大阪港と戦跡めぐり (4月29日)
昨日、4月29日、地下鉄の大阪港駅に集合して、「大阪の海と空を使わせない会」で、大阪港とその周辺の戦跡めぐりをしました。少し風が強く肌寒かったですが、散策するには格好の晴天。12人が集合。
先ず、中央突堤に(右写真)。ここから、あるいは住友岸壁、第1、第2、第3突堤から兵員、武器弾薬、軍馬、物資が船積みされ中国、アジアへ向かい、病院船で戻ってきた遺骨や傷病兵が 第2、第3突堤に接岸したという説明を受ける。今は、格好の仕事途中の昼寝場所とYさんの説明も。
もどって築港2丁目へ。跡かたもなく市住などの建物が立ち並んでいますが(左写真)、主にイギリス兵の捕虜が千名も収容されていた大阪捕虜収容所本所跡です。捕虜の人たちは、神戸でもそうですが、港湾荷役作業などの強制労働をさせられた。大阪大空襲などの時、「ここは大丈夫」と逃げ込む人たちも被弾。捕虜の医者が負傷者を治療したという話も。
次は、築港高野山へ。もともと天保山運河の内陸側にあり、四天王寺と並ぶにぎわいがあったとか。戦争で宿坊が船出待ちの軍隊の宿舎となり、遺骨の帰還には法要と、出征基地の本山となる。6月1日の大空襲ですべて焼け、現在の場所に再建。焼けただれた菩薩像(右写真)や墓、殉職した港湾労働者の碑などがあり、港区の受難の歴史を身をもって歩んだお寺でもあると説明。
今度は赤レンガの住友倉庫。手前にあった線路は撤去されている。この倉庫の反対側が、軍需物資を積みだし、出征兵士を最も多く送り出したかっては大阪港の花形岸壁であった住友岸壁。大型船や客船はたいていここに接岸したとか。倉庫の屋上に高射砲が置かれ部隊が駐屯していたとか。
すぐ近くに港住吉神社。もともと江戸時代から天保山に鎮座し、塩、魚など町の営みの名残が残る(右石碑)。しかし、大阪港の築港とともに現在の場所に移り、翌年(1904年)日露戦争勃発により、港は出征の足場となった。 「砲弾の碑」(左写真)は、日露戦争で使われた軍艦の30センチ砲弾2発が寄進され、そのまま碑になっている。
ここから天保山に移動。高さ30メートルの日本一低い山が、砲台か何かのために削られ、戦後、今の公園に変わったとか。
右は、「獣魂碑」。この近くに「陸軍糧秣省大阪支廠」があった。豚や鶏などがここで処理され、軍の食糧として船積みされた。強制連行され、強制労働に従事させられた人びとの碑などはないのに、こうしたものがあるというところに当時の日本軍の性格が表れている。
ここから海遊館の方に少し行ったところに「彰往察来の碑」がある。 「大阪に中国人強制連行があったことを、私たちも知りませんでした」という言葉で始まる碑文が書かれたこの碑は、大阪中国人強制連行受難者追悼実行委員会によって2005年6月になって、やっと建てられた。「彰往察来」とは「過去を明らかにし、未来を察する」ことだと碑文の最後に記されていた。
この日回れた戦跡以上に、もっと沢山の戦跡が、この周辺、そして大阪中にあります。戦後65年、こうした過去の歴史と向き合い、そして私たちの国の「戦争責任」を私たち自身のこととして向き合うことが本当に必要になっているのではないでしょうか。沖縄のみなさんの闘いを思うにつけ、この日、その思いが強くなりました。
この後、帆船型観光船サンタマリア(右写真)に乗って、大阪港巡りをしました。住友岸壁、第1、第2、第3突堤のあたりをまわりました。しかし、港の中だけだったのが残念。
大阪の海と空を戦争に使わせない会では、今日の行動を引き継いで、6月20日、全港湾OBで、大阪中国人強制連行受難者追悼実行委員会事務局長として「彰往察来の碑」建立に関わられ、また日朝市民連帯・共同代表でもある有元幹明さんをお招きしお話しを聞くことにしております。ぜひ、みなさん、お集まりください。【6月20日(日)午後2時~、会場・田中機械ホール、会費・500円】
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