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2009年6月27日 (土)

今週の産直野菜(6月27日)

09627  今週の産直野菜が三里塚から届きました。医者に行っていたので、少し遅れましたが・・・。

 ニンジン、じゃがいも、キャベツ、キュウリ、ズッキーニ、セロリ、なす、ピーマン の8品です。キュウリとじゃがいもはまだ先週のが残っているのですが・・・。頑張るべぇ~。

 一昨日、天神峰現闘本部裁判の昼休みで食事を反対同盟のみなさんと一緒にしながら、産直・野菜の話しに。その中で、キャベツの青虫が食べるひどさが話題に。進さんが、出荷できるように食べられた葉を剥いていく作業の大変さを言われる。すると、謙太郎さんが、2~3センチ大の虫(名前を覚えていません)が食いつくと、青虫と違ってキャベツの芯に向かって真っすぐ食い進んでいくので、大きな穴が中心まで出来て出荷できないと話しておられた。前々回に玉レタスの話しを書きましたが、このキャベツなどの虫との闘いも自然のなす業。大変やなぁ~と聞いていました。

 それにしても、この日の裁判での3時間を超える萩原進さんの証言はすごかった。テープで取りたかったです。シルクコンビナートをめぐる怒りも、これまで聞いていたものを一歩踏み込み思わずうなりました。

 進さんご自身の結婚の仲人をしてもらった石橋政次元副委員長が毎日のよう に萩原家を訪れていた家族付き合いや、同じ青年行動隊として兄弟のように付き合った武司さん(政次の長男)への想いを語られた。親の決断で強行された政府との交渉、脱落の中で、武司さんがうつ病に陥り、農業もできなくなり、生活自体が大変なことになって行った石橋家の苦労と、武司さんのつれあいの恵美子さんの苦労などに想いを至らせながら、「彼らも空港に賛成したんじゃない んだ」と、村の共同体、人間関係をずたずたに引き裂きながら進められた空港建設への怒りを切々と語られた。恵美子さんの証言とされる「陳述書」の中にあ09625_3 る「反対同盟が恐ろしい」などの表現も、空港会社と国の介入がもちろんあったにしろ、彼女のその苦しさがあったのではないかと思うとまで語られた。後から見ていて、時には涙ぐみながら語られていたのではないかと感じた。あらためて、国策としての成田空港への怒りがこみ上げてきた。このことを思い起こしながら、改めて帰ってきて「農地収奪を阻む」の次の一節をかみしめながら読みました。少し長いですが、引用します。

―― この時、「裏切り者許さず」という闘いの原則の深い意味を思い知った。あの石橋を弾劾に行くということは、自分自身の闘いへの態度を決めなければならないということだ。自分自身が態度を決めなければ、他人の弾劾などできない。裏切りの弾劾とは自分自身に対する確認であり、退路を自ら断つということだ。ここのところをあいまいにしたら、金や暴力、物量で圧倒的な国家権力を相手に真剣な闘いはできない。他人への批判は、そのまま自分に返ってくる。しかもこれは、一度確認すればそれで済むという問題ではない。闘いの局面、局面で自己点検し、自己変革しなかったら、他人への批判や弾劾はできない。(「農地収奪を阻む」83ページ)――

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2009年6月26日 (金)

天神峰現闘本部裁判 審理打ち切り徹底弾劾!

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 昨日、6月25日、千葉地裁・民事5部、601号法廷で開かれた天神峰現闘本部裁判において、仲戸川裁判長は、この日の萩原、元永証人によってその重要性がますます明らかにされた石橋恵美子証人への反対尋問と現闘本部その09625_2 ものの現場検証などの最重要審理を求める反対同盟、弁護団の要請を、「再喚問も、実地検証も行わない。証拠調べを打ち切る」と宣言した。そして、次々と立って抗議する弁護団に対し、「(最終)弁論をする気がないなら結審する」とのどう喝をかけて、この秋11月12日の最終弁論の期日を決定して、審理を打ち切るという暴挙を行った。すでに反対同盟ブログ http://www.sanrizuka-doumei.jp/blog/2009/06/post_661.html において第1報が掲載されています。ご覧ください。

 これは、現在進行している09625_3 空港会社NAAによる半年も前倒しして、10月22日とされる「暫定滑走路北延伸部分供用開始」攻撃、そして9か月も前倒ししてのこの7月末「新誘導路供用開始」攻撃と軌を一にした極めて暴虐な企みの下での、反動的な攻撃であり断じて許されない。二度にわたる裁判官忌避を受け、早期結審策動を粉砕されながら、様々な反対同盟、弁護団の防御権強奪、立証活動剥奪攻撃をかけてきた仲戸川裁判長は、前回、今回と北原事務局長、萩原事務局次長、そして元永元反対同盟法対部事務局員の堂々とした弁論の前にグラグラになりながら、国策裁判を進めるという「使命」に必死にしがみつき、何の論理性も法的正当性も示すこともできないまま、今回の暴挙に走ったのだ。断じて許されない。

 09625_4 この日、法廷後開かれた「記者会見と報告会」は、「弾劾決起集会」に切り替えられ、北原事務局長の冒頭のあいさつの後、葉山、一瀬、大口、浅野、遠藤の出席された各弁護士から、次々と弾劾と怒りの説明が行われた。そのあと、この日立証した元永さんと萩原さんから想いが述べられた。とりわけ萩原さんからは、「裁判官合議」という形をとって強行せざるを得なかった仲戸川の追い詰められた姿を明らかにするとともに「痛み分けぐらいの気持ち」「7・5の集会を爆発させよう」「そういう繰り返しっていうのが三里塚の闘いではないのか」と勝利感と確信をもって笑みをも浮かべながら語られたのです。

 集会の最後に、動労千葉、関西実行委員会、群馬の青柳さん、そして福日労から決意を込めた挨拶が行われて、「弾劾決起集会」を終えた。(写真は、最初は反対同盟と弁護団、80名の傍聴団による法廷後の弾劾決起集会。続いて、北原事務局長、萩原進事務局次長、元永証人)

 さあ、7月5日、新誘導路前倒し供用を阻止し、市東さんの農地を守る現地闘争に決起しよう!

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2009年6月24日 (水)

7・5三里塚現地闘争に起とう!

