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2009年5月31日 (日)

神戸空港反対で街頭宣伝 (5月31日)

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 今日は、JR元町駅前で「神戸空港の中止を求める市民の会」の月例街宣。途中で、何人かが「人が少ない・・・」と報告してくる。「新インフルエンザ」の影響がまだ残っている模様。しかし、マスク姿はほとんどなくなってきている。

 宣伝の中心は、一方で弱者切り捨ての公共料金(家賃やバス代など)の大幅値上げをしながら、起こっている「空港経営の破たん」を放置している神戸市への怒りと、そんな折に中央市民病院の移転・新設、それも民営化(地方独立行政法09531_2人化)による「もうけ主義」、個室が75%も占める問題などを批判。「いったい誰のための病院や!」と訴えるマイクの声にもついつい力が入る。

 久しぶりに9人の会員の皆さんが駆け付けて下さり、600枚が配られた。山本先生もお元気にビラ配り。「今日は、いつもより受け取りがよかった」と満足そう。

 明日は、午後3時から東京高裁で、「暫定滑走路認可取消訴訟控訴審判決公判」。傍聴に行ってきます。

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2009年5月30日 (土)

今週の産直野菜(5月30日)

09530  今週の産直野菜が、今、届きました。

 玉レタス、大根、スナックエンドウ、サニーレタス、小松菜、そら豆、チンゲンサイ、小玉ネギ、きゅうり の9品です。

 今日の「野菜だより」に豆類が思わしくないことが書かれています。沖縄に萩原さんたちと行く中で、市東さんからトウモロコシの畑を萩原さんがトラクターでひっくり返していたのを聞きましたが、今も端境期の影響があるようですね。大変だ。

 来週は、ジャガイモ掘りと援農に土曜日から出かけますので、先週に引き続いて私は野菜をとりません。ということで、来週の「今週の産直野菜」はお休みさせていただきます。

 実は、今日のブログで、記録を残しだしてから500回目の記事です。最初は、やるのが手いっぱいで、残すことなど考えておらず、豊中のMさんから怒られて、残すようになりました。そのため、2007年2月13日から、このブログは始まったのですが、記録が残るようになったのは、3か月後の07年5月14日からで、ちょうど2年余りで500回の記事を書いたことになります。また、アクセス数も(これは最初から)、今日で14万件を超えるようで、驚いています。これからもよろしく。投稿も歓迎ですので・・・・。

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2009年5月29日 (金)

7・5三里塚現地闘争に結集しよう!

08331   写真は、東峰十字路にある東峰部落の開拓道路。7・5現地闘争の会場。(08年3月31日撮影)

 国・国土交通省と成田空港会社(NAA)は、暫定滑走路北延伸部分の工事が終わったとして、その供用開始を当初予定の来春3月を半年近くも前倒しし、10月22日に開始すると発表した(5月20日)。そのために、新誘導路の供用開始をこの7月にも開始すると宣言してきた(4月22日)。

 2005年5月、NAA前社長の黒野匡彦は、東峰地区住民にお詫びの書面を提示した中で、次のように言っている。「振り返ってみますと、円卓会議が暫定滑走路なるものを想定していない中で、東峰区の皆様との合意形成を図ることなく、取得済所有地を使った一方的な計画を策定してしまいました。そればかりか、工事についても、事前に十分な説明をしないまま、滑走路の供用時期から逆算して工事スケジュールで一方的に工事を行い、工事の完成が早まったからといって、東峰区の皆様の生活環境に配慮することなく、1ヶ月も供用を前倒ししてしまいました」と謝罪したのだ。

 金融恐慌のあおりを受け、成田空港の発着便数が大幅に減少している中で、この5カ月以上の供用開始の前倒しに、東峰区住民と三里塚反対同盟は腹の底からの怒りを表明しておられます。この05年の黒野前社長の謝罪は何だっとのかと。

 成田空港のハブ空港からの陥落に焦る日本帝国主義は、アジアゲートウェイ構想(06年)に基づいた航空の自由化、成田・羽田の拡張を宣言していた。しかし、反対同盟の闘いに追い詰められた彼らは、2010年10月予定の羽田の第4滑走路の開業に続いて、国内線用の滑走路の延長と第5滑走路の建設によって羽田の国際線化を余儀なくされている。

 このことに焦るNAAと地元経済界の私利私欲による暫定滑走路北延伸から3500メートル化、離発着の1.5倍化(30万回)の要望を水路とし、2014年終了予定の米軍再編に間に合わせるために、成田空港の拡張=暫定滑走路の09329 3500メートル化(4000メートル化)に突っ走ろうとしているのだ。そのためには、東峰区の住民の存在と、市東さんの農地を守る三里塚反対同盟の闘いの存在など、あってはならないのだ。彼らにとっては「悪夢」以外の何物でもない。それゆえに、何の必要性もない、何の展望もない北延伸部分の供用開始前倒しによる、市東さんへの、東峰区住民への脅し、脅迫をやろうというのが、7月新誘導路供用開始、10月22日北延伸部分の供用開始、来春3月の発着回数の22万回への増加の攻撃だ。(右写真は、09年3月29日)

 こんなことを断じて許してはならない。呼びかけられた7月5日の現地闘争、そして、現地実力闘争の一環で、同じ質を持って闘い抜かれている7月21日、27日の市東さんの農地をめぐる裁判闘争と6月25日天神峰現地闘争本部裁判に、全力で結集して、反対同盟、そして市東孝雄さんとともに闘い抜こうではないか。焦る日本帝国主義が追い詰められているが故に、決戦は明らかに前倒しされてきたのだ。10月前倒し供用開始阻止に向け、7・5現地闘争と裁判闘争に決起しよう!

新誘導路の7月前倒し供用阻止!市東さんの農地守れ!    7・5三里塚現地闘争

● 7月5日(日)午後1時30分~  ● 東峰十字路北側開拓道路 (集会後、敷地内デモ)

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2009年5月28日 (木)

沖縄を訪ねて(その3、5月24日)

09524

 沖縄を訪ねて3日目。お世話になった知花さんご夫婦に別れを惜しみながらヌーガーヤ(何我舎)を後にして、最後の見学に・・・。きわどくなると働かないカーナビと、昌一さんがメモ書きしてくれた地図のコピーを頼りに(内心は行けるんやろかと不安がいっぱい)。

 先ず嘉手納基地へ。カーナビに頼っていたら、いつの間にか北谷町へ。行きすぎたと、慌ててUターン。以前は、ここと言えば「安保の見える丘」だったのだ09524_2 が、最近は基地の横に出来た「嘉手納・道の家」の屋上。4000メートル滑走路2本の巨大な基地の真ん中あたりを正面に見るため、相手がでっかすぎて写真に入らない。日曜のため米軍も休み?滑走路に動きが全くない。右の写真は、滑走路を前に見る萩原さんと市東さん。基地の壁際の数メートルの幅の土地に、まるで猫の額のような畑が手前に見えます。

 次は、普天間基地へ。朝でてから、キャンプ・トリイ、嘉手納、瑞慶覧基地、そして普天間基地と、巨大な基地がずっとつながってある。「農地や産業に使える平地が全部基地になってるんだから・・」と萩原さんがつぶやく。

 宜野湾市役所のそばで、基地にへばりつくように建てられた佐喜眞美術館に聞いて回りながらやっとたどり着く。丸木位里、俊ご夫妻の沖縄戦やチビチリガマなどの巨大な絵が常時展示されている上に、この日は上嘉豊光写真展「シマの匂い、シマの風」が開かれていた。1970年から72年にかけての沖縄の町かどや「コザ暴動」「牧港青年部の闘い」09524_3 などが並んでいる。キャプションがないので、一部しか中身がわからないが、雰囲気は伝わってくる。そして、最後の部屋の丸木さんの絵に。いつものことながら、その凄さに圧倒される。萩原さんは部屋の中央に据えられた椅子に座って、しばらく「沖縄戦」の巨大な絵に見入っておられた。館内の写真が写せないので、左は美術館の正面。

 次は、美術館と基地の反対側にある普天間基地全体が見える高数の丘公園。これもナビにも、案内書にもないので聞きながら行く。元の日本軍の高射砲の陣地だったとか。ものすごい階段。階段になれている私でも息切れ。萩原さんが心配になる。ここも、日曜で、滑走路には機影がない(最初の写真)。滑走路先の誘導灯が、手前の人家の密集した中にあるのに驚く。航空法もクソもない。写真右手上の方の青い色のかまぼこの右側が、岩国基地から飛来した米軍ヘリCH53Dが墜落した(04年8月)沖縄国際大学だ。こんな海兵隊の基地など直ちに撤去しかないと怒りがこみ上げてくる。しかも、この現実を理由に辺野古の基地の建設、米軍再編などどうして許せるかと想いを新たにする。萩原さんも、私も、ここの一坪地主なのです。09524_4

 まだ飛行機の時間があるので、沖縄戦最後の激戦地、沖縄南部・摩文仁に行くことにする。先ずは、昨夜お会いした市東さんの親戚の若者の「ここは一度見てください」と言っておられた、ひめゆりの塔とひめゆり平和祈念資料館を目指す。途中で、高速道路に上がったところ、逆方向で北に向かってしまい、慌てて次のインターでUターン。思わず冷や汗。

 右の写真は、中にいた40人全員が死亡した第3外科壕の前で、反対側で説明していたガイドさんの話しに耳を傾けておられる萩原さん。このあとひめゆり平和祈念資料館では、萩原さんと市東さんが語り合いながら観ていかれた。

 まだ少し時間があったので、日本軍の慰霊をする気にはなれなかったのですが、摩文仁の丘の展望台(牛島等の自決した場所)09524_5 に上がって、海とあたりを見渡しました(左写真)。

