盆の最中の昨日、8月15日、神戸市勤労会館で会場ぎっしり満員の人々が集まって、「8・15平和のための市民の集い」(米軍基地はいらない!兵庫県実行委員会・戦争を起こさせない市民の会共催)が開かれました。
主催者の挨拶と連帯の挨拶の後、京都から駆けつけてくださった大城敏信さん(京都沖縄県人会副会長)が三線の演奏と沖縄民謡を謡われました(右写真)。その後、元沖縄大学学長の新崎盛暉さんから質疑を含め2時間にわたる講演が、淡々とした中に確信と怒りに満ちた「在日米軍を糺す」と題して行われました。
新崎さんは先ず、「沖縄にとっていつ戦争は終わったか」と話し始められた。「6・23慰霊の日」はあくまで司令官が自決した日であり、「最後の一兵まで闘え」というその折の指示によって、日本軍の兵士だけでなく、沖縄の民衆も、それ以降、離島での9月7日に至るまで殺される惨禍が続いた。伊江島では2年後の1947年まで山に逃げ続けていた兵士がいたと。
続いて新崎さんは「歴史の復習」として日米安保体制が構造的沖縄差別の上になりたっており、しかもその「構造的差別」は、今日に至るまでどんどん深まっていると糺された。1952年4月28日、日本は独立をかちとった。同時に成立した日米安保条約で、「米軍は日本全国に基地を持てる」としながら、「なぜ、沖縄を分離、占領したのか」と問われた。日本が主権国家として歩んだ場合、その基地が永続的に確保できる保障がなかった。占領下の沖縄ならば米軍の自由に基地が作られ、支配できると。しかし、この時点でのヤマトと沖縄の在日米軍基地は、8対1(沖縄に11%)であった。
「日本を守る」として存在した在日米軍基地によってヤマトで様々な問題が起こり、内灘、砂川に象徴される反基地闘争が起こっていった。この日本自体の日米関係の不安定化に対して、安定させるために60年安保改定が強行された。この時期、地上戦闘部隊(主に海兵隊)の撤退という合意を軸に、ヤマトの在日米軍基地は4分の1に減り、沖縄は2倍に。1対1(沖縄に50%)になった。
60年代後半、無権利状態の沖縄で、祖国復帰運動を始め反基地闘争が続発していった。この沖縄の不安定化という事態に対し、(背景にベトナム戦争があり、全国的な安保・沖縄闘争があった)「どこかでガス抜きをしなければ」という日米両政府によって沖縄における基地の固定化、自由使用を前提とした1972年の沖縄返還が行われた(1965年に日本は戦後初めて国際収支が黒字化し、経済大国への道に。国のメンツとして占領状態を避けたかった佐藤栄作政権といった問題など)。「日本の安全にとって沖縄の米軍基地の存在は重要である」と佐藤首相。この過程で、ヤマトの米軍基地はさらに3分の1に減り(代わりにほとんどが自衛隊基地に)、沖縄が固定化されたために国土面積0.6%の沖縄に、在日米軍基地の75%が集中するという状況が生まれた。
同時に、「沖縄の米軍基地は日本の安全にとって重要(抑止力)」とする政府が続くことによって、そして国会の圧倒的多数が「誰もやめると思っていない」状況の中で、日米安保条約は1970年以降、今日まで自動延長され続けている。
1990年を前後する東西冷戦の終焉とソ連の崩壊によって、「共産主義の脅威からの防衛」を根拠とした日米安保はその存在根拠を失った。しかし、新たな北朝鮮の脅威と中国の肥大化、脅威を根拠とした「安保再定義」が行われようとした1995年、米兵による少女暴行事件をきっかけとした沖縄の民衆決起が起こり「沖縄に関する特別行動委員会」が作られ、1970年代から「世界一危険な基地」と言われてきた普天間基地問題が政治の焦点になった。
普天間基地は、1945年6月、民衆が避難し、あるいは捕虜収容所に隔離され誰もいない中で、日本本土爆撃のために作られた。1960年、海兵隊の航空基地となるが、ベトナム戦争の激化の中でP3Cやヘリコプター基地を日本本土に求めた米軍に対して、福田赳夫(当時外相)が、「国内はダメ。沖縄だ」として嘉手納に。しかし手狭なため普天間を整備して移った。そのために、「世界で一番危険な基地」となった。
普天間基地の移設問題で2006年の日米合意を軸に地元とごちゃごちゃしている中で政権交代が起こった。この政権交代というのは何だったのか。
