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2009年8月29日 (土)

崩壊寸前の関西空港、軍事使用の正体が見えた

Photo  関西空港は今年9月4日、開港15周年を迎えました。開港以来問題となっていた「環境破壊、経営困難、地盤沈下、軍事空港」の正体はますます明らかになってきました。
 そもそも、関空は「埋め立て島にして、無公害空港をつくる」と標榜し、泉州沖に建設されたいきさつがあり、無公害空港として「三点セット=大半を海上飛行させ、陸地上空は低高度で飛ばない」を地元に約束、しかしこの約束は開港初日から洲本安乎上空を低高度で飛行させ、うそつき開港となりました。その後「無公害、十年で黒字、地盤沈下は収まる、平和空港」との約束は、何一つ守らずに15年が経とうとしているのです。
 関空は、完成し供用開始した二期滑走路を本格的に使う飛行便数もなく、破綻寸前になっている、しかし元々「軍事空港」としての建設目的であれば、破綻しようが関係ないというものです。1982年7月、田中角栄が大阪で開かれた講演会で、「(関西空港は)軍用と併用しようといえば、すぐできる」と発言したことは有名です。政府は当初から軍民併用を意図していたと言っても過言ではないでしょう。その証拠に、関空の自衛隊利用は2005年5月イラク派兵のために、制服のまま搭乗し「出兵」したことは記憶に新しいでしょう。
 来年の憲法「改悪」の国民投票法を無理やり施行せて「憲法九条改悪・自衛軍の保持」になり、さっそく関空を米軍や自衛隊の基地にする? こんな野望を許してはなりません。

  倒産寸前の実態

 Photo_2 去る3月の決算で、関空はまたしても赤字、国からの補給金90億円を差し引くと1022億円もの単年度赤字になっています。そして、長期の借金が約1兆2千億も残っており、仮に二期の費用も算入したら3兆円もの借金で、完璧に赤字倒産の状態です。発着回数が年12万回を超えたのは07年と08年だけで、営業収益が下がりっぱなしです。さらに、日本航空は今秋から関空と大連、杭州の二路線を廃止すると発表、関空にとって現在の不況はさらに追い討ちがかかり、増便が期待出来るのは「貨物便」のみです。貨物便は深夜早朝便が半数を占めており、淡路島上空と大阪岬町、和歌山加太地区への迷惑飛行が激増して、環境破壊の元凶です。絶対に認められません。

  闘いを強化しよう

 このような関西空港は「つくってはいけない空港であった」と結論つけざるを得ませんが、建設の正体が軍事空港であれば、国は必死に守ろうとするでしょう。大阪湾住民を環境破壊と戦争の恐怖に引き込む関空の存在を認めてはいけません。なによりも、二度と侵略戦争をしない、させない強烈な思いで憲法と憲法9条を持ち、アジアの人々との平和的な交流を積み重ねてまいりました。しかし、政府権力者は改憲と日米軍事同盟の強化による軍事基地の再編強化を推し進めています。これに真っ向から闘っているのが三里塚農民であり、沖縄の人々であり、岩国の皆さん方です。

 関空に反対し40年間大阪湾を守る闘いを続けてきた私たちは、政府国家権力の新たな攻撃に対し、三里塚、沖縄、岩国の闘いと手を結んで、もう一度戦闘的な闘いを強化しなければなりません。9月27日には新たな闘いを始める大集会を行います。ぜひお集まりください。

    三里塚決戦勝利関西実行委員会事務局次長  安藤眞一

 (関西実行委員会の「実行委ニュース」127号掲載分より転載)

 

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2009年8月28日 (金)

3本目の誘導路計画は悪魔の所業だ

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 東峰部落住民の生活にとってかけがえのない存在だった東峰の森を破壊して、空港敷地外に違法に造られた新誘導路の7月末供用開始(実際7月30日から強行されている!)に抗議するために開催された7・5緊急集会の場で、さらに驚くべき事実が暴露されました。それは市東さん宅の西側100メートルに暫定滑走路の3本目の誘導路が計画されているという事です。それもまた空港敷地外を通る違法工事です(上図参照。東京新聞WEBより転載)。

 NAAは4月22日に、新誘導路と北延伸部分の供用開始を東峰部落に一方的に通告してきましたが、その際にはこの計画のことは全く言及していません。その後に行われた新誘導路のテスト運行などで、問題が明らかになり、またもやつぎはぎの工事計画として出して来たのでしょう。しかし、この3本目の誘導路も1本目のあの「への字」を通らねばならず、とても「改善」とはほど遠い代物です。結局1本の航空法に抵触した滑走路に、無様な3本の誘導路という「ナリタ」を象徴する無計画性、デタラメ性をますます明らかにするだけです。

  しかし、もしこの工事が強行されれば、市東さんの自宅やその前の畑などは2本の誘導路にほとんど囲まれ、終日四方八方から大変な騒音とジェットブラストに苦しめられる事になります。3_2 さらにほとんど需要の見込みのないジャンボ機を飛ばすとしていることから見えてくるのは、この工事の真のねらいが市東さんの営農生活を脅かし、たたき出し、今三里塚で最大の焦点になっている市東さんの農地を強奪することにあることは火を見るよりも明らかです。農地法で農地を取り上げようとしている主客転倒した国策裁判と、この3本目の誘導路による恫喝はまさに「悪魔の所業」です。絶対に許せません。

 静岡空港の立木問題では知事の首と引き換えに所有者が伐採に同意しましたが、もしあれを所有者に無断で伐採していたら世の中大騒ぎになっていたことでしょう。しかし、成田では部落の総有であった東峰神社の立木が部落の同意なしにだましうち伐採されました(2001年6月)。

 成田空港建設はまさにそういった政府、公団(現NAA)の機動隊暴力と違法無法の積み重ねの歴史です。

 この歴史と44年間断固として闘い続けている反対同盟への支援をさらに強固なものにしようではありませんか。7・5集会では当該の市東孝雄さんは「今の権力には法律も正義もありません。NAAは前倒し供用攻撃をかけ、追い出しをかけてきていますが、絶対に許しません。気持ちを引き締め共に闘いましょう」と毅然と決意を表明しています。私たちもこの市東さんに続き、理不尽きわまる3本目誘導路攻撃を粉砕するために立ち上がりましょう。

            尼崎・伊丹実行委員会   弥永 

(関実の「実行委員会ニュース 127号」に寄稿していただきましたものを転載しました。右の図は、三里塚反対同盟のビラより転載。)

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2009年8月25日 (火)

三里塚に総力をあげて決起しよう

0975  (写真は、09・7・5現地闘争でデモの先頭に立つ三里塚反対同盟)

 永井 満関実代表世話人

 闘う仲間のみなさん。

 酷暑の候もようやく終わり、いよいよ秋の闘いの幕が切っておとされようとしています。

 私がここで訴えようとしていることはただ一つ、緊迫を告げる三里塚の闘いに、関実の総力をあげて決起しようということ以外にありません。

 国とNAAは、反対同盟や東峰部落の人々との度重なる確認・約束を踏みにじり、部落共有林である東峰の森を伐採、暫定滑走路へ行くための第2の誘導路建設を強行(07年~09年)、さらに今回、市東さんの住居のすぐ西側に接して、第3の誘導路(右写真)建設を発表しました。Photo

 これでは、市東さんの住居や畑は、誘導路という川の中に取り残された中洲のようになり、部落と完全に切り離され、孤立してしまい、生活できなくなります。これは市東さんを追い出すために仕組まれた悪辣な企み以外の何ものでもありません。

 すでにNAAと国は、市東さんが祖父の代から営々と耕作してきた農地を「不法耕作」と言いなし、あるいは農地と耕作者を守るべき「農地法」を用いて奪おうとしています。法を守り、正義を貫くべき裁判所もまた数々の違法に目をつぶり、市東さんから土地を取り上げることを認める裁決を行おうとしています。

 これに対して、市東さんを先頭に、反対同盟は一歩も退かず、非妥協・不屈に闘い抜いておられます。

 私たち関実に集う仲間は、40数年にわたる反対同盟のこの正義の闘いを断固支持し、ともに闘ってきました。今、まさに急を告げる三里塚のこの情勢を手をこまねいて見ているわけにはいきません。同盟との血盟にかけて起ち、わが闘いとして闘おうではありませんか。

 その決意を打ち固めるために、来る9月27日には、反対同盟と共催で今秋の闘いに向けた総決起集会を開催いたします(詳しくは http://kanjitsu-sanrizuka.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-8fc9.html をご覧ください)。反対同盟農民の心の底からの呼びかけ、訴えに耳を傾け、この農民とともに断固として闘う決意を打ち固めようではありませんか。

 アジアのハブ空港としての位置はすでに韓国のインチョン(仁川)空港に奪われ、一方第5の滑走路計画が取り沙汰される羽田空港に国内の基幹空港としての位置も奪われるなど、ここに来て航空需要が減退し、発着回数も旅客数も貨物取扱量も、いずれもが減り続ける成田空港について、ここに来て暫定滑走路の4000メートル化を目指すとか、横風用滑走路の建設を復活させるなどと取り沙汰される真の理由は何なのか。それをしっかりと見据えることが必要です。09329

