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2010年8月31日 (火)

関実ニュース 第131号発行

10830131_2 関実の「実行委員会ニュース」第131号が、今日発送されます。「9・19三里塚と沖縄を結ぶ関西集会」そして「10・10三里塚全国集会」への武器として、お使いください。

 内容は、まず永井満関実代表世話人の巻頭言「9・19関西集会を成功させ、決戦の秋に起とう」。

 7・31緊急現地闘争での市東孝雄さん、萩原進さんの挨拶「この卑劣な攻撃が許せるか」。

 当ブログよりの再録「天神峰現闘本部裁判控訴審闘争」。

 尼崎・伊丹実行委員会の弥永修さんの「結成30年を振り返って」。

 竹田雅博さんの「8・6ヒロシマ・リポート」。

 この1年の闘いの年表「三里塚闘争のこの一年」。この1年が、まさに決戦に突入し、勝利的に戦い抜いていることが見て取れます。

 最後に、「『襤褸の旗』フィルム保存のためのカンパのお願い」です。

 今日は、永井満関実代表世話人の巻頭文をご紹介します。

9・19関西集会を成功させ、決戦の秋に起とう

                関西実行委員会代表世話人・永井満

 来る9月19日(日)午後2時より大阪市立中央会館で、わが関実の「9・19三里塚と沖縄を結ぶ関西集会」が開かれます。10627 ゲストとして沖縄から安次富浩さん(名護ヘリ基地反対協の共同代表)、そして三里塚から反対同盟事務局次長・萩原進さんを迎え、沖縄の熱い闘いの報告と、断固として闘い続ける三里塚からのアッピールを受けます。この集会を成功させ、今秋の闘いに総決起しようではありませんか。 (右写真は、6.27現地闘争で発言する永井さん)

 本年4月25日、沖縄読谷村運動広場に9万人が総結集して開かれた基地撤去を求める沖縄県民大会に参加し、基地撤去を求める人々の熱い思いを目の当たりにしました。また最低でも「県外」としていた普天間基地の移転先を従来どおり辺野古・キャンプシュワブに戻した政権の裏切りに対する失望と激しい怒りを肌で感じ、私たち本土にあるものが、何をなさねばならないかを深く思わしめられました。42514

 この集会に三里塚反対同盟は同盟旗を押し立て、萩原事務局次長、市東孝雄さんが会場中央に堂々と登場しました(左写真)。雲一つない真っ青な空の下、翻る同盟旗を仰ぎ、感無量なるものがありました。

 それと同時に、このことは三里塚を闘うわたしたちが、沖縄の闘いをもわが闘いとして闘っていくことを決意し、足を踏み出したことを意味しています。そしてそれは、沖縄の人々の闘いを応援しに本土から出かけていく、といったものでは絶対にありません。

 沖縄の現実が日米安保体制によるものであることが明らかな以上、安保体制そのものを撃つ闘いが私たち本土側の人間に求められているのであります。8・6ヒロシマの追悼集会で核廃絶を誓った筈の菅首相は直後の記者会見で「核の傘は有用だ」と本音を吐きました。これはアメリカの核に依存する日米安保体制を今後も維持していくことの宣言であります。

 その発端から「反戦反核、平和の砦たらん」を旗印に軍事空港建設を許さない闘いを闘ってきた三里塚の闘いは、安保体制を撃つ闘いでありました。私たちはそれをこそ共通の意志として闘ってきました。そのことを旗幟鮮明にして闘うことが今、求められています。この秋、全力で闘いましょう。

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2010年8月28日 (土)

今週の産直野菜(8月28日)

10828  今週の産直野菜が、先ほど三里塚から届きました。

 なす、ピーマン、オクラ、ししとう、ゴーヤ、エンサイ、ミニトマト、玉ねぎ、葉しょうが、きゅうりと以上で10品です。

 エンサイてなんや? 見たところ空芯菜やがと思いつつネットで調べたら、「あたり!」。何しろ野菜知識に欠けますので、名前をころころ変える場合は、注釈をつけてほしいなとぼやいたり。

 同封されてきた「ふろむあす千葉」の見出しが、「前代未聞の猛暑と乾燥」とありますが、先日訪れた折の萩原さんの話にもありました。タンクに水をいっぱい詰めて車で運んで散水するのも大変でしょうし、あのちょとやそっとでへこたれない加代子さんが熱中症とやら、すごいだろうなとお見舞い申し上げます。加代子さん、もう大丈夫ですか?

 25日に三里塚を訪れたのですが、その前日の産直ではかぼちゃが入ったそうな。しかし、暑さのせいで収穫が少なく、今日の荷物にはなし。「残念!」と不満そうな顔をしたのでしょうね、萩原さんが、「今日の土産代わりに小さいのを入れとくわ」と言ってくださり、確かに12センチくらいの小さいのが一緒に入れてくださっていました。言ってみるものですね。ありがとう。頑張って食べます。先週のが、ピーマンとなす、それにゴーヤが1本残りました。ゴーヤを薄く切ってドレッシングをかけて食べたら美味しかったですよ。

 先のブログにも書きましたが、パソコンの故障で、買い替えたのはいいのですが、いろいろ大変。まさに七転八倒です。今度はプリンターが動かない。昨年買い換えたところなのに? とメーカーに電話をしたら、インターネットでダウンロードしてください・・・。もう、うんざり。めげずにがんばりましょう・・・。

 

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コープムービング労災解雇争議に参加して

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 炎天下の昨日、真昼に、神戸の住吉にあるコープこうべの本社に、労災解雇争議の抗議の包囲デモと申し入れ行動が行われ、参加してきました。何しろ自宅のそばであり、生協の組合員であるだけに「万人は一人のために。一人は万人のために」をうたい文句にしていながら、住民、組合員のことを忘れ、あこぎな利潤追求の巨大企業となれ果てたコープこうべが酷いことをやると怒りをもって参加してきました。しかし、すごい暑さでした。10827_2

 近くの住吉公園で開かれたデモの前の簡単な集会。みんなは木陰に入り涼みながら。

 石田委員長から簡単な経過の説明。それによると、「当該のA君は、コープこうべの宅配の営業ドライバー。所属するコープムービングは生協の100%資本出資の会社。入社直後、労災にあいぎっくり腰になった(2007年暮れ)。所長に報告し、転居先の営業所で対処してくれと申し入れ。しかし配転先の所長も労災手続きを放置。つぎに高層マンションのエレベーターが点検修理で止まるため、代替え要員を出してくれと要求したが、これも放置されて階段で2次災害、2ヶ所の重度のヘルニアで体に打撃。 部長が8万円の賃金カットの雑用につけと追い出しにかかる中で、Aさんは組合に結集」と。

 団交で、会社の労災隠し・安全配慮義務違反を追及する中で、解雇通告が強行された。正確には正社員募集であるにもかかわらず、契約社員として「雇い止め」。不当労働行為は明白。仮処分裁判では、地裁で勝訴。高裁で暫定和解、現在地位確認と損害賠償の最終局面。宣伝カー、社前抗議闘争、看板闘争、コープ総代会宣伝、宣伝ビラまきなどと裁判闘争を2年近く戦っている」と説明された。

 当該のAさんもあいさつされた。各地から駆けつけた各組合から、連帯と各職場での戦いの報告のあいさつが続けられました。参加したのは、近くの東灘の住民3人(私も)などを含め30人でした。さあ、デモに出発です。10827_3

 猛暑の中、「労災による解雇は違法だ」「解雇を撤回しろ」「生協は、看板が泣くぞ!」などとシュプレヒコールを上げながら、当該のAさんがゆっくりしか歩けないためにゆっくりと進む。すぐに生協最大の店舗シーアが見えてくる(右写真)。北側のビルが目指す生協本社だ。

 デモは、住吉駅で乗り降りする、あるいはシーアで買い物する市民の注目を浴びている。ここまでされて恥ずかしくないのかと思う。コープこうべに恥ずかしいとか、設立者の賀川豊彦や看板に恥ずかしくいとかのごく普通の感性はないのかと本当に思う。

