

里美さんの裁判を支える会

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 昨日、11月4日、大阪高裁81号法廷で「里美さん裁判」の控訴審第1回口頭弁論が開かれました。「里美さん裁判」とはいったい何か、「里美さんの裁判を支える会(準備会)」の呼びかけの一部を掲載します。

【事件の経過】  

里美さん(兵庫県 現在36歳)は、JR西日本に「障がい者雇用促進」制度で採用された、1年更新の契約社員です。生まれつきの脳性麻痺で、四肢に障がい(重度1級)があります。パソコンが堪能で、男ばかりの現場で、事務仕事をしてきました。

事件がおきたのは、今から約3年前。会社の慰安旅行の帰りに、上司であるAに、強引にホテルに連れ込まれ、カミソリで脅されて性行為を強要されました(里美さんは、障がいゆえに、押し倒されたら自分で起きあがることは困難です)。事件後Aは、さも2人がつき合っていたかのように装うともに、「会社に言ったらお前の契約更新はないぞ」と里美さんを脅しています。Aの行為は、里美さんの障がいと、契約社員という会社での弱い立場を利用した、きわめて悪質なものです。

里美さんは一人で苦しんだ末、事件から半年後に、詳細を会社に告発しますが、会社のセクハラ対策室は、「そんな事実は無かった」と結論をだしました。里美さんは納得できず、一人で弁護士を捜しまわり、ようやく提訴にこぎつけました。

【一審判決の問題点】  

ところが、今年6月に出された一審判決は、里美さんが半年間事件を告発できなかったことや、事件後かわされた一見「親しげ」なメールの内容などを理由に、加害者である上司の「合意の上だった」という言い分を認め、里美さん敗訴の判決を下しました。 この判決は、里美さんの障がいや、職場内での上下関係の圧力、性暴力被害女性のおかれた心理状況について考慮せず、加害男性や会社の言い分のみを採用したもので、性暴力、とくに障がいをもつ女性に対する性暴力を野放しにしかねないきわめて危険なものです。里美さんは、ショックでくじけそうになりながらも、「こんな事が許される世の中でいいのか?」という思いで控訴し、とことんたたかうことを決意しました。 (以上)

以上の経過で開かれた控訴審、第1回口頭弁論でしたが、法廷に入ると傍聴席は30人足らず。まったく足りません。挙句の果て、訴えられているJRの関係者が所在無げに立っている。これを入れるために、仕方なく私も法廷外へ。駆けつけた皆さんは50人以上。多くの皆さんが、やむなく法廷の前で待機し、終わって報告会へ。(最初の写真は、報告会が始まる前の様子です。)

報告会には多くの方が残られ、弁護士の皆さんからのこの日の法廷に至る想いと、この日の報告が行われました。当該の里美さんから 「何とか第1関門を突破でき、次の審理につなぐことができた。ありがとう。」 とこの日の法廷で結審を防ぎ、審理に入れたことへの感謝が述べられました。参加された何人かの方から、セクハラ、女性差別、そして「障害者」差別の課題への難しさと怒りが口々に明らかにされました。

障害をもった女性からは、「女性であることからくる差別と、障害を持つことからくる差別に二重に苦しみ、厳しい闘いが強いられている」との涙ながらの発言が。また、何人もの若い女性から、「自分は立ち上がれなかった。里美さんの勇気に励まされた」とのコメントが届けられていることが事務局から報告されました。

事務局からこの日提出された722名の署名を加えて、わずかの期間に2894名の署名が寄せられたことが、裁判長の拙速裁判を防ぎ、当該の思いを聞いてみようという姿勢を生み出せたと報告されました。それが里美さん本人の生活状況への質問やPTSDに陥っておられる里美さんの症状などへの裁判長の問いを生んだ経緯などが明らかにされました。

最後に、里美さん本人から裁判を起こすに至る想いが語られ、「怖かった」し「本当に迷った」が、「生きていくということは諦めないことだと思っている」「女性であることと、障害者であること以前に、私が人間であることを諦めてはならないと決意した」とその想いを語られ、この裁判のもつ意味の大きさを改めて感じました。

詳しくは、「里美さんドットコム」http://satomi-heart.cocolog-nifty.com/blog/をご覧になってください。そして、署名用紙などがhttp://ikari-net.cocolog-nifty.com/blog/files/shomei.pdfに掲載されています。是非署名を集めてください。また、昨日の報告会で、正式に「里美さんの裁判を支える会」が立ち上げられました。会費は年間1000円です。詳しくは、後日「里美さんドットコム」に掲載されます。ご協力ください。

