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2010年9月27日 (月)

三里塚と沖縄を結ぶ⑥   萩原進さん(その1)

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三里塚からの訴え   萩原進さん(その1)

 大枠はスライドでわかると思いますけれど(注1)、三里塚前半の闘いは、その都度言ってますけれど、現闘本部をどうやって撤去するかというところに焦点がありました。裁判の中で、普通もちものはどちらになるかというのが裁判の筈なんだけれど、これは異例ですけれど、そうでなくてすぐ撤去しろということを条件として空港会社のほうは裁判の中に入れてあったわけですね。10919_2 ですから(成田)市当局も、そのためには団結街道を廃道にして、そして闘いをあの辺でやらせない。全部フェンスをやって一歩も入らせない、そういう体制を作らせるために議会で保守勢力に強引に押し込んで3月に議決するというような動きを一方でやった。そして(現闘)本部の周りも重機を入れて完全に整地したんですよ。ですから、判決も厳しい、判決が出た途端にこれは代執行並みの闘いになるなというような判断をして我々はやりました。その間、裁判所に対する抗議は当然ですけれども、周辺、あるいは駅頭、そして(団結街道の)見張りなど態勢づくりに邁進して現闘本部を守り抜くという闘いをやりぬいた。そのおかげで、即刻撤去しようなどという判決はつけられなかった。これが決定的な要素としてあって、彼らはそこで今年度の計画がずたずたに崩れちゃったのです。

 そういう中で、やみくもに団結街道を閉鎖するというような攻撃に出てきたわけです。その中で市東さん、うちの息子の逮捕というのがありました。先ほどスライドの時に報告もありましたけれど、やはり市東さんは親爺さんの遺志を継ぐ形で、闘争に途中から参加して逮捕歴というのも全然ないし、現場での攻防という点でもそういう意味で代執行の経験もないわけです。10425 しかし、決定的には、三里塚闘争に身を置いてみんなと闘う中で、やはり政府の理不尽なやり方、そして農民として生きるためにどうするのかということを、ほんの数年の中で彼は築き上げ、作り上げたのです。そういう気持ちの中で沖縄に行って、日本の中でも非常に大きな闘いがある、そういう沖縄の中であれだけの決起の人たちを観て、これは三里塚が闘わなければならないという気持ちを非常に大きなものとして勝ち取ってきたわけですよ。(左写真は、4・25沖縄で三里塚のびらをまく市東さん。)

 我々の闘いは、そういう意味では、砂川とか北富士とか百里基地とか、そういう各先輩の闘いの中での教えがあった。それと同時に、当初から沖縄から駆けつけてくれた励ましや、同じように闘いぬいている姿を見てきたし、そしてそこで我々が闘いぬいてきたという構図が作られてきたわけですよ。市東さんもそういう中で、まず沖縄の闘いも本土で闘わなければならないという意識のもとに、その旗振りを三里塚でやるという意識のもとにね、そのためにはどうするのか。その答えは自らが決起して闘わなければならないという結果が、彼が団結街道封鎖に対して決起して逮捕という事態になったわけです。

 まあ、23日で返されたんで話しても大丈夫だと思いますけれど、各党派が支援をしています。当日の援農作業として5~6人、市東さんの家に入っていて、その市東さんの家のすぐ目の前に立て看板を立てたわけですね。それを見た市東さんが激しく怒って、やった連中を追っかけて行ったんですよ。彼らは一目散に逃げて影も形もなくなったんですけれど、市東さんはどうしたかというと、大きなハンマーを持ち出して看板を徹底的にめちゃくちゃにぶち壊したんですね。新聞報道では「蹴った」と出てますけれど。その形相を見た各支援がね、「今までの市東さんでは考えられない姿だった」という形で、後で自分は聞かせてもらったんです。やはりここでやらなくてどうするのかという彼の意識の中で、ほんとにハンマーを振り回し、番線切りの大きなカッターでぶち壊してやったのです。10517_2

 知らせを受けて自分が駆けつけた時にはもうわっぱをはめられてるんですよ。事態を自分もすぐに呑み込めなかったんですけれど、「こんなこと許せるか」と自分は畑から駆けつけてトラックで行ったんですけれど、後ろには鍬や鎌が5、6本積んでんだけど、そのまま機動隊の中に突っ込んで、道の真ん中に止めて、市東さんのところに駆けつけた。こういう形で手錠はめられてるんですよ。自分はその中に入っちゃって、市東さんをおんぶするような形で(右写真。反対同盟ブログより)、「市東さん連れて行くんならおれもつれていけ。何の連れて行くような要素があるんだ」と抗議した。彼らは「これじゃあしょうがない」と市東さんの手錠を外して、自分を引きずり出して連れて行った。それども、市東さんは「俺は大丈夫だから。行ってくるから」という形で行ったんだけれど、自分は何をされようと彼を心配していなかったんです。