 デモはコープ本社の周辺を一周したうえで、生協本部の正面玄関を訪れ、石田委員長と当該のAさんから申し入れを行った(最初の写真)。

 10827_5 この15年、阪神淡路大震災以来、被災地連絡会として関西合同労組のみなさんと一緒に闘ってきた。集まった住吉公園周辺は、震災で魚崎などとともに東灘では最もひどい被害にあった地域だといったことを思い出しながら参加していました。

 今日は、その被災地での3労組の「納涼の夕べ」だ。参加して交流を深めようと思います

 この1週間は、動かないパソコンとの闘い。壊れていないのですが、突然動かなくなる。いろいろ処理を人にも聞きながらするのですが。いったん動いてもすぐ元の木阿弥。ついにあきらめて新しいパソコンを購入しました。今日は、その初信です。9・19三里塚と沖縄を結ぶ関西集会、10・10三里塚、そして現地闘争に、「関実・三里塚ブログ」も「盆休み」を離脱して、さあ、頑張ります。

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2010年8月25日 (水)

雨が降らない現地は大変です

Photo  今日は、現地が産直野菜の作業の狭間ということで、萩原進さんに成田駅でお会いし、「9・19三里塚と沖縄を結ぶ関西集会」の打ち合わせをしてきました。その折に現地の様子をお聞きしました。

 一つはこの猛暑です。前にもブログに紹介しましたが、東京や茨城で雨、それも大雨が降っても、成田空港周辺では雨が降らないのです。それに、夏場特有の夕立もないそうです。そのために毎日の散水に大変だそうです。今は、秋のための苗の植え付けや種まきをする時期だそうですが、例えばニンジンなど市東さんのところでもダメなようです。カボチャも先日火曜日の荷物には入ったそうですが、土曜日はないとか。残念!

 萩原さんのところでは、お宅の前の畑にはスプリンクラーがあるそうですが、清水の畑と、先日、6・27現地闘争の会場になった畑にはありません。タンクに水を入れて車で運んで散水するしかありません。

 市東さんのところでは、3月の全国集会をする東峰十字路近くの畑にはスプリンクラーがあるのですが、天神峰、南台、掘の内の3か所にはありません。

 また、鈴木さんのところでもスプリンクラーがあるのは3割だけだとか。おまけに、森がどんどん空港のために削られて森の保水力が低下し、井戸の水涸れで、鈴木さんのところでは先日新しい井戸を掘りなおされました。

 もう一つお聞きしたのは、同盟ブログに「新たな軒先工事、連日のフェンス張り工事」とあるのですが、その具体的内容がわからないので、お聞きしました。すでに市東さんの発言などで触れられていますが、右上の写真の「A」の字の下部分(萩原さんの畑と島村さんの畑の左側)に機動隊の宿舎を作るためにフェンスが張り巡らされたのと、同じ「A」の字の左上、小見川県道が地下に潜る周辺にフェンスが張り巡らされるなど、第3誘導路建設の準備のためのフェンス張りだということでした。市東さんの農作業に影響が出るようなフェンス張りが強行されるなら、構えるつもりだと萩原さんは言っておられました。

 もうひとつ。9月19日、関西での「三里塚と沖縄を結ぶ関西集会」と同じ日、三里塚現地では、「手話実」が主催して、障害者の集会とデモが行われるそうです。これは、7月31日に萩原さんが提起された、いろいろな集会とデモをやり抜こうという呼び掛けに応えたものです。これまで現地で「手話実」のみなさんが、障害者の隊列として主に鈴木さん宅のそばの菱田砦で何度も開いてきた実績があるので、今回も菱田砦で「手話実」が主催するという形でするけれども、いろんな障害者団体も集まってきてほしいと反対同盟は考えておられるそうです。今回は、その手始めとして反対同盟が協賛するという形をとって、皆さんも参加されるそうです(萩原さんは関西に来ておられるのでメッセージだそうですが)。菱田砦での集会の後、車で東峰まで移動して、市東さんの畑までデモをする予定だそうです。関東の障害者の皆さん。出来れば参加してくださいということでした。

 ほんとうに現地は大変です。

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2010年8月22日 (日)

日韓併合100年

 今日、8月22日、100年前のこの日に、日本帝国主義、明治政府は日韓併合を強行しました。それは、朝鮮人民の政治的主体性を抹殺するだけでなく、寺内の武断政治による支配に象徴されるように、数千年にわたる朝鮮人民の文化と歴史、人間性そのものを抹殺する蛮行であり、世界史的な差別犯罪でした。私たちは、100年を経てなお、この歴史と向き合おうとしないばかりか、一切の民族的、国家的賠償責任を取らないままの菅首相による「談話」=開き直りを許している自らの日本人としての在り様を徹底して自己批判しなければならないと思います。

 朝鮮人民は、1894年、反日・反封建(「遂滅倭夷」「盡滅権貴」)を掲げた甲午農民戦争を闘い抜き、1895年10月の閔妃虐殺事件、直後の断髪令の強行に抗して始まった義兵闘争は、日本帝国主義による熾烈な弾圧と虐殺をもはね返して、1913年まで陸続と闘い抜かれました。そしてその闘いは、中国東北部、ソ連極東地帯での中・朝人民による抗日武装闘争に引き継がれ、1919年の「3・1万歳事件」=独立運動への筆舌を尽くし難い弾圧、拷問、虐殺、1920年、「三光作戦」というべき2万の日本軍による間島地域への襲撃と殲滅攻撃をもはね返して、1945年の解放まで闘い抜かれたのです。とりわけ1919年の「3・1万歳事件」は、中国の「5・4運動」をはじめ、アジア諸地域の民族解放闘争への号砲となったのです。

 凄まじい弾圧と恐るべき拷問、虐殺を前にしながら、朝鮮全土で、10代の少年や少女も含め死をも恐れず全民衆的規模で立ちあがって闘い抜かれた「3・1独立運動(万歳事件)」は、朝鮮独立に向けた朝鮮人、そして在日朝鮮人の中に語り継がれました。今日はその折の独立宣言(カナダ人のフレデリック・A・マッケンジーの著「義兵闘争から3・1独立運動へ」を神戸で活動しながら訳して出版した韓皙曦(ハンソクイ)さんの日本語によるものですが)をご紹介して、一つの出発点としたいと思います。

    朝鮮独立宣言書

 われらは、ここにわが朝鮮の独立と、朝鮮人民の自由民たることを宣言する。これをもって世界万邦に告げ、人類平等の大義を明らかにし、かつこれを子孫におしえ、民族独立を天賦の権利として永遠に保持させるものである。

 われわれの背後にある五千年の歴史の権威によってこれを宣言し、二千万民衆の忠誠を合してこれを宣明し、恒久にかわることなき民族の自由な発展のためにこれを主張し、人類良心の発露にもとづく世界改造の一大機運に順応し、これとともにすすまんがためにこれをなすものである。これすなわち天の明命、時代の大勢、全人類の共同共存同生の権利が、正当に発動したものであって、天下のなにものといえども、これを阻止し、抑圧することはできない。

 旧時代の遺物たる侵略主義・強権主義の犠牲となって、有史以来幾千年、はじめて異民族による抑圧の苦痛をなめて以来、ここに十年の歳月がすぎた。わが生存権の剥奪、思想の自由な発展に対する障碍、民族の尊栄を毀損したること、新鋭と独創とをもって世界文化の大潮流に寄与すべき機縁を失ったことなど、およそ幾許か知れない。

