市東孝雄さん
市東孝雄さん(上の写真は、産直の出荷作業で豆の計量中の孝雄さん)のお父さん東市さんは、昨日の記事に書いたように、成田空港計画に絶対反対の意思を貫くために「農地を渡さない」と、農業をしていく決意をあらためて定められました。しかし、すでに孝雄さんを外に出していたので、2つ違いの3男芳雄さん(次男の一男さんは孝雄さんと双子で生まれるとともに夭逝)に継いでもらうつもりでおられましたが、1972年交通事故で亡くなられました(享年20歳)。
ただ、この芳雄さんの生前、すでに孝雄さんは、「50歳になったら戻って、俺が継ぐつもりだった」と思われていたそうです。その上で、レストランのコックの見習いから、独り立ちするためにはと焼鳥屋の板前さん(というのでしょうか?)に就職されたそうです。
お父さんの東市さんは、生前、私たちが現地に行くと「この前のニュースに書いてあったあれはどうなった」と、私たちのニュースを読まれた上に覚えておられて聞かれるので、いく度か驚かされました。なにしろ寡黙な方なのですから。孝雄さんも、会われた方のことをすぐ覚えられ、集会に姿が見えないと「明石の○○さんはどうした?」と聞いて来られます。援農の折にも、休憩のお茶飲み話の中でそのたぐいの話がよく出てきます。「なんでそんなにすぐ人の名前と顔を覚えられるのですか」と聞いたことがあります。焼き鳥屋のオーナーが、初めて来たお客さんが二度目に来た時に必ず覚えていて、先ず挨拶をされるのを見て聞くと「これが店のお客を確保し、繁盛する前提だ」と言われ、それ以来孝雄さんは、ノートに初めて来たお客さんの名前や特徴を書き続けてこられたそうです。30余年。それで、すぐ覚えるようになったと。ここに人への孝雄さんの真面目な接し方の一面が現われていると思うのです。
孝雄さんは、姉妹や従妹の人たちと今も親しくしておられるようです。中学時代の仲間とも、今も行き来があるようです。そして、お父さんの月命日には、毎月お墓にお参りしておられます。(このお墓が、十余三の交差点から51号を左に少し行ったところにあるのですが、団結街道が閉鎖されれば、東峰十字路から回っていかざるを得ず大変な遠回りになります。)親と言わず、人との付き合いを大事にされていることがよくわかります。
その孝雄さんですから、働きに外に出ても、盆、正月の休みには必ず家に戻り東市さんと話されていた事と思います。(お母さんのときさんは、孝雄さんの小さい時にすでに発病し、寝たきりに。)孝雄さんによれば「闘争の話はあまりしなかった」そうですが、東市さんの想いや怒りは感じておられたことでしょうし、44年にわたる三里塚闘争を最初から見据え続けてこられたのです。ですから、休憩の時に、現闘の人たちと古い時代の人の話になっても本当によく知っておられます。ですから、昨日も書きましたが、1999年3・28の追悼集会で、孝雄さんが「市東東市はこの世を去りましたが、その遺志は不肖ながら長男の私が継ぎます」といわれる時、それは34年間、そばで見続け、お父さん東市さんの怒りと怨念をも自らのものとして語られているのだと思います。(左写真のネコは、迷い込んできた「ヤブ吉」で、もう1年ほど前から姿を見ません。)
すでに萩原さんと東市さんによって10年近く前から始められていた「産直運動」の取り組みを受け継ぎながら、「1億8千万円よりも1本100円の大根を消費者に喜んでほしい」と孝雄さんが言われる時、単に価値観を表現されているのではなく、国家権力の暴虐な国策のおしつけ、戦争への道への東市さんの怒りを自らのものとした決意が込められていると見るべきではないでしょうか。最新号の「週刊三里塚」で孝雄さんは、「私への圧力というのであれば、それはムダですよ、と言っておきたい。圧力を受ければ受けるほど反発心が高まるのが人間じゃないですか。そうやって三里塚は44年闘いを貫いてきたんです。」と明快に語っておられます。
この市東孝雄さんの豊かな人間性と闘いを、そして三里塚反対同盟を守れなくして、私たちに未来はないと言っても過言ではないでしょう。三里塚闘争の勝利をかけて、団結街道閉鎖の攻撃、第3誘導路建設攻撃を打ち破って、市東さんの農地を守ろう! 5・16現地闘争に決起しよう!
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