大阪の海と空を戦争に使わせない会
昨日25日、「大阪の海と空を戦争に使わせない会」が、結成して初めての会合を、淡路町空港反対同盟代表(関実代表世話人)の永井満さんを講師に招いて、20人余りの参加を得て開きました。
永井さんは、淡路町空港反対同盟の結成宣言などを紹介しながら、関西新空港反対闘争の出発点である淡路の闘いを語られました。1968年11月の津名郡医師会の「淡路空港反対決議」をきっかけに、その衝撃によって北淡路での闘いがまさに「燎原之火」の如くに広がった様子を具体的に語られました。そして、そんな中で、1969年7月の故戸村一作委員長との出会い、71年2月の第1次強制代執行阻止闘争への参加、あるいは、淡路での一坪共有化運動での三里塚反対同盟の働きなどが語られ、その歴史の面白さに聞いているものが、引き込まれます。
とりわけ、「淡路総破壊計画」(行政からは「淡路総合開発計画」、左図)での石油基地反対闘争の迫力は、何度聞いても面白い。 その計画年度の中で、白紙撤回後に起こった阪神淡路大震災を経験しているだけに、これができておればどれだけ大変なことになっていたか、淡路町反対同盟が、40年にわたって三里塚と交流し、33年にわたって関実運動を引っ張り抜いてきた根拠が、聞いている一人ひとりの胸に明快に示されました。
一つだけこの過程に関わったものとして異論を唱えさせてください。永井さんの話しに応えて、安藤さんが、74年9月30日の説明会粉砕闘争について「三里塚の精神で」と言われたことについて。確かに、淡路の皆さんにはそうだったのかもしれません。しかし、当日半分以上の50人以上が結集し、闘いを引っ張った神戸の市民は三里塚を知りませんでした。ただ、直前に行われた泉州での説明会で、住民運動連絡会の皆さん等の頑張りで、事実上説明会など行えなかったにもかかわらず、翌日の新聞には「粛々と行われた」ことになったことを聞いて、神戸の市民は怒り、「開かせたらダメだ」と決断したのです。そして逮捕も辞さず先頭で闘ったのです。「民主主義というのは話し合うことだ」と「説明会粉砕」に反対していた山本善偉先生も、結局、パンフレットを手にみんなと一緒に「帰れ」「帰れ」と合唱していたのです。凄い転換がこの闘いの中で実現したのです。ですから、東灘区住民の会は、三里塚に結集するなかで(1976年以降)、今日まで関実の中で、そして神戸空港闘争で踏ん張り抜けているのだと思います。
もちろん、こうした住民、労働者の根源的な怒りを、闘いの歴史を作り上げる中で一つの方向を示し得たのが三里塚であり、それゆえに「反戦の砦」「反権力の砦」と言われるのだろうと改めて思います。
非常に個人的な感想になりましたが、「大阪の海と空を戦争に使わせない会」が、こうした私たちが経験したような広範な市民の根源的な怒りを組織して、新たな関空闘争、大阪港軍港化阻止のうねりを生み出してくれることを心から念じます。少数でしたが、本当にいい集会でした。
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