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 2006年6月、当時の安倍政権が「アジア・ゲートウェイ構想」を発表してから丸3年を経過した。安倍政権が07年夏の参議院選挙の歴史的な敗北によって崩壊したとはいえ、この構想に込められた日本帝国主義の野望は、歴代政権に引き継がれてきた。韓国・インチョン(仁川)空港の飛躍的整備によって成田空港の極東アジアにおけるハブ空港への道が閉ざされているとはいえそうなのだ。いや、むしろそれゆえに、あとのない凶暴さが込められてきたとさえ言えるのではないか。

 米軍再編によるアメリカ帝国主義の極東アジア~世界支配がその強大な軍事力を背景に2014年の完成を目指して進む中、民主党をも含む日本の支配勢力による政策は一層のアメリカ従属の色彩を強めつつも、この8月6日ヒロシマで、あの田母神が「ヒロシマの平和を疑う」と題して講演し、核武装を主張することが昨日23日の中国新聞のニュースに伝えられているように、日本独自のアジア支配、戦争と改憲への道が必死で探られていることは言を待たない。それゆえの辺野古新基地建設、岩国への空母艦載機部隊の移駐と基地拡張、そして新グアム協定、さらには、ソマリア海域への自衛隊3軍の派遣と海賊対処法強行成立ではないのか。

 こうした蠢きをかろうじて阻止しているものこそ、沖縄、岩国、神奈川などの米軍再編反対のそれぞれの地元での反基地の労働者・市民のたたかいと、その先頭で、43年間にわたって成田空港の完成を阻み、そのハブ空港化を阻止し続けてきた三里塚闘争であることを今一度、私たちは思い返さなければならない。

 そして、空港会社NAAと成田市・千葉県経済界の、羽田空港拡張を背景とする成田空港暫定滑走路の3500メートル化(B滑走路完成)と、新たに始まった横風用滑走路完成の大合唱を水路としたこの間の、政府・NAAによる暫定滑走路北延伸攻撃の前倒しこそが、こうした彼我の力関係の中で起こっていることを見据えなければならない。

 民家上空40メートルを130ホーンを超えるジャンボ機による飛行、市東さんF の農地を農地法で強奪せんとするなどこの間の様々な攻撃を何としても進め、米軍再編に見合った成田空港の整備と、その破綻を強制しかねない三里塚闘争そのものの解体・破壊をかけたものとして、諸攻撃をかけてきていることはあまりにも明白であろう。

 金融恐慌による旅客・貨物の激減、減便という状況の中での、当初計画を9か月も前倒ししての新誘導路の供用開始、半年も前倒しした暫定滑走路北延伸部分のこの秋10月22日供用開始など、それ以外に何の理由があろうか。

 私たちは、アジア・ゲートウェイ構想を背景とした凄まじい三里塚闘争破壊の攻撃が、それをめぐる決戦が開始されたことをしっかりと確認しよう。7・5三里塚現地闘争とは、そうした事態を見据え、三里塚闘争勝利、成田空港廃港、米軍再編を阻止し、日本帝国主義打倒をかけた緒戦と言っても過言ではない。あらゆる動揺、蠢きはこのことへのたじろぎではないかと私たちは指弾せざるを得ない。一人ひとりの平和と改憲阻止にかけた想いをかけ、7・5三里塚現地闘争に決起するとともに、反戦の砦・三里塚への多くの人々の耳目を集中させる取り組みを開始しよう!

新誘導路の7月前倒し供用阻止! 市東さんの農地を守れ!

 7・5 三里塚現地闘争

【とき】 7月5日(日)午後1時30分~ 【ところ】成田市・東峰十字路北側開拓道路

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2009年6月22日 (月)

6・25天神峰現闘本部裁判の傍聴を

Photo 来る6月25日(木)午前10時半から、天神峰現闘本部裁判の口頭弁論が、千葉地裁601号法廷で開かれます。

 この日は、反対同盟事務局次長の萩原進さんが、前回の北原事務局長に引き続いて3時間の証言をされます。また、同盟法対部の事務局をしていた元永修二さんからの証言が午後3時45分から、1時間行われます。是非、傍聴に駆け付けよう! なお、傍聴席抽選のため、9時30分をめどに、千葉地裁前に集合してください。

 以下、「天神峰現闘本部裁判闘争を支援する会」の会報・第22号から引用いたします。

―― 裁判官忌避の最中に欠席裁判を強行したり、決定した証人を被告不在の法廷で勝手に取り消したり・・・・。

 仲戸川裁判長(民事5部)の異常な指揮に強く抗議してきましたが、4月20日裁判長は、ついに欠席裁判で行った不当な証人制限を全面的に撤回しました。ひとまずの勝利。4月23日には北原事務局長の証言が勝ち取られました。

 しかし、仲戸川裁判長が奪った権利のすべてが回復されたわけではありません。3・12欠席裁判と昨年9・25強権指揮の全手続きが違法・無効です!

 仲戸川裁判長は、被告不在の法廷で証人をモニターで間接的に尋問するビ09423 デオリンクを強行しました。犯罪被害者でもない本件証人に適用するなどは論外。地上権立証のための最重要証人に偽証を許し、反対尋問の機会を奪っています。直接対決による反対尋問が絶対必要です。

 仲戸川裁判長は、「検証は証人調べを行って後に検討する」としてきましたが、証人調べに入る前の9月25日の法廷で、理由なく突然検証を却下しました。地上権立証にとって検証は不可欠です。

 このために、萩原進さんと元永修二さんの証言が決定的です! 石橋証人の陳述書の虚偽を暴き、地上権立証のための実地検証の必要性を明らかにするからです。

 6・25千葉地裁へ、大結集を! ――

 右写真は、前回の4・23口頭弁論の後の報告会での萩原進さん。

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2009年6月20日 (土)

今週の産直野菜(6月20日)

09620  遅くなってすみません。今週の産直野菜です。

 ニンジン、キュウリ、かぶ、じゃがいも、ズッキーニ、セロリ、なす、ピーマン、玉ねぎ、キャベツ、インゲン豆の11品です。

 端境期が長かった春と様相が一変。これどうするのという多さです。明日の朝食は、とりあえずセロリと人参などでジュースかな? 夜は焼き肉か・・・。とにかく頑張っていただこう!

 今日、遅れたのは、昼から「兵庫・星野文昭さんを救う会」主催の「星野さんに自由を~ライブ&トーク in ひょうご」があり、その準備もあり出かけなければならないのに、「父の日」とかで、荷物が過剰になったクロネコさんの配荷が遅れ、受け取りができなかったからです。

 詳しくは、明後日の「兵庫・星野さんを救う会ブログ」で報告しますが、徳島で09620_2 星野救援運動を続けてこられた加藤、河野のお二人にお出でいただき、演奏と歌、そして星野さんを救う会運動の中での様々な出来事、特に星野さんへの想いを語っていただきました。25人の少ない人数でしたが、本当に心あたたまる交流ができ、次の運動への大きな一歩であったと思います。加藤さん、河野さんありがとうございました。

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2009年6月18日 (木)

三里塚の現地調査 (6月10日)

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 三里塚最後の日、6月10日は、初めてのMさんがいるので、恒例の現地調査。といっても、二日間Mさんは、監視塔にも幾度も上がり、市東さんの畑にへばりついていたので、市東さんのところはおおむね省略して、南台の畑におられた市東さんに挨拶して、みんなで記念写真。

① 最初に、よく集会で使われる萩原さんの清水の畑で、東峰の森が分水嶺で、低い所にある空港が盛り土され、コンクリートで固められたため、大雨でも降ればこの畑に水が流れ込むことなど、空港による環境・生活破壊を説明。

② 東峰の部落で島村さんのお宅の「上空40メートルの現実」と、死してなお空港を阻み続けておられる大木よねばあさんの墓をはじめとした東峰墓地。

③ 空港敷地内に食い込んで、その危険性を示し続けている東峰神社で、「立木伐採」攻撃と萩原さんの武勇伝などを披露。そして、先日の事故と2003年の東峰神社前で止まった大惨事寸前の事故について。

