8・6ヒロシマ・リポート 実行委員会ニュース第131号より
関実の実行委員会ニュース第131号に、竹田雅博さんからの「8・6ヒロシマ・リポート」が掲載されています。今日は、少し長いですが、それをご紹介します。
8・6ヒロシマ・リポート
被爆65年、韓国併合100年の今年、8・6ヒロシマはとりわけ暑かった。
前日の夕方、資料館前で知花昌一さんと合流。知花さんは、お昼に広島に到着し韓国人慰霊碑などを見てきた、と言っていた。暑い盛りの午後、平和公園
や資料館を巡り「沖縄より暑いね。沖縄では歩いても汗をかかないよ」と、かなり疲れた様子。「教師と子どもの像」と「2中慰霊碑」だけ案内し、早々に宿舎へ。
6日は、いつものように朝の式典は遠慮、テレビで見た。はじめて参加した無言の米駐日大使、周りのSPが異様に目立つ。秋葉市長のあいさつが、少々歯切れが悪かったと感じたのは私だけか。同じくはじめて出席した潘基文(パン・ギムン)国連事務総長は、広島・長崎で在日韓国人被爆者と面談し、韓国・朝鮮人被爆者慰霊碑を訪れた。ヒロシマの式典後の国際会議では「核の危険を排除するには、核兵器の全廃しかない」と発言していた。対照的に、式典で「核兵器の惨禍を二度と繰り返してはならない」と言いながら、直後の記者会見では「核の抑止力は引き続き必要」とのべた菅首相。相も変わらず、情けない。
夕方から、「8・6ヒロシマ平和の夕べ」に参加。今年のスピーカーは被爆者・池田精子さん、沖縄から知花昌一さん、そして在日の作家・高史明(コサミョン)さんである。司会の河野美代子さん(被爆2世、産婦人科医)は、「今年は、被爆65年、韓国併合100年。そして戦争と基地を問い続ける沖縄からの発言。それぞれに大変深く、重要なお話をいただくことになる」と。
池田精子さん
池田精子さんは被爆の惨状をそのままに語り、その後の被爆者の苦しみ、悲しみ、怒りを振り絞るように話した。事前に、中学生たちに話した証言録を読んではいたが、聞いていて息が苦しくなるような、壮絶な証言だった。
「熱線、爆風、放射線。爆発時の爆心は数百万度。原爆ドーム付近の地表で3千~5千度と言われた。爆風は秒速440メートル。自然界の1万7千倍の放射線。これらが生きた人間に襲いかかる。火傷、ぶら下がった皮膚、内臓が飛び出した人、人・・。逃げる途中、比治山の上から見ると広島の街は消えていた。40度の高熱。膿、膿。生死の境を苦しんだ。数日間、市内で救護に加わった友だちの一人は、けがはなかったのに髪が抜け身体中に斑点ができ亡くなった。半年後、ようやく起き上がれるようになったが、顔のケロイドで、学校に行きたくなかった・・・。親にも当たりちらした。15度の手術。美しくなりたかったのではない。元の顔に戻りたかった。どこかが痛むたびに癌ではないか、白血病ではないかという恐怖と生きてきた。60数年たったいまも、被爆者にとって原爆は終わっていない」。
この日、池田さんは受けた被害、惨状を語ることに徹したが、戦後は、アジア侵略の歴史とヒロシマを考えるようになったという。「軍国少女で日の丸を振って出征の兵隊さんを送った。あとで分かった。私たちがアジアの人々を苦しめていた、と」。いまなお、思い出したくない記憶を語り続けなければならない。「戦争と原爆を繰り返してはならない。生きているうちに核廃絶を見届けたい」という言葉で締めくくった。
知花昌一さん
沖縄戦と基地撤去を話した知花昌一さん。「自分の村にチビチリガマがある。そこでの集団自決(知花さんは「集団強制死」という)の調査をした。私の原体験」と言う。自分が産んだ子を手にかけた。親や兄弟姉妹を助けることもできず、自分は生き延びた、そういう体験を調査し聞いた。「命どぅ宝(ぬちどぅたから=命は宝)という言葉が沖縄にはある。それは必ずしもきれいな言葉ではないんだ。そういう体験をして生き延びた人が、それでも生きていく糧として『命どぅ宝』という言葉があった。皇太子が沖縄にきて『命どぅ宝』と言ったらしいが、そんな薄っぺらな言葉ではない」と。広島・長崎、沖縄も犠牲になったが、しかし被害と加害は正しく伝えられているだろうか、と話す。「韓国人慰霊碑を訪れガイドさんの説明を聞いたが、なぜ広島に多数の朝鮮人がいたか、あまり語られない。韓国(朝鮮)人慰霊碑の存在は、私たちの侵略と植民地支配の証。その結果が沖縄戦であり広島・長崎だった」。
沖縄戦の悲惨から、いまなお沖縄は米軍基地に苦しんでいる。「県外、国外」という鳩山前首相の言葉に期待した。政権が変わったが、「県外どころか、元の辺野古だ。沖縄は、もう本土の政治や動きに一喜一憂しない。基地の移設ではない。命の大切さを知った沖縄は、もう戦争につながる基地を許さない。自分たちで閉鎖、撤去する。きょうも広島ではいくつかの集まりがばらばらに開かれている。運動のありようも、分散ばかりせず、大きなうねりをつくっていかなければ」と話した。
高史明さん
高史明さんの「ヒロシマの継承と連帯―平和講演」は、100年前の韓国併合から始まった近代日本の戦争と植民地支配の歴史にふれながら、その後の自己史、ケンカで入った留置場で知った寡黙な被爆孤児との出会いを思い起こし、ヒロシマとのかかわりを話した。侵略と植民地支配と重なる「日本の近代化」。その過程は原爆、そしてその数千倍という水爆までつくり出した。「物理学を追究し、理論から開発を手がけたオッペンハイマーは、人類が初の核実験に成功したとき、《失うことがなくなった、その知識》を拒否し、自由の国アメリカから非難を浴びた。人間の理性に潜む闇は、まことに深い」。人間が、理性と知性の粋を結集して科学技術を発展させ、そうすることで深く自然に迫りながら、逆に真実の自然を見失うことになる――核時代・現代の闇をきびしく問う話だったと、私なりに受けとめた。
8・7平和学習
7日は、「被爆電車651号」の運行と米澤鐵志さん、「爆心に消えた中島本町」に家があった福島和男さんによる平和学習。被爆しながら、いまも運行されている広電651号車に約70人が乗車、「原爆ドーム前」で下車した。T字の相生橋から福島さんの実家があった平和公園に入る。原爆ドームから250メートル、爆心直下に一家は暮らしていた。当時中学2年、動員で8時には西広島(己斐)の工場にいた福島さんを除いて一家は全滅、遺骨もない。町も人も消滅した。福島さんは、あの日、避難する人たちに逆行し中心部にあった家をめざしたが、けっきょく途中で断念し郊外に逃れた。
米澤さんは、電車内での被爆から母親と白島方面に逃げた。その後の原爆症で生死をさまよう。母は9月1日に。お乳を飲んだ1歳の妹も10月に亡くなったと話した。学校では朝鮮人の友だちが大勢いたが、彼らは疎開もできず被爆後も市外へ避難することができなかった。在日朝鮮人の被害、死者の多さを考えることなしに、被爆の問題を語ることはできない、と指摘した。
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