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2009年1月31日 (土)

辺野古の海を守ろう

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 何ができるわけでもないのですが、一度訪れてみたいと思っていた辺野古の座り込みの現場に伺って、27日から29日、延べ10時間余りテントに座らせて貰いました。

 座っておられる方々から「海を殺すな、ジュゴンを守ろうという地元のみなさん09128 の想いは、米軍は出て行ってほしいという基地撤去の県民の思いと重なって全県的な闘いだ」「日本軍、米軍に支配されてきた130年の沖縄の歴史が、新しい基地を造らせないことによって新しい時代を迎えることができる」などの想いを聞くことができました。(右は引き潮で干あがったテントの前の海。中央の上の方に点が見えるのは人で、そこまで歩けるのです。)

 平良悦美さんは、「ここの闘いで泳げるようになった。カヌーも漕げるようになった」「おかげで腰も直ったし、力のない腕にも力が」と微笑みながら話される。そして「日本中から、この海に潜りに来てほしい」「もぐればどんなに素晴らしい海だかがわかる」と。「この島から飛んで行ったB52などの飛行機が、ベトナムをはじめイラクなどで人殺しをしている。子供たちを殺している。それを止められ09127_2 ない私たちは加害者だ」「新しい基地を作ってその罪を拡大しようとすることなど許せないし、止められるんだと思い、座りこんでいる。カヌーを漕いで、もぐっている人を守り、調査船などに食らいついていくことはできる」と華奢な身体のどこにそんな力があるんだろうかと思わせる激しい想いを語られました。訪れた若い人たちに、「私は弱い。しかし、弱ければ弱いなりに闘うことができるんです」と話されていたのが印象的でした。

 左の写真は、米軍基地、キャンプ・シュワブとテントのある小さな漁港との間におかれた鉄条網にかけられた「新基地建設反対」の様々な思いを書いたハンカチなどが結ばれています。島の位置あたりが新基地を作ろうと目論まれている辺野古崎。そのあたりから、右上の写真の水平線に近い所に白い波がずっとたっています。サンゴの壁があってその先は一気に深くなるそうです。そしてそ09127_3 のサンゴの壁が中の海の様々な生き物を守っているのだそうです(テントの「村長さん」から聞いて・・・。)

 いろいろなサンゴ、ジュゴンをはじめ本当に珍しい生き物たち、モングローブの森、などなどこの辺野古周辺と大浦湾を破壊して、「普天間基地移設」というペテンを弄して、米軍再編の軸としての巨大な新基地が、もともと米海軍の計画にありながらその巨額な費用のゆえに断念されていたものが、日本政府の財政出動(私たちの税金だ!)によって建設されようとしているのです。

 日本政府は、岩国でもそうであったように、辺野古の村を、人々をカネと権力でずたずたにしながら、基地建設を進めようとしています。米軍再編とは、一方でそうした暴虐な日本帝国主義の生き残りをかけた「血なまぐさい」政策なのです。日本による沖縄への差別と分断の歴史を、今一度この闘いに関わることを通して見据えようではありませんか。訪れたテントの中で、「沖縄を切り捨てることで戦後憲法は生まれた」「天皇条項(1条~8条)と一緒にある9条。この憲法を沖縄はどうみるのか」「従軍慰安婦問題など沖縄自身の加害者性も考えなければ」といった会話が交わされていたのに感銘を受けました。

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2009年1月30日 (金)

沖縄へ 26日~29日

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 1月26日から29日まで、「3・15米軍再編と闘う」集会の準備を兼ねて、3人で沖縄を訪れました。辺野古や高江で座り込んでおられるみなさんをはじめ、知花さんや安次富さん、平良さんご夫婦など多くの皆さんに支えていただいて、本当に貴重な経験ができました。