④ 東峰十字路近くの開拓道路で、滑走路に50メートルまで迫っている状況を 見ながら、「東峰部落の地図からの抹殺」を前提として進められた暫定滑走路の破たんと犯罪性、危険性を説明。ここまで、説明に必死で、写真を撮るのを忘れていた。

⑤ 萩原さん 宅にご挨拶に。進さんは畑に出ておられるというのでもう一度、清水の畑と開拓道路の畑に行ってみるが、ちょうど行き違いになりお会いできず。残念でした。09610_13

⑥ 横堀の小屋と鉄塔に行く(左写真)。ここは、元横風滑走路予定地の中にあり、空港のどてっ腹に穴があいたような状態。空港ターミナルビルからは、こちらが見えないようになっており隠されているが、ここから見る成田空港の惨状は、何度見ても感動する。丁度小屋の屋根に隠れていますが、金城実さんが制作し、岩山大鉄塔にそびえていた「闘う農民の像」が空港を睨んでいます。

⑦ 次は菱田の団結砦と大看板に。1984年、「3・8分裂」の本当の理由というか背景であった成田用水闘争と、「敷地内反対同盟を裏切れない」と独り用水に反対し、村八部を跳ね返して戦い抜いて来られた鈴木幸司さんとそのご家族の想い、そして今に続く陰湿な攻撃、いやがらせなども説明。そこへ、農作業の09610_3 現場から駆け付けて下さった鈴木謙太郎さん、加代子さんと一緒に小屋の上にある(写真の木立の裏)鈴木さんの家へ。そこで、お元気に出て来られたおばあちゃんのいとさんも交え記念写真。幸司さんはまだ入院中で、お会いできず残念。

⑧ 岩山大鉄塔跡の記念館では、63メートルの大鉄塔が開港を阻んでいた様子と、「100万人民の人塔と化せ」という反対同盟の檄に応えた関西実行委員会の結成。同じ年、5月6日の千代田農協での闘い、ガス銃の水平撃ち、そして東山さん虐殺などを説明。高所恐怖症と自認しておられたMさんが鉄塔をのぼりはじめ、そこへ離陸した航空機が(右写真)。09610_5 やっぱり若いねぇ~。左下にはしごにしがみついているのがMさん。

⑨ 最後に、北原さん宅にご挨拶に伺う。何とこの日は、1971年7月の地下壕戦の話しを1時間にわたってして下さった。一人ひとりのみなさんの今回の三里塚訪問の感想に丁寧に応えておられた。関西まで帰る時間のこともあり、早々に失礼させていただきました。(左下写真が、話してくださる北原鉱治反対同盟事務局長、最初の写真がその全景)

 東京から参加のMさんを成田駅に送り一路関西へ。今回も、充実した日々でした。「でっかいちゃん」のグループの援農報告 とご本人の感想が、今までの報告にそれぞれ最初の6月11日の記事から全てにコメントとしてつけられていますので、ぜひご 覧ください。

 最後に、09610_12 Mさんから、お礼の意を込めた感想がメールで送られてきましたので、少し長いですが、ご紹介します。

 

 大変お世話になり、ありがとうございました。

 今回、「社会で起きていること」を肌で感じ、知ることができて、自分の考える幅が広がりました。今まで、ほとんどのことに無関心でした。自分自身の狭い世界の中で「生きているだけ」で精一杯で、社会に対して関心をもったきっかけがありませんでした。駅前で街頭宣伝をしているのを見ても、ビラを配っているのを見ても、素通りでした。

 でも、これからは、今回、自分も社会の一部と感じ、「自分とは無関係」ではなく、「自分とも繋がっている」という感覚を持つことができたので、無関心ではなくなると感じています。

 また、農業や農家の方や畑に触れた事は、想像以上に有意義でした。私とっては、野菜(肉や魚も)は「スーパーにあるもの」でした。自分が料理をしようと思った時に、お金を持ってスーパーに行けば手に入るものでした。畑でも少し言いましたが、私は「消費者」という立場で「やっぱり無農薬や減農薬の物が、少し高くてもそっちの方が良い!」なんて思って購入していたことが、「偉そうだったな」と恥ずかしく感じました。無農薬で作ること、無農薬でなくても、食べ物(生きもの)を育てる過程や、その大変さなどが全く自分と繋がっていませんでした。私はその過程や大変さを何も知らず、「無農薬が一番!」なんて思って買っていました。

 私が「安心して丸かじり出来る野菜を作ってくれている農家の方」は、私と繋がっていて、「その農家の方たちが空港問題で苦しみ、弾圧下に居る」という社会も私と繋がっている。「自分とは無関係ではない」ということを自分自身で気づくことができた援農体験でした。(後略) 

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2009年6月17日 (水)

三里塚の援農 二日目 (6月9日)

09609

 どんよりとした曇り空だが、この日の雨はなさそう。萩原さん宅、鈴木さん宅にそれぞれ昨日と同じメンバーを降ろして、市東さん宅へ。出荷準備の収穫は、雨かなということで昨日終わっていたので、南台の畑で新しい植え付け。

 現闘さんが畑をうなってから、十字に線を畑に入れる。その交差点に市東さんが、ハウスで育った苗を置いていく。私たち3人が、その苗をカップから出して09609_2 、不必要な部分を取り除きながら埋めていく作業。2か所に2種類を植えたのだけれど、メモをとるのを忘れ、何を植えたか不明(スミマセン)。

 10時のおやつで休んでから、今度は、2人は、昨日の玉ねぎの畑で薹(とう)が立っていて抜いたのを片付け。1人は、市東さんと一緒にきゅうりやズッキーニの収穫。それで昼食と昼休み。

 昼からはなすびの畑で草取り。小さく顔を出したばかりの草も含めて採って行くのだが、まともに腰に来る。へたりこんだり、いろいろな姿勢で誤魔化しながら進むのだが、遅々として進まない。「2時になったから萩原さんの所へ行こう」の市東さんの声にほっ!

 みんなで萩原さんの所に移動して、「三里塚産直の会」の出荷作業(最初の写真)。Mさんは、ズッキーニを1本づつ最後に入れていく作業。NさんとKさんは荷物が入ったコンテナ-を運ぶ仕事。私は空になったコンテナ-を片付ける仕事でお茶を濁す(スミマセン。腰が痛くて・・・。) 隅っこで、I子さんは、萩原さんからいただいたはねたニンニクを剥く作業に熱中。関西にいただいて持って帰る分なのです。1時間余りで09609_3 作業を終え、お茶とお菓子、それにふかふかにふかしたじゃがいもをいただきながら、今日の出荷の整理と、次の出荷の相談、確認をしておられるのを横で聞いている(左写真)。

 終わってしばらく歓談してから、もう一度萩原さん宅、市東さん宅に別れて農作業。私たちは、5時まで、なすびの畑の草取りの続き。終わって夕食をいただいてから、萩原さん宅、鈴木さん宅に回って援農に入っていた4人を乗せて泊まっていたところへ。