 アジアのハブ空港を目指すとか、アジア・ゲートウェイ構想の実現のためとか、いろいろ取り沙汰されているけれども、その真の狙い・目的は、朝鮮・アジアの有事に即応するための、米軍再編計画の重要な一環を、沖縄や岩国、関空などと共に担うこと以外にはありえないことを、しっかりと見据えなければならないだろう。そのために、それぞれの基地、空港周辺の市民・住民が手を結び、一体となって闘うことが今必要になっています。今回の「9・27集会」は、本年3月に開かれた「3・15米軍再編と闘う集い」の成功を受け、その継続発展のためにも重要な集会となることが強く期待される次第です。

 (「実行委員会ニュース」第127号の巻頭文として書かれたものを掲載させていただきました。左写真は、今年3月の三里塚全国集会での永井満代表世話人。)

 

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2009年8月23日 (日)

今週の産直野菜(8月23日)

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 私の都合で、今週の産直野菜が、遅くなりましたが先ほど届きました。盆明け最初の産直野菜です。

 長旅の暑さで、モロヘイヤがかわいそうなくらい萎れています。他に、じゃがいも、小玉ネギ、長ネギ、ピーマン、ゴーヤ、キュウリ、オクラ、ししとう、ミニトマトの11品。長ネギが珍しいようです。キュウリも新しく育ってきたものとか。なかなか賑やかです。

 さすがに冷蔵庫の中が空っぽ。買い足してはいたもののここ数日は野菜の乏しい食卓だったので、ほっとしています。来たら来たで、それはそれでまた悩むのですが・・・。

 今週の土曜、29日から、また援農(?)で三里塚に向かいます。そのため次の産直野菜は、またまたお休みします。

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2009年8月21日 (金)

「この日を待っていた」(09.7.27 萩原進さん)

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 写真は、新誘導路を行く航空機で、その奥に見えるのが残った東峰の森です。手前の舗装は旧来の誘導路、その間にフェンスに囲まれた中に木が茂っているのが判るでしょうか。空港敷地の中にある東峰神社を取り囲むフェンスと、育ってきた立木です(写真は反対同盟ブログより転載)。

 この春、静岡空港の開港が、立木の高さを理由に遅れるとともに滑走路の長さを短くして開港し、「知事の辞任」を条件に伐採に応じた地権者の要求に従って知事が辞任し、先日、選挙が行われたことを覚えておられると思います。右写真は、この4月22日、管理人が東峰神社で着陸してくる航空機を撮影したもので、木々の新芽が噴き出しているのがわかります。09422

 東峰神社の立木が育ってきて、航空法で規定されている航空機の進入表面を突き破り始めているのです。7月27日の市東さんの裁判で、萩原進さんは、NAA(空港会社)が、「6本の立木を切ってくれませんか」と言ってきたことを暴露し、「この日を待っていた」「北へ伸ばしてるんだから、南を短くすればいい」と笑みを浮かばせながら話されました。暫定滑走路の閉鎖を勝ち取り、成田空港廃港へと進むのだという勝利感に満ちた萩原さんと反対同盟の確信があふれていました。01616

 2001年6月16日、空港公団と空警機動隊は大挙して東峰神社を襲い、入口の道路を封鎖し、神社の立木19本を根元から切り倒すという暴挙を行った。東峰神社は村の総有で、手が出せない。その立木も同じだ。怒った東峰部落住民と反対同盟は総決起して、ガードマンが守る阻止線に突入し闘い抜いた(左写真)。萩原進さんは、自宅からトラクターを運転し、検問を突破して阻止線に突入した。そこで、機動隊に襲いかかられ逮捕された。このあまりの不法は、裁判で争われ、東峰部落の全面勝利となり、国は非を認め罰金(和解金)をはらわざるを得なかった。だから「切ってもらえませんか」と頼みに来ざるを得ないのだ。

 Photo そもそもこんな神社があることを承知で、島村さんをはじめ民家上空の40メートルを飛行して、民家に110ホーンの爆音被害を与えることを承知で、このような暫定滑走路の建設を強行し、02年4月の開港を強行したこと自体が犯罪なのだ。右の写真が、暫定滑走路南端部分です(ただし、3年以上前のもので、新誘導路がまだできていない)。滑走路端から離れて写真中央部にあるのが東峰神社(滑走路端から120メートル)。右下隅にあるのが島村昭治さんのお宅(同400メートル)。右上には、先日、7・5闘争が行われた開拓道路があります。左端中央部の茂みと畑が市東さんのお宅の前の天神峰の畑です。

 事実、開港直後1年も経っていない03年1月27日、雨の中、ウインドシアにあおられオーバーランしたエアージャパンB767型機が、滑走路南端を超えて航空灯火をなぎ倒し、東峰神社のあるくぼ地の手前50メートルの草地の中でようやく停止するという大惨事と紙一重の重大事故が起こったのです(左写真)。今年の3月、成田空港のA滑走路で、ウインドシアにあおられてアメリカの輸送機が墜落、炎上したことは記憶にあると思います。032

 この7月27日の裁判の報告会の中で、萩原さんは、気象庁のデーターを示しながら、ウインドシアが関西空港や中部空港と比べても、成田空港が異常に多く発生していることを指摘された。安全性を無視し、航空法違反を開き直って建設を進め、開港を強行したこの暫定滑走路は閉鎖させなければなりません。

 今、国、NAA、地元自治体、財界は、こうした人権を無視し、法を無視した状況を開き直るばかりか、滑走路の3500メートルへの再延長を主張しています。それは、東峰地区の更地化しか方途はなく、島村さん一家をはじめとした農家の叩き出し、そして市東さんの叩き出しを図ろうとしているのです。その意図を突き出したものとして、新たに計画が突然発表された第3誘導路計画があります。市東孝雄さんの日常生活を破壊し、この地で生きていけなくすることで、農地強奪への道をこじ開けるとともに、東峰地区住民をも叩き出そうという、そのためにのみ出されたこんな暴虐な計画がどうして許せるでしょうか。

 「この日をまっていた」とほほ笑む萩原さんをはじめ、反対同盟は、この暴虐な国家権力による新たな攻撃を前に、「実力闘争」「農地死守」の44年にわたる闘いを支え抜いてきた精神をバネに、勝利の確信も固く現地攻防を準備しておられます。

 わたし達は、反対同盟と共催の「9・27三里塚関西集会」を成功させ、10・11三里塚現地へ全力で総決起し、むしろ追い詰められたが故に暴力性をむき出しにしてきたこの攻撃をはね返し、決戦を勝利しようではありませんか。(なお、3枚目と5枚目の写真は、いずれも「週刊三里塚」より転載させていただきました。)

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2009年8月17日 (月)

8・16 戦争と平和を考える集いに参加して

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 昨日、8月16日、「戦争と平和を考える集い ― 世代を超えて戦争体験の共有を! ― 」が開かれ山本先生とご一緒して参加してきました。百万人署名運動奈良県連絡会代表の藤原好雄さんが、学徒動員による労働などの体験や朝鮮人への暴行を目撃した経験などを話されたのをはじめ、在日の方や東京大空襲のご自身の経験、あるいは親の話しからの体験の話し、沖縄の方のベトナム戦争の頃の体験、そして飛び入りの方の、平和と反核への想いなど。久ぶりにお元気に話された元意岐部東小学校の西元先生に山本先生と二人で大喜び。09816_2 最後に、20代の若い女性がパレスチナに昨年訪問した報告を交えながら、今日の様々な年配者の話しをかみしめた感想がまた素晴らしかったです。3時間半が長く感じさせない、平和への想いを固めたいい集会でした。(右写真は西元先生)

 司会者から冒頭の藤原さんに続いて、指名で促された山本先生が準備もないまま話されましたので、それを全文掲載させていただきます。

山本善偉先生のお話し

 今、大野さんに言われて頭に何にも考えてることがないんで、皆さんの前に立って・・・。

 いま「77歳(先に話された藤原さん)」と言われて、まだ若いなぁと、私は88なものですから。

 いま私が一番気になっていることと言えば、今の世の中でほんとにマスコミが伝える姿が真実を伝えているかどうか。私は神戸空港の問題を40年やってるわけですが、神戸空港ができてもやっているわけですが、それは三里塚の闘いの中で一緒にやっています。三里塚がほんとに厳しい状態にあるのに、新聞には関西では全然出ない。関東の新聞にはちょっと出ているようですけれども。それで私たち自身で三里塚の実態を一人でも多くの人に伝えていかなければ、あそこで三里塚のあの40数年闘っている農民の、ひと固まりですけれども、それが国益の名の下に消されるような世の中になったら、これは私が若かったころの再現だと思います。

 私は1920年生まれです。ほんとに1920年から、30年、40年と激動の昭和の時代であったはずなんですけれども、私はそれを全然教わらない。むしろ、あの満洲へ侵略していくことが、国益と言うか、それを批判することを全然ようしない。