 ああ旧来の抑圧より脱し、現下の苦痛よりのがれ、将来の脅威をのぞき、民族の良心と国家的廉義の圧縮銷残せるを回復伸張し、各人人格の正当なる発達をとげしめ、可憐なる子弟にたいして、屈辱の遺産をのこすことを欲せず、子々孫々、永久完全なる慶福をむかえとらんとするならば、その最大急務は、民族の独立を確実ならしむることである。二千万の各個各人が方寸の刃を懐にし、人間性と時代の良心とが、正義の軍と人道の干戈とをもって援護する今日、吾人がすすんでとるになんの障碍もない、しりぞいて事をなすに、吾人の志はかならず達成できる。丙子修好条規以来、時に応じ、種々なる金石盟約を踏みにじりたることをもって、日本の不信を罪せんとするものではない。日本の学者は講壇において、日本の政治家は実際において、わが祖宗の世業を植民地視し、わが文化民族を蛮民視し、もっぱら征服者の快をむさぼるのみであった。わが久遠の社会と、卓越せる民族心理とを無視するものとして、日本の不義を責めんとするものではない。自己を策励するに急なる吾人は、他を怨むいとまはない。現在の問題に多忙なる吾人は、過去をとがめる暇がない。今日われわれの専念するところは、ただ自己の建設のみである。けっして他を破壊することではない。厳粛なる良心の命令によって、自家の新運命を開拓せんとするものである。旧怨および一時の感情によって、他を嫉逐し排斥するものではない。旧思想、旧勢力による日本政府の功名的犠牲である不自然にして、また不合理なる、あやまれる状態を改善匡正し、自然にして合理的なる正経の大原に復帰せんとするものである。当初から、民族的要求に由来しなかった両国併合の結果が、畢竟、姑息なる威圧、差別的不平等、および統計数字の虚飾のもとに、利害相反する両民族間に、永遠に和合することのできない怨みの溝を、ますます深からしむる今日までの実績を見よ。勇気・明断・果敢、もって旧来のあやまりを正し、真正なる理解と同情とにもとずく、友好の新局面を打開することが、彼我のあいだに禍を遠ざけ、祝福をもたらす捷径であることを明察すべきである。また、含憤畜怨の二千万人民を、威力をもって拘束することは、東洋永遠の平和を保証するゆえんではない。のみならず、これによって東洋安危の主軸たる四億万中国人民の、日本に対する危懼と猜疑とを、ますます濃厚ならしめ、その結果として、東洋全局の共倒と同亡の悲運をまねくことは明白である。今日吾人の朝鮮独立は、朝鮮人をして正当なる生活の繁栄の追求をなさしむると同時に、日本をして、その邪道から脱出せしめ、東洋の支持者たる重責を全うせしめ、中国が夢寐にもわすれえない不安・恐怖からこれを脱出せしめ、東洋平和の、またその重要なる一部をなす世界の平和、人類の幸福に必要なる段階たらしめんとするものである。区区たる感情の問題ではない。

 ああ新しい天地は眼前に展開せられた。威力の時代は去って道義の時代はきた。過去全世紀にわたり練磨長養されきたった人道の精神は、まさに新しい文明の曙光を人類の歴史に投じはじめた。新しい春は世界にめぐりきたり、万物の蘇生を催進しつつある。凍氷寒雪に呼吸をとざされたのが、かの一時の勢いなりとすれば、和風暖陽に気脈をふるう、これも一時の勢いである。天地の復運に際会し、世界の変潮に乗じた吾人は、何らの躊躇なく、何らの忌憚もない。わが固有の自由権を護全し、生旺の楽を享受すべく、わが自足の独創力を発揮して、春満てる大界に、民族の精華を結集すべきである。

 われらはここに奮起した。良心はわれらとともにあり、真理はわれらとともにすすむ。男女老若、陰鬱なる古巣よりおどりいで、万民群衆とともに、欣快なる復活をとげんとするものである。千百の世祖は、かげながらわれらをたすけ、全世界の気運はわれらをまもっている。着手はすなわち成功である。ただ前方の光明にむかって驀進するのみ。

朝鮮建国四二五二年(1919年)三月一日

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2010年8月21日 (土)

今週の産直野菜(8月21日)

10821 残暑お見舞い申し上げます。こんな言葉が、各ブログに、そして今日来た「野菜だより」にも。ほんとに暑いですねぇ。

 先ほど三里塚から2週間ぶりの産直野菜が届きました。ひとまず空芯菜を洗い桶の水に浸して一休みさせました。10分ほどでしゃきっとしてきました。届いたのは、その空芯菜に、ジャガイモ(豊しろ)、なす、ピーマン、オクラ、ししとう、ゴーヤの7品です。

 盆明けに萩原進さんと電話でお話ししたら、盆前に全国的に降った雨が東京方面も降ったそうですが、萩原さんの周辺(成田空港周辺)は、結局降らずで、水やりに大変だとのことでした。巨大な面積のコンクリートの塊を、自然の森と農地を破壊して作ったことで、特異な上昇気流が発生し、周辺が雨でも、空港周辺には降らないで、熱風が吹き荒れるということが起こっているとは、たびたび現地で鈴木さんなどからお聞きしてはいましたが、普通でも熱中症の犠牲者が多数出ているこの異常気象の中で、なおのこと大変だなぁと思わず思いました。

 産直野菜のお盆休みで、冷蔵庫の野菜入れは空っぽ。連日ジャガイモと小玉ネギの湯がいたので我慢してきましたが、さあ、これで美味しい野菜が食べれます。ありがとうございますぅ~。

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2010年8月20日 (金)

10731

【 市東孝雄さん 】

 みなさん。暑い中、ご苦労様でした。前から言ってきてますように、家から直線で1500メートル、今、通ってきた道ですね。やはり3倍くらいかかります。絶対に、この攻撃は許すわけにはいかない。これ以上形を変えないように、闘っていきたいと思います。10731_2

 前の裁判の時ですね、後ろのフェンスのようなのでやられたらあれでしたけれど、穴開きでやったんでどうにかもめずに済みましたけれども、でも、許される攻撃ではありません。今、そこにポールが立っていますけれども、そのポールを全部はずして、草もきれいにします。そうすればトラクターも向こうへ入れるし、「フェンスしたんだから」とこちらでやると向こうに言いました。

 先ほど萩原さんの畑もそうでしたけれども、二月も見ないと、まるっきり様子が変わっている状態ですね。実際に工事を始めているとは言いませんけれども、事実上もうやってるということです。それだけ空港会社が焦ってるということですね。先日来、羽田のハブ空港化まであと3カ月という、あれが空港会社の上の方ではショックだったみたいですね。

 ですからそういうことがありますから、私たちの闘い方で、まだまだこの空港を遅らせる、遅らせるというよりも廃港まで闘っていきたいと思います。よろしくお願いいたします。

(司会) 最後のまとめを萩原さんよりお願いいたします。

【 萩原進さん 】

 ほんとに暑い中、ご苦労様です。本日は急きょ、先日のこのフェンス張り、いわゆる目に見える工事開始と彼らが出てきたために、我々はいつでも迎え撃つという建前のもとに、今日、組んだわけです。そういう意味で長い闘いになります。

 10月まで待つわけにいきませんので、いろんな意味でこれからは、工事という中で、早朝デモもあるだろう。昼間のデモもあるだろう。暗い中のデモもあるだろう。そういうのも組んでいく。あるいは女性独自のデモ。全学連独自のデモ。障害者の人たちのデモ。そして労働者のデモ。そういうものを、創意工夫を凝らしながら組んでいきたいというふうに思います。そして、この三里塚の地を、暑い夏だけじゃなくって、自らが闘いの渦に関わっていきたいというそういうような姿勢を作っていきたいと思います。一方で裁判闘争もあります。そういう中でやり抜いていく。

 みなさんの前半の闘いをもって、勝利的展望を生み出した、今の市東さんの発言の中にありましたけれど、これだけ言われてね、しかも生活そのものを破壊されてもね、まだ勝てる展望があるんだという、そういう意気ごみというか精神力、これを発揮したいと思います。10731_3

 まあそういう意味では、三里塚というのは、裁判闘争もあって、司法も総力をかけて攻撃がくるでしょう。立法も中心として来てる。行政も表になって来てる。みんな全体重をかけて押しかけて来てる攻撃ってのが今あるわけでしょ。それだけじゃなくって、今、市東さんの話にあったけれども、羽田ハブ空港化に腰を抜かした地元財界、利権屋がね、完全空港化だと、そして20万回から30万回にもって行けと、あるいは24時間空港に持って行けというようなね、そのような反動的な攻撃の中で、圧倒的少数派が決起して闘い抜いているんですよ。これが非常に重要なんですね。