 そして那覇空港へ。この日の航空券が取れなかった私は、お二人を見送ってホテルへ。とりあえず、疲れをとるために、まだ明るいうちでしたがベッドへ。

 この1月「3・15米軍再編と闘う」集いを準備する中から、「3・15」そのもの、そして「3・29三里塚現地闘争」の高揚、それらの中で追い求めてきた新たな統一戦線の形成に向けて、三里塚反対同盟とともに確実に一歩が踏み出せたことが、昌一さんをはじめ沖縄の皆さんの素晴らしい支えによって実感できることを心から喜びながら、本当にほかほかした気分で眠りに就くことができました。

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2009年5月27日 (水)

沖縄を訪ねて(その2、5月23日)

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 5月23日。梅雨に入った沖縄の行く前の天気予報は3日間とも雨。ところがこの日も時折晴れの好天気。知花宅を朝出発して、9時半ごろには辺野古に。

 お二人が、居合わせた皆さんに自己紹介され、三里塚から来た事を告げられるとみなさん、驚かれた様子。先ずは、辺野古の闘いと09523_2 現状の説明をして下さる(右写真)。若い人が、「どうりで、どこかで会った人だと思った」と、萩原さんのことを言いながら、作業に出かけられた。

 その時、一人のお客さんが。彼と私は顔を見合せて、お互いに驚いた。「何でお前がここにいるのか」とお互いに思いながら。宝塚教会の佃真人牧師ではないですか(上写真の萩原さんの左後)。明日からの宜野湾での会議のために来られたとのこと。「犬も歩けば・・・」ではないですが、ほんとビックリ。

 今度は、萩原さんが、来られた佃さんも含めて、三里塚の闘いの現状と、農民を守るべき農地法で農地を取り上げようとする現在の局面を説明された。みなさんから、「それはひどい」と声が(左下写真)09523_3

 説明して下さった(右上写真の左の方)方から、「船は出せないか」と声が。前に訪れた時に、「ここに来たら、海に出て、できれば潜らないと」と言われていただけに、「やった~!」と内心思っていると、何とかなり、最初の写真のように佃さんも交えて4人、船外機のついた小舟に乗せてもらって海へ(最初の写真の後ろの方に座り込みテントが見えます)。

 とにかくきれい。それもずっと沖に出ても浅い。キャンプ・シュワブの様子を見ながら、辺野古崎の近くに(右下写真)。石を投げて水面をはねながら飛んで行くように、30~40センチ大の、きれいな模様の入った細長い魚が水面をはねながら飛んで行くのが何尾も横を行く。市東さんが「植えたみたいだ」と評されましたが、海底にはきれいに水草が育っています。帰ってから知花さんにお聞き09523_4 したら、ジュゴンがこれを食べに浅瀬に入ってくるそうです。ヒトデやナマコ(と思うのですが?)、きれいな小魚の群れが行きかう。めっちゃきれいで見とれていて写真を撮るのを忘れてしまった。スミマセン。そのうちにがりがりと船底。引き潮で、このままいけば船から降りて押すことになるかもと・・・。何とか、外の方に船を出して、大回りして港へ無事帰港。安次富浩さんなどとご挨拶をして、佃さんの車も一緒に高江へ。

 途中で道を間違えたりしながら、何とか1時間余り走って、高江で座り込んでいるN4ゲートのテントへ。約60軒の小さな部落の一番近いところで400メートルという村を取り囲む形で、Photo V-22オスプレイ(左写真)の離発着訓練のためのヘリパッドを6か所も新設しようとする工事に反対して、座り込み闘争を始めて、ちょうどこの7月で2年になることなどを、テントに当番でおられたGさんにお聞きした(右下写真)。Gさんは、高江の隣の村の住民で、おコメとラッキョウを栽培しておられるとのことで、高江に友人もいて、いてもたってもおられず最初から座り込みに参加しておられるとか。

 沖縄防衛局は、この座り込みを「通行妨害」として14名を訴えるとともにテント撤去の仮処分申請をしているのですが、このGさんや、N1テントで毎日座り込んでいる佐久間さんなどは訴えられず、14人全員が高江の村民で、しかもほとんど座り込んでもいない人や8歳の子どもが訴えられていることなど、09523_5 高江の住民への脅しと分断のためであることは明らか。こうした事情については、2月1日に当ブログhttp://kanjitsu-sanrizuka.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-943c.htmlで詳しく書かれていますので、一度ご覧ください。

 私たちは、N1ゲートで、5年前大阪の釜ヶ崎から辺野古の座り込みに入り、2年前からほとんど毎日この高江のN1ゲートで座り込みを続けておられる佐久間さんを訪ねた(左下写真)。さらに国頭との境の道路からやんばるの森を眺めた。さらに、人の配置は日常的にはないのですがHゲート(右下写真)にも行き、高江の村の中を通って、途中で佃さんと別れて読谷へ、09523_7 帰途につきました。

 読谷で、知花さんのお宅の近くにある小さな小料理屋で、沖縄料理のコースに舌鼓。この二日間の沖縄との交流を通して、いろいろな闘いを取り組んでいる人たちが三里塚を思っておられることが確認できたことと、そうした思いを持つ全国の人々が「反戦の砦」三里塚に結集していく流れを生み出すことの重要性を改めて感じたことなどを、萩原さん、市東さんと話し合ったものです。

 その後、早めにお風呂に入って今日は疲れを取ろうと思っていると、何と、市東さんのいとこの息子さんが、3年前から浦添におられるので会いに行こうと思うのだとのこと。市東さんが、その息子さんの中学、高校の頃に可愛がっていたとのこと。独りでは、帰りの道が不案内ですし、「ここで会わないと、何時また逢えるかわからない」09523_8 「一緒に行かないか?」のお誘いに、ほいほいとついていくことに。夜8時にオープンするライブハウス(? バー)に勤めておられるとのこと。タクシーを飛ばして、お店へ。泡盛を1本、市東さんと二人で空けながら、彼と話しを。沖縄時間や暮らしぶりなど、沖縄への彼の想いなどを楽しく聞く。私が神戸で親しくしていただいた沖縄の建築家の真喜志さんの息子さんが音楽家で彼は親しいとのことで、辺野古の闘いに真喜志さんが関わっておられることも知っている。今日、船に乗せてもらって見てきたことなどを語り合った。これも素晴らしい出会いでした。結局、この日も寝たのは12時過ぎ・・・・。

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2009年5月26日 (火)

沖縄を訪ねて(その1、5月22日)

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 5月22日から24日、三里塚反対同盟の萩原進さん、市東孝雄さんのお供をして沖縄を訪れ、素晴らしい三里塚と沖縄の交流をご一緒することができました。お二人は初めての沖縄で、3日間、できるだけ沖縄を知っていただこうと、いろいろと案内させていただきました。

 22日、昼過ぎに那覇空港に到着し、早速、読谷の知花昌一さん宅へ。昌一さんは待って下さっており、早速、座喜味城跡に案内していただきました。ヤマト09522_9 の城郭と違い、中国の文化を受け入れた独自のものであることが、その優しい城壁の線に現れています。梅雨空のため遠望は利きませんでしたが、城壁の上から、嘉手納弾薬庫の全貌、「象の檻」と読谷飛行場の返還の闘いと勝利、米軍18万の上陸をめぐるいくつかのエピソードなどをお聞かせいただきました。

 それから「やちむんの里」へ。かって沖縄の古窯として栄えた歴史を持つ読谷村が、村として1972年に始めた事業で新た な窯元を招き、観光事業にしようとしたそうです。しかし窯元の職人の皆さんが反対し、今では40を超える窯元が集まり、百数十人の職人さんを09522_15 抱える産業になっています。左写真は、そこに作られた8個の窯をもつ大登窯を昌一さんの案内で見ておられる萩原さんです。

 今度は、返還された読谷飛行場跡地の滑走路だった道路の脇の畑に。読谷村の役場と議会に接する畑(右の写真)では、赤土にゴロゴロと白い石灰岩の石ころが一杯あるのが見受けられます。そのすぐ下は石灰岩の岩盤で、萩原さん、市東さんはその大変さを思われながら、近くでしておられる農作業を見て、話09522_11 されておられました。

 それから「象の檻」の跡地へ。96年4月1日、その「象の檻」に入られて、竹槍で上陸してきた米軍と闘って殺された祖父の命日を追悼された昌一さんの写真を思い出しながら、その広々とした更地を見ました。農地への転換は無理で、将来、宅地として分譲を予定しておられるそうで、この日は昌一さんの従兄さんがゴルフの打ちっ放しをのんびりとしておられました。

 続いて「チビチリガマ」へ。ハブがよく出ると言われるうっそうとした木々の中に降り立ってガマの入口に(左の写真)09522_16 。少し説明を受けてから、中にろうそくをともして入りました。ここには百数十人の村人が避難し、中国の戦線で看護婦として従軍された方がおられ、そこでの日本軍による虐殺、 強姦などの状況を目の当たりにした経験からの「鬼畜の米兵にそれ以上の酷さで殺される」という言葉に、3歳の幼児を含む84名の方が、自らの子供たち(48人)に手をかけ「集団自決」されたのです。昌一さんは、「これは自決ではない。皇民化教育などによる強制死だ」と語られた。

 それから、萩原さんと市東さんが、車中からの眺めに時折飛び込んでくる亀甲墓の様子に興味を示されたので、ご自分の家のお墓に(右下の写真)。その大きさにびっくり。思わず萩原さんが「家が1軒建つ」と。昌一さんによ ると、漆喰で周囲が作られていたのが手入れが大変で、今ではコンクリートで造りかえられたので趣がなくなったそうです。

