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2009年8月17日 (月)

8・16 戦争と平和を考える集いに参加して

09816

 昨日、8月16日、「戦争と平和を考える集い ― 世代を超えて戦争体験の共有を! ― 」が開かれ山本先生とご一緒して参加してきました。百万人署名運動奈良県連絡会代表の藤原好雄さんが、学徒動員による労働などの体験や朝鮮人への暴行を目撃した経験などを話されたのをはじめ、在日の方や東京大空襲のご自身の経験、あるいは親の話しからの体験の話し、沖縄の方のベトナム戦争の頃の体験、そして飛び入りの方の、平和と反核への想いなど。久ぶりにお元気に話された元意岐部東小学校の西元先生に山本先生と二人で大喜び。09816_2 最後に、20代の若い女性がパレスチナに昨年訪問した報告を交えながら、今日の様々な年配者の話しをかみしめた感想がまた素晴らしかったです。3時間半が長く感じさせない、平和への想いを固めたいい集会でした。(右写真は西元先生)

 司会者から冒頭の藤原さんに続いて、指名で促された山本先生が準備もないまま話されましたので、それを全文掲載させていただきます。

山本善偉先生のお話し

 今、大野さんに言われて頭に何にも考えてることがないんで、皆さんの前に立って・・・。

 いま「77歳(先に話された藤原さん)」と言われて、まだ若いなぁと、私は88なものですから。

 いま私が一番気になっていることと言えば、今の世の中でほんとにマスコミが伝える姿が真実を伝えているかどうか。私は神戸空港の問題を40年やってるわけですが、神戸空港ができてもやっているわけですが、それは三里塚の闘いの中で一緒にやっています。三里塚がほんとに厳しい状態にあるのに、新聞には関西では全然出ない。関東の新聞にはちょっと出ているようですけれども。それで私たち自身で三里塚の実態を一人でも多くの人に伝えていかなければ、あそこで三里塚のあの40数年闘っている農民の、ひと固まりですけれども、それが国益の名の下に消されるような世の中になったら、これは私が若かったころの再現だと思います。

 私は1920年生まれです。ほんとに1920年から、30年、40年と激動の昭和の時代であったはずなんですけれども、私はそれを全然教わらない。むしろ、あの満洲へ侵略していくことが、国益と言うか、それを批判することを全然ようしない。

 09816_3 1943年ですかね、大学の3年の時ですが、突如、文科系の学生はもうここにおる必要がないと、12月1日に一斉に軍隊に入れという第1回の学徒兵、今日のプログラムのところに写真が出ていますけれど、それは10月21日の東京の神宮外苑での出陣学徒のものです。同じ日に、各県で徴兵学徒の出陣式がありました(左写真が山本先生)。私は関西学院におりまして、そのころは学生会などと言うのはありませんで、今でいえば学生会になる「学徒報国団」の、私は事務局長のような仕事をやっていた加減で、誰が選んだのか兵庫県の出陣学徒の学徒壮行会に引っ張り出されて代表で出陣の辞をしゃべったですが、今も書いたものを持っているんですが、不思議なことに、私が紙に墨で書いたものを、今の神戸の市役所の南にある東遊園地、公園で読んだんですが、誰に教わったわけでもないのにその文章が、明治神宮でやっている出陣学徒の言葉とそっくりなんです。別に見せ合ったわけじゃありません。同じ日ですからね。もう世の中で、そういう言葉が当たり前になっているんですね。決まり文句なんです。そういうのをずっと教育されて軍隊に入りました。

