沖縄を訪ねて(その3、5月24日)
沖縄を訪ねて3日目。お世話になった知花さんご夫婦に別れを惜しみながらヌーガーヤ(何我舎)を後にして、最後の見学に・・・。きわどくなると働かないカーナビと、昌一さんがメモ書きしてくれた地図のコピーを頼りに(内心は行けるんやろかと不安がいっぱい)。
先ず嘉手納基地へ。カーナビに頼っていたら、いつの間にか北谷町へ。行きすぎたと、慌ててUターン。以前は、ここと言えば「安保の見える丘」だったのだ が、最近は基地の横に出来た「嘉手納・道の家」の屋上。4000メートル滑走路2本の巨大な基地の真ん中あたりを正面に見るため、相手がでっかすぎて写真に入らない。日曜のため米軍も休み?滑走路に動きが全くない。右の写真は、滑走路を前に見る萩原さんと市東さん。基地の壁際の数メートルの幅の土地に、まるで猫の額のような畑が手前に見えます。
次は、普天間基地へ。朝でてから、キャンプ・トリイ、嘉手納、瑞慶覧基地、そして普天間基地と、巨大な基地がずっとつながってある。「農地や産業に使える平地が全部基地になってるんだから・・」と萩原さんがつぶやく。
宜野湾市役所のそばで、基地にへばりつくように建てられた佐喜眞美術館に聞いて回りながらやっとたどり着く。丸木位里、俊ご夫妻の沖縄戦やチビチリガマなどの巨大な絵が常時展示されている上に、この日は上嘉豊光写真展「シマの匂い、シマの風」が開かれていた。1970年から72年にかけての沖縄の町かどや「コザ暴動」「牧港青年部の闘い」 などが並んでいる。キャプションがないので、一部しか中身がわからないが、雰囲気は伝わってくる。そして、最後の部屋の丸木さんの絵に。いつものことながら、その凄さに圧倒される。萩原さんは部屋の中央に据えられた椅子に座って、しばらく「沖縄戦」の巨大な絵に見入っておられた。館内の写真が写せないので、左は美術館の正面。
次は、美術館と基地の反対側にある普天間基地全体が見える高数の丘公園。これもナビにも、案内書にもないので聞きながら行く。元の日本軍の高射砲の陣地だったとか。ものすごい階段。階段になれている私でも息切れ。萩原さんが心配になる。ここも、日曜で、滑走路には機影がない(最初の写真)。滑走路先の誘導灯が、手前の人家の密集した中にあるのに驚く。航空法もクソもない。写真右手上の方の青い色のかまぼこの右側が、岩国基地から飛来した米軍ヘリCH53Dが墜落した(04年8月)沖縄国際大学だ。こんな海兵隊の基地など直ちに撤去しかないと怒りがこみ上げてくる。しかも、この現実を理由に辺野古の基地の建設、米軍再編などどうして許せるかと想いを新たにする。萩原さんも、私も、ここの一坪地主なのです。
まだ飛行機の時間があるので、沖縄戦最後の激戦地、沖縄南部・摩文仁に行くことにする。先ずは、昨夜お会いした市東さんの親戚の若者の「ここは一度見てください」と言っておられた、ひめゆりの塔とひめゆり平和祈念資料館を目指す。途中で、高速道路に上がったところ、逆方向で北に向かってしまい、慌てて次のインターでUターン。思わず冷や汗。
右の写真は、中にいた40人全員が死亡した第3外科壕の前で、反対側で説明していたガイドさんの話しに耳を傾けておられる萩原さん。このあとひめゆり平和祈念資料館では、萩原さんと市東さんが語り合いながら観ていかれた。
まだ少し時間があったので、日本軍の慰霊をする気にはなれなかったのですが、摩文仁の丘の展望台(牛島等の自決した場所) に上がって、海とあたりを見渡しました(左写真)。
そして那覇空港へ。この日の航空券が取れなかった私は、お二人を見送ってホテルへ。とりあえず、疲れをとるために、まだ明るいうちでしたがベッドへ。
この1月「3・15米軍再編と闘う」集いを準備する中から、「3・15」そのもの、そして「3・29三里塚現地闘争」の高揚、それらの中で追い求めてきた新たな統一戦線の形成に向けて、三里塚反対同盟とともに確実に一歩が踏み出せたことが、昌一さんをはじめ沖縄の皆さんの素晴らしい支えによって実感できることを心から喜びながら、本当にほかほかした気分で眠りに就くことができました。
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コメント
すばらしい沖縄報告ありがとうございます。私も一緒にいった気分でした。萩原さん、市東さんも忙しいのによく行かれましたね。
三里塚が私の人生の大きな転機であったように、20余年前,
沖縄を始めて訪れたときの経験もまた,人生の一大エポックでした。いまでもそのときの衝撃は忘れられず、生き方の根っこに座っています。
私の中では三里塚と沖縄の二つは「一つ」でしたが、それがこんな形で新しく(あらためて?)結びつて行く予感(!?)に感動しました。
投稿: 風薫 | 2009年5月28日 (木) 11時26分