 09522_20 続いて、彫刻家の金城実さんのアトリエが近くにあるとい言うので、無造作に置かれたその彫刻を見させていただく。丁度、金城さんが帰宅されたので、アトリエに招かれて、しばらく歓談(最初の写真)。岩山大鉄塔のために金城さんが制作された「闘う農民の像」が、今では、横堀の小屋の鉄塔にあり、現地調査の目玉であり、成田空港の破綻の象徴になっていることをお伝えすると、嬉しそうに創作の頃の話や、岩山大鉄塔が倒された時のいきさつなどを話して下さった。

 最後に、昌一さんのご自宅のすぐそばにある「シムクガマ」へ(左下写真)。ここは、中が2 キロ以上あり、水がガマの奥へと流れ、村人が1千人以上避難していたそうです。ここには、2人のハワイで働いたことがあるお年寄りがおられ(1人は、09522_21 日本軍からの供出強要を拒否し、日本軍から「非国民」呼ばわりをされた)、「自決」の流れを止めて、「同じ死ぬなら、出てみてからでいいのでは」と説得して、全員が命を長らえたのです。わずか数百メートルしか離れていない「チビチリガマ」との違いを「指揮官の違いです」と昌一さんは話された。ここは、昌一さんの中学時代(1960年ごろ)の遊び場、隠れ家で、数々の悪戯をされたエピソードも話して下さった。

 昌一さん宅へ帰って、風呂をいただき一休み。そのころから、次々と人が来られる。知花盛康さんをはじめ、先ほどの金城実さん、安次富浩さん、1975年にひめゆりの塔で皇太子に火炎瓶を投げて闘った戦旗派の方など、15人余りが沖縄各地から集まって来られて、三里塚との交流会が、昌一さん宅の庭で始まった。みなさんが持ち寄られた沖縄料理や、昌一さんの長女の未来世さんがこの日の朝から作ってくれた09522_22 島らっきょのおつまみ、それと泡盛とビールが一巡したころから、みなさんの自己紹介と三里塚に寄せる想いがこもごもに語られたのです 。「こういう風に全国で、三里塚に今も想いを馳せている人がいっぱいおられるのでは」「やっぱり三里塚はすごいなぁ~」と心の中での感動は大きいものでした。大木よねばあさんの生前の様子など、私や市東さんには興味深い、感動的ですらあるお話しばかりでした。最後に、市東さんからの訴えと萩原さんからの沖縄と三里塚を結ぼうという想いが語られました。そして、進行役を務めていた昌一さんから、「ここにいる者を出発点に、三里塚と繋がっていこう。これまでのように呼ばれたから行くというのでなく、少なくとも3月、10月の闘いなどにこの中から代表を私たちの意思として送ろう。そしてその中から沖縄闘争の勝利を築いていこう」と提起が行われ、拍手と歓声で確認されました。宴会はなおも続けられ、終わったのは1時ごろではないかとのこと(何と6時間余)。私は12時前にリタイア・・・。素晴らしい交流でした。

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2009年5月21日 (木)

愛宕山を絶対に米軍住宅なんかにさせてなるものか!

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      住民投票の成果を活かす岩国市民の会代表  大川 清

 真夏のような暑い陽射しの照りつける4月12日午後、「愛宕山を絶対に米軍住宅なんかにさせてなるものか!」との熱い思いをもって愛宕山神社前の公園に2000人もの人々が集まり、米軍住宅建設反対の大集会が行われました(上写真)。

 そもそもの愛宕山地域開発と基地沖合移設事業ですが、「安全対策、騒音対Photo 策」という名目で市民の悲願として、海を埋め立て滑走路を1キロ沖合に移設しようと始められたのが沖合移設事業でしたが、いざ蓋を開けてみればそこに倍以上の戦闘機を持ってくるというのです。私たち市民はまんまと騙されたわけです。またその沖合移設の埋め立て用土砂を得るために愛宕山という岩国市民の象徴であった山(信仰の山であり、さらに市の中心部にあって鎮守の森として市民の憩いの山であった)を削って住宅開発を行ってきました。当初、地元住民の方々は反対しましたが「病院や学校、店舗や様々な施設が出来、より住みよい地域になるんだ」と説得され泣く泣く了承したといいます。基地の騒音対策のため、より住みよい街づくりのためと信じて、工事中のダイナマイトの音や掘削機の振動にも耐えてこられたのです。それが蓋を開けてみれば、住宅地として売れる見込みがなく赤字となるので国に売却して米軍住宅にしようというのです。最初から画策されていたことだと思いますが、あまりにも私たち岩国市民をバカにした話ではないでしょうか。

 そんな横暴を許すまいと炎天下の中、2000人が愛宕山に集まりました。まず愛宕山を守る会の岡村代表が11万人をこえる米軍住宅反対署名(うち岩国09412_5 市民5万人超)の報告とお礼を述べ、井原前市長(左写真)も体を張ってでも愛宕山を守り抜いていくという強い決意を述べられて、続いて次々に市民がそれぞれに思いのこもったインパクトのある訴えかけをし、最後に「するさと」の大合唱と「艦載機より平和の紙飛行機」ということで数日前から新聞チラシを使い、みんなで折った2000機以上の紙飛行機を皮肉と願いを込めて愛宕山の大空に飛ばしました。

 10年前、岩国に赴任した当時、基地に対峙するようなことを公の場で発言することがタブーのような何とも言えぬ威圧感が町全体にありました。それが住民投票はじめ市民の粘り強い歩みによって、多くの市民がこぞって声を上げる姿に本当に胸が熱くなりました。09412_4

 国が圧力をかけても立ちあがる市民! 愛宕山の闘い、そして爆音訴訟、無謀な艦載機移転が撤回されることを信じて、全国の方々と連帯し諦めることなく粘り強く闘っていきたいと思っています。

 住民手作りの愛宕山大集会に思いを寄せて下さった方々、全国から署名を寄せて下さった方々にこの場を借り心から感謝します。今後ともよろしくお願いいたします。

 (右写真は、4月12日、愛宕山大集会の入口で当日のプログラムを配っておられた大川清さん。この文章は、5月19日、お訪ねした折に頂いたもので、無断で掲載させていただきました。)

なお、管理人は、明日早朝から、25日まで沖縄に向かいます。梅雨入りで連日雨のようですが、辺野古をはじめ、知花昌一さんのご協力を得ながら回ったり、沖縄のみなさんとの交流をしてきたいと思っております。今からドキドキしています。そのため、「今週の産直野菜」をはじめ、25日までは、当ブログはお休みさせていただきます。

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2009年5月20日 (水)

岩国訪問記 5月19日

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 上の写真は、門前川の両岸に広がる、左手は岩国基地、右手は岩国名産のれんこん畑。いずれも、江戸時代初期に農民の血と涙で、農地として築かれた埋立地。手前が愛宕山方向から見た市街地です。錦帯橋で有名な錦川が、門前川と今津川に分かれ、その間に出来た三角州(岩国の中心)の大半を占拠しているのPhoto が岩国基地(右写真)です。

 5月19日、永井満関実代表が、初めて岩国を訪れ、「住民投票の成果を活かす岩国市民の会」代表の大川清さん(岩国教会牧師)が、新岩国まで迎えて下さり、半日をかけて岩国の状況を案内して下さった。

 1945年8月14日、日本の敗戦が確定していたこの日、米軍は、岩国駅前を絨毯爆撃し、この小さな町で1千名の市民が殺された。日本海軍の岩国基地には爆弾一つ落とさずに。「米軍の威力を見せ付け、その後の占領支配、基地支配をやりやすくするためだったのでしょう」と大川さんは、説明された。直ちに進駐してきた米軍は、岩国基地を接収して戦闘機基地とし、朝鮮戦争の中で基地を拡張して64年。現在に至っている。当然にも、戦闘機の爆音被害はもとより、墜落などの被害、そして米兵による乱暴狼藉、女性への強姦などの基地被害は沖縄などと変わらず凄まじいものだった。保守王国山口の気風か、産業が基地によって阻害され、基地依存を深めたわずか10万人の岩国市では、「基地反対運動」などは、ベトナム戦争の折の岩国教会を中心とした反戦運動をのぞいてほとんど形をなさなかったという。

 そして、海(大阪湾)を守ることを闘いの大きな柱の一つとしてきた私たちには09519_3 理解しがたかったのですが、基地の前方に広がる幅3キロになる瀬戸内海有数の干潟を埋め立てた基地の沖合移設が、爆音対策の市民の悲願として、1960年代から30年にわたって続けられてきたのです。基地撤去ではなく。

 その悲願に応えるかの装いをとりながら1996年、岩国基地の沖合移設事業がスタートしました。その経緯の詳しくは http://kanjitsu-sanrizuka.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-1471.html などに掲載しております。しかし、実際には米軍再編の中での基地拡張、厚木基地からの空母艦載機部隊の移駐であり、極東最大の戦闘機部隊が駐留する米軍基地への変貌でしかなかったのです。しかも、バラ色の再開発構想で地元住民を黙らせ愛宕山の切り崩しを強行しながら、10年にわたる騒音と粉じん災害を我慢させながら、跡地への米軍住宅を押し付けるという、二重、三重の住民だましを行おうとしていることが明らかになった(左上写真は、削り取られた愛宕山の地を前に大川さんから説09519_4 明を受けられる永井さん)。このことが明らかになった2005年以来、岩国市民は、住民投票、市長選挙などいくつもの闘いを、薄汚い国による選挙干渉をはじめとした分断攻撃をはね返して、闘い抜いておられる。今年に入っても、愛宕山への米軍住宅反対の11万人の署名の国会提出。爆音訴訟の477人の原告団による提訴などと闘い続けておられます(右上写真は、2600メートル新滑走路の南側の先で進められる港湾整備。原子力空母などが接岸できるようにという09519_5 のだ)。現在の基地が570ヘクタール、それに新基地を併せて800ヘクタール近く(実に二期を含めた関西空港よりも大きいのだ)の巨大基地になろうとしている(左写真は、その中央部に立って説明される大川さんと永井さん)。