 我々は、職場でも、学園でもそうだろうと思います。しかし、これは歴史の積み重ねとかそういうもんじゃないんですよ。ここにおけるみなさんと文字通り団結した力でやっていく。そういう意味では、先日、学生が、三里塚が死を賭しても闘う闘いなんだということを書いていた。正にそのとおりだと思う。だけど悪いけれども言わしてもらうと、今になって判ったのかと。まあ、確かに40年経って、20年前に生まれた人にはまだまだ判んないだろう。しかし、学生の諸君もそうだと思いますけれども、三里塚の中で、羽田を闘い抜いて、佐世保をやって、王子をやって、その次の日に三里塚に来る。あの街頭闘争をやった時代があるわけです。キャンパスの中に閉じこもっていたら絶対にそういう形にはできません。

 社会党や総評を見ていて明らかだと思うんです。これは中心の指導部が悪いだけじゃないんですよ。やはり下からの持ち上がりと、下からの揺り動かし、決起がねここに現われてるわけですよ。政治闘争、街頭闘争、三里塚のこの地に立って初めてわかるわけですよ。このことが非常に重要なんですよ。これ頭で覚えたって駄目です。市東さんが「本気なんだ」というのは、ここにほんとに一生かけて、自分の体一切をかけてんだという、このことをみんな判ってくれという、この事を一緒になって闘うんだと、この夏闘うんだと、そして今年一年闘うんだということを物語ってんですよ。

 反対同盟は、今年前半そのことをやった。そして後半もやろうとしているわけですよ。みなさん、一緒に闘いましょう。

 (7月31日、市東さんの畑に対するフェンスによる囲い込みに対する反撃の緊急闘争が取り組まれました。その最後のまとめの、市東さん、萩原さんの挨拶です。これを真正面から受け止め、9・19三里塚と沖縄を結ぶ関西集会、10・10三里塚全国集会、そしてそれを待つことなく闘われる現地での闘い、裁判闘争、そして沖縄とともに今年の後半を、正に「まなじりを決して」闘い抜きましょう!)

 

 

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2010年8月16日 (月)

在日米軍基地を糺す

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 盆の最中の昨日、8月15日、神戸市勤労会館で会場ぎっしり満員の人々が集まって、「8・15平和のための市民の集い」(米軍基地はいらない!兵庫県実行委員会・戦争を起こさせない市民の会共催)が開かれました。10815_2 主催者の挨拶と連帯の挨拶の後、京都から駆けつけてくださった大城敏信さん(京都沖縄県人会副会長)が三線の演奏と沖縄民謡を謡われました(右写真)。その後、元沖縄大学学長の新崎盛暉さんから質疑を含め2時間にわたる講演が、淡々とした中に確信と怒りに満ちた「在日米軍を糺す」と題して行われました。

 新崎さんは先ず、「沖縄にとっていつ戦争は終わったか」と話し始められた。「6・23慰霊の日」はあくまで司令官が自決した日であり、「最後の一兵まで闘え」というその折の指示によって、日本軍の兵士だけでなく、沖縄の民衆も、それ以降、離島での9月7日に至るまで殺される惨禍が続いた。伊江島では2年後の1947年まで山に逃げ続けていた兵士がいたと。

 続いて新崎さんは「歴史の復習」として日米安保体制が構造的沖縄差別の上になりたっており、しかもその「構造的差別」は、今日に至るまでどんどん深まっていると糺された。1952年4月28日、日本は独立をかちとった。同時に成立した日米安保条約で、「米軍は日本全国に基地を持てる」としながら、「なぜ、沖縄を分離、占領したのか」と問われた。日本が主権国家として歩んだ場合、その基地が永続的に確保できる保障がなかった。占領下の沖縄ならば米軍の自由に基地が作られ、支配できると。しかし、この時点でのヤマトと沖縄の在日米軍基地は、8対1(沖縄に11%)であった。10815_3

 「日本を守る」として存在した在日米軍基地によってヤマトで様々な問題が起こり、内灘、砂川に象徴される反基地闘争が起こっていった。この日本自体の日米関係の不安定化に対して、安定させるために60年安保改定が強行された。この時期、地上戦闘部隊(主に海兵隊)の撤退という合意を軸に、ヤマトの在日米軍基地は4分の1に減り、沖縄は2倍に。1対1(沖縄に50%)になった。

 60年代後半、無権利状態の沖縄で、祖国復帰運動を始め反基地闘争が続発していった。この沖縄の不安定化という事態に対し、(背景にベトナム戦争があり、全国的な安保・沖縄闘争があった)「どこかでガス抜きをしなければ」という日米両政府によって沖縄における基地の固定化、自由使用を前提とした1972年の沖縄返還が行われた(1965年に日本は戦後初めて国際収支が黒字化し、経済大国への道に。国のメンツとして占領状態を避けたかった佐藤栄作政権といった問題など)。「日本の安全にとって沖縄の米軍基地の存在は重要である」と佐藤首相。この過程で、ヤマトの米軍基地はさらに3分の1に減り(代わりにほとんどが自衛隊基地に)、沖縄が固定化されたために国土面積0.6%の沖縄に、在日米軍基地の75%が集中するという状況が生まれた。

 同時に、「沖縄の米軍基地は日本の安全にとって重要(抑止力)」とする政府が続くことによって、そして国会の圧倒的多数が「誰もやめると思っていない」状況の中で、日米安保条約は1970年以降、今日まで自動延長され続けている。

 1990年を前後する東西冷戦の終焉とソ連の崩壊によって、「共産主義の脅威からの防衛」を根拠とした日米安保はその存在根拠を失った。しかし、新たな北朝鮮の脅威と中国の肥大化、脅威を根拠とした「安保再定義」が行われようとした1995年、米兵による少女暴行事件をきっかけとした沖縄の民衆決起が起こり「沖縄に関する特別行動委員会」が作られ、1970年代から「世界一危険な基地」と言われてきた普天間基地問題が政治の焦点になった。10815_4

 普天間基地は、1945年6月、民衆が避難し、あるいは捕虜収容所に隔離され誰もいない中で、日本本土爆撃のために作られた。1960年、海兵隊の航空基地となるが、ベトナム戦争の激化の中でP3Cやヘリコプター基地を日本本土に求めた米軍に対して、福田赳夫(当時外相)が、「国内はダメ。沖縄だ」として嘉手納に。しかし手狭なため普天間を整備して移った。そのために、「世界で一番危険な基地」となった。

 普天間基地の移設問題で2006年の日米合意を軸に地元とごちゃごちゃしている中で政権交代が起こった。この政権交代というのは何だったのか。

 民主党が政権を取る前に出された「沖縄ビジョン」には、(菅も、岡田も、鳩山も)一致し普天間の県外、国外移設が言われていた。しかし、政権を取ることが明らかになるころから鳩山だけが「県外、国外」と言ったとされ、「民主党マニュフェスト」には入れられなかった。しかし、アメリカのゲーツの一喝に転んだ岡田外相は、政権に着く前の09年7月(当時民主党幹事長)、雑誌「世界」のインタビューに答えて「普天間は県外、国外に移設すべき」「もう少しアメリカに考えてもらいたい」などと明言している。当時、民主党の外交政策の全体像には明確なものはなかったが、日米安保体制をこのままずるずると続けていっていいのかという漠然としたものは持っていた。インド洋の給油活動の停止とアフガニスタンへの民生支援、アジア、中国との関係改善を通した東アジア共同体、米軍再編の見直しなど。ここに「政権交代」の一面が少なくともあったはずだった。

 しかし、昨年オバマの来日に先駆け訪日した、ブッシュ政権から引き続いて国防長官を務めているゲーツに、岡田外相(民主党)は、その「日米安保、米軍再編の見直し」を一蹴され、脅かされることを通して完全に転向した。そして「マニュフェストにはなかった。民主党の公約ではなかった」「いかに日米同盟は重要か」とつぶやき始めた。これは自公政権と全く同じものだ。追い詰められ相談した外務官僚、防衛官僚は自公政権時代から同じだ。その結果に過ぎない。