民主党が政権を取る前に出された「沖縄ビジョン」には、(菅も、岡田も、鳩山も)一致し普天間の県外、国外移設が言われていた。しかし、政権を取ることが明らかになるころから鳩山だけが「県外、国外」と言ったとされ、「民主党マニュフェスト」には入れられなかった。しかし、アメリカのゲーツの一喝に転んだ岡田外相は、政権に着く前の09年7月(当時民主党幹事長)、雑誌「世界」のインタビューに答えて「普天間は県外、国外に移設すべき」「もう少しアメリカに考えてもらいたい」などと明言している。当時、民主党の外交政策の全体像には明確なものはなかったが、日米安保体制をこのままずるずると続けていっていいのかという漠然としたものは持っていた。インド洋の給油活動の停止とアフガニスタンへの民生支援、アジア、中国との関係改善を通した東アジア共同体、米軍再編の見直しなど。ここに「政権交代」の一面が少なくともあったはずだった。
しかし、昨年オバマの来日に先駆け訪日した、ブッシュ政権から引き続いて国防長官を務めているゲーツに、岡田外相(民主党)は、その「日米安保、米軍再編の見直し」を一蹴され、脅かされることを通して完全に転向した。そして「マニュフェストにはなかった。民主党の公約ではなかった」「いかに日米同盟は重要か」とつぶやき始めた。これは自公政権と全く同じものだ。追い詰められ相談した外務官僚、防衛官僚は自公政権時代から同じだ。その結果に過ぎない。
「年内決着」を諦め「5月決着」と先延ばし、独り抵抗する鳩山に対し、1月、それまで諦めていた人たちも立ちあがって名護市長選挙が「基地撤去、新基地建設反対」を選択し、3月には自公と国民新党のねじれを生みながら沖縄県議会の全会一致の同趣旨の決議、そして4月25日の県民大会がかちとられ、ある意味で鳩山を「支えよう」とした。その過程で鳩山がしがみついた「徳之島移設」も、「県外だが、圏内だ」という声の中に沈没する。ここで問題とされたのは、実は、「移設先」ではなく安保の廃棄ではないにしろ、少なくとも「見直し」だったのだ。このことに追い詰められた鳩山は、5月4日「県内へ」とし、「日米合意」を5月28日強行して挫折し、崩壊した。(左写真は、講演後、質問に応えられる新崎さん)
鳩山と共に小沢と無能な平野は去ったが、あとは全部残った。残った連中は何をしているか? 沖縄担当大臣の前原は、この5月に現名護市長に会うのではなく基地推進派の前市長と基地容認派の土建屋などを呼んで密談をしている。そしてつい先日、裁判でも公金支出を差し止められた沖縄市の泡瀬の埋め立てを容認している。北沢防衛大臣もまた、北部の市町村長との面談の中で、自民、公明が推薦する「最早県外移設は不可能」とする仲井真知事の「当選を願う」とぶち上げている。また、参議院選挙で民主党の沖縄県連からの候補者の擁立をつぶし、結局自公が推薦する候補が当選した。
今後、どうなるのか? 一つは、沖縄対ヤマトということがどうしても出てくるだろう。県内移設に反対しているのは社民党と共産党だけで、圧倒的少数派だ。そういう中で今後起こってくるのは右翼的政界再編だろう。辻元清美の問題で明らかになっているように革新政党の中に無力感が広がっている中で、どうしていくのかだとされた。
時間がない中で、新崎さんは最後に、韓国の掃海艦の沈没事件を例に挙げ、民主党政権は、鳩山も菅もこれぞ「抑止力の必要性」を示したものとするが、米韓軍事演習をしているその最中に、気付かれもせず北朝鮮の潜水艦が近づき、沈没させた上で気付かれもせず去っていくという何処に「抑止力」があるのか。そもそもそんなことがあり得たのかとされた上で、右翼的政権である李明博政権が、これを戦争的事態として大宣伝し選挙に利用しようとして、逆に大敗した。ここに示された韓国の世論の動きは何であったのかを私たちは学ぶべきではないかということを指摘されて講演を終わられました。
講演後の質疑でも、質問者の問いに真正面から向き合いながら多くの貴重な示唆に富んだお答をされました。先日8・6ヒロシマで、知花昌一さんは「日本の政治の動向に一喜一憂しない」「日本の運動にも一喜一憂しない」と言われた事を想い起しながら、沖縄の皆さんが基地と共に歩まざるを得なかった中で持たれている政治的な高さを感じずにはおられませんでした。
私たちヤマトが、指摘されたように「沖縄とヤマト」が対峙する状況の中で、本当に日米安保を問題とし、「抑止力とは何か」を問い、「日米安保はいらない」とする政治状況をどうやって生み出せるか、本当に踏ん張らなければならないと強く思いながら帰途につきました。
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