 この5月1日、「岩国市民の皆様へ 米軍家族住宅建設反対運動の危険性」と書かれたビラが、岩国全市域の家庭に一斉にポスティングされた(新聞折り込みではない!)。①財政赤字が市民に大きな負担をもたらす、国病の移転も危ない ②米軍家族住宅建設反対は人種差別 ③米軍を排斥して日本の国は守れない というのである。もちろん、大川さん宅である岩国教会には入らなかったそうだが・・・。手にとって読みだして思わず吹き出したが、この程度の「ひどさ」で平然と、金をつぎ込み、運動つぶし、市民への敵対が行われているの09519_6 だ。

 右の写真は、岩国基地の中にある米軍宿舎だが、1家族、140㎡、冷暖房つけっ放しだそうだ。その費用はすべて私たち日本人の税金(思いやり予算)で賄われている。写真奥のドーム状のものは、海上自衛隊の格納庫だそうだ。この基地には、海上自衛隊が同居し、米軍再編の中で進められている日米両軍の一体化が実践されている。

 お話しをお聞きしながら、新グアム協定によって、グアムの米軍宿舎などのために、私たちの税金6千億円が投入されようとしていることを連想し、激し怒りを抑えることができなか09519_7った。

 ご案内の最後に、岩国教会に案内していただき、さらにお話しを伺った。写真は、岩国教会の礼拝堂で話される大川さんと、永井さん。やはり牧師同士、話しが尽きない。

 この教会の前から、あの有名な錦帯橋の東端が見え、橋からわずか200メートルほどそのまままっすぐ東へ行ったところです。

 現場を見、お話しをお聞きしながら、こうした巨大な米軍再編の動きにたじろぐことなく立ち向かっておあられるその姿勢に感銘を受けるとともに、「3・15米軍再編と闘う」集いで確認されたように、三里塚、沖縄、岩国、関西、そして全国で反基地を闘う人々が大きく繋がる必要性を強く感じながら、永井さんと帰途につきました。大川さん、本当にありがとうございました。   

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2009年5月18日 (月)

新しい人 新しい鍬 (『農耕部』通信)

 昨年秋、職場の事務担当者「Mさんが『実家の畑、少しでも使ってくれませんか』言うてます」。私「やります」。今年、春の気配に、Mさん宅へ。Mさん「父が20年前に死んで、畑ほったらかしに」「国に返す農家もあるが、結局、荒れ地に」「イノシTs3j00190001 シ、アライグマ出ます」。畑に立ち、ぼう然。あまりに広い、あまりに荒れている。手前千坪は一面に草が茂り、進むと2千坪、錆びたハウスの骨格のまわりに木がはえ、そのさき何千坪には人の背丈をこえる笹が密生して大きな樹が立っている。動物の臭い『はいるな』。「やります」Mさんに告げ、翌週、ひとり鍬一本で荒地に挑んだ。畑1日目。

 3月末、三里塚現地闘争、援農。萩原進さん、「農業はたいへんだよ」「そこまで荒れているなら、肥料入れないと」「サツマイモは畝幅75センチ、株間30センチ」。2日間働いて帰る日、鈴木加代子さんが本葉がでかけた苗25本をさしだした。「あげる。何だかわかるかい」。私「ウリ、カボチャ、カボチャ」。加代子さん「きうり、カボチャ、ズッキィニ。たいしたもんだよ」カカッと笑う。謙太郎さん、ギョロッと笑い「結果、報告しろよ。報告!」

 4月下旬、畑5日目。雲低く、風強く、時おり小雨。モリアオガエルが土にもぐる寒さ。きうり全滅。カボチャ2本。ズッキィニ1本が枯れた。苗のまわりに枯れTs3j00200001_2 草をかけてやる。                  先日、畑3日目、職場のEさんと二人で鍬をふっていると、ひとりの農夫が「やったろうか」と、少し赤錆びたトラクターで『うなってくれた』(三里塚ではトラクターで耕すことをこう言う)。    5日目も二人。三里塚援農に入ったCさんの友人Iさんが再び参加。地下たび、日よけ帽子、黒長そでシャツ。二人でヌカをまき鶏糞をまき畝をたてていく。Iさん「うねがまがる」「うねがやせる」「うねがでこぼこ」。

 5月はじめ、畑6日目。快晴。まわりの山やま、緑、きみどり、深緑もりあがり、鳥がわんわん。土堤でIさんと草刈り機の研究。チップソー交換、エンジン始動。Iさん草をなぎ倒す。三里塚援農経験Aさんが手鎌で刈る。職場のJさん夫婦が見学「次回、働きます」。トラクターのKさんがハウスの周りの木をチェーンソーで切り倒し、「俺も大したことないけど知ってる事は全部教える、いつでも声かけて。またトラクターやるし」。木を切り運び、草を刈り運び、土を打ち、畝を起こし、苗を植え、働いて夕方。あちこちで村人が草を焼く。いい音、煙、いい臭い。太陽が山をこえる。振りTs3j00210001 向くと千坪の半分が畑になっていた。27本の畝にジャガイモ、トマト、カボチャ、ズッキィニ、山芋。

 ある夜、Mさんから電話。「ほんま、ええ畑になってきた。村でえらいことになってるで。『この村、なくなる』て嘆いていた人らが言うてる。『都会の人も、よお働く』『ハキハキ明るいし』『うまくいくよう、皆んなで応援せなあかんな』て」。私、笑い「5月中に、サツマイモと豆の植え付けやります」。

 また来週、畑に行きます。耕す人がふえます。新しい鍬を買いました。

                         『耕作部』部員X

(管理人=三里塚の現地調査と写真の撮影、そして援農活動を手探りで始めてから丸2年。いろいろな人が加わり、なりふりもそれらしくなってきた。そんな中で、新しい取り組みが、始まりました。乞う、ご期待。6月6日の夜出発して、7日の現地の産直の会主催の「じゃがいも掘り産地交流」に参加して、そのあと、援農、現地調査を今回も取り組みます。)

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2009年5月16日 (土)

今週の産直野菜(5月16日)

09516  今週の産直野菜が今届きました。

 玉レタス、カブ、ターサイ、サニーレタス、キャベツ、ホウレン草、小松菜、ラディッシュ、小玉ネギの9品です。すごい! 沢山だ! 端境期で、「少ない」「少ない」と周りから・・・。(私にはちょうど手ごろでしたが。) とりあえず、よかったね。 

 ターサイて何? 左写真の一番左上にあるやつのようです(右下に単体の写真)。「野菜だより」によれば、小松菜に近いものらしい。同じように料理すればいいとのこと。

 ラディッシュが、今年初めて入った。実は、昨年春の「写真展&野菜市」で入荷し、「これ何?」と聞いた私です。それでいっぺんにファンに。所が、今年は入ってこないな~09516_2 と思っていたので・・・。サラダにするとおいしいですね。(要するに何もしないで食べれるからファンになったりして? 苦労してるんです・・・。)

 先週の土、日は「写真展」で八百屋さん。朝から晩まで野菜の相手。おかげ様で完売し、買って帰るはめにはならず、ほっ! それでも少し、先週のが残ってる。しかも、今週は、岩国に行ったり、沖縄に。さてどうするか・・・・。まあ、かんがえてもしゃあない。頑張って食べましょう!

 とりあえず片付けて、今から「兵庫・星野文昭さんを救う会」の街頭署名、ビラまきに出かけます。

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2009年5月15日 (金)

定着してきた「淡路・三里塚写真展(第4回)」

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 5月13日、14日の平日、洲本商店街コモード広場で「淡路・三里塚写真展」を開催、平日にも関わらず2日間で109人もの参加者を数えました。

 今回で4回目となりましたが、参考までに過去の実績を記します。第1回目が2007年3月16、17日、参加者101名。2回目が同年11月30日~12月1日、参加者108名。3回目が08年5月16、17日、参加者89名との実績があり、一年ぶりの開催となった今回は参加者も野菜の売り上げも好調で、ここにきて「定着したイベント」であることを強く感じました。

初めてマスコミが取材報道

 今回は、初日早々、神戸新聞の記者が取材に訪れ、写真展の意義、09514 野菜市の趣旨など詳しく説明を聞いて、「成田の問題が今も続いていることを強く感じる。淡路の環境を守る住民運動、淡路の農業の問題、平和の問題などが、三里塚と関係しているのがわかる」との感想を話していました。この写真展をマスコミが報道したのは、これが初めてで、今までも何度か「取材」には来ましたが、報道されずじまいでした。翌日の写真展には「新聞を見てやってきた」との参加者の声を数名から聞き、マスコミの力にあらためて驚かされました。

新しい「大判パネル」に様々な感想と反応

 今回から新しく「大判パネル」で掲示しました。遠くからも一目でわかる大きさなので、皆さんは迫力を感じていました。30数年前、冨里(成田市の隣)から引っ越してきた女性は「懐かしい風景の写真、畑、ふるさとに帰りたい気持です」09514_2 と感想を語ってくれて、「成田の闘いは知っていましたが、今も続いているのに驚きました。騒音公害はひどいですね」と、国や空港会社に怒りを持っていました。

 また、淡路空港反対の闘いを初期から知ってもらっている方も来られて、淡路町空港反対同盟が健在であることを喜んでいました。

 なかには「三里塚で反対している農家は補償金を吊り上げているだけや」と一方的な感想を言われたので、市東さんが「億のお金を拒否して、大根1本を作って空港廃港までがんばる」との固い気持ちで農業を続けておられることをきっちり説明しました。