この日の傍聴者の一人に、当「関実ブログ」や加代子さんの「農家便り」にコメントを書き、10・10三里塚に初めて参加されたブログ「ルンペン放浪記」の田中洌さんが、関東から駆けつけてくださっていたのには驚きました。その風采と様子から、ひょっとしたらと思い、声をかけさせていただき、初対面の挨拶ができました。「出会い」というのは素晴らしいですね。

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2010年11月 4日 (木)

現場を見てみよう  関西空港

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 昨日、気持ちのいい秋晴れの中、関西空港の現状を知っておきたいと「大阪の海と空を戦争に使わせない会」の6人で見学に行きました。二期島の工事をしている関西国際空港用地造成株式会社が、関空二期島の宣伝のために「現場見学ツアー」を行っているのを知り、それを利用して見に行こうと。10113_3

 最近の中国からの観光ブームの中で非航空部門の収入で黒字化している(と言っても90億円も補給金=私たちの税金を投入した上でだが)というキャンペーンで「炊飯器が売れている」というのが言われているので、まずターミナルビルの売店(3階)の見学に。あるある。2店舗で炊飯器が売られている。ゲートインしたところでも(無税で)売られているそうだが、手荷物ではないだろう。この2つの店舗が中心なのでしょう。1万円から3万円。店頭に置いていることからも「売れ筋」なのでしょうね。10113_5 なんとも不釣り合いな雰囲気。しかし、そんなに忙しそうでもありませんでしたが・・・。

 2期見学ホールからバスに乗って2期島へ。いきなり「グラスボート」に乗ってくださいとくる。乗っていろいろまわってくれるのかと思いきや、すぐそばで海底を見せるだけ。緩傾斜護岸のせいで、いろいろな魚が泳いでいるのが船の底のガラス窓から見える。緩傾斜護岸には海藻が育ち、そのためにいろいろ魚が育つのはわかっている! 巨大な海を埋め立てて海を殺し、わずかな空港周辺に魚が棲むようになっているのを見せて「環境にやさしい」とでも言いたいのだろうが、ふざけるんじゃない。しかし、埋め立てている会社がやっているツアーだからと、自分を抑える。10113_6

 すぐバスに戻って、2期島を回る。まず最初のところで、自慢そうにガイドさんは話している。しかし、その場所は周りの土地より低く、砂利がむき出し(右写真)。これが埋め立てを途中でやめて、「埋め立てが終わっていません」という場所だ。「終わっていない」、2期島が完成していないということで固定資産税を払う必要がないというのだ。これで40億円の節約とか。なんという姑息なごまかしか。これが「消費税増税」と言っている国のやることだ。

 最後に第2滑走路近くに行って見学。しかし、この1時間余りの間、1機も着陸もしない。全く無用の長物だ。最初の写真は、滑走路に沿った金網のフェンスですが波を打っているのがわかりますか。空港会社は、1期島の沈下は11.5メートル、2期島は18メートルで収まると言っていますが、1期島はすでに14メートル沈んでいる部分があり、まだまだ毎年7センチあまり沈んでおり、これがまだ30年は続くだろうと言われています。2期島は18メートル沈んでも4メートル残るように作られていると自慢そうに説明していましたが、「砂上の楼閣」では?

 使えもしないこの2期島にすでに9千億円も投入して、3年前に供用を開始しながら、滑走路以外は見るからに無残な更地。しかも税金対策に、工事を中断しているという体たらく。

 すでに関空全体で2兆円あまりを投入し、20年近くたってもこの状況で、「民間活力の投入で関西は発展する」といってきた責任を誰が取ってくれるのだ。泉佐野市をはじめとした地元の財政破たんは、この空港のせいではないのか。それを何一つ謝罪しないどころか反省することもなく、「LCC専用と国際航空貨物専用」で「ハブ空港化」と浮かれている国交省、関空会社、そして橋下大阪府知事に改めて怒りがわいてきた一日でした。まあ、予想はしていましたが・・・。

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2010年11月 3日 (水)

日本の航空政策

Gdp  みなさんは、「45・47年体制」という言葉をご存知ですか? 私もそんな言葉があること自体知りませんでしたが、航空業界では周知の言葉のようです。『航空グローバル化と空港ビジネス -LCC時代の政策と戦略-』(同文館出版(株)、2010年7月出版。右のグラフも同書から転載)に書かれていて知りました。

 アメリカの占領政策によって戦後、あらゆる意味で世界の航空業界から排除されていた日本が、ようやく成長しだした中で、1970年の閣議了解と、1972年の運輸大臣の通達によって、これ以降の日本の航空の発展に大きな影響を与えた「航空憲法」とも呼ばれたものだそうです。