 そういう状況の中で、私は姉が6人、妹が2人、男は1人。大学3年で軍隊に入隊しました。父は50歳で亡くなり、母は45歳で未亡人になりました。私はその時13歳でした。住んでいたのは、芦屋と神戸の間にある本山村というところでした。村をあげて出陣学徒の壮行会をしてくれるんですね。母は、絶対にその会場に行こうとしないんです。玄関で「行っておいで」と言っただけなんですね。12月1日に姫路の野砲隊に入隊して、3か月の教育を受けて幹部候補生の試験があるんです。そのあと、1泊の外泊がはじめて許されるわけです。その日、姫路から本山村まで、うきうきと飛ぶような気持ちで帰ったんです。所が、びっくりしたのは何かと言うと、私と違って、髪の毛豊かで黒々とした美しい髪をしていた母が、3ヶ月間で真っ白になってるんです。白髪というのは生えてくるのが白髪だとおもうんですが、黒い髪が3か月で、私が帰ってみると母が真っ白になっている。一人息子が軍隊に行くということについて女々しい(ママ)事は言えない。しかし、心の中は非常に辛かったんだと思います。「君死にたもう事なかれ」というような勇気は私の母にはなかったんだと思います。けれども腹の中では、一人息子が軍隊に行くということがどんなに辛かったか。「元気に帰ってこい」とは言わないんですね。言わないけれども、髪の毛にそれは現れている。そういうのが、あの国中あげて戦争へ、戦争へと言っていた時代に、人間の心の底にそういう問題があるのです。09816_4

 私自身は、幹部候補生に通りますと、どういうわけか、姫路の原隊に戻りました。70~80人の学徒兵の見習士官に毎晩、毎晩命令が出まして、「参謀本部に1名よこせ」「南方戦線に3名よこせ」「どこどこへ・・」と姫路の野砲隊に命令が来るわけですね。80何名の幹部候補生に序列があるんですね。そうすると成績のいいのは、師団司令部とか中央へ行くんですね。中支、フィリッピンなど南方は、成績の悪いの、悪いのから出て行くんですね。私はどこにいるのかわかりませんけれども、敗戦のとき残った、偉い方にも呼ばれず、成績の悪い方にも呼ばれず4~5人が残って外地に行かなかったんですね。偉い方に呼ばれた方はどうかわかりませんけれども、沖縄、中支、フィリッピンに行った連中は生きて帰ってはいないと思いますね。だから私は、戦争そのものの悲惨さという経験はありません。隊内のいろいろな事はありますが。

 私は、敗戦の後1年間、何を考えていたのか。これまでやってきたことが無意味だったと諦めることもできず、意味があったとすることもできず1年が過ぎました。1年後、母校の関西学院から英語の教師が一人足らんから来いと呼ばれて、勤めたのが敗戦の翌年46年の10月でした。試験も何もあったもんじゃない。それから定年退職まで関西学院におりましたが、しかし、その間に、言い出したら長くなるのでやめますが、勤めてから50歳くらいですか、24、5年ですか、その間にいろんな経験をしました。その経験は、一つ一つ、私には代えがたい経験ですが、頭をガツンとやられるような、足がガクッとくるような経験を次々にやっていて、その中で、「へーっ、こんなことが」という経験が、私が、1年、結核で療養所に入っている時に(70年~71年)、ちょうど三里塚であの強制代執行が行われていた。丁度病院にいて、夕方になると朝日も毎日もみんな新聞をもらって切り抜いてスクラップにしていたのです。この日本で、国内で、かっての戦争以上のことが行われてるじゃないか、これは大変だ、ということをいろいろな経験の中で思ったんです。

  療養所から出てきて、やっと方向が見えてきて三里塚に行ったのが何年前でしょうか、行ってみて、何と農民の皆さんが厳しい中で雄々しく闘いをやっている。09816_6 これを日本中に知らせなければならないと、今日までやっています。(左写真は、藤原好雄さん)

 今、つくる会の教科書があっちこっちで採用されている。あんなんで教育された子供、大人も同じように北朝鮮のロケットがどうやこうやと言うたら、いっぺんに排外主義がブァーと出てくる。ほんとに恐ろしい時代になっていると思います。

 今こそ、三里塚で闘っているあのほんとに正義の闘いを、もっともっと知ってもらわなければならない。今度の9月27日には、そういう意味で関西実行委員会は三里塚反対同盟と一緒に、関西の集会を開きます。一人でも多くの皆さんに、あの闘いを、だまって認めてしまえば、次は過去の戦争を繰り返す近道になります。9月27日には、ぜひ覚えてもらって、お集まりください。10月11日には、三里塚の現地で全国集会が開かれます。私たちは、マスコミがどんなに右から左の宣伝があろうとも、正しい闘いはここにあるのだぞと示したいと思います。

 

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

88才ですか?たいしたものですね。92才の母は、物忘れがひどくなりました。頑張ってください。お体大切に。

投稿: 山本さんの話 | 2009年8月17日 (月) 19時41分

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