 この日も、風呂に入る前に簡単なその日の報告と感想。今日も、Mさんの感想を・・・。

 「今日は草むしりを少しやらせてもらって、凄くしんどくって、除草剤とかをまかなくって、無農薬でやることの、私はスーパーで買うだけだから、・・・とかアメリカの野菜は農薬が多そうだからやめるとか、全然農業を知らないのに、農薬の09609_4 ものは体に悪い、無農薬のものは体にいいと、全然農業というのを考えないで、消費者というだけの立場から、偉そうに思っていたことが凄くわかって、無農薬で作物を作るってことがどれだけ大変かというのが凄く実感して、私がやったのは1時間とかだけど、最後に『明日、市東さんどこにおられますか』と聞いた時に『多分畑にいます』と。私は今日終わった時に『わぁ~終わった』と思ったんだけど、市東さんは、毎日、何年も、これからもずっとやり続けていく。農業というものが、今回、初めてどういうものなのかなということを感じられたので、いい体験でした。」

 実は、この二日間の作業の後の報告会(?交流会)のみんなの感想と話しは、それぞれに本当に面白く、それだけでもいい報告ができそうなくらいでした。宝塚での畑作りが進んでいることもあり、キムさんの「こいでメシ食わなしゃあないか」という言葉に思わずみんなが爆笑しましたが、実り多い援農であったことが感じられました。この日はカメラを持っていくのを忘れ、慣れない携帯のカメラを使いましたので、ピンぼけはお許しください。

 

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2009年6月16日 (火)

三里塚の援農一日目 (6月8日)

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 昨夜から降り出した雨が、夜中、トタン屋根を騒がせる。朝も小降りの6月8日、ジャガイモ掘り大会から残った私たち6人は、それぞれ、鈴木さん、萩原さん、市東さんの3軒に別れて援農に入りました。私は、遅れて参加する初参加のMさんを出迎えに成田駅へ。市東さんの所に着いたときは、みなさんは10時のおやつで休憩中。市東さんは検診のために不在。それまで、カブの収穫をしていたとか。後で聞くと、天気が良ければ草取りを予定していたのですが、雨が降り出しそうなので、翌日の出荷を控え収穫を優先したとか。そもそも雨の後で09608_2 は草取りはしにくい。

 先ずは、大根の収穫。144本必要とか。どうすればいいのかと思っていると、関西の人には見分けられないので、収穫した大根を10本づつ揃えて袋に入れていって下さいとのこと。3人もいるので、ゆったりと仕事。

 次は、葉付き人参の収穫。これも、獲ってくれた人参の葉っぱが黄ばんだものを取り除いてコンテナの中に揃えていく。時折、二股や傷があるのをはねていきます。葉っぱがしゃきっとしていて揃えると本当にきれい。心配していたMさんは、動じることなくてきぱきと動いている。重いコンテナも運んでいる。これなら大丈夫と気にしないことにする09608_3 。このころからまた雨が降り出した。

 今度は、堀之内の畑で玉ねぎの収穫(最初の写真)。すでに、13日の「今週の産直野菜」で触れていますように、私たちは、ここでも収穫ではなく、薹(とう)が立った玉ねぎを抜き取り廃棄する仕事。これがまたすごい量。半端じゃない。夜の交流会でカメラマンのFさんが淡路の玉ねぎの宣伝で、広い畑に玉ねぎが育っているが1本も薹(とう)の立ったのがないきれいな畑。あれは、最初に農薬をかけて薹(とう)が立たないようにするのだと説明していたが、しかし、もったいないという気持ちを抑えられない。「無農薬」というのは大変な「無駄」を承知でやるのだと思わず想う。途中で、昼食。所が、突然の土砂降り。これで援農は終わりかと心配に。現闘の人が、検診に行っている市東さんに電話で聞くと、「こちら(八街)では全然降っていないよ」というので、予定通り昼からも続けることに。

 昼から玉ねぎの収穫を続けた後、母屋の隣のハウスの中に入って、帰って来られた市東さんと一緒に玉ねぎの上の茎の部分と下のひげ状の根っ0968 こを切り取る作業(右写真)。この頃になると、同じ世代が4人もいるせいか、Mさんも慣れてきて結構会話の中に・・・。よかったよかった。

 3時のおやつ(これを、10時と併せきっちり取るので、帰ってきたら2キロも太っていてビックリ)のあと、こんどは市東さん宅の離れのよこにある小屋の前でにんにくの皮むき。枯れた皮をむいて大きなにんにくを10本づつ束ねて干していくのだ。凄いニンニクのにおいと、藪蚊に悩まされました。しかし、昨日のジャガイモ掘り大会のあとの納会で出てきた擂ったにんにく醤油にキュウリの漬物を付けて食べた時の何とも言えない美味しさを覚えているので頑張った。最後に夕食をいただいて、萩原さん、鈴木さんの所にほかの人たちを迎えに行って、宿舎へ。

 宿舎では、今日のそれぞれの農家での援農の報告会。初参加のMさんの感想を紹介します。

 「私の今日の感想は、一番ショックだったのは、私服の人が何回も回ったりとか、格子をしたパトカーのでっかいのが何回も通ったりとか、私も今日普通に来て、市東さんたちもあそこで毎日普通に農業しているだけなのに、政府がそれを監視しているという実態があるのがすごくショックで、そして飛行機が飛び立つたびにゴーっという音が気になって、成田空港仁来て旅行に行く時には、ああ、飛行機が飛び立っていくと見ていたのが、こんだけ近くの農家の人を威圧している現実があるのがすごくショックで、今日は、なにか農業を手伝ったことよりも、ショックの方が大きくて、私が知らない、ほとんどの人が知らない現実で、○○さんとか活動しているひとたちが、戦争反対、私が感じていた日本の平和というのを、そういう風に戦争反対と活動してくれてる人がいて、ぎりぎり守られてるというのがある。でも、次の日から何か出来るか、自分自身が動けるかというと、自分がそういうことができる状態じゃないし、多分帰ったらまた普段の生活に戻るだろうけれど、こういうことがあるということが、心のどこかに残るから、来てよかったし、自分に余裕ができたら、こういう現実があるということを考えて、みなさんのように活動できたり、考えることができたらいいなと思います。」

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2009年6月15日 (月)

憲法第9条改定を許さない6・14全国集会

09614  

 6月14日、東京・社会文化会館三宅坂ホールで開かれた「憲法9条改定を許さない6・14全国集会」に参加してきました。550人が結集した集会はヤスミン植月千春さんのカヌーんとピアノ演奏(右写真)で始まりました。余りの盛だく09614_2 さんに、報告は断念。集会宣言と写真でいくつかをご紹介します。

  集会宣言

 私たちは本日、日本国憲法9条の改定に反対して、ここ社会文化会館に集いました。

 私たちは2007年の6・15集会、2008年の6・14フェスタを経るなかで、この集まりは個人の主体的決意に基づいて参加していること、9条改憲阻止という一点での合意に基づいていること、小異を残して大同につくこと、意見の相違ではなく一致点を大切にすること、異なる意見の暴力的排除は認めないこと、以上の原則を確認してきました。本集会でも、私たちはこうした原則を再度確認したいと思います。