 その具体的内容は、「国際線は日本航空のみ1社とし、その日本航空は国内線では幹線のみ就航させる。次に全日空は国内幹線およびローカル線と近距離国際チャーターを行うこととし、・・・(以下略・同書より引用)」という極めて保護主義的性格の強いものでした。そのことが、今日に至るまで「各県1空港」といった「空港整備勘定」を前提とした巨大な利権が発生する航空政策の温床ともなったのです。

 この「航空憲法」「45・47年体制」が成立した時代はまた、いわゆる「新全国総合開発計画(新全総、1969年閣議決定)」あるいは田中角栄の「日本列島改造」の嵐が吹き荒れ、道路、橋、空港、港湾など公共工事の乱立による土地バブル景気への巨大な流れが生まれた時でもありました。

 成田空港建設への動きと関西空港建設への動きは、正にこうした時代の航空政策の象徴的な巨大な利権を持ったプランとして生み出されたのです。

 しかし、世界の航空業界は1980年代から新自由主義の嵐の中で、再編の大きな波を受け、1990年代初頭のLCC(格安航空)の誕生をも水路としつつ激変が繰り広げられたのです。

 ところが、保護主義への見直しの声が上がっていたというものの、巨大な利権に呪縛されていた日本の航空政策は身動きならない状況が続いていました。

 私たちの近くでもいまだにその問題が垣間見えます。和歌山では2つの航空業界をめぐる動きが、元運輸相の二階俊博氏の周りで起こっていることはあまりにも有名です。1つは、1968年、1200メートルの滑走路をもって誕生した南紀白浜空港が、ジェット化を口実に1996年、1800メートルに拡張。さらにわずか4年後の2000年には、2000メートルに再延長。この空港は二階氏の選挙区にあり、この時間をおかず行われた拡張、再延長を違法献金で問題となった準大手ゼネコン「西松建設」が半分近い受注をしているというのです(09年3月17日赤旗)。しかも、赤字の国内線を撤退している日本航空だけが、今なお羽田便を飛ばしている赤字路線です。Img_0001

 もう1つは、最近新聞をにぎわせている関西空港のために日本航空の寮・社宅とそれに関連する施設を関西空港から1時間余りもかかる不便な和歌山市の奥の山林を購入して作り、今では使い物にならず閉鎖されたことが、日本航空の経営状況を調べている中で明らかになっています。なんと50億円相当の土地物件が3倍以上の152億円で購入されている上に、仲介料として4億5千万円ものお金が元県議に支払われたことが明らかになっています(2010年10月28日朝日新聞・左写真)。二階氏がかかわったかどうかに関係なく、いずれにしろ航空業界にはいまだにこうしたことがまとわりついている巨大な利権が、こんな小さな地方空港でもあるということです。

 こうした巨大な利権の呪縛で身動きならなかった日本の航空業界は、日本航空の破産という事態に象徴されるように、最初のグラフに見られるように日本のGDPに象徴される高度成長とともに発展し、世界で有数の航空市場となりながら、世界、アジアの航空業界の現状から大きく取り残されてしまったのです。

 こうした自民党政治の破産的事態に恐れおののき、動こうとしたのが「国民投票法」制定によって改憲攻撃を目論んだ安倍政権だったのです。安倍政権は官僚どもとともに、2006年「アジアゲートウェイ構想」をそうした思いから立ち上げたのです。しかし、巨大な利権の呪縛は、自民党を動かすことなく、昨年の政権交代に至りました。

 航空政策を何とかしたいとしていた官僚どもにとっては正に「千載一遇のチャンス」と映ったに違いありません。巨大な利権の呪縛のない前原、岡田などの反動的な若手リーダーの心をつかみ引きずり込んだに違いありません。それ故にわずか半年で出てきたのが、2010年5月17日の国交省の成長戦略会議の報告(答申)なのです。当然にも、「アジア・ゲートウェイ構想」とうり二つのものでしかなかったのです。民主党が政権に着く前の「空港特会」の廃止や「航空政策の見直し」などはどこ吹く風で・・・。

 「成田・羽田の一体運用」、「成田・関空のLCC、貨物によるハブ化」構想は、こうした意味で、民主党政権だからできる「45・46年体制」を根本的にひっくり返し新たな巨大な利権を生み出し、米軍再編に見合った航空政策を展開しようとする極めて反動的なものであり、それゆえの「成田空港完成」攻撃、関西空港の「発展幻想」の攻撃なのです。