 むしろ、農作業のほうをどうするのかということでね、毎日見回りに行って支援の学生にこれとこれをやれという風に指図した。そのうち自分の息子を持っていかれちゃって、「こりゃあ」と思ったんだけれど、「これ以上のシナリオはない」と、市東さんがやられて、うちの息子がやられて、「反対同盟健全なり」と、要するに闘ったんだと、市東さんが先頭に立って闘いぬいた。これ以上のシナリオを描いて、さあこの通りやってくださいて言ったって出来っこない。そういうシナリオになった。もう反対同盟は盤石だというね、これで闘えるというかたちで、自分たちは総括しました。

 10731 ですから市東さんをフェンスで囲み、第3誘導路で追い出しを謀ろうとしても、追い出すことなんてできないと、今年前半の闘いの中ではっきりしたんですよ。これはもう、そこに第3誘導路を作ろうと、フェンスを作ろうとね、彼らは失敗だったということを認めざるを得ないところまで追い込んだと、そういうところまで今年の前半やりぬいたという風に思います。

 ですから、今度は羽田の第4滑走路の供用化の中で、地元は、政権は空港建設に邁進せざるを得ない。そして警察権力もそれに対してスライドにもありましたけれど、市東さんのすぐ後ろに宿舎を作って前進基地を作ろうとしているわけです。そういう形でこの工事を防衛するというのがある。

 そのために、裁判、司法でこの土地を取り上げる。立法、行政、司法、三位一体になって三里塚に襲い掛かった。これは沖縄でもそういう状況がなされてるわけですけれども、その上で、地元の利権団体が「完全空港化だ」と、20万回の飛行を30万回に引き上げるんだという形で周辺に対して、空港会社、国、県は説明会を開いて行ってるわけですけれども、このままじゃあ成田が地盤沈下してしまうという形で、「それをのまざるを得ないんだ」という言い方でマスコミは書いているけれども、誰が20万回を30万回にするのを受け入れたり喜んだりする人はいないですよ。ほんとにそう意味で民衆をだましてマスコミなんかも書いてますけれど、そこに闘いがあるんだということを後半の闘いの中で我々は示す。そして、こういうやり方はダメなんだと。

 10919_3 先ほど沖縄で基地との共存という形で言われました。我々のほうも、空港との共存だ、共栄だという形で宣伝され、空港があるから繁栄するんだという形に成されてます。しかし、我々は裁判の中でも主張していますが、今まで空港が大きな国家的事業だと住民をだましてきました。しかしもう一方は、先ほどちょっと話もありましたが、農業政策なんかで見れば、もう200万農家になっちゃってる。5年間で20%以上の農民がもう居なくなっちゃってる。しかも、その内容たるや65歳以上、もう70歳になろうという人たちが農業の担い手になっているというそういう中で、いわゆる食糧問題、農業問題、自然問題、土地問題、これをだれが解決するのかと言ったら、我々自身じゃないのか。

 農民がここにそういうことに目覚め、そして決起して、それを守っていかなかったら守ることはできない。これこそが国家的事業であり、国家的作業ではないのか、ということを、今、裁判の中でも訴えているわけですよ。市東さんが、自分もそうですけれども、辺野古の海を見て「この海を埋め立てたら二度ともどらん。こんなことを許してはなダメだ」と言っていました。これは絶対に守らなければしょうがない。海と畑の違いはありますけれど、これは根本は同じなんですよ。これを一度潰しちゃったら、一度汚しちゃったら戻らない。こういうことは関西空港のことでもわかるんですよ。ですから、こういうことこそ、人民が、国民が、今こそ目覚めて、今までの意識を転換して考えざるを得ない時代に入ってるんじゃないかということを訴えます。 (明日に続く) 

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(注1)集会に先立って、約30枚のスライドをもとに、現地の闘いの状況と農作業、産直出荷などの様子を20分くらいで説明いたしました(左写真)。1年前の3月の集会から始めましたが、結構好評で、大切な三里塚関西集会の前座になっています。

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