 今日、平和憲法の精神を踏みにじる解釈改憲によって、自衛隊がイラク、 インド洋、ソマリア沖へと派兵され、憲法9条は空洞化され、基本的人権、09614_7 思想信条・言論・表現の自由も侵されています。(左写真は池邊幸恵さんの「平和のメッセージ」とピアノ演奏) また憲法違反である日米安保条約によって、アメリカの戦争政策に沿う在日米軍の再編強化が強行されています。米原子力空母の横須賀母港化は、安保・軍事問題であるとともに、周辺住民の生命に直接関わる環境汚染を引き起こす「原発」が、ついに首都圏に建設されたと同じ意味を持っています。核問題と関連して、また最近北朝鮮での核実験が行われましたが、いかなる理由があれ、いかなる国であれ、人類を滅亡に導く核実験、核兵器、核武装に私たちは反対です。(右写真は、沖縄報告をされる知花昌一さん)09614_4

 自衛隊の海外派兵や「集団的自衛権」容認に向けての動きは、我が国をじわじわと、再び「戦争の出来る国」へと推し進めるものです。第9条をはじめとする「憲法明文の改定」は、我が国全国民を戦争への道へと大きく駆り立てることになります。

 他方、アメリカ発の金融危機は我が国の実体経済を直撃し、非正規雇用者、高齢者を中心とする勤労者と弱者に、一方的にその犠牲が転嫁されています。福祉、介護、教育、などあらゆる面でセーフティネットはズタズタにされ、生活の困難は憲法第25条で保証された生存権さえ脅かすものとなっています。(左写真は、合唱「戦争放棄」を歌う会場全体)09614_5

 このような状況の下で、私たちは、何をしなければならないのか、何が出来るのでしょうか。

 本日ここに集まった私たちは、こうした状況に、まずはそれぞれの置かれた立場から、自分自身の決意によって、自分に可能な抵抗と闘いに起たねばならないことを知っています。

 私たちは既に全国の多くの人たちが闘いに立ち上がっていることも知っています。一つ一つの闘いは小さくても、もし多くの運動や闘いが連帯し、協働できれば、それは壮大な力となって、「戦争のできる国」への道に立ちはだかり、迫りくる生活の困難、生命の危機を克服できる力となることを私たちは確信します。(右写真は、集会の最後にシュプレヒコールをあげる)09613

 国会では、今のところ野党議員の抵抗によって、国民投票法による憲法審査会の始動はかろうじて押さえられています。しかし11日には、衆院での審査会規定の強行採決があり、来年の5月には改憲のための「国民投票法」が完全施行され、それ以降は国会での「改憲の発議」がいつでも可能になります。これと真正面から対抗する「9条バンク運動」の提唱もあります。

 私たちは、「反改憲」の様々な力と運動が、連帯と協働の精神に基づいて結びつき、大きな国民的力となることの大切さを、今までにも増して自覚しています。09614_6 (左写真は、関西の皆さんを中心にしたデモ)

 私たちは憲法守る運動、憲法を活かす運動を行っている人たちは勿論、その他の様々な課題、様々な困難や危機と闘っているすべての人たちに、呼びかけたいと思っています。

 憲法審査会の始動を許さず、「改憲の発議」を許さない国民運動のために、共に力を合わせようではありませんか。

2009年6月14日

             憲法9条改定を許さない6・14全国集会

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2009年6月13日 (土)

今週の産直野菜 (6月13日)

09613  今、三里塚から産直野菜がとどきました。

 今週は、葉付き人参、キュウリ、かぶ、大根、玉ねぎ、ズッキーニ、の6品。なすが消されている。足らなかったのかな? 残念!

 今週の援農で触った野菜たちですからなんとなく親しみが・・・・。

 ズッキーニは、援農のお土産でいただいていたので、今週料理をしたところ。といっても、初めてで、カメラマンのFさんに教わったバター炒めしたものをにんにくを擂ったのを入れたしょうゆにつけて食べたらおいしかった。にんにくももちろん三里塚のにんにく。最初の一口は辛いけれど、これがまた美味しい。しかし、翌日面倒と生で食べたらこれもいける。写真のものの2倍くらいある「はね」だったけれど美味しかったで~す。

 この8日の援農の最初が大根の収穫。その次が玉ねぎだったの09608 ですが、私たち援農組は「収穫は無理」と薹(とう)が立ったのを抜いていく作業。右写真の枯れている状態に見える方がいい玉ねぎで、まっすぐ伸びて花がついているのが薹(とう)が立っているもので、廃棄処分。硬くて時間をかけて湯がいても食べられないとか。何で薹(とう)が立ってくるのかは解らないとか。作業は解り易くていいのですが、なんとなくもったいなくて、悩ましい。農協などでは早い時期に薬をかけてこういう風にならないようにするらしい。しかし、市東さんの畑(この写真の畑は、ご存じ「ヘ」の字の畑)では無農薬。抜くしかない。場所によったら2本に1本がこの状態。このもどかしさは、現場でやってみないとわからない。みなさん。援農に、見学でもいい、三里塚の畑に行ってじっくりと見てみよう! しかし、中腰で抜いていくので、腰に・・・。トホホ。

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2009年6月12日 (金)

じゃがいも掘り大会 (6月7日)

09607

 6月7日、暑い陽射しの中、子供を含む120人の参加で、ジャガイモ掘り大会。最後の交流会での萩原さんの話しでは、昨年のほぼ2倍。しかも、若い人たちが多いのに驚いた。萩原さんたちの産直運動が消費者の支持を得て大きく羽ばたこうとしているのを感じた。

 先ずは、萩原さんのお宅の所にある畑で、30品目くらいが育っている様子を見学し、説明を受ける。萩原富夫さんがマイクを持ち(右写真)、萩原進さん、09607_3 市東孝雄さん、そして遅れて参加した鈴木謙太郎さんがまわりの消費者の質問に答えている。ソラマメがアブラムシにやられて、全体にいきわたらなかったとか 、6月に届ける予定だったトウモロコシが、萩原さんのところでは全滅し、先日掘り返され、虫を駆除して土を良くする草を植えておられるのを説明された。これで、大根やニンジンが二股になったりしにくくなるとか。昨年、大豊作だったごぼうが、植えつけられたのだが、若葉が見てわかるほどに不揃いの様子で、富夫さんが心配そうに説明。写真の富夫さんの足元が、もう薹(とう)が立ったサニーレタス、その奥が溶け始めた玉レタス、さらに奥が7月収穫予定のトウモロコシ。

 玉レタスは、もともと高い所の作物で熱に弱い。きれいだからと出荷しても、一日で病気にやられ溶け出すのだそうだ09607_4 (先週の関西のように)。溶け出しても、皮を剥いてやれば奥の方は十分食べれる物も。みんなが一つ一つを取ってみて確かめ、食べれそうなのは頂いて帰る。お母さんに抱かれた赤ちゃんが嬉しそうに数枚の玉レタスを手に持ってかじっている。そばからもう一枚差しだすとまた嬉しそうにかじる。「この子は毎日こうやって美味しい野菜を食べてるから知ってるんだ。幸せな子だね」と誰かが。「野菜がこういうものだということを現場で見て知ってほしい」と進さん。「出来たものは、子供みたいなもので、捨てるのは忍びない」とも。左写真は傷んだ玉レタスを手にとって富夫さんが説明。翌日、市東さんの「ヘ」の字の畑では、玉ねぎのとうが立ったのを抜いたが、その横の畑の玉レタスが半分くらいが溶け出して放置されていた。