 こうした敵の正体を正確に見極め、新たな闘いが求められている三里塚闘争、関空闘争に向け私たち自身が学び、武装することが必要ではないでしょうか。

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2010年11月 2日 (火)

三里塚現地調査

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 昨日、三里塚の現地調査にお2人を案内してきました。1人は、先日、10・10三里塚に初めて参加されたカメラマンのSさんで、ここ数年、バングラディシュやカンボジアなどで農民の暮らしを軸に活動を続けておられます。もうお1人は、全く目が見えない中で「障害者」解放、三里塚に取り組んでこられたKさんです。

 前夜現地に入り、市東さんのところに泊めていただいたのですが、夜中のすごい雨音に「明日は大丈夫だろうか」と目が覚める。しかし、市東さんとゆっくりとお話をさせていただきながら飲んだ泡盛が効いたかよく眠れて、朝、起きると青空が一部に覗いていて、思わず「ほっ!」。7時前なのに、反対同盟の宣伝カーがもういない。市東さんのお話しでは先週から、月、水、金と東京高裁前での「天神峰現闘本部裁判控訴審」で不当な訴訟指揮をちらつかせる井上裁判長への抗議の街宣に出かけたとか。思わず、身が引き締まる。

 萩原進さんの車をお借りして、成田駅にお2人を出迎え。実は、現地調査で梯子を上るところが3か所あり、Kさんをどういう風に案内したらと心配していたので、まずそれを聞くと「手で触れれば大丈夫です」と明快なご返事。あとはご本人に任せようととりあえず胸をなでおろす。091111

 まずは市東さんのところへ。電車が遅れた関係で、着くとちょうど10時のおやつの時間で、現闘の皆さんと一緒に台所におられたので、しばらく歓談。Sさんのバングラでの話しにみなさんが興味を示された。雨季になればあたり一帯が冠水するような地域なのに、アメリカ型の地下水を汲み上げての農法によって、地下のヒ素が溶け出して、貧しい農民に被害が、という話に引き込まれました。お仕事の邪魔になってはと、話しを打ち切って調査に。

 最初は、市東さんの自宅前の畑の誘導路脇の監視台に。Kさんが上手に梯子をあがられ、私などがよく頭を打つバーも難なくこなして台の上に。「すごいなぁ」と、その「運動神経?」に思わず感心。監視台から夏を過ぎて東峰神社の立木がすくすくと育っているのが手に取るようにわかります。2メートルを超えたかな?(右上写真は、昨年秋のもの)これで、滑走路は5メートルから10メートルは短くなっているはず。 ここからは「へ」の字部分が非常によくわかる。正面に見える第2誘導路や、第3誘導路の問題を説明。Kさんが、誘導路を自走するジェット機の異様な音に「気持ち悪い音だ」と早速反応。市東さんが、自走するジェット機の音の方がひどいと裁判で証言されたことを紹介しながら、音に対して敏感なKさんに感心。10111_2

 それから団結街道の封鎖と第3誘導路工事を監視している西側の監視台へ。第3誘導路計画の位置関係を具体的に説明。Sさんが、写真をしょっちゅう撮りながら、具体的に聞いてこられる(これは最初から最後まで)。団結街道の歴史、1910年ころの日露戦争後の不況の中で、天皇財産の放出。天神峰部落の入植と開拓。市東市太郎さん(孝雄さんの祖父)が入られた時の様子などを話す。

 先日デモをした道を通って南台の畑へ。市東さんが草取りをしておられた(左写真)。具体的に、畑の位置と農地裁判での「41-9」問題を説明。機動隊員が、監視台にあがってこちらの様子を窺っている。さらに天神峰現闘本部の裁判の話しと成田治安法問題などを話す。

 東峰神社に。立派に育った立木を前にしながら、2001年6月の空港会社、機動隊による立木伐採の暴挙と、裁判、そして反対同盟の全面勝利によって、新しいお堂と鳥居ができたことを話す。また、開港直後の2003年1月の全日空機B767のスリップ事故の話しも。本当に恐ろしい空港だ。さらに、この神社の由来、東峰地区の戦後の入植、開拓の様子を、萩原さんの話しを交えながら説明。

 そこから東峰十字路近くにある、滑走路に50メートルと迫る開拓道路へ。この空港の異様さが感じ取れる場所だ。ここでは当たり前のようにある2重のフェンスが、沖縄や岩国の米軍基地でさえないことも話す。「我々がフェンスの中に空港を追い込んだのだ」という萩原さんの話しを思い出す。着陸しそこなって慌てて上空に上がるのを何度もここでは見るが、初めて来たパイロットにとって、滑走路間際に迫る東峰神社やこの開拓街道に驚いての結果ではないかと思う。