 訪れた26日には、早速知花さんに座喜味城跡とチビチリガマを案内していただきました。座喜味城のやさしいたたずまいに、思わず異国「琉球の国」を感じ09126_2 ました(上写真、立っておられるのが知花さん。写真の米軍基地を撤去させ取り戻した読谷村を眺めながら説明いただいた。) 

 チビチリガマ(右写真は、入口)についても後日詳しくご報告できればと思いますが、知花さんは奥まで入って説明をしていただいた(左写真)上で、「チビチリガマから世界へ平和の祈りを」と書かれた碑の前で、一人ひとりのお名前を差しながら詳しい説明をしてくださいました。生後3か月から12歳までの子どもが半数の40数名おられる、この人たちの死が「自決」だろうかと。そして残った大人たちも生きながらえるためにこのガマに潜んだのだと。その人たちが09126_3 「自決」し、自分の子供たちを殺していかねばならなかった皇民化教育と日本軍を通して作り上げられた観念によって生み出された「集団自決」は、あくまで括弧「」をつけざるを得ないと絞るような声で話されたのが忘れられません。

 29日、高江に行って那覇空港に戻るのに少し時間があり、辺野古にもう一度寄ることができました。テントでの座り込みにお出でになっていた平良悦美さんとしばらく話すことが出来たのですが、その中で彼女は「自分から皇民化への道を選びアイデンティティを失った修(つれあい)が、戦後つれあった50年の間、どれほど苦しみもがいて、自分の失ったアイデンティティを取り戻そうとしてきたか」と語られ、「私たち日本人は、まずこの130年の歴史を謝罪しなければなりません」と想いをこめて語ってくださった。

 27日の午前中は、辺野古に向かい、テントで座り込みながら来ておられる方09127 たちのお話しを伺いました。そして、昼から高江の「ヘリパッド移設建設」に反対して座り込んでいる住民を「通行妨害」としてその禁止とテントの撤去を求めた沖縄防衛局の仮処分申請に対する第1回の審尋が那覇地裁で開かれるというので、直行しました。200人あまりが結集し、怒りの声があげられました。住民が抗議行動することは基本的な権利です。余りにも横暴な防衛局の主張と、審尋の中で早くも明らかにされたデタラメ、ずさんきわまる内容に、思わず三里塚の市東さんへのNAAの主張を連想せざるをえませんでした。この現場で、神戸空港の住民投票の時などにいく度も来て下さっていた建築家の真喜志さんに、10年ぶりくらいにお会いできて感激。09127_2

 28日は、二人は帰って、独りで辺野古に赴き、一日、テントに座り込んで静かな海を眺めて本を読みながら、集まられた皆さんの会話に耳を傾けていました。憲法9条と天皇条項の問題が、沖縄の「加害性」に関連して話されていたり、沖縄での状況の中で「従軍慰安婦」の問題が話されたり、聞いているだけでも楽しかった一日でした。

 29日は、ヘリパッドに反対している高江の座り込みの現場へ。辺野古からさ09129 らに1時間余り車を走らせます。出るとき読谷では晴れていたのですが、高江では朝5時からすでに土砂降りの雨だったとか。第4ゲートのテントをまず訪ね、それから第1ゲートのテントで佐久間さんの話しを伺いました。5年前に大阪から辺野古にきて、そのまま座り込みを続け、昨年から高江で座り込みを続けておられるのです。沖縄で一番自然が豊かでいろいろな希少生物が発見されている「ブロッコリーの森」をその近くから見て、さらにH地区に。パパイアの畑が散在する現場を見て、辺野古に立ち寄り、那覇空港へ向けて帰路につきました。疲れはしましたが、本当に実りの多い訪問でした。ありがとうございました。

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2009年1月21日 (水)

市東さんの農地取り上げ違憲行政訴訟 第6回公判

09120_2  (公判前の裁判所前に駆け付けた同盟、支援のみなさん)