 畑の人参を子どもは5本まで抜いていいよということになって、大騒ぎ。

 それから、市東さんのお宅の近くの開拓道路(よく集会で自動車の駐車場に使うところ)にある萩原さんの畑に移動。いよいよジャガイモ掘り大会だ。最初に富夫さんが、芋の掘り方の説明。09607_5 それからみんなで畑へ(最初の写真)。見ていると、柔らかい土なので、芋を掘らないで芋の蔓を引っ張り抜いて楽しんでいる子供も。イモが掘り残されると翌年芽を出すので、これが終わってから畑の掘り残されたイモを全部とりだすのが大変とか。

 思い思いに収穫を楽しんでから昼食。一応、おにぎりなどの持参が前提なのだが、用意されているおにぎりとおこわご飯がめっちゃ美味しいのを知っている私たちは、持参せず。ところが、ほとんどの消費者も、同盟が用意したおにぎりやおこわご飯を楽しんでいる。あっという間になくなった。それに肉じゃが、サラダなどおいしいおかずもいつの間にか売り切れ。

 一休みしていると、子供達はトラクターのしゃべるに乗せてもらって大騒ぎ。ジェット機の誘導路のすぐそばのため、誘導路を走る航空機と競争09607_6 (左写真)。親も含めてみんなが並ぶので「我慢しなさい」と言われた富夫さんの子供たち、桃ちゃんと遥(はる)ちゃんは泣きべそ。

 それから炎天下、小一時間の交流会。初めての消費者の方が結構おられることに驚き。何度も来ておられる方々は、畑の周りの様子がどんどん変わっていることに驚いておられた。異口同音に「美味しいこの野菜をいつまでも届けてください」と。産直運動を広げていくことはもちろん、市東さんの農地取り上げなどの三里塚の国の不法、理不尽を東京や千葉の皆さんこそ周りに広げてほしいと思わず訴えさせていただきました。09607_7 「作物を作るのは土なんですよ」と萩原進さんが、国のデタラメな農地法の改悪や、「雑草の生えない土」といったマスコミのキャンペーンのでたらめさを解りやすく訴えられました。そして最後に「農業をめぐる状況は厳しい。しかし、心ある農民は必ずはね返し、本来の姿の農業の形態を維持していく。しかし、農民だけでは解決できない。食べる側の人たちも一緒になって関心を持ち積極的に参加して行ってほしい」と共に闘っていくことを訴えられた。

 解散してから、萩原さん宅の作業場に移動して慰労の交流会でお茶を飲んで終わりました。進さんは、25日の天神峰現闘本部裁判での証言の準備のため、抜け出して弁護団会議に。ほんとに楽しい、中身の濃い「じゃがいも掘り大会」でした。

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2009年6月11日 (木)

じゃがいも掘りと援農 (6月7日~10日)

09607

 この7日に、三里塚産直の会主催の「じゃがいも掘り大会」が、萩原さんの畑で開かれた。私たちは、関西から6人、東京から2人がこの企画に参加し、7人が残って8日、9日と援農、10日は現地調査を行いました(上の写真は、ジャガイモ掘りに先だって行われた萩原さんの畑の案内)。

 直前の天気予報が全く外れ、7日は、快晴に恵まれ、子供連れの若い夫婦が中心の120人が参加してにぎやかなジャガイモ掘り。そして、産直農家の心づくしの肉じゃが、サラダ、おこわご飯、おにぎり、みそ汁、焼きそばなどが参加者にふるまわれました。暫定滑走路とターミナルビルを結ぶ誘導路のすぐそば、市東さん宅の近くの開拓道路にある萩原さんの畑ですから、行きかうジェット機の騒音がまたものすごい。後の交流会で、消費者の皆さんから、三里塚闘争の厳しい現状への驚きと、「おいしい野菜をいつまでも供給してください」という声が、多くの方々から聞かれた。

 翌日からは、市東さん、萩原さん、鈴木さんの三軒に別れての援農。所が天気がずれたか、雨模様の8日、曇り空の9日。最初は、援農が十分には出来ないかもしれないという雰囲気でした。しかし、昼休みにどっと降ったりしたものの、幸いにフルに援農と出荷作業のお手伝いができました。雨のため初日に予定されながら出来なかった草取りも、出荷作業の前後にそれぞれのところで出09610 来たようです。

 10日には、いつもの通り、東峰部落、天神峰部落から始めて、横堀、菱田、岩山と現地調査をしてから、北原鉱治反対同盟事務局長の所に挨拶に。今回は、71年夏の闘いでの地下壕戦のことを、1時間近くも詳しく話していただけました(右写真)。

 そのあと若い人々から、北原さんに質問や参加しての感想などが話されました。

 参加したMさんは、三里塚そのものが初めて。出されたお菓子にも手を出さずに、必死で北原さんの話しに聞き入っている。そして、三日間の援農などの体験を含めて、「今回私は初めて参加させていただいたんですけど、前回来ると言って来れなくて、今回、ここに来るまで結構自分の中で考えも凝り固まって、自分の考えしかなかったし、自分の心の中に風が吹くということがなかった。それが、今回ここにきていろんな人の話しを聞いたり、やってることを少し教えてもらうことによって、新しい風が吹いた。多分、この後帰って、三里塚の活動を直接やることはできないかもしれないけれども、でも私の中に風が確実に通って、新しい考えや新しいこと0968 に触れたから、またそれが三里塚っていう形でなくても、絶対何かにつながっていく、そんな風に3日間を過ごさせてもらったので、参加してよかったです」と北原さんに感想を述べた。北原さんは「あなたにはあなたの生き方がある」と優しく諭された上で「(三里塚に長く関わっている)あなたのおじいちゃんと三里塚について話しあってみなさい」と語りかけられた。(左写真は、市東さんのところで、玉ねぎ剥き作業)

 このMさんだけでなく、2度目、3度目の人も、この4日足らずの農作業と交流を通して、本当にほっこりとした豊かな気持ちを持って帰途に就くことができました。「三里塚に来ると、本当に元気になる」というI子さんの言葉を、それぞれの想いにしながら。

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関空闘争に関する声明 (6月5日)

        声  明

                                 2009年6月5日

1.          関西新空港闘争、そして三里塚闘争に想いを寄せてくださるみなさん。アメリカの新たな世界戦略のもと、日米両軍の一体的運用を前提とした米軍再編(トランスフォーメイション)が、2014年終了を目指して進められております。沖縄辺野古基地の建設や、岩国基地への空母艦載機部隊の移駐などを柱としつつ、朝鮮半島有事を想定した日米共同作戦計画5055によって、成田空港、そして関西空港が非常に重要な位置を持っていることがすでに明らかになっております。成田空港の暫定滑走路北延伸(最終的には4000メートル化)攻撃と、一昨年供用が開始された関空二期攻撃は、そうした枠組みの中で進められています。