 09816_3 1943年ですかね、大学の3年の時ですが、突如、文科系の学生はもうここにおる必要がないと、12月1日に一斉に軍隊に入れという第1回の学徒兵、今日のプログラムのところに写真が出ていますけれど、それは10月21日の東京の神宮外苑での出陣学徒のものです。同じ日に、各県で徴兵学徒の出陣式がありました(左写真が山本先生)。私は関西学院におりまして、そのころは学生会などと言うのはありませんで、今でいえば学生会になる「学徒報国団」の、私は事務局長のような仕事をやっていた加減で、誰が選んだのか兵庫県の出陣学徒の学徒壮行会に引っ張り出されて代表で出陣の辞をしゃべったですが、今も書いたものを持っているんですが、不思議なことに、私が紙に墨で書いたものを、今の神戸の市役所の南にある東遊園地、公園で読んだんですが、誰に教わったわけでもないのにその文章が、明治神宮でやっている出陣学徒の言葉とそっくりなんです。別に見せ合ったわけじゃありません。同じ日ですからね。もう世の中で、そういう言葉が当たり前になっているんですね。決まり文句なんです。そういうのをずっと教育されて軍隊に入りました。

 そういう状況の中で、私は姉が6人、妹が2人、男は1人。大学3年で軍隊に入隊しました。父は50歳で亡くなり、母は45歳で未亡人になりました。私はその時13歳でした。住んでいたのは、芦屋と神戸の間にある本山村というところでした。村をあげて出陣学徒の壮行会をしてくれるんですね。母は、絶対にその会場に行こうとしないんです。玄関で「行っておいで」と言っただけなんですね。12月1日に姫路の野砲隊に入隊して、3か月の教育を受けて幹部候補生の試験があるんです。そのあと、1泊の外泊がはじめて許されるわけです。その日、姫路から本山村まで、うきうきと飛ぶような気持ちで帰ったんです。所が、びっくりしたのは何かと言うと、私と違って、髪の毛豊かで黒々とした美しい髪をしていた母が、3ヶ月間で真っ白になってるんです。白髪というのは生えてくるのが白髪だとおもうんですが、黒い髪が3か月で、私が帰ってみると母が真っ白になっている。一人息子が軍隊に行くということについて女々しい(ママ)事は言えない。しかし、心の中は非常に辛かったんだと思います。「君死にたもう事なかれ」というような勇気は私の母にはなかったんだと思います。けれども腹の中では、一人息子が軍隊に行くということがどんなに辛かったか。「元気に帰ってこい」とは言わないんですね。言わないけれども、髪の毛にそれは現れている。そういうのが、あの国中あげて戦争へ、戦争へと言っていた時代に、人間の心の底にそういう問題があるのです。09816_4

 私自身は、幹部候補生に通りますと、どういうわけか、姫路の原隊に戻りました。70~80人の学徒兵の見習士官に毎晩、毎晩命令が出まして、「参謀本部に1名よこせ」「南方戦線に3名よこせ」「どこどこへ・・」と姫路の野砲隊に命令が来るわけですね。80何名の幹部候補生に序列があるんですね。そうすると成績のいいのは、師団司令部とか中央へ行くんですね。中支、フィリッピンなど南方は、成績の悪いの、悪いのから出て行くんですね。私はどこにいるのかわかりませんけれども、敗戦のとき残った、偉い方にも呼ばれず、成績の悪い方にも呼ばれず4~5人が残って外地に行かなかったんですね。偉い方に呼ばれた方はどうかわかりませんけれども、沖縄、中支、フィリッピンに行った連中は生きて帰ってはいないと思いますね。だから私は、戦争そのものの悲惨さという経験はありません。隊内のいろいろな事はありますが。

 私は、敗戦の後1年間、何を考えていたのか。これまでやってきたことが無意味だったと諦めることもできず、意味があったとすることもできず1年が過ぎました。1年後、母校の関西学院から英語の教師が一人足らんから来いと呼ばれて、勤めたのが敗戦の翌年46年の10月でした。試験も何もあったもんじゃない。それから定年退職まで関西学院におりましたが、しかし、その間に、言い出したら長くなるのでやめますが、勤めてから50歳くらいですか、24、5年ですか、その間にいろんな経験をしました。その経験は、一つ一つ、私には代えがたい経験ですが、頭をガツンとやられるような、足がガクッとくるような経験を次々にやっていて、その中で、「へーっ、こんなことが」という経験が、私が、1年、結核で療養所に入っている時に(70年~71年)、ちょうど三里塚であの強制代執行が行われていた。丁度病院にいて、夕方になると朝日も毎日もみんな新聞をもらって切り抜いてスクラップにしていたのです。この日本で、国内で、かっての戦争以上のことが行われてるじゃないか、これは大変だ、ということをいろいろな経験の中で思ったんです。

  療養所から出てきて、やっと方向が見えてきて三里塚に行ったのが何年前でしょうか、行ってみて、何と農民の皆さんが厳しい中で雄々しく闘いをやっている。09816_6 これを日本中に知らせなければならないと、今日までやっています。(左写真は、藤原好雄さん)

 今、つくる会の教科書があっちこっちで採用されている。あんなんで教育された子供、大人も同じように北朝鮮のロケットがどうやこうやと言うたら、いっぺんに排外主義がブァーと出てくる。ほんとに恐ろしい時代になっていると思います。

 今こそ、三里塚で闘っているあのほんとに正義の闘いを、もっともっと知ってもらわなければならない。今度の9月27日には、そういう意味で関西実行委員会は三里塚反対同盟と一緒に、関西の集会を開きます。一人でも多くの皆さんに、あの闘いを、だまって認めてしまえば、次は過去の戦争を繰り返す近道になります。9月27日には、ぜひ覚えてもらって、お集まりください。10月11日には、三里塚の現地で全国集会が開かれます。私たちは、マスコミがどんなに右から左の宣伝があろうとも、正しい闘いはここにあるのだぞと示したいと思います。

 

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2009年8月16日 (日)

三里塚の援農、現地調査をやろう

71916  日米安保体制を背景として、高度経済成長の中で生みだされつつあった日本政府のアジア侵略の野望を背景にした成田空港建設への動きであった。冨里空港案の頓挫に規定され、「佐藤・友納会談」による内定以降わずか2週間での閣議内定、その日のうちの閣議決定(06年7月4日)、そして機動隊暴力を前面にし札束にものを言わせた強引な農地強奪の一切のよるところが、この「野望」を根拠とした日本政府のあり方だった。

 それゆえ、反対同盟農民は「農地死守」「実力闘争」「話し合い拒否」を44年間貫き通し、徹底非妥協に闘い抜き、成田空港を半分も完成させない現実を今日、日本帝国主義の喉元につきつけている。

 日本帝国主義の破綻を契機に生み出された新自由主義的政策は、今、農地法改悪による「農地流動化」、農業破壊、農業売り渡しを前提としたFTA、EPAを水路に、「米軍再編とその変革」の日米軍事一体化の中で今日の恐慌情勢を乗り切ろうとしている。このことは、正に「米軍再編とその変革」の日本における要ともいうべき成田空港に楔となって打ち込まれている三里塚闘争に襲い掛かる以外に道がない、成田空港完成をまた再び追い求めるしかない所に日本帝国主義を追い込んでいる。これが「市東さんの農地強奪」に一切をかけて襲いかかっている日本帝国主義の根拠であろう。

 しかし、敵の攻撃を「農地死守」「実力闘争」の立場から、「農民らしく生きる」道を選んだ三里塚反対同盟の闘いは、菱田における産直運動、東峰・天神峰における産直運動をこの20年の過程で生み出した。しかもそれは、「二期阻止」をかけた85年10・20闘争の爆発と、動労千葉を先頭としたジェット闘争の爆発を通して、「労農連帯」「労農同盟」の道筋をも生みだす中からであった。そして市東さんの農地をめぐる「暫定滑走路供用開始強行」(2003年)は、「市東さんの農地を守ろう」という反対同盟をして改めて「農民として生きる」、「農地死守」を根底的にとらえ返し、発展させる契機となった。ここに、「米軍再編とその変革」に全てをかけあらたなアジア侵略の中に、若者、労働者、農民、被差別人民の生活を破壊し、格差を強制することで生き延びようとする日本帝国主義と、三里塚闘争は真っ向から激突する新たな局面を切り開いたのだ。それゆえに反対同盟は、闘いの普遍性を訴え、本体としての労働者の決起を、労農同盟へ新たな発展を訴えておられるのだ。

 そして同時に、三里塚反対同盟がこの3年、あらゆる労働者、人民、被差別民衆、諸階層の結集の砦、人民共闘の砦としての三里塚闘争ということを改めて言い出した根拠があるのだ。そして、「日本農民の名において」闘うと決意を語られ、農民諸階層の決起を訴えるとともに、「市東さんの農地取り上げに反対する会」運動の重要性を提起しておられるのだ。33_2

 私たちは、今こそ、反対同盟農民の日々の生き方、営農を軸としたその姿にじかに接し、その「農民として生きる」想いの深さと厳しさに接し、学ぶことを通してはじめて、この壮大な闘いの中に加わることが決意できるのではないだろうか。私たちが、三里塚現地の援農と現地調査を呼びかける根拠はここにある。それを経験した一人ひとりが、地域に、職場に、学園に帰り、多くの人々、市民に訴え、伝えていく。確かに困難だし、手もかかり、時間がかかることかもしれない。しかし、今、それが必要とされているのだ。私たちは、昨年6月以来、すでに6回(延べ17日)に上る援農と1回の現地調査を、延べ50人近くで行ってきた。それは昨年11月からの産直運動の取り組みも生みだした。

 みなさん。三里塚へ行こう。援農、現地調査をやってみよう。

 右上写真は天神峰の畑(全国集会を良くするところ。昨年8月撮影)で草取りをしておられる市東孝雄さん(右側)です。この時期は、草とりの仕事が、誰にも出来る大変な仕事です。

 関実では、この8月29日に関西を出発し、30日~9月1日までの援農、9月2日の現地調査をして、2日夜までに関西に帰る計画を、ワゴン2台で準備しています。途中参加でも結構です。参加希望の方は、詳しくは、関実事務局までお問い合わせください。また別の日程でも、案内などお世話をすることができます。ご相談ください。

 そして「9・27三里塚関西集会」(反対同盟と共催)を成功させ、10・11三里塚全国集会に総決起しよう!