 野菜市では、ある高齢の方が「このキャベツは虫がいっぱいついている。レタスの方を買うわ」と、無農薬野菜の特長をなかなか理解してもらえない場面もありました。でも、葉もの中心の野菜市は完売、これからも無農薬の良さ、三里塚の思いをきっちり伝える「写真展と野菜市」を続けていきたいと思います。

               淡路町空港反対同盟  安藤眞一

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2009年5月14日 (木)

市東さんの耕作権裁判第11回口頭弁論(その3)

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 裁判後の報告会のまとめの中で、萩原進事務局次長から7月、新誘導路供用開始攻撃への闘いが提起されましたので、その発言全文を掲載します。

萩原進反対同盟事務局次長のまとめ(報告会)

 5月の14日に鈴木さんの一坪裁判があります。そして、先ほど言われたように市東さんの会の現地調査とイベントが組まれています。31日には戸村さんの生誕百年の会があります。そういう中で、6月1日にも暫定滑走路認可(取り消し訴訟控訴審)の判決が高裁で行われようとしています。

 そこで、先ほど出ましたけれど、7月の、誘導路前倒しという形がありますけ09511 れど、承知のように今日、7月27日、この裁判が入りましたね。その前に、7月21日、市東さんの行政訴訟と農地法裁判が入っていますので、7月の公判が混んでる。普段だったら7月20日前後に、同盟的な海の催しがあるんですが、7月の各党派でいろいろ予定が入っているかもしれませんが、先ほど言ったように誘導路前倒し使用についての現地闘争的なものが組みたいんですね。その辺で、7月20日前の段階でいろいろスケジュールを調整してもらって、なんとかその辺でぶちこみたいと思いますので、皆さんの協力をお願いしたい。

 その上で、豚インフルエンザという形で騒がれていますけれど、市東さんのところから直線にしたら500メートルくらいの所に150名程度の、同じ規則にのっとった人たちがそこに収容されるというね、もとウィンズホテルという、何人か泊まった人がいますが、今そこに隔離されるというそういう状況があるんだけれども、昨年、9月の段階で市が国民保護法という形で5千人規模の動員態勢の下に2日間にわたって、8月30日、31日と成田市は訓練を行いました。そして一方では、春先から言われているように成田空港の事前調査、要するに米軍再編も含めて、とりわけ軍事使用における兵站としての成田の現地調査を夏までに作り上げるというようなやり方がなされてて、表面には出てき09511_2 ていませんけれど、そういう意味の一環としての今回の隔離、あるいはホテルの使用だとか、あるいは病院の使用とかが、そういうのが一方で組まれているわけで。そういう中で農地法の改悪が国会で出されてきている。

 いろいろ、裁判員制度の問題にしろ、あるいは先ほど出ましたけれども、道州制の問題もありますけれども、我々にとってみれば、道州制もそうだけれど、やっぱり戦争問題だ。根本的に、はっきり言えば、要するに軍事費の調達、あるいは戦争ができる体制を作って行くんだという所で、逆に道州制というのもその中での枠組みであるし、それを政治的に、あるいは具体的に発揮するのがアジア・ゲートウェイですよ。そこの中において道州制の問題もそこに存在するんであって、いろいろ党派によって言い方がいろいろ違うでしょう。道州制の中にこそあるんだと言い方しますが、自分は逆じゃないか、とんでもない話だ。戦争問題抜きにしてそういうことがあるのか。アジアゲートウェイがあって、アジアへ、どうしてやって、経済的進出、軍事的侵略がそこにあるんじゃないのか。その問題を、福田の時に死んだんじゃないかという安倍が出したんだけれど、とんでもない話で、今開き直って、それをやらなきゃあしょうがない事態に入っている。それが今三里塚に押しかかってきている。そう意味で、現実にそういう意味で。そしてその大きな現われとして北延伸を逆手に取った成田・・・の攻撃がある。こういう攻撃として見たとき、大きな枠として、単なる事故を事故として見るのではなくって、事故が起こるべくして起こった事故であって、その事故を逆手にとってそういう訓練をしながら、しかも、そのことをやることをもって声をつぶ09511_3 していく、ものすごい強権的なやり方がある。このことを非常に見る必要がある。これが、大きくは基地である岩国とか沖縄とか、日本全国のこういう基地における・・・という形でどんどん出てくるだろうという風に思いますので、その辺を三里塚は舵取り的にやっていく必要がある。そういう中での裁判であるということを位置づけていただいて、闘い抜いていきたいと思います。

 まあ、非常にこみいった日程、スケジュールですけれども、向こうも何時から供用という形に発表しておりませんけれども、ずれて7月初めに供用始めたのに7月終わりにやるというわけには行かないんで、そういう意味で7月初めの方に何とか組んでいきたいと思いますので、よろしくお願いしたいと思います。

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2009年5月13日 (水)

市東さんの耕作権裁判第11回口頭弁論(その2)

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北原鉱治反対同盟事務局長あいさつ(報告会)

 今日はご苦労様。今の弁護団の進行状況を見ると、まったくずさんというか、デタラメである。これは徹底的に追求しなければならないと思います。現地ではあなた方の闘いはありませんが、全てを裁判に持ち込んでください。裁判でちゃんと答えられたことという問題が出てくるんですが、こういうようなデタラメの進め方が成田空港の建設過程であるということなんですね。ですから、この中には一坪を持った人たちも参加しています。絶対に一坪は売らないように。なぜ売らないようにというかということは、成田空港の建設というのは根本から法的にも間違っているやり方である。

 弱い者は・・・、という国の制度は根本から変えなきゃあだめだという時期が来09511 た。それは他人にやってもらうのじゃあなくて、自分自身が動かなければ、なんにも世の中は変わらないだろう。それぞれ真剣に市東さんの土地を守る会が中心になって頑張ってもらわないと、国が必要なところはどんどん奪ってしまう。そういう時代にはいってしまったということなんですね。これは他人事ではない。直接自分に響いてくることだというふうに判断すべきではないでしょうか。

 ですから、私たちは43年間闘ってまいりましたけれど、今残されている反対同盟員はものすごく鍛えられきています。今の政府、権力のやり方について。ですから、みなさんに対して私はいつも訴えています。三里塚の闘いは全てをはらんだ共有の財産であると。みんな管理人なんですよ。生きている限りはね。

 やはり現地闘争は現地として、しっかりりと私たちは日本の未来のために闘い抜いていくという決意をもってやっていますんで、是非、みなさん一人ひとりが、自ら動かなければ日本は変わらないんだという気持ちをもっともっと大切に連帯してやってほしい。

 これから暑くなるから、皆さん大変でしょうが、今までの力を出し切る時が必ず来ると思います。挨拶に変えさせてもらいます。

一瀬敬一郎弁護士からの説明(記者会見)

 じゃあ、ちょっと葉山先生のを補足して。特に、15と16という、市東(東市)さんが、1987年から8年にかけてご自分の南09511_2 台41番の土地についての自分の小作地がもともとどこだったのかというのを記録に残したものなんですね(15=最初の写真・元永メモ)。

 空港会社の方が出してきた42-1というね、藤崎が市東さんから聞きとって書いたというようなデタラメなことを言ってるんですが、ちょうど同じ時期に、正に同じ時期に市東(東市)さんが、自分の小作地は農道の北側は争いはないんですが、南側はどの南側か、農道に接した南側なのか、それとも石橋側の側なのか、石橋側の側というのが41-9にあたる原告側のデタラメな主張なんですけれども、そこをね、はっきりと88年3月19日に作ってるこの小作権についてという報告書というのがはっきりさせているということは、非常に、極めて、当時の市東(東市)さんの認識をクリアに書いたもんだということで、非常に証拠価値が高いと思っています。それは何よりも、その時点は、農道の南側のところ、農道の南側というのはこっちのほう(右図C)なんPhoto ですが、その当時は農道の北側(右図B、A)しか作ってなかったんですよね。石橋と交換したという状況がありましたが、北側だけしか使ってなかった。そういう状況で、自分の耕作状況と違うんだけれども、市東(東市)さんが、もともと小作地はどこだったんだと、農道の南側、農道に接した南側(右図C)と、農道の北側(右図B)の細長いところだと、クリアーに、正に明確に書いている報告書です。まさに裁判とは全く関係なしに、その当時の記録として書かれたもので、裁判が起こってからあとで作ったりしたものではないという意味においても決定的な証拠になるのじゃないかと。

 それと併せて、葉山先生の方で言われた関根とめさんの供述ですね。

 それともうひとつあえて付け加えると航空写真ですね。航空写真は、ちょうど41-9の所(右図D)に、昭和44年(69年)の原告から出した写真もそうだし、70年の写真も、石橋さんのところの屋敷林がせり出してきてるんですね。それとあわせて関根とめさんが供述されているように、植木を植えていたというような状況が航空写真からも客観的に見てとれる。客観的な証拠で、41-9を市東さんが小作地として耕作しているはずがないということがね、客観的なところからも浮かび上がってくる。

 空港会社の方は事実と違うことを主張しているわけですから、証拠を捏造することももともと不可能なのですけれども、どんなデタラメな主張も許さないという形で今後徹底的に追求していきたいと思っています。以上です。

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2009年5月12日 (火)

5月11日、市東さんの耕作権裁判第11回口頭弁論

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 昨日、5月11日、千葉地裁で市東さんの農地の取り上げを狙った「耕作権裁判」の第11回口頭弁論が開かれ、80人を超す傍聴人が駆け付けた。上写真は、北原さんを先頭に、抽選前の一コマ。この撮影の直後に裁判所の職員が駆け付けて撮影禁止。裁判の局面などについては、当ブログの先日の記事 http://kanjitsu-sanrizuka.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-e405.html をクリックしてお読みください。