2.               そうであればあるほど、私たち関西新空港に反対してきた住民団体は、多くの労働者、市民の皆さんとともに「東西両軍事空港反対」の旗印も鮮明に、隊列を強化し、前進しなければならないと考えております。1966年、淡路空港案で始まった関西空港計画は、多くの市民の反対によって和歌山をも含むほとんどの大阪湾岸自治体による反対決議が勝ち取られることによって漂流し、1974年の航空審議会においても、候補地を決定できないという事態を生みだしました。この過程は、国によって各自治体個別に切り崩される事態の中で、住民による「大阪湾のどこにもいらない」とする湾岸住民共闘(以降、湾岸共闘とする)の陣形を生みだしました。しかもそれを基礎に、1977年三里塚鉄塔決戦に直面して、三里塚決戦勝利関西実行委員会(以降、関西実行委員会とする)運動をも生みだし、30年を経た今日に至っております。

3.               関西空港は、泉佐野沖合に建設が強行され、1994年一期開港、2007年二期供用開始が行われましたが、私たちは泉州住民の会とともに、正に湾岸共闘の力をもって、空港絶対反対、建設阻止、開港阻止の闘いをやり抜いてきました。同時に、この湾岸共闘の「軍事空港反対」の根底的な怒りこそが、30年以上にわたる三里塚芝山連合空港反対同盟を支援し共に闘い続けてきた関西実行委員会運動を支え抜いたのです。

4.               来春にも国民投票法による改憲攻撃、そして先述の米軍再編攻撃が進められようとしている現在、私たちが形成してきた湾岸共闘をますます発展させ、関西空港の軍事使用に反対する労働者、市民の大きなうねりと隊列を生みださねばならないと考えるところです。先日関西で開かれた「3・15米軍再編と闘う」集い(関西実行委員会・三里塚反対同盟共催)は、こうした想いによって企画され、大成功を収めました。

5.               ところが去る4月28日の関西実行委員会世話人会において、国賀祥司事務局次長(関西新空港絶対反対泉州住民の会事務局長)から、「今年の関空反対全国闘争は、泉州住民の会が単独で主催したい」と湾岸共闘を拒否し、これを否定する提案が行われました。理由は、「泉州住民の会が成長し、すべて労働者の団体となったのでそれにふさわしい闘いとしたい」ということと、他の住民団体などとの間に発生した「昨年の7・13闘争をめぐる発言問題」ということでした。

 

6.               この提案を受けて開かれた5月28日の関西実行委員会世話人会で、湾岸共闘を構成してきた泉州以外の、淡路、明石、東灘の各団体より、その趣旨に若干の差異をもつものの「湾岸共闘を維持して、関空闘争は持たれるべきだ」という主張が行われました。背景には当然のことながら、「関空闘争は自分たちの闘争だ」という各団体の結成以来の強い想いがあったことは言うまでもありません。しかし、出席していた国賀さんはもとより、中山さん、小林さんの3人からは、湾岸共闘、関空闘争をどういったものにしていくのかといった論議は一切されないまま、事務局への名指しの「怒り、不満」を口実とした泉州住民の会単独主催が主張されるだけでした。永井関実代表からの「一歩も譲ることはできないのか」という問いにも直ちに泉州の皆さんは「できない」と否定し、やむなく、永井代表から「泉州の言いたいことは聞いたので、今後、また再び共に闘う日が来ることを念じて論議を打ち切りたい」という判断が示され、討論を終えました。

7.               加えて、関西実行委員会世話人会が、次の議題に入ろうとし、7・5三里塚現地闘争などの提起を受けて継続されようとしているにもかかわらず、国賀さんたち3名は席を立ち帰ったのです。「世話人会議は続いているではないか」「あなたは事務局次長でしょう」ととがめられた国賀さんは、「出ていこうと、出ていくまいと勝手だろう」という内容の捨て台詞を残して帰ってしまったのです。これは、関西実行委員会の事務局次長として会議の運営への責任を放棄する態度です。

8.               重要な局面を迎えようとする現時点での関空闘争の泉州住民の会による単独主催への一方的強行は、関西空港闘争を米軍再編に抗して広く関西一円の労働者、市民に訴えて闘いを広げようとする湾岸共闘の持つ戦闘性を破壊し、関空闘争を後退させるものです。

9.               同時に、三里塚闘争が、暫定滑走路北延伸攻撃、市東さんの農地強奪という正に決戦局面に入ったこの時に、関西実行委員会の統一戦線の基軸ともいうべき湾岸共闘を破壊することは、三里塚闘争に重大な打撃を与えることになりかねません。

10.          以上の判断から、各住民団体と関西実行委員会世話人会の決定として、以下の点を明らかにいたします。

1)   湾岸共闘を破壊し、関西実行委員会運動に分断を持ち込むものでしかない関西空港反対全国闘争の泉州住民の会単独主催は認められない。ゆえに、私たちは、7月19日に予定されている「関空闘争」には参加しない。

2)   関西新空港絶対反対泉州住民の会が、関空闘争の今後を見据え、湾岸共闘にすみやかに復帰されることを強く要請する。

3)   新たな関空闘争を作ることと、三里塚闘争の決戦過程への決起を一体のものと考え、10月11日三里塚全国集会に先立って開く関西実行委員会主催の関西三里塚集会を、今年は、「東西両軍事空港反対」の集会として断固として開催することを決定した。そして、新しい関西空港闘争をつくっていくことを内外に明らかにするために総決起することを宣言する。

以上、声明といたします。

                 淡路町空港反対同盟

                 新空港反対東灘区住民の会

                 関西新空港反対明石住民の会

                 三里塚決戦勝利関西実行委員会世話人会

 

管理人=何度やっても 最初の「1」の部分のみが字が大きくなってしまいます。読みづらいですが、このまま掲載いたします。なお、声明文を印刷される方は、「09.6.05 関実声明.pdf」をダウンロード をクリックして印刷してください。

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2009年6月 6日 (土)

さあ、三里塚へ!

081019

 写真は、昨年10月19日の清水の畑でのイモ掘り大会(「三里塚産直の会」主催)ですが、明日は、三里塚でジャガイモ掘り大会があります。この時期の援農を考えていた私たちに、萩原さんから、「おなじ来るなら」と誘われたので、明日から参加し、8日、9日は援農、10日は現地調査をして、関西に帰ります。新人は今回は2人。全体で、東京からの参加も含め9人です。

 三里塚を闘う私たちにとって、三里塚反対同盟の営農に少しでも触れることは大変重要です。1960年代までの原風景を全く奪われ、破壊されてしまった東峰、天神峰のフェンスに囲まれ、爆音に襲撃される日常。その中で、黙々と無農薬有機農法で、ほんとうにきれいな畑を耕し続け、産直野菜を届け続けておられる萩原さん家族や、市東孝雄さんに接し、その場所で直にお話しを伺うことが、私たち一人ひとりにとって三里塚を闘う、いや、私たち自身の日常の闘いにとってどれほどの肥やしとなるか、ぜひ、体験してみてください。

 そしてまた、今なお古村のたたずまいを残し、豊かな自然と森に囲まれ、菱田の用水闘争の歴史を思いながら、鈴木さん家族の営農と暮らしに触れることも081020 本当に大事なことです。残念ながら、最近は闘争が市東さんの農地を守ることを軸に進んでいるため、ほとんどの方が、鈴木さんの営農と暮らしを知るのは、「農家便り」でしかありません。ぜひ、足を延ばして菱田にも行って下さい。そして、成田空港最大の観光名所(と私は思っている)でもある、横堀の小屋に登ってみてください。 成田空港の破綻と、三里塚闘争が43年闘い抜き、勝利していることを実感できます。

