沖縄を訪ねて(その1、5月22日)
5月22日から24日、三里塚反対同盟の萩原進さん、市東孝雄さんのお供をして沖縄を訪れ、素晴らしい三里塚と沖縄の交流をご一緒することができました。お二人は初めての沖縄で、3日間、できるだけ沖縄を知っていただこうと、いろいろと案内させていただきました。
22日、昼過ぎに那覇空港に到着し、早速、読谷の知花昌一さん宅へ。昌一さんは待って下さっており、早速、座喜味城跡に案内していただきました。ヤマト の城郭と違い、中国の文化を受け入れた独自のものであることが、その優しい城壁の線に現れています。梅雨空のため遠望は利きませんでしたが、城壁の上から、嘉手納弾薬庫の全貌、「象の檻」と読谷飛行場の返還の闘いと勝利、米軍18万の上陸をめぐるいくつかのエピソードなどをお聞かせいただきました。
それから「やちむんの里」へ。かって沖縄の古窯として栄えた歴史を持つ読谷村が、村として1972年に始めた事業で新た な窯元を招き、観光事業にしようとしたそうです。しかし窯元の職人の皆さんが反対し、今では40を超える窯元が集まり、百数十人の職人さんを 抱える産業になっています。左写真は、そこに作られた8個の窯をもつ大登窯を昌一さんの案内で見ておられる萩原さんです。
今度は、返還された読谷飛行場跡地の滑走路だった道路の脇の畑に。読谷村の役場と議会に接する畑(右の写真)では、赤土にゴロゴロと白い石灰岩の石ころが一杯あるのが見受けられます。そのすぐ下は石灰岩の岩盤で、萩原さん、市東さんはその大変さを思われながら、近くでしておられる農作業を見て、話 されておられました。
それから「象の檻」の跡地へ。96年4月1日、その「象の檻」に入られて、竹槍で上陸してきた米軍と闘って殺された祖父の命日を追悼された昌一さんの写真を思い出しながら、その広々とした更地を見ました。農地への転換は無理で、将来、宅地として分譲を予定しておられるそうで、この日は昌一さんの従兄さんがゴルフの打ちっ放しをのんびりとしておられました。
続いて「チビチリガマ」へ。ハブがよく出ると言われるうっそうとした木々の中に降り立ってガマの入口に(左の写真) 。少し説明を受けてから、中にろうそくをともして入りました。ここには百数十人の村人が避難し、中国の戦線で看護婦として従軍された方がおられ、そこでの日本軍による虐殺、 強姦などの状況を目の当たりにした経験からの「鬼畜の米兵にそれ以上の酷さで殺される」という言葉に、3歳の幼児を含む84名の方が、自らの子供たち(48人)に手をかけ「集団自決」されたのです。昌一さんは、「これは自決ではない。皇民化教育などによる強制死だ」と語られた。
それから、萩原さんと市東さんが、車中からの眺めに時折飛び込んでくる亀甲墓の様子に興味を示されたので、ご自分の家のお墓に(右下の写真)。その大きさにびっくり。思わず萩原さんが「家が1軒建つ」と。昌一さんによ ると、漆喰で周囲が作られていたのが手入れが大変で、今ではコンクリートで造りかえられたので趣がなくなったそうです。
続いて、彫刻家の金城実さんのアトリエが近くにあるとい言うので、無造作に置かれたその彫刻を見させていただく。丁度、金城さんが帰宅されたので、アトリエに招かれて、しばらく歓談(最初の写真)。岩山大鉄塔のために金城さんが制作された「闘う農民の像」が、今では、横堀の小屋の鉄塔にあり、現地調査の目玉であり、成田空港の破綻の象徴になっていることをお伝えすると、嬉しそうに創作の頃の話や、岩山大鉄塔が倒された時のいきさつなどを話して下さった。
最後に、昌一さんのご自宅のすぐそばにある「シムクガマ」へ(左下写真)。ここは、中が2 キロ以上あり、水がガマの奥へと流れ、村人が1千人以上避難していたそうです。ここには、2人のハワイで働いたことがあるお年寄りがおられ(1人は、 日本軍からの供出強要を拒否し、日本軍から「非国民」呼ばわりをされた)、「自決」の流れを止めて、「同じ死ぬなら、出てみてからでいいのでは」と説得して、全員が命を長らえたのです。わずか数百メートルしか離れていない「チビチリガマ」との違いを「指揮官の違いです」と昌一さんは話された。ここは、昌一さんの中学時代(1960年ごろ)の遊び場、隠れ家で、数々の悪戯をされたエピソードも話して下さった。
昌一さん宅へ帰って、風呂をいただき一休み。そのころから、次々と人が来られる。知花盛康さんをはじめ、先ほどの金城実さん、安次富浩さん、1975年にひめゆりの塔で皇太子に火炎瓶を投げて闘った戦旗派の方など、15人余りが沖縄各地から集まって来られて、三里塚との交流会が、昌一さん宅の庭で始まった。みなさんが持ち寄られた沖縄料理や、昌一さんの長女の未来世さんがこの日の朝から作ってくれた 島らっきょのおつまみ、それと泡盛とビールが一巡したころから、みなさんの自己紹介と三里塚に寄せる想いがこもごもに語られたのです 。「こういう風に全国で、三里塚に今も想いを馳せている人がいっぱいおられるのでは」「やっぱり三里塚はすごいなぁ~」と心の中での感動は大きいものでした。大木よねばあさんの生前の様子など、私や市東さんには興味深い、感動的ですらあるお話しばかりでした。最後に、市東さんからの訴えと萩原さんからの沖縄と三里塚を結ぼうという想いが語られました。そして、進行役を務めていた昌一さんから、「ここにいる者を出発点に、三里塚と繋がっていこう。これまでのように呼ばれたから行くというのでなく、少なくとも3月、10月の闘いなどにこの中から代表を私たちの意思として送ろう。そしてその中から沖縄闘争の勝利を築いていこう」と提起が行われ、拍手と歓声で確認されました。宴会はなおも続けられ、終わったのは1時ごろではないかとのこと(何と6時間余)。私は12時前にリタイア・・・。素晴らしい交流でした。
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コメント
歴史と未来とそれを結びつける闘いと。これを読んだだけでも感動します。語られた内容を知ったら泣きじゃくってしまうんじゃないかと想像します。
投稿: ぶう | 2009年5月26日 (火) 20時45分