 法廷と直後の記者会見、報告会は、市東さんが親子3代にわたって耕したこともない、元同盟副委員長石橋の賃借地、南台の農地「41-9」を市東さんの契約地と強弁する空港会社側のでたらめさを立証する新たな証拠、弁論が行われた事によって勝利感と解放感が満ち満ちていて、賑やかなこと。こんなに判りやすい民事裁判は本当に珍しい。

市東孝雄さん挨拶(記者会見で)

 どうもみなさん、お忙しいところ傍聴ありがとうございます。今日の法廷でも09511_2 、みなさんもご覧になって、向こうは何の釈明もできない状態です。そして、今度新たに弁護士さんたちが出したことに対して、どう今度は釈明するのか。それのみで向こうはなにも出せていないんですよね。ですからはたしてこれで裁判に持ち込めるのかというそのような状況でした。ですから、これ以上、押しこみ、押しこみでやっていきたいと思いますので、弁護士の先生方、そしてみなさんの傍聴で頑張っていきたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

葉山岳夫弁護士からの説明(記者会見で)

 みなさん。膨張闘争への参加、どうもありがとうございました。おかげで、やっぱり、裁判所、相手方を相当押し込んでいるという状況です。09511_3

 今日は、書証としては乙の11号証から16号証、15、16は正式には次回ということになりますが、一応相手には出しました。その中で、2007年9月1日に、私と一瀬弁護士、元永さんと3人で、関根とめさん、それから石橋美恵子氏のところに聞き取り調査に行ったわけです。その時の状況についてテープからの版約と、聞き取りの要約したものを提出したというわけです。今まで遅れてきたということについては、満を持したという点がありまして、実際上、石橋恵美子氏のように、会社側が工作をするということがありますんで、その工作そのものについて早くから逆に工作されたら具合が悪いということで、機会をうかがって今日出したということです。

 関根とめさんは、石橋政次氏の末の妹で、昭和3年生まれ。結婚したのは昭和27年。23か4で結婚して東峰地区、住所は天神峰・・・。そこで関根・・・・さんと一緒になるという状況です。結婚するまでの間については、石橋政次さんたちと一緒に41番の土地について耕作し、手伝ってる。位置はもちろんはっきりSave0007 しめしてる。明確な答えです。今の41-9というところは、屋敷の陰になってて作物ができないんで、自分で植木を作っていたということを言ってる。市東さんの耕作しているところについては、農道を挟んだ、細い農道ですね、その左と右。左の方は小さい短冊型。右の方はずーっと林の所まで達して作ってた。と明確に言ってるわけです。このことはどう言ったって絶対に揺るがない。そこんところについてとめさんは、明確に証言しているということです。それがテープの中に出ています。

 そのことと、市東さんの聞き取り書きということで、15、16と元永さんのほうがまとめて1988年に作ったそのもので、原本というより写しそのものが時代もので、20年で黄ばんでいるようなもので、それを今日提出したという状況です。これに基づいて、一瀬弁護士が頑張ってくれて準備書面11というのを作成して相手に出したという状況です。

 あちらの方は藤崎の供述のみで、しかも藤崎の手書きのもので、それをもとにして88年の4月の段階で、同意書とか境界確認書を東市さんからだまし取ったということなんです。で、根拠が全くないということが明確になりつつあるということだと思います。そういった状況の中で、原告側、NAA側の方は、釈明に対しても十分に答えていない。写真等についても、事業認定の申請時、つまり66年12月の段階で5千分の1の 測量図がなきゃあいけない。これは航空写真をもとにしてなきゃあいけないわけですが、公団が持っているのは68年が一番新しいだという(古いの間違い?)、そんなアホな話はない。結局、事業認定のときには地図なしに申請したというとんでもないことをやったということを自己暴露しているそんなことがあるんで、もう一回探してくれ、探せということですね。

 その他の釈明についてした。要するに会社側を追い詰めて来た状況だということを報告できると思います。詳しい事は、ほかの弁護士さんに。以上です。

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2009年5月10日 (日)

三里塚写真展 in 神戸 2日目

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 三里塚写真展&野菜市 in 神戸 2日目。始めたら、昨日と違って人通りが少ない。やばいなぁ~と思いながら開始。今日は、昨日の終わりに整理をしていたので、小分けした野菜を並べたりするだけでのんびりと開始。

 ところが以外と順調に野菜も売れ、見ていただく人も出てきた。明石住民の会のTさんも激励に来てくれる。

 50代の男性の方が、40年も空港反対をする中身を不思議そうに尋ねられる。どうやって問題意識を維持するんだろうかとも。土地を、農地を奪われる話の中から、食糧自給率に関心を持っておられることが判る。先進国で自給率の低い国がないことなどを話すと知っておられる。農民が農業をできなくする日本の政治のおかしさに意見が一致。ワーキングプア-、人が働けなる現実と農民が農業できなくなる今の政治を三里塚から変えていきたいという話に、大いに盛り上がる。

 70過ぎの男性が、成田もいいが、自分の所の問題をどうするんだと食ってか09510_2 かってこられた。神戸空港への怒りを語気も荒く語られる。本当にそうだ。

 市東さんの農地取り上げに反対する会の呼びかけに当初から参加されたMさんもお出でになり、しばらく歓談。産直野菜にも加わろうと言ってくださる。野菜もどっさりと買って下さった。

 野宿者支援の夜回り活動をしておられる元牧師のNさんも来て下さる。また、神戸空港の中止を求める市民の会のGさんも。結局今日も、85人の盛況。2日で170人は、私たちの予想の2倍近い。おまけに35個のキャベツは勿論、すべての野菜が売り切れ、残ったら持って帰ろうと思っていた私の分は無し。ほっ!

 疲れましたが、大成功。この会場をもう一度使おうよとスタッフで話し合いながら散会しました。

 一休みしてから、明日の市東さんの裁判に出発します。

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今週の産直野菜(5月9日)と三里塚写真展

0959  昨日届いた三里塚の産直野菜。ご報告がなぜ遅れて、昨日かって? 昨日は「三里塚写真展 in 神戸」の一日目で、しかも夜は神戸空港の中止を求める市民の会で、粟原市会議員から「09年度神戸市予算」についての学習会があり、今朝に。

 春大根、カブ、うど、サニーレタス、キャベツ、ホウレンソウ、野ふき の7品。ならべながら、珍しい2品があるのに気づく。なに? と思ったら、うどとふき。いずれも、先日裁判で現地に泊めていただいた時(4月21日~22日)、話題になったもの。

 ウドは、3月31日の援農の折に、産直の出荷作業の手伝いが終わったとき、終わりかなと思っ09331_2 たら、萩原さんがトラクターに乗り畑をひっくり返している(右写真)。行くと、細切れになった根の部分をトラックの荷台に載せろという。私は、ゴミを捨てに行くのだと思って適当にほりこんでいたら市東さんが近づいてきたので。「このゴミどうするの」と聞くと、「ゴミじゃないよ。うどの芽だよ。大事なものだよ」という。へ~。「人は見かけによらない」じゃない、「うどは・・・」。それから芋穴の所に行って、一人が芋穴に入って整理。床土の中の残っていたショウガを取り出してから、件のうどの芽が出て来たのを並べていく(左写真)。あのゴミの中のような根っこに小さくついていた芽がこんなに大きくなったんだと感激。それも、「野菜だより」によれば、2年に1回の09331_3 配給とか。しかし「知らない」というのは恐ろしいねぇ~。

 さて、昨日は、神戸のギャラリー・メトロで「三里塚写真展&野菜市」。高速神戸の駅の西口前にあるのですが、JR神戸駅やハーバーランドのある東口と違って、人通りがあるのかな~と不安を持っての準備。

 しかも、高速道路の「1000円」制度による渋滞のせいか、野菜が届くのが大幅に遅れ、準備を急いだけれど、開始時間に食い込んだ。所が何と、近くで卓球をしていたおばちゃんたちが、「野菜」「無0959_2 農薬?」とどかどかと入ってきた。入口の大看板(年末の野菜市のものをそのまま使った)のせいだ(右写真)。つられて近くのお店からも。売れる、売れる。「これどこから?」「みさとって何処?」とか賑やか。そのうち、何人かが写真を覗き、パンフレットを見てくれる。

 準備を続けていたら、どうも様子が変。予定より箱の数が多く。全部を調べて0959_4 みると、キャベツがやたらと多い。メモが入っているのが気づいて見たら、何と、8個の注文の所に35個も来ているのです。ギョギョギョ・・・。どうするのよこれ・・・。頭の中はパニック。

 「売るっきゃない・・」と腹をきめて、私は野菜の前に座って「八百屋さん」。山本先生が写真の説明に熱が入っている(左写真)。

 しかし、当初の不安はどこへやら。結構、ひとが入ってくる。しかも、「まだやってるんや」「こんなところに作るのが間違ってる」とか、「みんな頑張っておられるんですね。何にもできなくて」とか。「友人が若い時に逮捕されたよ」と、話しに結構花が咲く。極め付きは、元読売新聞のカメラマンという方が来られ、家で無農0959_6 薬野菜を栽培してるんだよと言われながら、67年ごろの御料牧場の話しや、77年から78年の管制塔占拠の闘いの折のカメラマンとしての奮闘を語ってくださる。「やっぱり神戸は都会やなぁ~」と、参加したスタッフが感心した一日でした。疲れた~。心配した野菜も半分以上売れてしまい(ダイコンが完売)、キャベツも何とか12個。お出でいただいたのは85人と、予想以上の大盛況でした。さあ、今日もこれから頑張ります。

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2009年5月 9日 (土)

5月11日、市東さんの耕作権裁判を傍聴しよう

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 来週の月曜日、5月11日午前10時半から、市東さんの耕作を不法耕作だといいなして、空港会社が農地を取り上げようとして起こした「耕作権裁判」の第11回口頭弁論が開かれます。