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2009年8月14日 (金)

世界同時水曜デモ(8月12日)に参加して

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 8月12日、日本軍「慰安婦」問題の解決を求める世界同時水曜デモが、阪急西宮北口のアクタ前の円形デッキで行われたので参加してきました。始まる前から下では「在特会」による聞くに堪えないような乱暴なアジテーションによる妨害が企まれていました。それをものともせず、50人近い女性を中心にした日本軍「慰安婦」問題を訴えるアピールが次々と行われたり、歌あり、踊りありのなかで、ビラまきが1時間半近く行われました。09812_2

 水曜デモは気になりながら、なかなか参加できず初めての参加で、背中に蝶々の形のカラーボードをつけることになった時は、流石に引いてしまいましたが、負けたらあかんと着けてビラまき。みなさんの元気に圧倒され続けていました。午前中から淡路に所用で出かけての帰りだったので疲れてしまい、後の「韓国平和紀行報告会」は遠慮して帰りましたが・・・。

 以下に、この日発せられた「声明」をご紹介します(右上写真は、「声明」の最後をみんなでコールしているところ)。

 解放64周年 日本軍「慰安婦」問題解決のための世界連帯集会   声明書

 「真の解放は私たちにやってきたのか」

 悲しさと喜びが絡まり泣いた解放の日は、64年という歳月を駆け戻れば出会える半世紀前の歴史となり、来年には日本帝国主義に国籍を強奪されて100年を迎える。民衆の人生の奥深くに閉じ込められた痛みは、永い歴史が流れても簡単には癒されないが、64年が侵略と戦争、不当な支配の鎖を断ち切り、人権と平和の歴史をたてるべき歳月であることは間違いない。

 しかし、私たちは解放64周年を迎える今日、再び解放を、真の解放を叫び、経済論理が飲み込んだ人権と平和を取り戻そうと叫ぶ。戦争を理由に、数多くの女性の人権を蹂躙した日本軍「慰安婦」という反人類的犯罪行為が今まで明白に解決されなかったことが、解放64周年を迎えた私たちが再び解放を叫ばなければならない原因となっている。戦争は依然として世界のいたるところで影を落としており、その中で同じ涙を流さなければならない多くの女性や弱者がいる原因となっている。09812_3

 沈黙を破り今日に至るまでとどまることのなかった日本軍「慰安婦」問題解決のための私たちの闘いは、まさにそのような痛みを再現しないための熱い闘争であり、平和に向かった訴えであった。2007年に米下院で採択された決議は、希望を現実にかえる導火線であり、その後継続する日本政府へ問題解決を求める国際社会の連帯は、その起爆剤になった。勇気ある証言で不当な世界に立ち向かい、屈しない叫びで希望の証しとなった日本軍「慰安婦」被害者とともに私たちが作り上げてきた人権と平和の歴史だった。

 戦犯国という汚名を洗い流しもしない前に、再び軍国主義への回帰を試み、未来世代には歪曲された歴史を注入しようろする日本政府の策略は、平和に逆らう不当な策略である。日本軍「慰安婦」被害者をはじめとし、日本帝国主義の弾よけになり搾取物にならなければならなかった犠牲者たちへの日本政府の無視と嘘は、明白な人権蹂躙に他ならない。

 経済論理で人権と平和を飲み込んでしまった韓国政府もやはり、被害者の苦痛を加重させている張本人である。正しい過去清算と平和定着のための役割さえできないヨチヨチ歩きの政府であることに嘆きを禁じえない。

 ここに、女性の名で、弱者の名で、青少年の名で、民主市民の名で、海外同胞の名で、集まった私たち日本軍「慰安婦」問題の早急な解決、そしてこの地の平和と人権のため、次の通り主張する。

一、日本政府は、国際社会および日本市議会が採択した勧告と決議を受け入れ、日本軍「慰安婦」問題に対する徹底した真相究明および公式謝罪と法的賠償を早急に実現せよ!

一、日本政府は、日本軍「慰安婦」問題をはじめとした戦争犯罪を清算し、未来世代に正しい歴史教育を実施し、アジアの平和定着のため先頭に立って努力せよ!

一、韓国政府は、民主主義と人権への弾圧を即刻中断し、正しい過去清算と人権尊重のため努力せよ!09812_5

一、この地の全ての戦争を断固として反対する。国際社会は、全ての戦争行為を中断し、特に女性に対する暴力を中断し、人権と平和実現のために立ち上がれ!

2009年8月12日

  解放64年 日本軍「慰安婦」問題解決のための世界連帯集会               参加者一同

管理人より=手違いから(というより操作の知識不足から)、リンクした関連ブログのリストが画面から消えていたにも関わらず気付かないまま放置されてきました。お詫びします。三里塚反対同盟のホームページのURLが変わって、直そうとして気づきました。

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2009年8月13日 (木)

被爆電車で語るヒロシマ(8月7日)

Photo

 8月7日、前日の集会に参加した人たちをはじめ、この日、新たに子供づれの人などを加えて60人近くが、広島駅前に集まりました。上の写真にある被爆電車で被爆し、ただ一人生き残っておられる米澤鐡志さんに被爆電車に乗って、お話しを聞こうという企画のためでした。

 0986_2 午前11時に、被爆電車が到着。広電の労働組合の力で、上の写真の被爆電車の台車が残され、全体は現在使えるように修理されたものです。これに乗って、広電の車庫までのわずか30分でしたが、米澤さんの生々しい、凄まじい体験をお聞きすることになりました。

 1945年8月6日、当時小学校5年生の米澤さんはお母さんと疎開先から荷物を取りに帰るために、ご自宅に向かって80人乗りのこの電車に200人というすし詰め状態でのられたのです。私たちは60人。一部の人は床に座り込みながら、お話しを聞きました。

  中国新聞社近くの流川を過ぎたあたりで被爆。爆心地から750メートルでしたが、満員の中心部分で大人の影に隠れていた上に、広島で一番高かった福屋百貨店のビルの陰に入っていたこと、喉が非常に渇きながら水を飲めば全て戻してしまうことを繰り返し水を飲めなかったこと、放射能に侵された「黒い雨」を木の下でしのげたこと、そして何よりも、その日のうちに広島を離れることができたことなどの「幸運」が重なって、米澤さんは、今日まで生き延びることができたと言っておられます。0987 (7月13日付けの当ブログ http://kanjitsu-sanrizuka.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/post-24d1.html に米澤さんのお話しの概要が掲載されておりますので是非ご覧ください。)電車の中の様子、降りてからの逃避行の中で見た様々な惨状は、本当に凄まじいものでした。

 「当時、中学校3年生以上は工場に働きにいかされていて、1、2年生が建物疎開をやっていたんですね(火災の延焼を防ぐために、建物を列によって潰していたのが建物疎開)。国防婦人会と、女子学生そして中学1、2年生が駆り出されていた。屋根瓦を落として、屋根に綱をはって運動会の綱引きのように倒して潰す。そのつぶした後を整理させるという仕事をさせていた。帽子をかぶって半ズボンで半そでシャツ。そこへ3000度以上の光線を直接浴びたわけですから、たまったものじゃない。全部焼けてしまって完全に裸状態でやけどですね。すぐ水ぶくれができるんですよ。シャツを着ているところと直接肌にあたったところはやけどの状態が違いますからね、水ぶくれの水がだんだん下がってくると、皮膚も一緒にずってくるわけですね。0987_2 ずったものが爪の先で止まりますね。そうするとみんな、泣きながらその袖からの長さの皮膚をぶらさげてるんですね。それは本当に可哀想で、しかも幽霊のような感じで、しかも裸で、全身やけどで、そういう女学生、中学生たちをたくさん見ました。その子たちは、カンカン照りの中で、脱水症状を起こしていますから、そしてすぐそばが川ですから、子供たちも、子供だけでなく大人たちも川に入って水を飲もうとするわけです。ところが、水に入ったとたんにパタッと倒れて流れていくわけです。これは、脱水症状の所に水に入ったショック死だと思うんです(この日の米澤さんのお話しから)。」

