« 今週の産直野菜(1月23日) | トップページ | 沖縄と砂川 »

2010年1月24日 (日)

阪神淡路大震災15周年の日 1月17日

10117

 1月17日、阪神淡路大震災から15周年のこの日、私たちは先ず、神戸空港の中止を求める市民の会の仲間たち6人で、神戸市役所前で慰霊に訪れた人々に「何が『震災復興の希望の星』か!」「矢田神戸市長は責任をとれ」「大震災は人災だ」などとするビラをまいて抗議の意思を訴えました。天気も良く、予想をはるかに超える多くの方が慰霊に訪れ、用意した1000枚のビラが40分もかからずなくなってしまいました。

 それから被害が最もひどかった新長田で開かれた「生きる権利・働く権利を求めつづけて」と題した第29回被災地反失業総行動集会にみんなで参加しました。10117_2

 犠牲となった人々への黙祷にはじまった集会で、主催者を代表して被災地雇用と生活要求者組合の長谷川正夫代表(右写真)は、「15年は短い月日じゃなかった」「こういう街並みを望んだか。働きたくても働けない町になっている。こういう状況を行政が作ってきた」と糾弾されました。そして「仕事が奪われ、生存権が脅かされている。今こそ立ち上がらなければならない。失業問題こそが、被災者の声だ」と訴え、「支え合いながら生きていきたい。絶対に孤独死しないでください」と結ばれました。

 新社会党神戸市議の粟原富夫さん、全国金属機械港合同副委員長の中村吉政さん、部落解放同盟全国連合会書記長の中田潔さんがそれぞれ連帯の挨拶。そのあと、三里塚への援農にも加わってくれているキム・インマンさんが撮影、編集した映像「震災から15年」が上映されました。なかなかの力作でした。そして被災地雇用と生活要求者組合事務次長の蒲牟田宏さんが集会提起を行いました。10117_3

 がらっと雰囲気を変えて、自称「大道芸人」のスマイル・クリエーターのお二人(左写真)によるパントマイム。JR元町駅前で、街頭宣伝の折にたまたまであったお二人でしたが、お願いして一カ月。集まられた被災者の皆さんを励ますホントに気持ちのいい「芸」を見せていただきました。

 休憩をはさんで、メインの元年越し派遣村実行委員の安部誠さん(右下写真)から「極々私的な『年越し派遣村』への道」と題する45分に及ぶ講演でした。

 安部さんは、話しの前提として東京の下町墨田区で生まれて以降の自分史を先ず語られました。通称・松本さんという隣の家族の交流を通した「この世の中のしくみがおかしい」と思った中学時代。朝鮮学校生徒への襲撃に対する怒りを覚えた高校時代。10117_4 そして大学に入った翌年76年から85年の三里塚の想い出。86年、板橋地域労働組合を仲間と立ち上げ、リストラが言葉として認知された1993年のパイオニアの管理職労働者の大量首切りを契機とした東京管理職ユニオンを立ち上げられた経緯(同組合副委員長)。などを話された上で、「どうやって派遣村にたどりついたか」と話しを続けられました。

 「派遣村」が生まれた最大の根拠として戦後「ピンはね」を排除することからはじまり生まれた労働法制が度重なる改悪によって事態が頂点に達したことによると指摘されました。99年合法化から05年の製造業まで拡大された派遣法の改悪によって、08年の派遣村に来た失業者の多くが製造業関係だったのです。

 2005年にはじまった「ホワイトカラーエグゼンプション」に対する闘いの中から「日本版エグゼンプションに反対する共同アピール運動」が、ナショナルセンターを含めた統一戦線によって形成され、07年1月の安倍政権による「断念」という勝利を勝ち取ったことで、一緒にやって結果を得たことで生まれた信頼関係が、そのまま「派遣村」の闘いにつながっていったことを明らかにされました(この辺のことについて、ブログ「57歳パート日記」http://pa-to.at.webry.info/201001/article_8.html に掲載されていますのでご覧ください)。

 このあと、私たち神戸空港の中止を求める市民の会からの「2・14神戸空港の廃港を求める集い」のアピールなど、5つの団体からの決意表明が行われ、飛び入りのフォークの演奏も。

 ミュージシャンのお二人の心和む演奏と歌、みんなでの合唱が行われ、最後に関西合同労組委員長の石田勝啓さんの団結ガンバローで集会を終えました。昨年を上回る145人の、長い、しかし密度の濃い集会でした。10117_6

 私たちは、それから大急ぎで関西実行委員会の旗開きが開かれる六甲へ移動しました。 

|

« 今週の産直野菜(1月23日) | トップページ | 沖縄と砂川 »

たたかいの報告」カテゴリの記事

コメント

県外移設「今度こそ」 市民、首相に期待 名護市長選
1月25日(月) 5時32分配信 朝日新聞
 米軍普天間飛行場の移設受け入れの是非を争点として、24日に投開票された沖縄県名護市長選。地域振興か基地反対か。二つのはざまで苦しい選択を強いられ続けてきた有権者は、決めあぐねる鳩山政権に「移設反対」というメッセージを発した。「今度こそ」。県外移設の難しさに不安を覚えながらも、首相の決断に期待をかける。 「時代は変わった」。稲嶺氏に投票した男性(64)は、そう言い切った。移設先が県内しかないのならと1997年の市民投票では、やむなく「条件付き賛成」に票を投じた。結果は反対票が過半数。だが当時の市長は、まさかの受け入れを表明した。あれから13年。「やっと政権が代わり、政府が県外移設をしようというんだ。やってもらわないと」 移設先とされている同市辺野古地区。コバルトブルーに輝く海で泳いで育った男性(64)も新政権に望む。「ここは自然が宝。この海を壊したら、取り返しがつかなくなる。鳩山さんは民意を聞くと言ったんだから、県外移設をやらねば。できなければ、政権は維持できない」 団体職員の男性(49)は、これまでの市長選では、ずっと受け入れ容認派を支持してきた。「基地は来てほしくない。でも選択肢がないなら仕方ない。そう思って、地元へのメリットを思うようにしてきた」。だが巨額の振興策にもかかわらず、市中心部の商店街はシャッター通り化している。「地元は振り回され続けている。ならば新たな市長に託してみようと」 政権が代わり、市長が代わっても、新たな移設先を見つけるのは容易ではない――。政府や米国の意向に左右されてきた歴史を重ね、その難しさは身にしみている。 「移設問題は13年間もこじれて、いまだに動いていない。果たして鳩山さんが短い期間で結論を出せるのか、疑問も感じる」(主婦、44歳) 「辺野古につくることを望む米国の強硬な態度を考えれば、県外、国外移設は難しいかもしれない」(会社員女性、61歳) 落選した島袋氏に投票した人だけでなく、「基地反対」の気持ちを示そうと稲嶺氏に票を投じた人でさえも、そう感じている人が少なくない。 「それでも」と、稲嶺氏に投票した元教員の男性(71)は言う。生家は6歳の時、米軍に接収された。「県民が訴え続ければ、基地を沖縄につくることはできないはずだ」 嘉手納基地のある町で育ち、2年前に越してきた男性(35)は力を込めた。「鳩山政権は軸がぶれて錯綜(さくそう)している。でも県外、国外移設はできる。できると思いたい」

最終更新:1月25日(月) 5時32分

投稿: 勝った勝った | 2010年1月25日 (月) 09時36分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 今週の産直野菜(1月23日) | トップページ | 沖縄と砂川 »