 今、国と空港会社は、暫定滑走路の新誘導路の供用開始をこの7月下旬、そして滑走路の北延伸部分の供用開始を当初予定の来年3月(これ自体が許せないが!)を前倒しして、この10月下旬と公表し、先日4月22日には、萩原さんはじめ東峰6軒を戸別に「説明」と称して訪問した。

 金融恐慌のあおりを受けて便数が激減し、しかも、羽田空港の拡張、国際化が進められる中で、暫定滑走路北延伸自体の根拠は失われている。にもかかわらず、なぜ、「前倒し」なのか。成田空港の存在価値が、2014年終了と言われている米軍再編の中で、辺野古、岩国などと並び最も重要な位置を占める極東、朝鮮半島有事の巨大な米軍(少なくとも50万と言われる、その兵員と物資、武器)受け入れの空港だからだ。東峰部落が存在し、市東さんが存在すること自体が許されないからだ。三里塚闘争が存在し、三里塚反対同盟が44年間も闘い抜いていることなど到底許されないからだ。

 しかし、三里塚反対同盟の44年にわたる闘いの前に万策尽きた国、空港会社には、かってそうだった以上に、国策をかざし、権力をかざしての脅ししかなくなったのだ。だから、農地法による農地取り上げ策動であり、何の緊急性もない「前倒し」なのだ。要するに、市東さんに、東峰部落に「出て行け」と露骨に脅すことしかできなくなったのだ。

 三里塚現地おける「徹底非妥協」「実力闘争」を掲げた三里塚反対同盟の闘いと一体となった市東さんの農地をめぐる三つの裁判と天神峰現地闘争本部裁判の闘いが、この敵・国家権力の「脅し」の無力さを突きつけているのだ。だから、市東さんの裁判の決定的な重要性があるのだ。たとえそれが敵・国家権力の側の土俵であろうと、追い詰められているのが国・空港会社なのだから、その土俵をも使い切り、国・空港会社を最後的に追い詰め、勝利の展望をこじ開けようというのが反対同盟の方針だ。このことを、「前倒し」攻撃との決戦局面に入った今だからこそ、しっかりと確認しよう。

 さて、耕作権裁判というのは、空港会社が不当にも農地法によって天神峰、南台(最初の写真の農地)の二か所の市東さんの農地に対して耕作権解除のPhoto 申請を行った。その時に、農地法適用を不法に使うために農地取得の事実を誤魔化そうとするあまり、肝心の農地の特定を誤るという決定的なミスを起こした。しかし、もともと不当、不法なこの申請を維持するために、何と空港会社は、「居直り強盗」然に、残った農地は、市東さんが不法に耕作していたのだと強弁してこの「耕作権裁判」を起こしたのだ。

 右の写真が南台の土地周辺。D(地番41-9)の部分に接した下側(南)が石橋元副委員長の土地と天神峰現地闘争本部を囲むフェンスで、右下端に細くあるのが、最近いつもデモが終了する道路だ。市東さんが耕している農地は、白い太い線で囲まれたA、B、Cの部分。Dは石橋家の立木の陰に隠れ陽が当たらないために畑にならず、石橋が立木の苗などを植えていたことが証言されている。当然、市東さんは親子3代90年にわたって一度も耕したことがない。所が、空港会社はこのDとBを市東さんが賃貸借契約した土地だとした上で、A、Cの土地は賃貸借していないから不法耕作だと断じて、裁判を起こし、市東さんに農地の明け渡しを求めた。これが、07年2月に開始され、11日に第11回口頭弁論が開かれる「耕作権裁判」なのだ。

 当然にも市東さんは、A、B、Cを一体のものと考え耕すとともに、地代を払い続けてきた。このことを根拠に、同盟弁護団は、農地を一体のものと考えるべきものを分離する空港会社側の主張の不自然さを批判するとともに、その前提となってい081020_2 るD(41-9)の土地を市東さんが耕したことがないのに契約の土地だと強弁する空港会社に対して、訴えそのものの不法、不当性を明らかにするものとして追及し、それが耕作権裁判の現在の最大の争点になっている。(左の写真はCの畑でピーマンを収穫している昨年10月20日の援農の様子で、右のフェンスとピーマンの畑の間に雑草の生えた更地が見える。これがDの土地だ。立木の陰になっているのがわかるでしょう。)

 このことは、耕作権解除の申請、そして成田農業委員会の申請の受理と決定、そして千葉県農業会議の審議と千葉県知事の許可決定すべてが違法であり成り立たないことが争点となっているということなのだ。だから、行政訴訟と農地法裁判二つの併合が市東さんと同盟弁護団によって求められているのである。この二つの裁判が正当に進むならば、そもそもこの耕作権裁判は存在しえないということにもなる。そういう争いになっているのだ。

 先日の行政訴訟などの後の記者会見で、弁護団から、実は天神峰の畑の方にもこの「41-9」と同じような問題があることがわかり、面白くなってきたとの指摘があった。明らかに、市東さんの裁判は押している。そして、天神峰現地闘争本部裁判は、この「前倒し」攻撃の意、国家の意志を受け、「国策裁判」として結審を強行しようとした仲戸川裁判長の意図は粉々に砕かれ、先日、北原鉱治反対同盟事務局長の証言が丸一日かけ堂々と勝ち取られた。

 こうした全てを作り上げてきたのは、市東さんをはじめ反対同盟の現地の闘いと一体のものとして取り組む実力闘争の方針と、同盟弁護団の踏ん張りであるとともに、われわれ支援の傍聴闘争だということを行くたびに実感する。とりわけ4月以降、新しい千葉地裁の法廷601号が70人を収容するため、傍聴席の圧力が確実に裁判長どもを追い詰めていることが実感できる。ぜひ、傍聴に駆け付けよう。

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2009年5月 8日 (金)

明日から神戸で三里塚写真展&野菜市

Save0007_2  明日から、神戸で三里塚写真展が開かれます。この2年間、関西実行委員会として三里塚現地にいく度も入り、カメラマンの目で撮った写真の中から選んだ作品、約20枚を展示します。

 同時に会場では、三里塚反対同盟が、44年の闘いの中で作り上げ、育ててきた無農薬有機栽培の現地から直送されてきた野菜、あおくび大根、キャベツ、玉レタス、サニーレタス、カブ、そして千葉特産の落花生などを販売しています。

 ぜひ、みなさんお出で下さい。

【とき】5月9日(土)~10日(日)・いずれも正午から午後6時まで

【会場】ギャラリー・メトロ(高速神戸駅西改札口左前・右下地図参照)

 お出で下さった皆さんには、写真を説明したパンフレット「三里塚写真展へのご案内」(B5版、12ページ)を無料で差し上げます。入場はもちろん無料です。三里塚の44年の闘いの中で、今、どんな闘いとくらしが営まれているか。そして、市東孝雄さんの農地を守ることがSave0008 どういうことなのか、じっくりとご覧になりながら考えてみてください。

 なお、神戸に引き続いて、5月13日~14日、淡路・洲本本町商店街/コモード広場でも、三里塚写真展が開催されます。詳しくは近づいてから・・・。

 幸い、明日からは天気がよさそうです。ただ、この数日の涼しさと雨に、千葉はどうなのだろうか、農作物に影響がないのだろうかと心配です。田植えが終わったころだとは思うのですが・・・。

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2009年5月 7日 (木)

今、何が起こっているのか

09314  去る3月14日、海上自衛隊の護衛艦「さみだれ」(写真左)と「さざなみ」が呉を出港し、ソマリア沖のアデン湾での「警備活動」を行っている(写真は、朝日新聞より。3月14日の呉港で)。

 そして航空自衛隊のP3C哨戒機のこの海域への出動が準備されている。

 先日の朝日新聞の「オピニオン」欄に、伊勢崎賢治さんの「憲法9条は日本人にはもったいない」と題する対談が掲載された。そこに「イラク派遣はもちろん、インド洋沖の給油活動も違憲だと考えます。ただし実質的には戦争への協力ですが一応は『世界益』を装っている。ソマリア派遣に比べればまだまし」「今回の9条の根幹に挑戦する国益を掲げた海外派兵に、彼ら(護憲派)の批判精神が反応しません。日本人を助けるためだったらしょうがないと考えるのだったら、もう護憲運動は崩壊してしまいます」と語っている。「世界益」には異論があるものの、全体として一考に値すると思った。

 さらに、4月28日には、地元関係自治体へも何の通告もなく迎撃ミサイルPAPhoto C3が、滋賀県饗庭野にある航空自衛隊第4高射群第12高射隊に配備が強行された。先日の朝鮮民主主義人民共和国によるロケット(人工衛星)発射実験に対して、自衛隊が実戦体制がとられ、その中で首都と東北に配備された迎撃ミサイルだ(右写真。防衛省ホームページより)。

 軍事機密として正確なPAC3の能力などについては殆ど明らかにはなっていないが、射程距離はわずか10数キロから20キロ程度しかないと言われる。そうすれば万一ロケットに命中すれば、双方の残骸が半径数10キロの範囲にわたって散らばって落ちることが容易に予想される。そうすれば、市街地でなくとも住民の生命財産に甚大な被害が予想される。にもかかわらず、そうした情報は全く知らされないまま、「ミサイル」キャンペーンと戦争発動が行われた。軍隊は、戦争をするためのもので、人殺しの訓練はしているが、住民の安全を守る観点も準備もないということが言われてきたが、はしなくもそのことが明らかになった事態と言えるだろう。しかも、現在、PAC3は、三菱重工によってライセンス生産され、1発がなんと8億円。住民の生命財産を犠牲にして軍需産業が大儲けするということなのだ。

