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2010年1月17日 (日)

あれから15年

95117  15年前の今日、1月17日、忘れもしない阪神淡路大震災が私たちを襲いました。右写真は、私の家のすぐ近く、阪神石屋川駅付近で横転した電車と燃え広がる住宅(読売新聞特別縮刷版より)。6400人の人々が圧死、焼死などで亡くなられました。

 1974年6月、神戸市に依頼された大阪市大・京都大学の合同調査で「六甲山周辺で都市直下型大地震の発生する恐れがある」という報告書が提出されていました。しかし当時の神戸市は、「10万年にあるかないかのこと」と田中神戸大学工学部長(当時)などを総動員して、この報告をもみ消しM5強の防災計画のまま放置しました。その後も85年には「兵庫県下など近畿地方にはM7クラスを超える大地震が発生してもおかしくない」と警告されていました。これらは一切無視され、1995年1月17日を迎えたのです。M7.2でした。

 神戸市が無視した理由は、建物の強度や防水槽など防災設備の整備におカネがかかりすぎることもありましたが、何よりも当時「神戸市株式会社」ともてはやされたポートアイランド1期が完成間近まで進んでいた事と、2期工事や六甲アイランドなどの大型埋立工事が準備されていたことでした。M6以上の防災基準に合わすためには工事をやり直すことによる莫大なカネがかかることでした。不可能との判断が、「無視」につながったのです。

 結果は、防水槽には割れて水がなく、家々は倒壊し、火災が発生したことで被害は広がりました。ポートアイランドは液状化現象と橋の倒壊で渡ることもできず、市民病院は何の役にも立ちませんでした。言い出せばきりがありません(左写真は、これも私の家の近く、東灘区でくずれおちた阪神高速道路。読売新聞・特別宿刷版より転載)。

 そのポートアイランド2期が、2割も売れず1379億円の借金が10年も借り換えられながら来年返済期日が来ても展望がないため、新たに20年の借り換えを行うことが昨年末公表されました。95117_3

 他方、「神戸空港は震災復興の希望の星」と、まだ避難所に30万人の市民が避難していた2月初めに神戸空港の建設が打ち出され、是非を問う住民投票を求める35万人の署名を無視し、市民の6割以上が建設に反対している報道をも無視して建設が強行され、開港が4年前に強行されました。そして案の定、建設のための借金2千億円は返せる展望もなく、需要も見込みの6割と言う惨状で経営も赤字に転落。

 またもっとも被害がひどかった新長田周辺に、これ幸いと「復興事業」と称して従来から考えられていた再開発事業が強行されました。昨日の新聞に、神戸市の予定通り売却が進んでも150億円の債務超過がでることと、多くの住民が却って負債を抱え破綻し、家も商売も奪われる惨状が報じられていました。

 私たち神戸市民は、1974年のポートアイランドなど神戸市が進めていた開発事業によって、今、震災での人災と2重に犠牲を強いられようとしていると言っても過言ではありません。現市長矢田は、こうした過程を出世の土台とし、とりわけ神戸空港の建設から開港すべてに旗を振ってきた張本人です。

 15年目の今日を迎えるにあたり、この怒りをしっかりと胸に、今日の市役所前でのビラまき、「生きる権利・働く権利を求めつづけて」被災地反失業総行動集会、そして決戦を迎えた三里塚決戦勝利関西実行委員会旗開きに、1日全力で闘い抜きます。

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