 この3年、思い立って現地調査を始めて、すでに10度を数え、今では、私が案内できるようになっていますが、行くたびにどこかが変わっているのが三里塚です。しかし、話し合い拒否、不屈非妥協の闘いが、その中に不動の人間像を作り上げ、闘い抜かれてきたことを感じずにはおれません。言い古されたことばですが、「三里塚に行くと元気になる」というのを改めて感じさせられるのもこういう時です。

 みなさん。ぜひ、現地にのんびりとしに、また、あまり役には立たないのですが援農に、土に触れてみてください。今夜出発ですが、今から、今度は何があるかなとわくわくしKy4 ています。沖縄行動で少し疲れが残って、腰に来ているようで、役に立たないのではと少し心配ですが・・・。そんなわけで、ブログはしばらくお休みです。

 なお、先週の産直野菜にいくつかクレームが届いています。いつも間接的で遅れます。産直をしていただいている皆さん。思うところ、感じられていることを率直に私の方に直接メールでお知らせいただけないでしょうか。出来るだけ、密接に三里塚現地に知らせていきたいと思っておりますので。

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2009年6月 2日 (火)

暫定滑走路認可取消訴訟不当判決弾劾!

0961

 6月1日、東京高裁で、暫定滑走路認可取消訴訟控訴審の判決が行われ、富越裁判長は、公訴棄却の不当判決を下した(詳しくは同盟ブログ http://www.sanrizuka-doumei.jp/blog/2009/06/post_653.html をご覧ください)。

 富越裁判長は、空港公団が工事の変更認可申請を出す際に、基本計画の変更手続きを行っていないことに対して「暫定的なもので、やがてはもとの2500メートルのB滑走路に戻るんだから、基本計画の変更は必要ない」と、この工事の根本的な違法性を塗りつぶし正当化した。しかし、これは、現在の暫定滑走路を北と南にさらに伸ばし、3500メートル化(さらには4000メートル化)が目論まれている現実からもまったくのペテンでしかない。地元農民を叩き出し、農地を強奪しようとする国策を擁護することを目的とした極めて不当なものでしかありません。

 反対同盟と顧問弁護団はただちに記者クラブにおいてこの反動判決を弾劾するとともに、直ちに控訴して闘うことを明らかにした。以下、北原鉱治事務局長と葉山岳夫顧問弁護団長の記者会見の内容です。

北原鉱治反対同盟事務局長

 私は三里塚芝山連合空港反対同盟の事務局長の北原鉱治です。これから記者会見を行いますが、三里塚の闘いというのは、報道関係のみなさんは、歴史を紐解いてもわかるように43年間にわたって今も反対し続けている。成田空港の完全空港というのがあり得ない。なぜなら、43年経ってまだ半分しかできてないんですよね。なぜ出来ないのかという原点を紐解いてみると、国の行政が0961_2 悪いから43年間もひっぱっても、国際空港成田は完成しない。

 今日は、その中の一部の工事をめぐっての暫定滑走路の差し止め訴訟を行ってきましたけれども、一方的な判決しか出ないんですね。現地を裁判官が見たことがあるか。私たちは、言いたい。現地を知らないで、判決が出せるわけないじゃないかと。

 弁護団の方から今日の裁判の進行と経過について、代理人に述べていただいて、記者会見を進行していきたいと考えております。報道関係の皆さんは、なぜできないのか、43年間もたっても。その原点を、ある程度、報道関係としても知る必要があるんじゃないかと、私はそう思っています。

葉山岳夫反対同盟顧問弁護団長

 では、かいつまんで今日の判決についてご報告します。これは、1999年12月に変更認可処分をしたところの本来B滑走路であるところについて、暫定B’滑走路2180メートルの滑走路を暫定的に作り上げた。この暫定滑走路についてその変更認可がいかに違法かということで、2000年の時点で取消訴訟を千葉地裁に提出。千葉地裁民事3部で行われていた判決が出て、それに対する控訴審として高裁11部富越和厚裁判長のもとで本日控訴棄却の不当判決が出たということです。

 この中身について、裁判所側が特に強調したことにつきましては、今までこの工事実施計画の中で、航空保安無線施設および本体の空港建設工事について訴えを起こしていたわけでありますが、従前の判決におきましては工事実施計画のうちの航空保安無線施設から進入灯火、あかりですね、施設等については上級機関から下級機関への指令にすぎないということで、処分性を認めていなかったんですが、これに関しては処分性を認めたということがあります。その上で、しかし、その処分性は認めたけれども被害が原告らには認められないということで不当な判決を下した。

 原告の適格性については広く認めたという点はあります。騒音被害の及ぶ一定の原告については原告適格があるんだということで、工事実施計画の取り消し訴訟の中で、原告適格を認めた。しかしその従前の元の工事実施計画については取り消しの行政訴訟について20年以上にわたって裁判を行ったわけですが、2003年に最高裁で判決が出て、取り消し訴訟については棄却されたんでありますが、その時点の状況とさほど変わりがない、騒音の程度がですね、これは一方的なそういう認定をした上で、原告の請求を棄却したというそういうことがあります。

 工事の変更認可申請を出す場合には、必然的に基本計画が変更になるわけです。一時的にせよ。それについて基本計画の変更手続きをとっていなかったんですが、変更手続きをとっていなかったことに対しては、暫定的なものであるから、やがては元のB滑走路について農民の農地等について取得できると考えているのか、そうすれば元のB滑走路、2500メートル滑走路に戻るんだから、今いったん出した計画が元に戻って元通りになるんだから基本計画の変更の必要はないとね。そういうとんでもない救済判決を出した。実際に供用されているものについて基本計画の変更を出さなかった違法性をこういう格好で糊塗してしまったということがあるわけです。

 それから、軍事空港目的、0961_3 使用されているじゃないかということを言ったわけでありますが、これは認可どおりに使っているのであって、自衛隊が空港を利用したことがあることをもって、憲法9条に違反するということには直ちにはならないのであって、自衛隊の本件空港使用についてのその他の米軍の軍事使用についてこれを実質的に許容したという不当きわまる判決を出したということであります。

 それから、黒野元成田空港会社社長が、本件、暫定滑走路の建設に対しておわび状を2005年5月9日に出しているわけです。そのおわび状の中に「十分な説明もなしに工事を強行してしまって生活環境が破壊されたということについては、まことに無理もない。航空行政に携わっているものとしてこういう空港を作ったことについて、これは、二度とこういうことはしてはならないと思っている」というわび状を「東峰区の皆様へ」というかっこうでだしているわけです。これは今、ここにあります。これは黒野社長自身が書いたわび状です。これに対しては、確かに十分な説明がなかった、行きとどかない点があったとしても、そのことをもって違法とすることは出来ない。ということで、これまた救済判決を出したということです。

 総じて、1審の堀内明という千葉地裁の裁判長が出した判決の、これを細部にわたって修正し、一層、いうならば反動的な、悪い判決に立ちあげてしまったということで、きわめて遺憾な判決が出たということであります。

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