 こうしたことがどんどん行われる一方で、米軍再編が、辺野古や岩国の住民の生活と環境を破壊して推し進められようとしている。そして、他方では海賊対処法が国会で強行採決され(4月23日衆議院)、世界のどこへでも日本の軍隊が武装してでかけることが憲法9条を踏みつぶして可能となろうとしている。そして国民投票法による改憲攻撃が、憲法審査会の成立によって行われようとしている。

 朝鮮半島有事を想定した日米共同作戦計画5055が昨年、米軍再編の中の具体的部分を担うものとして策定が終わったと言われている。すでに先述した朝鮮のロケット発射に対する日米両軍の実戦態勢に見られるように、朝鮮半島を戦場とする体制が、着々と整備されている。在韓米軍の縮小と、米軍グアム基地の拡大強化もその一端である。しかも、それを60億円もの日本の税金を投入して全面的に支えるための「グアム協定」が先日4月14日に衆議院で議決が強行された。

 日米共同作戦計画5055は、2008年に全面的な見直しが行われたとは言われるが、イラク戦争と同様、約50万から70万の米軍が、関連する膨大な物Photo_2 資や装備とともにアメリカ本土から一気に成田空港に降り立ち、瞬時のうちに日本全国の民間の空港、港湾を用いて配置されていく作戦計画だ。先の朝鮮戦争で重要な役割をすでにになった実績を持つ神戸港を中心とした関西圏が、関西空港の巨大化(2期滑走路)によって、その重要な分担をすることも明らかにされている。饗庭野へのPAC3配備は、正にこのことを念頭に置いて強行されたのだ。新たに1兆数千億円もの巨費を投じて関西空港に2本目の滑走路を建設する必要性など、現状の関西空港の経営破たんを見るまでもなくだれの目にもないことは明らかだった。ただただ、この米軍再編の中での日米共同作戦計画5055の整備の上で必要であったにすぎない。そして神戸空港と大阪空港が整備されたことによって、日米両軍の専用空港としての関西空港の機能が可能となったのだ。また、大阪港、神戸港を「阪神港」として国によって一体運用することが昨年から始まったが、これもまた、兵站拠点としての神戸港を中心とした大阪湾全体の軍事的機能の強化を目指したものであることは明らか。

 私たちは、こうした具体的にすでに始まっている米軍再編を基軸とする戦争体制構築に対して、大阪湾を取り囲む、いや近畿全体の、そして全国の労働者、市民の広範な闘いを作っていかなければならない。三里塚とともに、沖縄とともに、岩国、横須賀、厚木など全国の反戦・反基地を闘う人々とともに、関西空港の軍事使用を認めない闘いを軸としつつ、起ちあがろう!

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2009年5月 4日 (月)

9条改憲を許さない5・3共同行動

0953

 昨日、5月3日、「9条改憲を許さない! 5・3共同行動」の集会とデモが大阪で行われました。

 これで3年目になる「5・3共同行動」に、これまでで最大の座れ切れない人が出る260人が結集し、熱気ある集会が、そして難波周辺の多くの買い物客の注目を集めるデモが行われました。

 集会は、三日前に急逝された集会呼びかけ人の一人でもある川村賢市さんを偲んで黙とうを捧げて始められました。冒頭、主催者を代表して新開純也さん(9条改憲阻止の会・関西)から、この3年間の動きと闘いを振り返りつつ「潮目を拡大していこう」と提起された上で、①6・14東京、10・12大阪、10・18京都の共同行動の取り組み、②総選挙に対する改憲に反対する政党、個人への投0953_2 票、③反貧困、反差別への闘いの取り組みが訴えられました。

 「東アジア・『在日』・沖縄から学ぶ平和憲法の創造 -憲法改定の本質は何か-」と題して、弁護士の丹羽雅雄さん(右写真)から講演が行われました。丹羽さんは、まず最近10年を概観された上で、憲法の「平和主義」の原点として、敗戦の歴史の中からの日本民衆の意思であるとともに、東アジア民衆から突き付けられた規範でもあるとされた。その上で、平和憲法の理念が空洞化されてきた主な要因を、天皇制、歴史の封印ともいうべき戦後政治と沖縄処分、そして平和を経済発展の手段としてきた経済優先主義の問題などを明らかにされた。そして憲法9条と日米安保体制、有事法制の戦後史を概観した上で、自民党新憲法草案との対比を具体的に示しながら、自民党の「改憲」攻撃が、現憲法の否定、新憲法の制定であり、人民の憲法制定権力の侵奪であり、立憲主義の崩壊をねらったクーデターだと断じられた。そして、東アジアの平和と人権保障の共同体構築の視点として、東アジアと在日、沖縄の視点、「沖縄を沖縄に返せ」、あるいは「殺すな、殺させるな、殺されるな」と語りかけられ、憲法9条改憲の動きを、アジアに、世界に発信し、アジア民衆協働の改憲阻止の闘いを訴えられたのです。短い時間に圧縮された中から、「過激に」(仲尾宏呼びかけ人の集会のまとめ)呼びかけられたその提起は、会場を一つにし、熱気にあふれさせまし0953_3 た。

 替え歌のアトラクションと、工藤美彌子さん(浄土真宗東本願寺僧侶・左写真)の演奏と歌が続き、集会をさらに盛り上げます。

 休憩の後登壇した服部良一さん(参議院議員山内篤信公設秘書・右下写真)は、「グアム協定」「国民投票法」などの国会での動きを紹介され、憲法審査会が開かれてもおらず、詳細が何一つ決められていないにもかかわらず、総務省がリーフレットをすでに500万部も配布していることを批判された。さらに沖縄の辺野古基地の埋め立てが、2千万立方メートルを超える砂、とりわけ深さ1メートル、幅100メートルの海砂を沖縄の海岸170キロ(沖縄の海岸線の3分の1)から奪い取ろうとしている破壊の問題をあげて、辺野古新基地反対への取り組みを訴えられ、来る選挙への決意と支持を訴えられ0953_4 た。

 集会では、さらに闘いの現場から、松下プラズマディスプレイ偽装請負事件訴訟原告の吉岡力さん、「君が代」不起立処分当該、門真市立第3中学教諭の川口精吾さんから闘いの報告とアピールを行われた。また、お父さんの御不幸で来られなくなった国鉄労働組合熊本闘争団大阪事務所の蓑田浩司さんをご紹介した上で、全日本建設運輸連帯労働組合の近畿地方本部執行委員長の戸田ひさよしさんが登壇され、市議を「首」にされたご自身の闘いなどを簡単に話された上で、亡くなられた川村賢市さんへの追悼と想い出の言葉を語られました。また、集会には前日葬儀を終えられたばかりの川村さんのおつれあいの洋子さんが会場に見えておられ、ご紹介が行われました。0953_5

 最後に、呼びかけ人の仲尾宏さん(10・21反戦共同行動実行委員会代表世話人)から、この日の取り組みが成功したことの確認と、これからの闘いへの広がりを作っていこうという訴えが行われ、全体で、インターナショナルを斉唱して、デモに出発しました。

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2009年5月 3日 (日)

今週の産直野菜 つづき

0953 昨日の産直野菜が来たのは夕方。結構、日照りがあったなかをクロネコさんの車の中で過ごしたため、葉っぱ類が軒並みダウン。さすがにサニーレタスだけは少し水をやってから写真を撮りましたが、ほかはしおれたまんま。

 一晩、小松菜とカブ、大根の葉っぱを水につけていたら、左の写真のように元気になりました。萩原さんからお聞きしていましたが、これほど違うかと。やはり、三里塚の野菜は元気です。サニーレタスは、残念ながら、昨夜の夕食と、今朝の朝食で、すでに私のおなかの中です。Photo

 右の写真が、昨日、撮った写真ですが、比べてください。

 さあ、今日は改憲阻止にむけ、今から大阪の集会に参加します。

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2009年5月 2日 (土)

今週の産直野菜(5月2日)

0952  今週の産直野菜が届きました。春大根とカブ、小松菜、サニーレタスの4品。「野菜だより」にも、「今日のケースはちょっとさみしい・・・」とありますが、ホントさびしい。まあ、我慢の時期です。みなさん。サニーレタスも小さいし、入るかなと楽しみにしていたラディッシュもまだ・・・。ほうれん草も見送られた。ほんとに「端境期・・・」のようですね。

 この報告が遅れたのは、川村賢市さん(全日本建設運輸連帯労働組合近畿地方本部副委員長)の葬儀があったからです。ほとんどの方が「えっ!」と思われるでしょう。先日の関生フェスタでも、元気に先頭で頑張っておられた川村さんが30日、急逝されたのです。労働運動で、反戦運動で、人権運動で、様々な取り組みに、元自衛官という立場も使われながら、先陣を切ってこられた川村さんが、その闘いの最中に倒れられたことに、本当に多くの人々に衝撃があったろうと思います。今日、大阪のご自宅の近くの「神路ふれあいセンター」で、神式0952_2 のお葬式が営まれました。故人をしのぶ、本当に多くの方々が参列されました。川村さんの闘い半ばで斃れた悔しさ、無念と闘いへの激しいご意志を、私たち一人一人のものにして、この国を変えていかなければと、あまり深いおつきあいはありませんでしたが、心に刻みながら祈らせていただきました。

 0951 また、昨日は第14回被災地メーデーが、神戸の湊川公園で開かれ、参加してきました。いつもの通り関西合同労組のブースにお邪魔。ここでは、被災地雇用と生活要求者組合のみなさんも一緒に、奄美料理とおでんの販売。近くでは国労闘争団の物販も。いろいろ付き合いもあり、それぞれに気を使いながら、買い物とビールをたらふく飲んで、春の日照りの中でひと時を楽しみました。親しくしている「はるまきちまき」さんなどの演奏や講釈や曲芸、ちんどん屋など多彩0951_2 な出し物を楽しみながら。

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