 被爆された現場はあっという間に通り過ぎてしまい、8月15日の敗戦の日のこと、そしてその二日後には、頭の髪の毛がすべて抜けてしまって(お母さんもまた)丸はげになってしまったと言うお話しのところで、広電の車庫に着いてしまいました。

  そこで電車を降りて、広島電鉄OBで、組合で書記長を20年近く務められた河野弘さんが合流して下さり、まず、車庫の入り口にある慰霊碑を前に、広電の組合員の皆さんの被爆の状況と、この慰霊碑を会社に作らせた経緯などを説明してくださいました(左下写真で、米澤さんの前で、写真中央におられるのが河野さん)。

 そのあと、もう一台の被爆電車の中で、河野さん、米澤さんからさらにお話しを伺いました。0987_2

 河野さん(右写真)は、被爆直後に広電がすぐに電車を走らせるようになる経緯と、日本陸軍の思惑(本土決戦)を話されました。電柱の被害の少なかった己斐から観音町の区間で8月9日には、東京から軍隊が動員され、電車が走ったそうです。そして20年の終わりには20輌、21年には36輌、24年には70輌が走れるようになったそうです。しかし、ガラスがなかったので、運転席をのぞいて板を張り付けたとか。

 米澤さんは、5分しかないという中で、9月初めにお母さんが亡くなられ、被爆していなかった1歳の末の妹さんが、8月8日から15日の間にお母さんから授乳しただけで、その年の10月に亡くなったということを話され、原爆の恐ろしさを訴えられました。お話しの最後に、朝鮮人の人々の被爆の問題が話せなかったことを本当に残念そうに語られ、お話しを終えられました。

 「語り部集会のようなことをやっても問題にもならない」と言うようなことが言われていると聞きますが、断じてそうではありません。今こそ、現場に立ち、被爆者(それはビキニ事件の被爆の問題にも通じる)のみなさんの想い、その怒りと悲しみに触れることを通し、学ぶことを通し、私たちの決意を固め、隊列を強化することが必要になっているのです。それは様々な問題にも通じることです。この3日間、祝島をはじめ、本当に貴重な時間を持つことができました。多くの皆さんの想いに支えられた素晴らしい時間でした。 

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2009年8月12日 (水)

祝島でナメクジウオ

Photo  上写真は、長島の自然を守る会が、2009年8月9日撮影した(動画からとりこんだ)ナメクジウオです。

 昨日、環瀬戸内海会議のメールリンクで、以下の「お知らせ」が届きました。転載させていただきました。

― 「長島の自然を守る会の高島美登里です。8月8~9日に現地調査(注・長島田の浦の原発予定地)を行いましたが、8日に埋立予定地内で原告の一人であるナメクジウオ5個体を採取しました。

 海藻研究所のKさんと貝類研究会のYさんがドレッジで海底の海生生物調査をしておられた際のことです。水深8メートルの埋め立て境界線内です。Kさんによるとかなりな数の個体が、ピョンピョン砂に潜って逃げるそうです。0985

 当日は地元テレビ局と新聞社が、8月19日の「上関自然の権利訴訟」の前の調査ということで取材に来ていて、映像に収めていきました。私たちが埋立予定地で採取に成功したのは、たぶん2年ぶりだと思います。時おりしも公判の直前ということで、ナメクジウオも訴えたいことがあったのだと思います。

 5個体のうち、1個体は標本としていただき、「人々のつどいの家」に寄贈しました。残る4個体は翌日も元気でしたので、「上関町・長島を歩くピースウォーク」の参加者の皆さんにお見せしました。近隣の学校の先生の教材にも利用していただく予定です。

 埋め立てを中止して、自然を知る大切な地であることをあらためて痛感した、このたびの調査でした。」 ―

 右の写真が、埋立予定地の長島・田の浦の海です(09年8月5日撮影)。陸地中央部分は、すでに中国電力によって木が切り取られ、車が走れる道が作られています。

ナメクジウオ

 Wikipediaによれば「ナメクジウオは、脊索動物門頭索動物亜門に分類される原始的な脊索動物である。脊椎動物の最も原始的な祖先であると考えられ、生きた化石である。」「全世界の暖かい浅海に生息している。体全体を左右にくねらせて素早く泳ぐことができるが、通常は海底の砂の中に潜って生活している。ホヤなどと同様、水中の食物をろ過することで摂食している。体内に緑色蛍光タンパク質を持ち、特に頭部が明るく発行する。雌雄異体であり、精子と卵を体外に放出し、体外受精を行う。」「日本近海にはナメクジウオ、カタナメクジウオ、オナガナメクジウオの3種が生息している。愛知県蒲生郡市三河大島と広島県三原市有竜島がナメクジウオの生息地として天然記念物に指定されている。(注・広島では海底の海砂採取が進んだため、最近では見られないと聞いている)」

 「神戸空港の中止を求める市民の会」の垂水での海洋調査でも第1回の2001年8月の調査で、垂水沖で1個体のナメクジウオが採取され驚き喜んだのですが、それ以降、神戸空港が姿を見せて以降、姿を消しました。

 いま「山口県・上関町の原発建設計画中止を求める全国署名」が行われています(9月15日集約)。「kaminosekigenpatsuhantaishomei.pdf」をダウンロード これをクリックしていただけると、署名用紙が印刷できます。ぜひ、皆さんの周りでも署名を集めて下さい。

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2009年8月11日 (火)

被爆64年 8・6ヒロシマの集い

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 8月6日、昼過ぎ、「被爆64年 8・6ヒロシマの集い ― であう、わかる、つくる 8・6ヒロシマ ―」が開かれ、参加してきました。0986_2 会場には300人の皆さんが集まり、歌あり、韓国のチャンゴ(右写真)やフルートの演奏あり、踊りありの中で、被爆者からの証言や、中国・重慶への大空襲と同時に行われた四川省楽山市への日本軍による爆撃の被害者の訴え、そして4人のパネリストによる問題提起、さらには5人の皆さんからの訴えと、あまりにも盛だくさんなプログラム、4時間半にわたる集会は、凄いというか、いささか疲れました。

 福島町の平野徹さんは、8月6日の朝、空襲警報が解除され小学校へ出かけようと玄関で準備していて爆風で吹き飛ばされた被爆直後の様子を中心に語られ、「地獄を見てきた」と話されました。

 武田民政さん(左写真)は、「13歳の夏」と題されて話しをされました。この年6月ごろから、動員学徒として軍需工場で一生懸命、垂直尾翼などを作っておられた頃の食糧不足の状況を話されました。0986_4 8月6日、友人たちと動員された先に向かっている最中に、飛行機が飛ぶのを見たとたんに被爆し、爆風で吹き飛ばされました。 無我夢中で逃げる途中、たくさんの数百の犠牲者が傷つき、死んで行き倒れていく様子を語られました。最初にたどりついた救護所での次々と死んで片付けられる様子などを。そして母に会いたいと己斐の小学校に向かい、お母さんと会えたことや、市内の凄い火災の様子、そしてその小学校で次々と死体が放るように積み上げられ何日も燃やされ続けていたことなどを。そして「これは生き地獄だ。戦争反対、核武装反対を大きな声で世界に届くように叫ぼう」と結ばれました。

 重慶大爆撃訴訟第3次原告団の支援団団長の楊追奔さんは、四川省楽山市の爆撃が重慶大爆撃と同時に行われたこと、そして広島の戦争反対の気持ちを重慶、楽山にも持って帰りますと訴えられました。続いて立った原告の李本澤さん(右写真)から、今に至る厳しい状況が切々と語られました。09863 1939年8月19日午前10時ごろ、数分間の36機の日本軍の爆撃機が落とした200発余りの爆弾で、風光明媚な楽山の街は破壊されつくした。2歳だった李さんは、母や姉弟2人、叔母を失い、瓦1枚も残さず家は破壊されました。3万人の市民のうち1千人が死んだ。李さんは、生活ができなくなった父によって売られたのです。お父さんと離散したこの事実を、訴訟という形で日本の皆さんに仕方なく伝えたいのですと結ばれました。

 休憩をはさんで4人のパネラーとコーディネーターの森島吉美さん(集会実行委員長)が登壇(最初の写真)。先ず、元大久野島毒ガス工場工員の藤本安馬さん(最初の写真のマイクを持って立っておられる方)が話されました。100年前の大不況と戦争、コメ騒動などの民衆の動きから説き起こされました。そして藤本さんが1933年小学校1年生になった時に「ススメ、ススメ」「日の丸万歳」をはじめ教科書が書き換えられ国際連盟からの脱退、「戦争をする」流れに入って行きました。その流れの中で、「お金をもらいながら勉強できた」からと、15歳の時に工員として毒ガス工場で働き出しました。「毒ガス生産は、中国軍を全滅させる武器と承知で作り続けた」「中国人を『チャンころ』と差別し、殺すのは当たり前と思っていた」というのです。その自分が「差別の悪循環」の中で生み出されたことを気づき、自分を「鬼の子」と自覚されたというのです。「鬼の子」から自分を取り戻し、そして「鬼の子」を育てた「鬼の親」を退治するのだと、中国の毒ガス被害者に謝罪の旅をし、差別を憎み闘い続けていることを話されました。0986_5