 「年内決着」を諦め「5月決着」と先延ばし、独り抵抗する鳩山に対し、1月、それまで諦めていた人たちも立ちあがって名護市長選挙が「基地撤去、新基地建設反対」を選択し、3月には自公と国民新党のねじれを生みながら沖縄県議会の全会一致の同趣旨の決議、そして4月25日の県民大会がかちとられ、ある意味で鳩山を「支えよう」とした。その過程で鳩山がしがみついた「徳之島移設」も、「県外だが、圏内だ」という声の中に沈没する。ここで問題とされたのは、実は、「移設先」ではなく安保の廃棄ではないにしろ、少なくとも「見直し」だったのだ。このことに追い詰められた鳩山は、5月4日「県内へ」とし、「日米合意」を5月28日強行して挫折し、崩壊した。(左写真は、講演後、質問に応えられる新崎さん)10815_5

 鳩山と共に小沢と無能な平野は去ったが、あとは全部残った。残った連中は何をしているか? 沖縄担当大臣の前原は、この5月に現名護市長に会うのではなく基地推進派の前市長と基地容認派の土建屋などを呼んで密談をしている。そしてつい先日、裁判でも公金支出を差し止められた沖縄市の泡瀬の埋め立てを容認している。北沢防衛大臣もまた、北部の市町村長との面談の中で、自民、公明が推薦する「最早県外移設は不可能」とする仲井真知事の「当選を願う」とぶち上げている。また、参議院選挙で民主党の沖縄県連からの候補者の擁立をつぶし、結局自公が推薦する候補が当選した。

 今後、どうなるのか? 一つは、沖縄対ヤマトということがどうしても出てくるだろう。県内移設に反対しているのは社民党と共産党だけで、圧倒的少数派だ。そういう中で今後起こってくるのは右翼的政界再編だろう。辻元清美の問題で明らかになっているように革新政党の中に無力感が広がっている中で、どうしていくのかだとされた。

 時間がない中で、新崎さんは最後に、韓国の掃海艦の沈没事件を例に挙げ、民主党政権は、鳩山も菅もこれぞ「抑止力の必要性」を示したものとするが、米韓軍事演習をしているその最中に、気付かれもせず北朝鮮の潜水艦が近づき、沈没させた上で気付かれもせず去っていくという何処に「抑止力」があるのか。そもそもそんなことがあり得たのかとされた上で、右翼的政権である李明博政権が、これを戦争的事態として大宣伝し選挙に利用しようとして、逆に大敗した。ここに示された韓国の世論の動きは何であったのかを私たちは学ぶべきではないかということを指摘されて講演を終わられました。

 講演後の質疑でも、質問者の問いに真正面から向き合いながら多くの貴重な示唆に富んだお答をされました。先日8・6ヒロシマで、知花昌一さんは「日本の政治の動向に一喜一憂しない」「日本の運動にも一喜一憂しない」と言われた事を想い起しながら、沖縄の皆さんが基地と共に歩まざるを得なかった中で持たれている政治的な高さを感じずにはおられませんでした。

 私たちヤマトが、指摘されたように「沖縄とヤマト」が対峙する状況の中で、本当に日米安保を問題とし、「抑止力とは何か」を問い、「日米安保はいらない」とする政治状況をどうやって生み出せるか、本当に踏ん張らなければならないと強く思いながら帰途につきました。

 

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2010年8月12日 (木)

9月19日 三里塚と沖縄を結ぶ関西集会の成功を!

10919  9月19日、以下の要領で沖縄・名護のヘリ基地反対協・共同代表の安次富浩さんをお招きして 「9・19 三里塚と沖縄を結ぶ関西集会」を開催いたします。今日、そのチラシが出来上がりました(左写真)。PDFで印刷できますので、集会の成功のために大いに活用してください(「10.9.19チラシ.pdf」をダウンロード )。

 なお、集会の成功のために広範な皆さんの集会へのご賛同をお願いしております。賛同金は、個人、団体を問わず、一口500円です(複数口歓迎)。           振込口座番号 00980-1-63353                  振込口座名 三里塚決戦勝利関西実行委員会            (通信欄に必ず「9・19集会賛同」とお書きの上、住所・氏名のほかに、肩書き、公表の可か不可かをご記入の上、ご送金いただければ幸いです。)

 皆さんの周りでも「賛同」を集めてください。そして、皆さんの周りで、地域で、職場で、学園でこのチラシをまいて宣伝してください。

    集会要項

【とき】 9月19日(日)午後1時開場 / 2時開会             (13:30より、三里塚現地情勢のスライドによる説明がありま   す)Photo

【ところ】 大阪市立中央会館・ホール   (右図参照/大阪市中央区島之内2-12-31)

【講演】 安次富 浩さん(名護・ヘリ基地反対協の共同代表)       「沖縄・辺野古と安保体制」                                (仮題)

【三里塚からの訴え】 萩原 進さん(三里塚芝山連合空港反対同盟事務局次長)

【参加費】 1000円(資料代) (大学生、高校生 500円)

集会後、ナンバまでデモ

【主催】三里塚決戦勝利関西実行委員会 / 三里塚芝山連合空港反対同盟

なお、チラシ、地図はいずれもクリックしていただければ大きくなります。

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2010年8月11日 (水)

8・7平和学習 in ヒロシマ

1087_2   8月7日、前日の「ヒロシマの夕べ」に引き継いで、フィールドワークと講演の「平和学習」が開かれました。

 先ずは広島駅から被爆電車に乗り、ただ一人の生き残りの米澤鐡志さんから、小学校5年生の時に、お母さんと一緒に被爆した百貨店福屋前などで簡単な様子を伺いました。この日のために東京から参加された方もあり、3分の1近くの人がたったままの状態にはビックリ。お陰で、電車の中の様子は写真が取れませんでした。写真は原爆ドーム前に着いてみなさんがおりているところで一番右端が米澤さん。

 1087_3 原爆ドーム前で、全員が降りてわたってくるのを待つので一休み。それから相生橋をわたって平和公園へ。平和公園の一番北端です。前に元安川を挟んで原爆ドームが見えるこのあたりは、爆心地からわずか250メートルくらい。左の絵(地図)は、広島市が発行した「平和公園めぐり」から引用したものです。案内していただく福島和男さんは、左図の左側の北から4軒目の白いところに自宅があり、その右向かい(ピンク色)にご両親が経営していた旅館があったのです。

 この日朝早く、旧制中学2年で、学徒動員で己斐の工場に行っていた福島さんは助かったものの、残りの家族と旅館の従業員は全員が、跡かたもなく亡くなられた。北側には、陸軍の駐屯地があり、この界隈は当時、広島でも一番賑やかな町だったのです。ダンスカフェあり、映画館あり、料亭、旅館、はては女郎屋まであったのです。地図中央の両側に橋がある中島本通りはアーケードもあり、端には派出所もある広島で一番賑やかな通りだったのです。その町と通りが一瞬にして消えてしまったのです。

 1087_4 本通りの北側、左手すぐのところには「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」もあります。そしてその近くの本通り南側には1945年年末までに亡くなられた597人の中島町の犠牲者の名を刻んだ慰霊碑があります(右写真。亡くなられたご家族の名を指差しておられるのが福島さんです)。

 お昼休みの後、原爆資料館の地下にある会議室で「平和学習」です。

 先ずは福島和男さん(左写真)から「消え去った爆心の町・人」と題してのお話です。1087_5 福島さんは、近くに住む3年生と学徒動員の場所(己斐)から、自宅の方へ戻ろうとしますが、近づくこともできず、結局、己斐のさらに南の方に逃げていったお話しと、叔母さん夫婦のところに身を寄せて高校を卒業された話しなどをされました。

 爆心地から3キロ離れた工場だったが、ピッカと光ったので逃げたら、後ろで工場が2階建が爆風で1階建てに潰れていた。爆風の後は黒い雨。それで、帰ろうということになった。しかし、爆心から2キロの周辺に沿って、中島町の南側に来て近づこうとするものの火災で近づけない。いったん東の方へ行っていたのを諦めて元へ戻ろうとした時に、住吉橋の近くで、中学1年生の建物疎開に動員されていた女学生たちの沢山に会った。顔は区別もつかないくらいに胸から腫れあがって寸胴(ずんどう)のようになり、手は幽霊のように前にぶら下げて皮膚が垂れ下がっている。「生き地獄」だった。また西へ逃げる途中、小網町の鉄橋を渡っていて天満川に死体がいっぱい浮いているのが見えた。

