じゃがいも掘りと援農 (6月7日~10日)
この7日に、三里塚産直の会主催の「じゃがいも掘り大会」が、萩原さんの畑で開かれた。私たちは、関西から6人、東京から2人がこの企画に参加し、7人が残って8日、9日と援農、10日は現地調査を行いました(上の写真は、ジャガイモ掘りに先だって行われた萩原さんの畑の案内)。
直前の天気予報が全く外れ、7日は、快晴に恵まれ、子供連れの若い夫婦が中心の120人が参加してにぎやかなジャガイモ掘り。そして、産直農家の心づくしの肉じゃが、サラダ、おこわご飯、おにぎり、みそ汁、焼きそばなどが参加者にふるまわれました。暫定滑走路とターミナルビルを結ぶ誘導路のすぐそば、市東さん宅の近くの開拓道路にある萩原さんの畑ですから、行きかうジェット機の騒音がまたものすごい。後の交流会で、消費者の皆さんから、三里塚闘争の厳しい現状への驚きと、「おいしい野菜をいつまでも供給してください」という声が、多くの方々から聞かれた。
翌日からは、市東さん、萩原さん、鈴木さんの三軒に別れての援農。所が天気がずれたか、雨模様の8日、曇り空の9日。最初は、援農が十分には出来ないかもしれないという雰囲気でした。しかし、昼休みにどっと降ったりしたものの、幸いにフルに援農と出荷作業のお手伝いができました。雨のため初日に予定されながら出来なかった草取りも、出荷作業の前後にそれぞれのところで出 来たようです。
10日には、いつもの通り、東峰部落、天神峰部落から始めて、横堀、菱田、岩山と現地調査をしてから、北原鉱治反対同盟事務局長の所に挨拶に。今回は、71年夏の闘いでの地下壕戦のことを、1時間近くも詳しく話していただけました(右写真)。
そのあと若い人々から、北原さんに質問や参加しての感想などが話されました。
参加したMさんは、三里塚そのものが初めて。出されたお菓子にも手を出さずに、必死で北原さんの話しに聞き入っている。そして、三日間の援農などの体験を含めて、「今回私は初めて参加させていただいたんですけど、前回来ると言って来れなくて、今回、ここに来るまで結構自分の中で考えも凝り固まって、自分の考えしかなかったし、自分の心の中に風が吹くということがなかった。それが、今回ここにきていろんな人の話しを聞いたり、やってることを少し教えてもらうことによって、新しい風が吹いた。多分、この後帰って、三里塚の活動を直接やることはできないかもしれないけれども、でも私の中に風が確実に通って、新しい考えや新しいこと に触れたから、またそれが三里塚っていう形でなくても、絶対何かにつながっていく、そんな風に3日間を過ごさせてもらったので、参加してよかったです」と北原さんに感想を述べた。北原さんは「あなたにはあなたの生き方がある」と優しく諭された上で「(三里塚に長く関わっている)あなたのおじいちゃんと三里塚について話しあってみなさい」と語りかけられた。(左写真は、市東さんのところで、玉ねぎ剥き作業)
このMさんだけでなく、2度目、3度目の人も、この4日足らずの農作業と交流を通して、本当にほっこりとした豊かな気持ちを持って帰途に就くことができました。「三里塚に来ると、本当に元気になる」というI子さんの言葉を、それぞれの想いにしながら。
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コメント
「何言うてんねんな。去年は新幹線で来るのも不安やって言うてたやん」
そうでした!私、今回一人で新幹線を乗り継いで友達の家に遊びに行って、ジャガイモ掘りの朝に友達の家を出て、成田駅まで来れました。
昨年秋、初めて参加する時はずっと外に出てなかったから新幹線で一人で人混みの中をちゃんと成田まで行けるか、すごく不安でたまらなかった。そもそも家を一歩外に出られるかが不安で、行けないかもしれないから新幹線のチケットも買ってなかった。いや買いに出る気力さえなかった。ラッキーなことに車に乗せてもらえることになり迎えに来てもらったから参加出来たようなものだった。
私、元気になりました。今回とっても明るかったです。前向きでした。気持ちがくじけなかった。農作業も人との触れ合いも本当に楽しめました。
回を重ねる度に体と脳のあちこちの機能の自信を取り戻して行ってます。なんでだろ。三里塚には何があるのだろ。
高いフェンスや騒音で生活を破壊する空港、付け回す警察、それと全く正反対の優しい自然や農地や人々、失った職の協働体験。怒りと感動の共存。
私には三里塚でないといけなかった。分厚い闘いの現場、闘いの蓄積のある人々が居る三里塚、そうでないと意味がなかった。近所の作業所ではこうは回復しなかった。そう思います。
近所の作業所で満足できず、三里塚まで行かせてくださった、財政支援してくださった皆さん、ありがとうございます。私元気です!
投稿: でっかいちゃん | 2009年6月12日 (金) 09時29分