 次に、ビキニ水爆実験被爆者の大石又七さん(左写真)。大石さんは、1954年、第5福竜丸でマグロ漁操業中に広島型原爆の約1000倍の水爆ブラボーの実験に遭遇し、130キロも離れていた海上でありながら、広島型原爆の爆心地から800メートル範囲内の放射能と死の灰に襲われたのです(この時、856隻の船が被爆し、2万人近い乗組員が働いていたと厚生省。廃棄されたマグロは500トンに上ると言われる)。大石さんは「日米両政府が被害者の頭越しに、わずか9か月で政治決着を結んで握りつぶした」「原子力技術と原子炉の導入とを引き換えにした取引だった」「翌年原子力協定の仮調印を結び、その次の年に原子炉が東海村に送られてくるという速さ」と糾弾されたのです。そして「4兆円もの税金を毎年つぎ込み、人殺しの訓練をする自衛隊ではなく、世界中で毎年起こる事故や災害に船や飛行機をいち早く出動させ、人命救助と復興に力を尽くす災害救助隊を作り上げてほしい。それが世界から喜ばれ、愛され、信頼される日本になる道だと思う」と結ばれました。

 続いて、1981年沖縄国体で日の丸焼き捨てで沖縄戦の戦争責任を問うた読谷村議の知花昌一さん(右写真)からです。0986_6 1943年の御前会議で、天皇ヒロヒトは近衛首相から出されていた停戦の提案を拒否した。知花さんは、このことが、沖縄戦、ヒロシマ、ナガサキの惨状を生んだのだと指弾されました。それにとどまるどころか、1947年のマッカーサーへあてた「天皇メッセージ」が、1952年のサンフランシスコ条約、そして沖縄処分(米軍占領)の25年を生んだ、この侵略の行為の責任、加害責任、そして戦後責任を、追求できてきたんだろうかと、知花さんは問われました。沖縄では、東京タワー占拠事件の富村順一の闘い、青年4人によるヌンチャクで武装しての皇居突入、沖縄海洋博での姫百合の塔での皇太子(現天皇)への火炎瓶攻撃など、戦争責任を問う闘いが組まれてきました。南京大虐殺、従軍慰安婦問題、日本軍による沖縄での集団自決命令などの歴史が、新自由主義史観で書き変えられようとしている。過去を「過去のもの」として捨て去るのではなく、「今における過去」として見据えなければならないと提起されたのです。0986_7

 最後に、若者を代表して広島修道大学4年生の安達菜穂子さん(左写真)が、集会を準備し、「戦争と市民展」の準備を手伝ってきた中からの想いを語られました。先の3人の大きなところからとは違って、ごく身近なところから話させて貰いますと断られた上で。集会名称が最初「であう平和、わかる平和、つくる平和 8・6ヒロシマ」とされていたのに反対して、「平和」をぬいたのです。小さい頃から広島で育ち、平和教育をいやというほど受ける中で、「平和」という言葉に反発を覚えるようになったのです。平和ってなんでしょうか。戦争がないことでしょうか。それは最低限の表現でしかありません。差別がないこともあるでしょう。戦争を知らない世代として、軽々と言葉にしている「平和」に反発を覚えるのです。もっとキラキラとしたものではないでしょうか、と。

 この4人の方のパネルディスカッションが、これからどんなものに展開するのかお話しを聞きながら大いに期待しましたが、すでに時間がなく「言いっ放し」で終わることになりガッカリ。しかし、凄い集会でした。

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2009年8月10日 (月)

8・6ヒロシマ ― 平和の夕べ ―

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 例年になく涼しい8・6ヒロシマで開かれた「8・6ヒロシマ -平和の夕べ-」には、250人を超える人々が集まりました(上の写真は、「怒りネット関西」のブログからお借りしました)。0986_2

 集会は、元国立市長の上原公子さん(右写真)の絶妙の司会で進められました。開会前から池邊幸恵さんのピアノとナターリア・コズローヴァさんの歌(左下写真)が会場を魅了。開会してから、さらに池邊さんの演奏とスクリーンでのこの日と平和への池邊さんの想いが表現されました。

 いよいよ、この日のメイン、平和講演として「ヒロシマの継承と連帯を考える」と題した河野美代子さん(産婦人科医、右下写真)の講演です。0986_4

 河野さんは、被爆2世として62年をずっと広島で育ち、暮し、産婦人科医として「患者さんを通して社会を見てきました」というご自分の体験を通したこの日への想いを語られました。その土台として、小学校、中学校、高校での体験を。

 そして大学で被爆者青年同盟の結成に加わり、天皇、佐藤首相の来広阻止闘争を戦い抜く中で、一つは「親の話しを聞こう」と被爆者として、原爆で傷つき苦労しながら自分を育ててくれた親に「あなた達は侵略者だ」と問うていった想いと、今一つは、「子供を産もうよ」「被爆者の血を脈々とつないでいこう」と決意したことを語られました。

 産婦人科医として染色体の研究をするうちに、トルーマンによってつくられたABCCがたくさんの被爆者とその子供たちの染色体を調査し、「染色異常」に気づき、指摘しながら結果をアメリカに英文で発信するだけで、被爆者たちには知らせてこなかった事実を厳しく糾弾されました。

 さらに、「いのち」を見つめる中から「性教育」の問題に自分の立ち位置を決められたこの30年近い取り組みについて語られました。この日同じ時間に、広島で挑発的に田母神元航空幕僚長が、「核武装」を求めて講演していることを弾劾されつつ、その背後にある「日本会議」の犯罪を糾弾されました。日本会議は、「性教育」だけでなく、人権教育、平和教育までも破壊しつくそうとしていることを、具体的ないくつもの例をあげながら、また自らの裁判の闘いをも紹介されながら指弾されました。0986_5

 河野さんは、「35万の人々のうち13万から15万の方が年内に亡くなった「核の脅威」をもう一度ここで見直してみるべきです」「たくさんの被爆者の闘いがあってこそ平和が保たれたのだ」と提起され、この日のご自分の最大の感動として平和公園でのこども宣言「平和の誓い」に本当に感動したことを、その言葉を紹介されながら話されました。(この河野さんの想いについては、ご自身のブログ「いろいろダイアリー」に掲載されていますので、http://miyoko-diary.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-cbac.html こちらをぜひご覧ください。)

 そして最後に峠三吉さんの「墓標」を朗読され、特に子育てをしている方に「子供たちに伝えましょう」と呼びかけられ、話しを終えられました。優しい語りの中にも、本当に胸を打つ問いかけ、呼びかけがあり、感銘を受けました。0986_7

 集会を呼びかけられた青木忠さん(左写真)から1945年の3月19日と7月28日の因島空襲で、多くの人が犠牲になりながら、公の記録には「ほとんど死者がでなかった」とされていることへの怒りと、こうした事実を知ることなく「戦争反対」を叫んできた自分への戒めを込めた話しがされました。

 続いて3人の方が登壇され、短い時間の中でしたが、それぞれの立ち位置からの想いが語られました。

 先ず、被爆電車の中で被爆し唯一の生き残りである中澤鐡志さん。0986_9 被爆体験を話す時間はないのでとして、「日本が危険な状態になっている」として、一昨年、10・21に京都で取り組んで1200名を結集できた「市民運動独自の闘い」と「反戦老人クラブ」の取り組みを語られながら、400回を超す被爆体験の語り部として、「生き残った体験を伝えていかなければならない」と決意を語られました。

 「原発いらん!山口ネットワーク」の三浦翠さん(左写真)は、チェルノブイリ事故に触発され、上関原発に反対して運動を立ち上げた経緯を語られました。0986_10 そして長島田の浦、祝島を訪れることを通して「このきれいな自然には絶対に手をかけさせない」という決意を固められたことを、その自然の素晴らしさを具体的に紹介され、祝島のみなさんの「1本釣り」に象徴される暮らしぶりと、中国電力による様々な建設攻撃に対する文字通りの「実力闘争」が闘い抜かれてきたことが紹介されました。山口県の漁協が底引き網漁であることからこの祝島海域では漁をしないにもかかわらず、125億円もの補償金を中国電力から受け取り、推進側についていることを糾弾されました。

 元京大原子炉実験所助手の小林圭二さん(右写真)は、丸山真男の遺稿の言葉を紹介しながら、熱風と熱線、そして死の灰という原爆の延々とつづく被害が原発にも共通することを先ず明らかにされました。0986_11 その上で、ご自分が「専門バカ(ママ)」として問題に気付かないまま、60年安保世代として反権力闘争と考え、70年初頭に伊方原発の裁判に関わる中で、原発の全体像を教えられたと自己批判をこめて明らかにされました。そして「原発は人類と共存できない」「原発と原爆は同根」「そもそも原発は原爆から生まれた」と具体的に語られました。そして9条が解釈改憲によってなしくずしで派兵が行われていることを上げつつ、現在の原子力行政が「限りなく核兵器の開発にちかずいている」「平和利用と軍事利用の垣根はなくなった」「『もんじゅ』は核兵器製造工場だ」と指弾されました。

 淡々とした中に、非常に内容豊な、そして何よりも被爆者とともに、改憲阻止、核武装反対、戦争反対を闘い抜こうという想いが貫かれた本当にいい集会でした。

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2009年8月 8日 (土)

今週の産直野菜(8月8日)

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 盆休み前最後の野菜が遅刻して、今、届きました。高速道路の事故渋滞だったそうです。

 暑さで、モロヘイヤ、空芯菜がかわいそうなくらいにへったっています。それにジャガイモ、カボチャ、なす、キュウリ、ピーマン、オクラ、青唐辛子、ゴーヤで、合計10品。先日、27日の裁判(市東さんの耕作権裁判)の傍聴に訪れたとき、久しぶりの雨が降り、嬉しいもののミニトマトはどうかな?と言っておられましたが、やはり、ミニトマトは消されていました。とりあえず、モロヘイヤと空芯菜は、束ねて水につけてやったが・・・・。少しは写真で、きれいになったかな?