 引き続いて、「2010年 核と人間は共存できない。 1087_6 今、日本の戦争責任を問う」と題して、米澤鐡志さん(右写真)の講演です。米澤さんは、1931年柳条湖事件からの日本の侵略と戦争への流れ、そして敗戦に向かう経緯を語られて、空襲が日常化する中での生活を振り返られた。そして学童疎開という事態を引き受けさせられた自分たちを語られた。その上で、ご自分の原爆体験を語られました。この部分は、昨年、同じ8月7日、被爆電車の中で詳しく語られており、当ブログで紹介しておりますので、是非、ごらんください(http://kanjitsu-sanrizuka.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-50d6.htmlをクリックしてください)。最後に米澤さんは、当時の広島の被爆市民35万から40万人のうち被爆死は11万人(30%)に対して、朝鮮人は被爆者5万人のうち被爆死は3万人(60%)ということを挙げられ、その原因として多くは強制連行などで広島に入ったほとんどの朝鮮人が、被爆した直後から市外へ避難するすべを持たず、残留放射能の被害をまともに受けたこと。そして、日本人の子供たちが強制的に集団疎開されていたにも関わらず、朝鮮人の子どもたちは、組織的に排除され、広島にとどまり続けてきたこと。こうした6割もの被爆死を招いた上に、韓国の被爆者手帳を得たのが昨年であり、北朝鮮も含め放置され続けている。こうした被爆朝鮮人の問題を解明することなしに、被爆の問題は前に進み得ないと厳しく提起されたのです。

 前日、池田精子さん(広島県被団協副理事長)から提起された被爆者の悲惨さ、苦難をこそ私たちの反核の闘いの土台に据えること、そして知花昌一さん(読谷村議)から提起された「加害と被害の問題」、この核心的課題を具体的に福島さんと米澤さんのお話から確認することのできた「平和学習」でした。

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2010年8月 9日 (月)

8・6ヒロシマへの三里塚反対同盟のメッセージ

1087  写真は、相生橋から望んだ原爆ドーム(10年8月7日)

 8月6日の「 8・6ヒロシマ -平和の夕べ-」に三里塚芝山連合空港反対同盟北原鉱治事務局長よりメッセージが寄せられました。以下にご紹介します。

      メッセージ

 8・6ヒロシマ 平和の夕べに結集された皆さん。決戦の三里塚から連帯のメッセージを送ります。

 ヒロシマ・ナガサキの被爆から65年、人類は未だ核のない世界を実現できてはいません。否、逆に核戦争の危機が強まっているのが現状ではないでしょうか。7月25日から28日まで行われた米韓の合同軍事演習を見るまでもなく、朝鮮半島をめぐる軍事的緊張は高まるばかりです。

 今こそ、ヒロシマ・ナガサキそして沖縄と一体となった反戦闘争の拡大を何としても実現しなくてはなりません。

 ベトナム侵略戦争のさ中に計画された三里塚空港に対して、私たち反対同盟は軍事空港建設反対をメインスローガンの一つにかかげました。幾多の闘いの教訓を経る中で、小西のぶ子さんを始めとする被爆者のみなさんとの交流・連帯の中で「三里塚を反戦・反核の砦にする」という決意をうち固めてきました。

 アメリカ・オバマ政権による「核廃絶宣言」のペテンを暴くとともに、原発の大々的輸出を唱える菅政権の戦争政策と対決し、全世界の労働者・農民・人民の力で、核のない世界を実現しようではありませんか。

 反戦・反核の砦=三里塚に対して、2010年、闘争破壊の攻撃が押し寄せています。天神峰団結街道の閉鎖、第3誘導路の着工、市東孝雄同盟員への畑の囲い込み、追い出しを狙う攻撃、現闘本部の強奪を狙った東京高裁での控訴審早期結審攻撃・・・・。

 しかし私たちは、44年間貫き通した「空港絶対反対・一切の話し合い拒否・実力闘争」の力を遺憾なく発揮し、市東同盟員の実力決起を先頭に組織をあげた反撃の闘いを爆発させました。支援の労働者・農民・市民・学生がこれを支えてくれました。国土交通省・空港会社に焦り、追いつめられた姿を強制しています。彼らは夜陰に乗じ(団結街道閉鎖)、裁判の留守中(市東同盟員の畑囲い込み)にこそこそと工事を行うことしかできないのです。

 2010年の後半戦、秋の10・10全国総決起集会の成功を頂点に、さらなる勝利をかちとる決意です。この闘いの前進は核廃絶を求めて闘うヒロシマ・ナガサキの闘いと一体であると確信します。ともに勝利しましょう。

2010年8月6日

         三里塚芝山連合空港反対同盟事務局長・北原鉱治

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2010年8月 8日 (日)

8・6ヒロシマ 平和の夕べ

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 8月6日、広島YMCAで 「8・6 ヒロシマ  - 平和の夕べ - 」が会場をほぼ一杯にする参加者のもとに開かれました。1086_2 産婦人科医で被爆2世の河野美代子さんの司会(右写真)で始まった集いは、広島県被団協副理事長の池田精子さんと、沖縄読谷村村議で反戦地主の知花昌一さんによるリレートーク。そして作家の高史明(コウ・サミョン)さんの「ヒロシマの継承と連帯を考える」と題した「平和講演」の3本だけという非常にシンプルなものでしたが、それだけにそれぞれのお話しが、鋭い切り口を持って聞いている私たちに激しく迫る素晴らしい内容をもったものとして、大成功したように思えました。

 池田精子さん(左写真)は、12歳、中学一年生の学徒動員での作業の中で被爆されたその時の様子を皮切りに、死の世界をさまよい、恢復してもなおケロイドで一変した自らの相貌に苦しみ、悩まれたその想いを赤裸々に語られたのです。1086_3 被爆現場でのご自身の見たことや、先輩や仲間の少女の様子や聞いた話しを交えながら、文字通りに「地獄絵」のヒロシマを語られるそのお話しは正に鬼気迫るものがありました。15度の手術を受け「美しくなりたかったのではない。前の自分の顔を、失われたものを取り戻したかった。しかし出来なかった」と淡々と想いを語られます。人間として悲惨の極限に置かれたものとして、お父さんなどとの関わりから立ち直られる中で、二度とこんな悲惨を人間が受けるべきではないと「核兵器廃絶」への想いを自らのケロイドを曝し、世界に出かけ語り続け訴えられたことを語られました。そして、「残された時間は少ない。生きているうちに核兵器廃絶をこの目で見たい」と残された人生への決意を語られて話しを終えられました。「反核ヒロシマ」の運動と闘いが、被爆者の悲惨さをこそその土台に据えるべきであるということを改めて思い知ることが出来たお話しでした。

 1086_4 続いて立たれた知花昌一さんは、池田さんの話を受けて、チビチリガマを通した「お母さんたちの想いを追体験して語り伝えていく」ことの重要性を「チビチリガマが私の生きざまの根元にある」と先ず明らかにされました。そして「命どぅ宝」という言葉に込められた戦争の悲惨さの中で「生き延びてこれた」人びとへの想いを明らかにされました。その上で、沖縄、広島で犠牲が語られる中で、どれほど「加害」ということが語られているかという想いで、前日5日、韓国人被爆者の慰霊塔のそばでしばらく時間を過ごされ、若いガイドの人たちがどう伝えているかを聞いてきたことを話されました。「なぜ、広島で3万人もの朝鮮人の被爆による犠牲者が出たのか」が話されていないことを明らかにされた上で、侵略戦争の中での「被害と加害」の問題を明らかにしていくことを踏まえた上での「語り継ぐことの大切さと、その内容の大切さ」を訴えられ、「それは広島でも沖縄でも行われなければならない」と提起されたのです。