 それから東峰墓地へ。ここでは自然と大木よねばあさんの話しになる。よねばあさんの墓の椿の木が新しい花の芽をつけてうっそうと大地に根付いている。Kさんが手で触って驚いている。島村さん、萩原さんの木の墓標にも手で触りながら、戦後の開拓部落の話しや、市東東市さん、島村良助さん、そして大木よねばあさんといった貧しい中で闘いを貫いたこと、戸村精神のことなどにも話しがいく。

 それから萩原さん宅に。作業場でしばらくお話しをお聞きすることができた(最初の写真)。Sさんのバングラディシュの農民の様子から、「どこでも農民が食えなくなっている」「人間は土によって生かされているのだ」といったお話しや、地下水の話しなどが次々と。「時間が押していますので」と想いを残しながら次へ。車で、東峰の森の奥へ。北原さんの一坪と萩原さんの清水の畑で第2誘導路が100メートルの幅しか取れなかった一番奥の場所に。この森が東峰の住民の生活と営農にとってなくてはならない「入会」の森であることなどを説明。0806_2

 それから横堀へ。横風用滑走路の北側部分のど真ん中にそびえる鉄塔と横堀の小屋。岩山大鉄塔をご存知の人なら見たことがある金城実さん制作の「闘う農民像」がここに飾られている(右写真、像の左に鈴木加代子さん。08年撮影。奥にぼやけて見えるのが貨物ターミナルと第2ターミナル)。ターミナルからはこちらが見えないようになっているが、成田空港の破たんが最もよくわかる場所だ。Kさんが「何か工事をしているのですか」と。ターミナルビルとこちらの中間地点で大掛かりな工事がされている。誘導路の補修だろうか。それとも最近言われているLCC専用のターミナルビルの工事かな?

 それから菱田の郷へ。途中の道で転向してしまった秋葉某とすれ違い、驚く。大看板の前で、1984年前後の成田用水闘争、「敷地内を裏切れない」と一人になるのも辞さず闘いぬかれた鈴木幸司さんの話しや、「用水攻撃」の悪辣さに話しが自ずと行く。ここでもKさんが「水が流れている音がする」と。日頃水のないところにきれいな水が流れている(後で、鈴木謙太郎さんに確かめたら、昨夜の雨で山から流れ出ているとのこと)。

 それから鈴木さんのお宅に。謙太郎さんとしばらく話す。加代子さんは、9度以上の熱で臥せっておられるとか(昨日の「農家便り」にさっそく書いていただいている。「元現闘さん」とはKさんのこと。「援農あんま」で各同盟宅をまわられたとか。加代子さんが鈴木家に入られたころ、用水闘争直後の頃に伺ったのだそうだ)。昨夜の雨で畑が水を含んでしまい、機械が沈んでしまうので里芋の畑で仕事ができないと言っておられた。天井にある、「蚕棚」にSさんが興味を示し、Kさんが「触りたい」と言われるので、謙太郎さんが降ろしてくださった(左下写真)。凄いほこり。戦後すぐのころまでやっていたそうで、これを100枚近く、座敷の畳を上げてそこに住んでもらったとか。まさに「お蚕様」だと実感した。10111_3

 それから岩山記念館に。ここではちょっと迷いながら、たどり着く。下にある団結小屋に一人で住んでおられるTさんが出かけているのか、いつもある車がない。記念館の屋上に。そこで、鉄塔決戦の話し、1977年5月6日のだまし討ちによる鉄塔破壊の攻撃の様子を話す。そのあと三里塚に来るようになられたKさんも、これは知らない。Sさんは、飛び上がっていくジェット機の写真を。Kさんが「大きいジェット機は低周波の音がすごい」とうめかれる。やはりすごい音への敏感さだ。

 最後に、北原鉱治事務局長宅へ。突然にもかかわらず、上げていただき、お話しを伺うことができた。「尖閣列島」のことなどから「きな臭くなっている」と語られ、労農連帯を軸に頑張っていかないといけないとも。11月4日には、韓国の労働組合が43人も三里塚現地に入るのだとも。予定をすでに大幅に過ぎていることをお伝えし、お話しに心を残しながら失礼しました。

 それから急いで萩原さん宅へ。萩原さんに成田駅まで送っていただいて帰途に。久しぶりの、充実した現地調査ができました。

 話しをするのに夢中で、写真をほとんど撮れなかったのが残念。

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