 先週の野菜は、頑張って食べたものの、8・6ヒロシマで4日間も留守にしたので、人に譲らざるを得なかった。今日から、しばらく休息できるので、野菜を大いに味わおう。しかし、ピーマンが多いなぁ~。謙太郎さんが、ピーマンもオクラも生で食べてもおいしいぞと言っていたので・・・。

 先日、民主党が政策を発表したとき、戸別補償を言いながら、FTAを進めるとしていた。「こいつら、票のためにインチキをしようとしている」と思わず怒りが。「FTAが日本の農業を破壊する政策だということさえわからないのか」と呆れた。案の定、自民党系の農業団体に突っ込まれただけでなく、北海道など各地で猛反発を受け、慌てて修正しようとしているが、結局「頭隠して尻隠さず」。本当に許せない。

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山口県・祝島フィールドワークに参加して

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 8月4日の夜、神戸を出発し、8・6ヒロシマの闘いに先立って、原水爆禁止山口県民会議のお世話で、広島駅からバスに乗って、中国電力の原子力発電所が建設を予定されている上関町長島、田の浦(上写真)の対岸4キロの海上にある祝島を訪れました。Photo

 広島駅からバスと船で3時間半。祝島は、人口500人ほどで、平均年齢は75歳の高齢化が進む島です。しかし、その周辺の海域は透明度15メートルというきれいな海で、釣り糸を船べりから吊るす「1本釣り」による鯛、あるいはタコを中心とした豊かな漁場です。原発予定地とされる長島・田の浦周辺は、「生きている化石」と言われるカサシャミセンや、絶滅危惧種の貝類がヤシマイシン(左下写真)などいろいろと生息し、それらの小動物を食べるスナメリ(クジラの一種)が棲む海です。 海底には様々な海草が育ち、それらの生き物を育んでいます。公民館で行われた交流会で、地元の婦人会が用意して下さったタコの混ぜご飯、鯛、黒穴子(はもに似ている)、タコの刺身、そして鯛のあらいの味噌汁。この美味しかったこと。 日ごろしたことのない「おかわり」をいただいた。

 祝島に着くなり、漁船に分乗して釣りの体験。Photo_4 時間がなかったので、島の近くで釣り。漁師さんによると長島近くの鼻繰島まで行けばどんどん釣れるとか。それでも、私たちの船でも釣り糸を垂れたとたんに食いつき、きれいなピンク色の鯛が釣り上がった(左写真)。 日ごろ、釣りをしたこともない女性が、3尾で、私たち7人では最高。私は、15センチ大のアジを1尾。不満そうに漁師さんに渡すと、「その顔は何じゃ。この時期アジが釣れるのは珍しい。値段も高い。味なことをする」と、褒められたのか、茶化されたのか・・・。0985_6

 1時間余り、ほんとに静かな海で、うす曇りのおかげで気持のいい時間を楽しみました。島に帰って、公民館で先ず昼食。先にも書いたように、本当においしい料理に、缶ビールの味が又何ともいえず嬉しい。交流会で、まず、「上関原発を建てさせない祝島島民の会」代表の山戸貞夫さん(左写真)から簡単な経緯と想いをお聞きしました。「日が昇るところに田の浦はあり、毎朝、起きれば見たくなくても原発が見える。 それを見ながら生活をしなければならないなど耐えられない」と、島民の9割が反対しているのです。山戸さんは、「1日でも、1時間でも計画を遅らせたいし、今も、みんな止めたいと思っている」と想いを語られました。反対運動の強化のために、島民の皆さんは毎週月曜日にデモをおこなっておられる。この日までに1041回。「凄い!」の一言につきます。0985_5

 この後、漁船5隻に分乗して、田の浦の現場を訪れながら(最初の写真)、帰途に着きました。大阪湾に慣れている私には、青い海と漁船が立てる波の白さが驚きでもありました。最初の写真にあるように、現場はすでに木が切られ、道路がつくられ、浜には工事用の仮桟橋が据えられています。しかし、山戸さんのお話しでも、「中国電力の計画ではもう本工事が始まっていることになっていたが、何もはじめられていない」のです。ぜひ大きな声をあげて、建設を中止させましょう。地元の人のお話しでも、「中国電力の電力は余っていて、関西電力に売るために作る」というとんでもないものなのです。

 そもそも原発のことについては言い出せばきりがないほど、いろいろな問題があります。今日、夜、午後7時には、「神戸空港の中止を求める市民の会」の8月例会で、この「祝島を訪ねて」と、報告をいたします。また、同会の9月例会(9月12日(土)午後7時~)では、元京都大学原子炉実験所助手の小林圭二さんに「原子力発電を問う(仮題)」の講演をしていただきます。会場はいずれも神戸学生青年センター会議室A(阪急六甲下車、東北へ徒歩3分。会場電話078-851-2570)です。どなたでも参加できますのでどうぞ(参加費200円)。

 また「上関原発を建てさせない祝島島民の会」や「原水爆禁止山口県民会議」などが呼びかけて、「原発建設計画中止を求める100万署名」が呼びかけられています。「kaminosekigenpatsuhantaishomei.pdf」をダウンロードをクリックしていただけると署名用紙が印刷できます。ぜひ、署名を広げて下さい(集約は9月15日、詳しくは署名用紙を)。

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2009年8月 3日 (月)

新誘導路供用開始に抗議する!

09730  7月30日、空港会社NAAは、新誘導路(左写真の右手で大きく湾曲している誘導路、共同通信WEBより転載)の供用を、当初予定より10か月も前倒しして開始した。この前倒しは何の意味もなく、ただただ三里塚反対同盟農民への恫喝でしかない。三里塚闘争の解体を狙った10月22日、暫定滑走路北延伸部分の供用開始前倒しと一体の、きわめて悪質なものである。

 この写真右端の誘導路が大きく湾曲している部分は、その上側の森と繋がった「東峰の森」の3分の1ほどを切り開いて建設が強行された。その部分は空港敷地からはずれた部分だったのだ。何の計画変更も行うことなく、敷地外に空港関連施設をつくることが認められる筈もないではないか。しかし、それが強行された。成田空港なら許されるとでも言うのか。

 そもそも、東峰の森は、東峰地区の住民が戦後の開拓の苦難の中で50年にわたって守り育ててきた入会林です。農業用水のための水源や、保水、堆肥や床土といった生産基盤、あるいはたきぎといった生活基盤、また防音、防風など環境保全の役割を果たしている、地区の住民にとっては、なくてはならない、命のような森なのです。Ky2

 この入会林が東峰地区にとってもつ意味を知ればこそ、空港会社NAAは、これまで、東峰地区の住民を話し合いの席につかせたいという思いからであれ、三度にわたって東峰地区住民に「区民の同意なくして、一方的に現状変更を伴う計画は策定しない」と約束して来たのだ。それを反古にし、新誘導路建設のために森を3分の1も伐採し、ついに供用を開始したのだ。こんな権力犯罪をどうしてゆるせようか。右写真は、右側が残された森で、残りは伐採された後の更地です。

 最初の写真の湾曲部に接するようにある緑の所が、よく全国集会に使われる萩原さんの「清水の畑」です。(その左手にあるのが島村さん宅を含む東峰部落の一部です)。「農家便り」で最近書かれていますが、空港周辺の畑は、コンクリートによる熱風による被害が出ている。この「清水の畑」は、完全に空港に囲まれ、その熱や風による被害は計り知れない(「農地収奪を阻む」の表紙にもなった左写真はこの畑でトラクターを運転する萩原進さんです)。そもそも、この東方の森を通って、萩原さんは自宅からこの清水の畑まで10分くらいで行けたのだ。それが、トラクター専用の道路もない、車が頻繁に通る県道を通って30分もかかっていかなければならなくなっているのだ。これも許せない!08830

