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2010年8月11日 (水)

8・7平和学習 in ヒロシマ

1087_2   8月7日、前日の「ヒロシマの夕べ」に引き継いで、フィールドワークと講演の「平和学習」が開かれました。

 先ずは広島駅から被爆電車に乗り、ただ一人の生き残りの米澤鐡志さんから、小学校5年生の時に、お母さんと一緒に被爆した百貨店福屋前などで簡単な様子を伺いました。この日のために東京から参加された方もあり、3分の1近くの人がたったままの状態にはビックリ。お陰で、電車の中の様子は写真が取れませんでした。写真は原爆ドーム前に着いてみなさんがおりているところで一番右端が米澤さん。

 1087_3 原爆ドーム前で、全員が降りてわたってくるのを待つので一休み。それから相生橋をわたって平和公園へ。平和公園の一番北端です。前に元安川を挟んで原爆ドームが見えるこのあたりは、爆心地からわずか250メートルくらい。左の絵(地図)は、広島市が発行した「平和公園めぐり」から引用したものです。案内していただく福島和男さんは、左図の左側の北から4軒目の白いところに自宅があり、その右向かい(ピンク色)にご両親が経営していた旅館があったのです。

 この日朝早く、旧制中学2年で、学徒動員で己斐の工場に行っていた福島さんは助かったものの、残りの家族と旅館の従業員は全員が、跡かたもなく亡くなられた。北側には、陸軍の駐屯地があり、この界隈は当時、広島でも一番賑やかな町だったのです。ダンスカフェあり、映画館あり、料亭、旅館、はては女郎屋まであったのです。地図中央の両側に橋がある中島本通りはアーケードもあり、端には派出所もある広島で一番賑やかな通りだったのです。その町と通りが一瞬にして消えてしまったのです。

 1087_4 本通りの北側、左手すぐのところには「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」もあります。そしてその近くの本通り南側には1945年年末までに亡くなられた597人の中島町の犠牲者の名を刻んだ慰霊碑があります(右写真。亡くなられたご家族の名を指差しておられるのが福島さんです)。

 お昼休みの後、原爆資料館の地下にある会議室で「平和学習」です。

 先ずは福島和男さん(左写真)から「消え去った爆心の町・人」と題してのお話です。1087_5 福島さんは、近くに住む3年生と学徒動員の場所(己斐)から、自宅の方へ戻ろうとしますが、近づくこともできず、結局、己斐のさらに南の方に逃げていったお話しと、叔母さん夫婦のところに身を寄せて高校を卒業された話しなどをされました。

 爆心地から3キロ離れた工場だったが、ピッカと光ったので逃げたら、後ろで工場が2階建が爆風で1階建てに潰れていた。爆風の後は黒い雨。それで、帰ろうということになった。しかし、爆心から2キロの周辺に沿って、中島町の南側に来て近づこうとするものの火災で近づけない。いったん東の方へ行っていたのを諦めて元へ戻ろうとした時に、住吉橋の近くで、中学1年生の建物疎開に動員されていた女学生たちの沢山に会った。顔は区別もつかないくらいに胸から腫れあがって寸胴(ずんどう)のようになり、手は幽霊のように前にぶら下げて皮膚が垂れ下がっている。「生き地獄」だった。また西へ逃げる途中、小網町の鉄橋を渡っていて天満川に死体がいっぱい浮いているのが見えた。

 引き続いて、「2010年 核と人間は共存できない。 1087_6 今、日本の戦争責任を問う」と題して、米澤鐡志さん(右写真)の講演です。米澤さんは、1931年柳条湖事件からの日本の侵略と戦争への流れ、そして敗戦に向かう経緯を語られて、空襲が日常化する中での生活を振り返られた。そして学童疎開という事態を引き受けさせられた自分たちを語られた。その上で、ご自分の原爆体験を語られました。この部分は、昨年、同じ8月7日、被爆電車の中で詳しく語られており、当ブログで紹介しておりますので、是非、ごらんください(http://kanjitsu-sanrizuka.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-50d6.htmlをクリックしてください)。最後に米澤さんは、当時の広島の被爆市民35万から40万人のうち被爆死は11万人(30%)に対して、朝鮮人は被爆者5万人のうち被爆死は3万人(60%)ということを挙げられ、その原因として多くは強制連行などで広島に入ったほとんどの朝鮮人が、被爆した直後から市外へ避難するすべを持たず、残留放射能の被害をまともに受けたこと。そして、日本人の子供たちが強制的に集団疎開されていたにも関わらず、朝鮮人の子どもたちは、組織的に排除され、広島にとどまり続けてきたこと。こうした6割もの被爆死を招いた上に、韓国の被爆者手帳を得たのが昨年であり、北朝鮮も含め放置され続けている。こうした被爆朝鮮人の問題を解明することなしに、被爆の問題は前に進み得ないと厳しく提起されたのです。

 前日、池田精子さん(広島県被団協副理事長)から提起された被爆者の悲惨さ、苦難をこそ私たちの反核の闘いの土台に据えること、そして知花昌一さん(読谷村議)から提起された「加害と被害の問題」、この核心的課題を具体的に福島さんと米澤さんのお話から確認することのできた「平和学習」でした。

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