 現在の沖縄について、知花さんは、明治政府による「琉球処分」以来の3つの「琉球処分」の歴史を簡潔に述べられました。とりわけ1952年の「屈辱」の第2の琉球処分から、「守礼の民」と言われた沖縄の人々の「コザ暴動」に象徴される闘いの中で行われた1972年沖縄返還の「第3の琉球処分」によって、それまで日の丸少年であった自分が「日の丸引き下ろしと焼い」たことへと変転したことを語られました。そしてこの5月28日、鳩山政権による日米合意による新たな沖縄への新基地押しつけを「第4の琉球処分である」と弾劾されたのです。島ぐるみの沖縄の「民意」は「沖縄の県内移設はダメだ」ということであると4・25県民大会に至る様々なことを明確にされました。自公政権でさえ出来なかった「辺野古新基地建設」を民主党政権がそのままおしつけることなど許されない、「それが日本の民主主義のレベルだ」と弾劾されたのです。そして菅政権成立直後の菅首相の言動の反動性を厳しく批判した上で、「もう日本の政治の動向に一喜一憂しない」そして「日本の運動にも一喜一憂しない」「あてにしない」「自分たちで切り拓く」とされました。辺野古に13年かけて指一本触れさせてこなかったように徹底した不服従の闘いをやり抜くというのが、今、沖縄のふつうの声になっていることを明らかにされたのです。そして最後に、大きなうねりを党派を超えて作りだし政治を変えていこうと訴えられました。1086_5

 「平和講演」をされた高史明さんのお話しは、1時間余りの熱弁で、池田さん、知花さんのお話しを引き取り、自らの広島、沖縄との関わりを個人的体験を通して明らかにされながら、原爆を生み出した、いや、今や核分裂ではなく核融合によって広島、長崎の原爆の1千倍、数千倍の恐ろしさを持つ核兵器を生み出した現代の文明のおぞましさを明らかにされました。そして私たちが立ち戻るべき文明論、思想の手掛かりとして、親鸞を軸とした浄土真宗の教えを紹介されたのです。

 そのお話しはあまりにも難解で、とても私の力でまとめることはできません。しかし、「ににんがし」(2X2=4)で全てが分かったような気になって、生命存在を素粒子の段階まで分解して解明したつもりになっているおかしさを指摘されるそのお話しにいつのまにか惹きつけられているのを感じました。そして多くの人々が、その文明論でわかった気になって、現代の様々な問題が噴出してきていることを批判しつつ、この文明論に囚われることなく、原爆を生みだしたこの思想に引きずられることなく、新たな歩みを始めるべきだという様な内容をお話しをしておられるのだということは判りました。

 私自身、自然科学を探求しようとした時期があり、その中で、何よりも原爆の存在が象徴するように、すべてを資本の論理、侵略戦争の論理に身を任せて科学が「進歩」してきた歴史に率直な疑問を抱いていただけに、貴重な指摘があったように思いました。水俣病被害者に見られる現実を、産業の発展、資本の論理で切り捨て、その被害を拡大し、今なお甚大な被害が広がり続けてきていることに象徴される「科学技術の進歩」という化け物に引きずられてきた「現代」を想いながら。そして、それは、被爆者救済ではなく、ただただアメリカの核戦略の基礎資料としての研究を、被爆者をモルモットにしながら続けてきたABCCの問題でもあります。その対極として、大江健三郎さんが「ヒロシマノート」でこだわり続けられた原爆病院の重藤文夫院長を象徴とする多くの人々の被爆者との関わり、そして被爆者の悲惨さを軸として考えていくというものがあるのではないでしょうか。こんなことを想いながらお聞きしておりました。

 しかし、凄い内容に押しつぶされないように、いやこの中身を自らの糧にしようと3時間近く必死で抗ったという気分にさせられた集いでした。ありがとうございました。なお、集会プログラムには、三里塚芝山連合空港反対同盟・北原鉱治事務局長から寄せられたメッセージが、集会賛同者のお名前の紹介と共に掲載されておりました。

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2010年8月 7日 (土)

今週の産直野菜(8月7日)

1087  三里塚の今週(正しくは先週)の産直野菜が、先ほど届きました。8・6ヒロシマに2つの集会に参加し、今日は福島和男さんと米澤鐡志さんお二人の現場見学とお話しをお聞きして帰ってきたところです(詳しくは後日、ブログに掲載するつもりです)。そのために、荷受が今になったわけです。

 写真を撮ってから、暑さにぐったりしているモロヘイヤと空芯菜をさっそく水につけてやっています。

 今日は、小玉ネギとじゃがいも(豊しろ)、ニンジン(最終)、ピーマン、なす、オクラ、キュウリ、モロヘイヤ、空芯菜、ミニトマト、ししとうの11品。猛暑の中にもかかわらず、11品には感謝、感謝。

 口の中での感触がぬるっとするモロヘイヤとオクラは若干苦手。それでも必死でいただいています。先週は残さずいただきました。それにしても、その2品が今回も多い。まあ、来週がお盆休みだから、何とかなるか・・・。ニンジンが最終というのは残念。玉ネギとじゃがいもがいささかだぶついてきていますが・・・。

 猛暑がちょっと異常なようで、現地は散水と草取りに大変だろうなと思います。先日、31日の現地闘争で萩原さんにお伺いしたところでは、「野菜だより」にもありますが、盆のさなかも含めて草取りに精を出し、盆明けの残暑の厳しい月末は、休み休みに作業をするとか。そうですよね。残暑は厳しいですから。ただこの異常な暑さと晴天続きで、どうなるのでしょうか・・・。今年は今のところ異常に台風が少ないのですが、それも気になる時期になっています。なにしろ自然が相手ですからね・・・。

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2010年8月 4日 (水)

8・6ヒロシマ

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 今年も、暑い夏、「8・6ヒロシマ」が巡ってきました。原爆の悲惨さ、広島、長崎はもちろんのこと、ビキニ水爆実験による「第5福竜丸」の犠牲者をはじめとした、原水爆実験による犠牲となった世界の多くの人々の過酷な現実と歴史を想う時、世界の帝国主義を軸とした「戦争の時代」への怒りを新たにしなければなりません。「地球温暖化」を口実に、新たな蠢きが始まった「原子力利用」の流れもまたその一翼を担ったものとして許してはなりません。オバマのペテン的な「非核宣言」はもとより、菅政権による「原子力の輸出」という「成長戦略」もまた断じて許せるものではありません。そして何よりも「抑止力」の神話をぶち破りましょう。

 8・6ヒロシマに出かけよう!

★ 8・6 ヒロシマ ー 平和の夕べ -

【会場】広島YMCA・国際文化ホール (広島市中区八丁堀7-11)

【とき】8月6日(金)16時30分開会0986

【平和講演】 作家・高 史明さん -ヒロシマの継承と歴史を考える-

【プログラム】(司会)河野美代子さん(産婦人科医、被爆2世)

(リレートーク)池田精子さん(広島県被団協副理事長)、知花昌一さん(沖縄・読谷村村議)、岡田和樹さん(上関原発を考える広島20代の呼びかけ人)

【参加費】 1000円(高校生以下 無料)                 写真は、昨年の「平和の夕べ」(怒りネットより転載)

★ 被爆65周年 8・6 ヒロシマのつどい

【会場】広島市文化交流会館(旧広島厚生年金会館) 銀河0986_2

【とき】8月6日(金)12時30分開会

【基調講演】斎藤とも子さん(女優) 「胎内被曝小頭症について」

【プログラム概要】 被爆者の話し。在日韓国人、中国成都、沖縄より。音と絵画と言葉の友演-ヤスカレービッチさん(音楽家)、参加者の皆さん。

(写真は、昨年の「8・6ヒロシマのつどい」より)

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2010年8月 2日 (月)

市東さんの畑、フェンスによる囲い込み弾劾!