 しかもこの新誘導路は、最初の写真の右上隅にある暫定滑走路の南側を横切るため2か所の信号が付けられ、滑走路を離着陸する航空機があればその信号で停止しなければならないという安全性を無視したものなのだ。大回りして、しかも信号で止められ、時間がかかることは目に見えている。こんなでたらめをしてでも、萩原さん、市東さんに圧力をかけ、三里塚闘争を解体しようというのだ。しかも、こうした計画の中では全くなかった第3誘導路計画を、この新誘導路の攻撃では結局何にもならなかったと、この7月4日に発表するというでたらめさを、どうして許せるか!09610

 しかし、みなさん。最初の写真の左下に、緑色が違うところ(白い横線のようなものがある)がありますが、これがたびたびこのブログでも成田空港最高の名所として紹介させていただいている横堀の小屋のあるところです。地理さえわかれば、誰でも入れ、右写真の小屋と鉄塔があり、その鉄塔に登れば、この空港の破綻した、完成していないことが手に取るようにわかる場所です。ここは横風用滑走路予定地のまん中です。こんな場所にあるのです。反対同盟の皆さんが踏ん張り続け、「不撓不屈、非妥協、話し合い拒否、実力闘争、農地死守」の原則が守られる限り、こんなつぎはぎだらけの空港など必ず廃港にできます。

 先日も裁判で、東峰神社の違法に伐採された立木に代わって植えられた立木6本が、航空法による制限高を超えて、「切ってくれませんか」と空港会社NAAが言ってきたと萩原さんが報告された(下写真は、この4月22日の東峰神社での写真)。09422 「北へ伸ばしてるんだから、南を短くすればいい」「この日を待ってたんだ」と萩原さんはほくそ笑みながら語られた。そして「先ず暫定滑走路を閉鎖させ、空港廃港への道筋を作るんだ」「これは可能だ!」と確信を持って提起されたのです。

 許し難い新誘導路の7月30日供用開始、そして10月22日の北延伸部分の供用前倒し攻撃、第3誘導路攻撃。これらによる市東さん叩き出し、農地強奪の攻撃を許さない、猛然たる現地の闘いを実現しよう。9・27三里塚関西集会を成功させ、10・11三里塚現地へ総決起しよう!

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2009年8月 2日 (日)

第11回海洋環境調査

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 昨日、8月1日、神戸空港の埋め立てによる大阪湾への海洋環境への影響を調べる第11回海洋環境調査(神戸空港の中止を求める市民の会主催)が行われました(上写真は船上の作業風景。一番手前左の白い帽子が讃岐田訓市民の会代表)。

 京都学園大学生の讃岐田先生の教え子たち、また讃岐田先生が関わる琵琶湖市民大学からも多数が参加し、総勢26名。5 今までで最多です。しかも専門家が多く、いつもの調査に、新しく2つの調査を加えた。この日は、午前中土砂降りで、雷も、という大荒れの天気予報。しかし、風さえなければ大丈夫と予定通りの出航。案の定、神戸港を出たとたんに第1ポイントの垂水につくまで土砂降り。調査の準備をしていたみなさんはズブ濡れ。海底の溶存酸素などを図るクロロテックの記録計が異常。仕方なく、この日は、打ち出されるデーターを読み上げて、その場でノートに記入という手作業。調査は、右上図にあるように垂水から尼崎の海域で大潮の流れに乗って10箇所の定点で調査をする。

① 0981_4 透明盤で、透明度を図ります。これが一番わかりやすい(左写真)。

② 先ほどのクロロテックで、海底から海面までの溶存酸素、塩分、水温、濁度などを測定。

③ 採泥器で泥を採取し、その温度とサンプリング。さらに、その中に棲む1ミリ以上の生き物をピンセットですべて拾い出し、ホルマリン漬けにして後で専門家が特定。0981_5 これが海底の状態を最も正確に表現する(右写真は、ピンセットで探しているところ。左は小学校4年生)。

④ 1回目で行った採水器(左下写真)で、海底の水の採取。これでチッソ、リンが測定され、淀川等の河川水の影響を見ることができる。0981_6

⑤ 新兵器で(名前を聞き忘れた)、海底の泥(ヘドロ)を容器を突き刺して(右下写真)、採取したサンプルを輪切りにして、泥の中に含まれるチッソやリン、そして重金属などを測定して、周囲の沿岸部の歴史と照らし合わせながらヘドロの歴史を探るという調査。0981_8 4番地点と6番地点でおこなった。

 結果が全部でそろうのは、9月下旬。10月の市民の会の例会で、讃岐田先生から講評していただきます。

 とりあえず判っているのは、透明度の変化です。左下に昨年のものを示しています。Photo 最大でも8メートル台でした。また空港の東側(⑤、⑥地点)でも、3メートル台です。ところが今年は、梅雨も明けきらず、どの程度はっきりしたデーターが取れるのかなという私の懸念をよそに驚くほどハッキリとした結果がでていました(これは、口頭で伝えられた海底の溶存酸素でも同じでした)。

 右に、今年の透明度のグラフを示しましたが、なんと、空港の西側(①、②、③地点)では、これまでで最高の透明度を示し、②地点では10メートルを超えました。雨が降っていて梅雨も明けきらなかったことが影響したかもしれません。 ところが、空港島を超えて⑤地点に来たとたんに2.1メートル、それ以降、⑥、⑦と下がり続け、ほとんど透明度がないといってもいい状態です。淀川、武庫川など河川の河口が近い⑧、⑨、⑩地点は、雨が多かったことから少し上がりますが、それでも2メートル前後です。Photo_3

 空港島がなかった頃には、明石海峡から流れ出る時計回りに回る大阪湾の外側を回る強い潮の流れがあったことが知られていました。東京湾では1970年代初めから「死の海」の象徴である青潮が発生していましたが、この強い潮の流れで、大阪湾では同じような汚染状況にありながら青潮は発生しませんでした。ところが、空港島ができた2年後の2003年から、大阪湾でも青潮が発生しだしたのです。これは、1994年に旧通産省の中国技術研究所などが発表していた「神戸空港の建設が、大阪湾の潮流に影響がある」という指摘を裏付けています。そして、私たちの11回に及ぶ海洋環境調査も、この指摘が正しかったことを事実でしめしました。

 今年の明確に神戸空港を境にした透明度の急激な変化は、潮が空港島でせき止められ、島の東側、大阪湾奥部が全く停滞した海になってしまったことを示し、河川などからの汚染水の流入によって、深刻な汚染状態になってしまっていることを示しています。このことは、海底の溶存酸素、チッソ、リン、あるいは塩分濃度などによってより具体的、科学的に明らかに示されるでしょう。10月の例会が楽しみです(変かな?)。

 しかし、新しい調査も加わったため時間が長くなり、船の上だけでも6時間、前後の準備を含めれば8時間、天候の悪い中、参加された皆さん、本当に御苦労さまでした。パイロットのWさんが初めて仕事の都合で参加できず、海図とレーダーを必死に眺めながら、船長さんに調査地点を指示し続けていた私は、作業もしながら、写真を撮りながらで、ほとんど立ったまま。今も、足がパンパンに、腰に痛みが・・・。歳ですねぇ・・。トホホ。 

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2009年8月 1日 (土)

今週の産直野菜(8月1日)

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 遅くなりましたが、先ほど、三里塚から産直野菜が届きました。今日は、早朝から、「神戸空港の中止を求める市民の会」の第11回海洋調査があり、土砂降りの中での出航でどうなるかと思いましたが、26人が参加して賑やかに終えることができました(詳細は、明日に)。8時間近く立ちっ放しで、しかも船に揺られて実はヘトヘト。そのため、クロネコの荷受けが今になりました。モロヘイヤが、暑さで萎れて見る影もなく、慌てて水につけて「衣装直し」をして、写真。まだちょっと、みずみずし過ぎるか、ふわっとした雰囲気がないですが・・・。下右の昨年8月の援農の時のモロヘイヤの収穫の写真を参考に(鈴木さんのところで)。08819

 今日は、このモロヘイヤに、じゃが芋、玉ねぎ、なす、キュウリ、ピーマン、オクラ、ししとう、とうもろこし、ミニトマトの10品。トウモロコシはこれで終わりとか。残念!

 モロヘイヤは、どんどん育ってくるうちの柔らかい新芽の所を摘み取っていきます。立ったまま出来るので、作業は簡単で、見た眼がふわっとしていますので、籠がどんどんいっぱいになっていきます(実は、この「いっぱいになる」というのが、不慣れな私たちには大事な感覚。やってもやっても進まない、そして腰が痛くなる草取りとは大違い)。援農の作業の中では、めっちゃ楽な方。しかも、この日は、うす曇りで、ときおり小雨の通り雨。気持ちがよかったのを覚えています。しかし、周りにもいっぱい葉っぱがあり、なんとなくもったいないと思いながら、作業を・・・。

 この8月の末には、援農の計画。「今度は、草取りをやろう」と息巻いていますが・・・。さてどうなるでしょう。みなさんも、行ってみませんか。

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