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2009年8月11日 (火)

被爆64年 8・6ヒロシマの集い

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 8月6日、昼過ぎ、「被爆64年 8・6ヒロシマの集い ― であう、わかる、つくる 8・6ヒロシマ ―」が開かれ、参加してきました。0986_2 会場には300人の皆さんが集まり、歌あり、韓国のチャンゴ(右写真)やフルートの演奏あり、踊りありの中で、被爆者からの証言や、中国・重慶への大空襲と同時に行われた四川省楽山市への日本軍による爆撃の被害者の訴え、そして4人のパネリストによる問題提起、さらには5人の皆さんからの訴えと、あまりにも盛だくさんなプログラム、4時間半にわたる集会は、凄いというか、いささか疲れました。

 福島町の平野徹さんは、8月6日の朝、空襲警報が解除され小学校へ出かけようと玄関で準備していて爆風で吹き飛ばされた被爆直後の様子を中心に語られ、「地獄を見てきた」と話されました。

 武田民政さん(左写真)は、「13歳の夏」と題されて話しをされました。この年6月ごろから、動員学徒として軍需工場で一生懸命、垂直尾翼などを作っておられた頃の食糧不足の状況を話されました。0986_4 8月6日、友人たちと動員された先に向かっている最中に、飛行機が飛ぶのを見たとたんに被爆し、爆風で吹き飛ばされました。 無我夢中で逃げる途中、たくさんの数百の犠牲者が傷つき、死んで行き倒れていく様子を語られました。最初にたどりついた救護所での次々と死んで片付けられる様子などを。そして母に会いたいと己斐の小学校に向かい、お母さんと会えたことや、市内の凄い火災の様子、そしてその小学校で次々と死体が放るように積み上げられ何日も燃やされ続けていたことなどを。そして「これは生き地獄だ。戦争反対、核武装反対を大きな声で世界に届くように叫ぼう」と結ばれました。

 重慶大爆撃訴訟第3次原告団の支援団団長の楊追奔さんは、四川省楽山市の爆撃が重慶大爆撃と同時に行われたこと、そして広島の戦争反対の気持ちを重慶、楽山にも持って帰りますと訴えられました。続いて立った原告の李本澤さん(右写真)から、今に至る厳しい状況が切々と語られました。09863 1939年8月19日午前10時ごろ、数分間の36機の日本軍の爆撃機が落とした200発余りの爆弾で、風光明媚な楽山の街は破壊されつくした。2歳だった李さんは、母や姉弟2人、叔母を失い、瓦1枚も残さず家は破壊されました。3万人の市民のうち1千人が死んだ。李さんは、生活ができなくなった父によって売られたのです。お父さんと離散したこの事実を、訴訟という形で日本の皆さんに仕方なく伝えたいのですと結ばれました。

 休憩をはさんで4人のパネラーとコーディネーターの森島吉美さん(集会実行委員長)が登壇(最初の写真)。先ず、元大久野島毒ガス工場工員の藤本安馬さん(最初の写真のマイクを持って立っておられる方)が話されました。100年前の大不況と戦争、コメ騒動などの民衆の動きから説き起こされました。そして藤本さんが1933年小学校1年生になった時に「ススメ、ススメ」「日の丸万歳」をはじめ教科書が書き換えられ国際連盟からの脱退、「戦争をする」流れに入って行きました。その流れの中で、「お金をもらいながら勉強できた」からと、15歳の時に工員として毒ガス工場で働き出しました。「毒ガス生産は、中国軍を全滅させる武器と承知で作り続けた」「中国人を『チャンころ』と差別し、殺すのは当たり前と思っていた」というのです。その自分が「差別の悪循環」の中で生み出されたことを気づき、自分を「鬼の子」と自覚されたというのです。「鬼の子」から自分を取り戻し、そして「鬼の子」を育てた「鬼の親」を退治するのだと、中国の毒ガス被害者に謝罪の旅をし、差別を憎み闘い続けていることを話されました。0986_5

 次に、ビキニ水爆実験被爆者の大石又七さん(左写真)。大石さんは、1954年、第5福竜丸でマグロ漁操業中に広島型原爆の約1000倍の水爆ブラボーの実験に遭遇し、130キロも離れていた海上でありながら、広島型原爆の爆心地から800メートル範囲内の放射能と死の灰に襲われたのです(この時、856隻の船が被爆し、2万人近い乗組員が働いていたと厚生省。廃棄されたマグロは500トンに上ると言われる)。大石さんは「日米両政府が被害者の頭越しに、わずか9か月で政治決着を結んで握りつぶした」「原子力技術と原子炉の導入とを引き換えにした取引だった」「翌年原子力協定の仮調印を結び、その次の年に原子炉が東海村に送られてくるという速さ」と糾弾されたのです。そして「4兆円もの税金を毎年つぎ込み、人殺しの訓練をする自衛隊ではなく、世界中で毎年起こる事故や災害に船や飛行機をいち早く出動させ、人命救助と復興に力を尽くす災害救助隊を作り上げてほしい。それが世界から喜ばれ、愛され、信頼される日本になる道だと思う」と結ばれました。

 続いて、1981年沖縄国体で日の丸焼き捨てで沖縄戦の戦争責任を問うた読谷村議の知花昌一さん(右写真)からです。0986_6 1943年の御前会議で、天皇ヒロヒトは近衛首相から出されていた停戦の提案を拒否した。知花さんは、このことが、沖縄戦、ヒロシマ、ナガサキの惨状を生んだのだと指弾されました。それにとどまるどころか、1947年のマッカーサーへあてた「天皇メッセージ」が、1952年のサンフランシスコ条約、そして沖縄処分(米軍占領)の25年を生んだ、この侵略の行為の責任、加害責任、そして戦後責任を、追求できてきたんだろうかと、知花さんは問われました。沖縄では、東京タワー占拠事件の富村順一の闘い、青年4人によるヌンチャクで武装しての皇居突入、沖縄海洋博での姫百合の塔での皇太子(現天皇)への火炎瓶攻撃など、戦争責任を問う闘いが組まれてきました。南京大虐殺、従軍慰安婦問題、日本軍による沖縄での集団自決命令などの歴史が、新自由主義史観で書き変えられようとしている。過去を「過去のもの」として捨て去るのではなく、「今における過去」として見据えなければならないと提起されたのです。0986_7

 最後に、若者を代表して広島修道大学4年生の安達菜穂子さん(左写真)が、集会を準備し、「戦争と市民展」の準備を手伝ってきた中からの想いを語られました。先の3人の大きなところからとは違って、ごく身近なところから話させて貰いますと断られた上で。集会名称が最初「であう平和、わかる平和、つくる平和 8・6ヒロシマ」とされていたのに反対して、「平和」をぬいたのです。小さい頃から広島で育ち、平和教育をいやというほど受ける中で、「平和」という言葉に反発を覚えるようになったのです。平和ってなんでしょうか。戦争がないことでしょうか。それは最低限の表現でしかありません。差別がないこともあるでしょう。戦争を知らない世代として、軽々と言葉にしている「平和」に反発を覚えるのです。もっとキラキラとしたものではないでしょうか、と。

 この4人の方のパネルディスカッションが、これからどんなものに展開するのかお話しを聞きながら大いに期待しましたが、すでに時間がなく「言いっ放し」で終わることになりガッカリ。しかし、凄い集会でした。

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