10731

 上の写真は、一昨日7月31日の緊急現地闘争のデモの解散地点である市東さんの南台の畑で、5日前の26日にコソ泥のように作られたフェンスを指差しながら挨拶をされる市東孝雄さん(後姿)です。10726

 この市東さんの畑をフェンスで取り囲む攻撃として26日に作られたフェンスは、右図の赤い線で示された畑の北側です。これで、6月26日の開拓道路の封鎖時に封鎖された天神峰現闘本部のところ(左下写真)とで、右(東)側の空港敷地のフェンス、下(南)側の天神峰現闘本部(石橋宅地跡)のフェンス、そして図の左(西)側のフェンスによって、市東さんの南台の畑は完全に囲い込まれたのです。

 10628 これで、市東さんはこの畑に来るには、旧小見川県道から左にそれて、ホテル東横インの前で120度も右に急折れして右折し(この場所の7月31日のデモの様子が、http://www.youtube.com/watch?v=NONbmOv1W6w&feature=youtu.be&aに映像で紹介されています)、小見川県道との交差点を行きすぎてさらに数百メートル行ったところにいわゆる「付け替え道路」が右に出てきます。空港の無駄遣いを象徴するような、機動隊のカマボコが何台も停まれる空き地を右側にもった舗装道路です。この日もカマボコのほかに私服車が何台も停まっていました。市東さんの自宅前の作業場から、車で2~3分(歩いて10分)で行けたところが、東横イン前のピンカーブや県道との交差点の信号で、10分、15分とかかります(近道を歩いても20分以上)。しかも、ピンカーブなどは、ホリデイインホテルの方向から県道に入ろうとする車が多く、大変危険です。10731_2

 右写真は、その畑への入り口です。右上の赤いマークの中に数人の機動隊員がいます。つまり、市東さんの畑を監視する監視台が、元石橋の敷地に作られているのです。「いったい何を監視するのだ!」と怒りがこみ上げてきました。

 第3誘導路建設は、市東さんを叩きだすという一点で建設が始められています。それを理由に強行された6・28団結街道閉鎖と、7・26フェンス囲い込みの攻撃は、ただただ市東さんへの脅しと営農破壊を意図したものでしかありません。こんなことが許せるでしょうか。

 しかし、最初の写真を見てください。7・26に新たに取り付けられたフェンスは、他の3方向の鉄板のフェンスと違います。見通せるフェンスです。このフェンスがあるのは、他には、東峰の島村さんの畑のところだけです。これは何を意味するでしょうか。「市東さんが条件交渉に応じて話し合いの席についてほしい」、そのために全面的に市東さんと対立をする形が取れなかったということではないでしょうか。つまり、市東さんがこの畑で営農を続ける限り、彼らがどんな姑息な、卑劣な攻撃をかけようが、暫定滑走路の「へ」の字問題は何一つ解決しないということを彼ら自体が熟知しているからです。ここに、「追い詰められているのは、NAAであり、国家権力の方だ」という核心があります。10731_3

 通行禁止の看板をNAAが違法に立てようとし、市東さんの必死の決起と不当逮捕という事態が起こった5月17日、この日に、国土交通省の「成長戦略会議」が最終答申を行い、「羽田・成田一体化」と「成田ハブ化」の行程表を発表しました。「2012年、27万回化」「2014年、30万回化」と。これは、12年第3誘導路供用開始、併せて「へ」の字問題の解消を前提としていることは明らかです。しかし、この南台の畑で市東さんが営農を続ける限り、こうした目論見は正に「絵に描いた餅」でしかありません。土地収用法という天下の悪法を失った彼らには、結局、市東さんに話し合いの席に着いてもらうしかないという自白が、この「見通せるフェンス」ではないでしょうか。(写真は、7月31日の市東さん。)

 市東さんは、この農地に正に仁王立ちしておられます。しかし、だからと言って、私たちが市東さんにぶら下がり、眺めているのは間違いです。10731_5 正に、沖縄で、基地撤去の沖縄の皆さんの闘いに、ヤマトとして「安保体制はいらない」と国民的論議を巻き起こして応えられるかどうかが問われているように、この市東さんの闘いを、全国に知らしめ、大きな怒りのうねりを組織していくことが、この市東さんの決起と反対同盟の44年にわたる闘いに応えることではないでしょうか。萩原進事務局次長が、「我々の構えによって闘いは決まる」と言われ、31日も、「朝からのデモ、昼からのデモ、暗くなってからも。女性だけのデモ。障害者だけのデモと、(全国集会の)10月を待つことなく、いろいろとやっていこうじゃないか」と訴えられたのもこのことを言わんとされたのだと思います。その前提として「三里塚の現地に立てばわかる」と訴えられながら。(右写真は、31日の萩原さん。)

 反対同盟の要請にこたえながら、現地を訪ね、監視台に上り、援農などを通して具体的に三里塚を知ろう!そして10・10全国闘争に総決起しよう!

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2010年8月 1日 (日)

緊急現地闘争(7月31日)と、今週の産直野菜

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 昨日、7月31日、三里塚現地で「農地囲い込み弾劾!第3誘導路粉砕」の緊急現地闘争が反対同盟の呼びかけで開かれました。詳しくはすでに反対同盟ブログに映像が掲載されていますのでそちらをご覧ください(http://www.sanrizuka-doumei.jp/home/2010/07/post-167.html)。

 市東さんのお宅の南側にある開拓道路南端の会場は陰一つない道路。猛暑の中、反対同盟と現地支援連を中心にした人びとが集まりました。集会は、鈴木謙太郎さんの司会で始まり、先ず烈々たる闘争宣言が萩原富夫さんから読み上げられた(「10.7.31闘争宣言.pdf」をダウンロード )。10731_2 続いて北原鉱治反対同盟事務局長から、反対同盟を代表しての挨拶。「三里塚からはじめよう」とまとめられました(右写真)。動労千葉の滝口さん、関西実行委員会の私の挨拶の後、現地支援連4党派の決意表明があって、さあ、デモに出発です(最初の写真が、デモの先頭の反対同盟)。

 デモは、市東さんが団結街道が封鎖されたことによって通ることを強制されている「付け替え道路」へのデモだ。ホテル東横インの前の「ピンカーブ」は確かに危険だ。そこで機動隊が挑発的な規制をしてくる。反対同盟と一緒に歩いていた私にも盾をくっつけぐいぐいと押してくる。ただでさえ暑くて汗がタラタラ流れるところに熱い盾がおしつけられるからたまったものではない。10731_3 押し返し、抗議した。小見川県道との交差点を過ぎて少し行くと、市東さんの畑に行く「付け替え道路」が右側に見えてくる。居並ぶ機動隊の車両や機動隊員の姿に怒りが爆発しそうになる。左写真は、この道路から市東さんの南台の畑に入る市東孝雄さん(中央)、萩原進さん(右)、萩原富夫さん(左)です。

 市東さんの南台の畑の西端に入り、そこで、市東さん、萩原さんから挨拶と提起が行われてこの日の闘いを終えました。10731_4 市東さんは、新たに張られたフェンスを指差しながら(右写真)、淡々と「これ以上形を変えさせないように頑張ります」「私たちの闘い方で、廃港まで持っていける」と語られました。萩原さんは、「これだけやられて、生活を破壊されて、それでも勝つ展望はあるんだ」「この凄い敵の全体重をかけた攻撃に対して、圧倒的少数派が闘い抜き勝利している。これが非常に重要だ」と語られ、10月を待たずに、どんどんいろいろなデモをやり抜いて我々の意思を示そうと提起されたのです。

 この日の集会があった開拓道路の近くでは整地が進み、機動隊の新たな宿舎の建設が行われようとしているとか。市東さんが言われたが、ちょっと見ないうちにどんどん様子が変わっていく、正に決戦の最中にあることをひしひしと感じさせられました。10731_5

 この日の行動のために、「今週の産直野菜」が遅れに遅れて着きました。暑さで傷んでいるのではと心配しましたが、一番弱いモロヘイヤも何とか無事。現地は、久しぶりに一昨日まで2日雨が降り、「ほっとした」と市東さん。昨日も帰るころに黒い雲が来て、ポツポツと雨が来ましたが、どうだったでしょうか。この凄い日照りの中、沢山の野菜が届いたのにビックリ。

 玉ネギ、じゃがいも(コイモ)、なす、ピーマン、オクラ、キュウリ、モロヘイヤ、とうがらし、ミニトマト、トウモロコシ、うり、空芯菜と12品も。

 昨日も、集会がはじまる直前まで、市東さんは草取りに精を出されていました。みなさん。草取りの応援など現地に出かけましょう。 

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