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2009年8月13日 (木)

被爆電車で語るヒロシマ(8月7日)

Photo

 8月7日、前日の集会に参加した人たちをはじめ、この日、新たに子供づれの人などを加えて60人近くが、広島駅前に集まりました。上の写真にある被爆電車で被爆し、ただ一人生き残っておられる米澤鐡志さんに被爆電車に乗って、お話しを聞こうという企画のためでした。

 0986_2 午前11時に、被爆電車が到着。広電の労働組合の力で、上の写真の被爆電車の台車が残され、全体は現在使えるように修理されたものです。これに乗って、広電の車庫までのわずか30分でしたが、米澤さんの生々しい、凄まじい体験をお聞きすることになりました。

 1945年8月6日、当時小学校5年生の米澤さんはお母さんと疎開先から荷物を取りに帰るために、ご自宅に向かって80人乗りのこの電車に200人というすし詰め状態でのられたのです。私たちは60人。一部の人は床に座り込みながら、お話しを聞きました。

  中国新聞社近くの流川を過ぎたあたりで被爆。爆心地から750メートルでしたが、満員の中心部分で大人の影に隠れていた上に、広島で一番高かった福屋百貨店のビルの陰に入っていたこと、喉が非常に渇きながら水を飲めば全て戻してしまうことを繰り返し水を飲めなかったこと、放射能に侵された「黒い雨」を木の下でしのげたこと、そして何よりも、その日のうちに広島を離れることができたことなどの「幸運」が重なって、米澤さんは、今日まで生き延びることができたと言っておられます。0987 (7月13日付けの当ブログ http://kanjitsu-sanrizuka.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-24d1.html に米澤さんのお話しの概要が掲載されておりますので是非ご覧ください。)電車の中の様子、降りてからの逃避行の中で見た様々な惨状は、本当に凄まじいものでした。

 「当時、中学校3年生以上は工場に働きにいかされていて、1、2年生が建物疎開をやっていたんですね(火災の延焼を防ぐために、建物を列によって潰していたのが建物疎開)。国防婦人会と、女子学生そして中学1、2年生が駆り出されていた。屋根瓦を落として、屋根に綱をはって運動会の綱引きのように倒して潰す。そのつぶした後を整理させるという仕事をさせていた。帽子をかぶって半ズボンで半そでシャツ。そこへ3000度以上の光線を直接浴びたわけですから、たまったものじゃない。全部焼けてしまって完全に裸状態でやけどですね。すぐ水ぶくれができるんですよ。シャツを着ているところと直接肌にあたったところはやけどの状態が違いますからね、水ぶくれの水がだんだん下がってくると、皮膚も一緒にずってくるわけですね。0987_2 ずったものが爪の先で止まりますね。そうするとみんな、泣きながらその袖からの長さの皮膚をぶらさげてるんですね。それは本当に可哀想で、しかも幽霊のような感じで、しかも裸で、全身やけどで、そういう女学生、中学生たちをたくさん見ました。その子たちは、カンカン照りの中で、脱水症状を起こしていますから、そしてすぐそばが川ですから、子供たちも、子供だけでなく大人たちも川に入って水を飲もうとするわけです。ところが、水に入ったとたんにパタッと倒れて流れていくわけです。これは、脱水症状の所に水に入ったショック死だと思うんです(この日の米澤さんのお話しから)。」

 被爆された現場はあっという間に通り過ぎてしまい、8月15日の敗戦の日のこと、そしてその二日後には、頭の髪の毛がすべて抜けてしまって(お母さんもまた)丸はげになってしまったと言うお話しのところで、広電の車庫に着いてしまいました。

  そこで電車を降りて、広島電鉄OBで、組合で書記長を20年近く務められた河野弘さんが合流して下さり、まず、車庫の入り口にある慰霊碑を前に、広電の組合員の皆さんの被爆の状況と、この慰霊碑を会社に作らせた経緯などを説明してくださいました(左下写真で、米澤さんの前で、写真中央におられるのが河野さん)。

 そのあと、もう一台の被爆電車の中で、河野さん、米澤さんからさらにお話しを伺いました。0987_2

 河野さん(右写真)は、被爆直後に広電がすぐに電車を走らせるようになる経緯と、日本陸軍の思惑(本土決戦)を話されました。電柱の被害の少なかった己斐から観音町の区間で8月9日には、東京から軍隊が動員され、電車が走ったそうです。そして20年の終わりには20輌、21年には36輌、24年には70輌が走れるようになったそうです。しかし、ガラスがなかったので、運転席をのぞいて板を張り付けたとか。

 米澤さんは、5分しかないという中で、9月初めにお母さんが亡くなられ、被爆していなかった1歳の末の妹さんが、8月8日から15日の間にお母さんから授乳しただけで、その年の10月に亡くなったということを話され、原爆の恐ろしさを訴えられました。お話しの最後に、朝鮮人の人々の被爆の問題が話せなかったことを本当に残念そうに語られ、お話しを終えられました。

 「語り部集会のようなことをやっても問題にもならない」と言うようなことが言われていると聞きますが、断じてそうではありません。今こそ、現場に立ち、被爆者(それはビキニ事件の被爆の問題にも通じる)のみなさんの想い、その怒りと悲しみに触れることを通し、学ぶことを通し、私たちの決意を固め、隊列を強化することが必要になっているのです。それは様々な問題にも通じることです。この3日間、祝島をはじめ、本当に貴重な時間を持つことができました。多くの皆さんの想いに支えられた素晴らしい時間でした。 

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