 昨日、1月20日、千葉地裁で市東さんの農地取り上げに抗して市東さんが原告になって闘われている違憲行政訴訟の第6回公判が開かれました。

 法廷では、「土地収用法で取り上げられなかった農地を農地法で取り上げることは、憲法違反である」とする原告側準備書面(8)を一瀬弁護士が、「被告千葉県の釈明に対する7点にわたる全面的な反論」である同準備書面(9)が葉09120_4 山弁護士から明快に概略が述べられました。裁判長は「それで原告の主張は全てですか」と早く終わりたいという意志を隠そうともしません。しかし、被告千葉県の確信のない、姑息な釈明と裁判所の露骨な訴訟指揮を、原告である市東さんと弁護団の奮闘が圧倒し、勝利的に裁判を進めていることが傍聴席にも 伝わってきます。

 公判後開かれた記者会見と報告会で、まず市東孝雄さんは「2月3日にまた、3つ目の裁判として新しい裁判が起こされます。それは今日の行政訴訟と裏表の関係なんですよね。ですから、皆さんも大変でしょうけれども、2月3日、裁判所の周りをいっぱいにするような、そういう闘いにしたい」と訴えられました。

 同盟を代表して北原鉱治事務局長は、「手前たちが作った法律を無視して土地をとっちゃう。09120_5 農地を守る権利がある」「裁判闘争は徹底的に闘います」「43年を振り返ってペテンとごまかしだ。実力で闘うしかない。当然の権利ですよ」「現地において、当然の権利があるのだから、体を張って闘う。そこに活路がある。強制収用、代執行は必ずやってくる。大木よね。地下壕戦。開港阻止決戦」「全国の農民がいきれるかどうかがかかった一つのひな型だ」「農地が勝手に奪われる、そのひな形として市東さんの土地を奪おうという陰謀だ」「もう一度、第一歩から新しい闘いを作り出そう。未来のある社会にしましょう」「全国に呼び掛けて、日本列島の農民の決起を」と迫りくる決戦への決起を呼びかけられました。

 最後にまとめに立った萩原進事務局次長は、「2月3日の裁判を反対同盟としては重視する」と提起された上で、「事業認定による立ち退き攻撃、成田用水攻撃などを通した三里塚闘争破壊の攻撃だった」と総括しつつ現下の裁判をはじめとした攻撃を位置づけられ、絶対に許されないと語られました。そして「代執行を迎え撃つという闘いを展開せざるを得ない」とされた上で、「『あまりにもひどい成田の裁判』ということをそういう闘いの中で示して行き、民衆を獲得し、陣形を作って09120_6 、代執行を迎え撃つんだ」「市東さんは流血も辞さず闘い抜くと決意を述べてます。今の時点で市東さんにそういうことを言わせたら駄目なんですよ。我々が実力でもって闘うから市東さん見ていてくれ。そういう中で闘い抜いていくんじゃないのか」「そういう陣形を作って行こうよ」と厳しく三里塚陣形、支援のあり方を訴えられました。

 2月3日、三里塚反対同盟は午前9時から千葉市中央公園での集会とデモを行ってから、この日の明け渡し訴訟第1回公判(午前11時から)に臨む方針を固めておられます。関西からも全力で駆け付けましょう。

 また、この日の裁判に臨む上での要約の資料が「市東さんの農地取り上げに反対する会」ブログhttp://www.shitou-nouchi.net/2009/01/120-8fd5.htmlに掲載されておりますのでご覧ください。  

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2009年1月19日 (月)

関実・団結旗開き

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 昨日、1月18日、神戸学生青年センターで関西実行委員会の「09年団結旗開き」が、安藤真一関実事務局次長の司会で、70人余りが参加して開催されました。冒頭、4日前に亡くなられた三浦五郎さんに全体で黙祷を捧げました。

 先ず関実(主催者)を代表して永井満関実代表世話人より「今年は市東さん09118_5 の農地をめぐる決戦の年だ」「関実あげて全力で闘い抜こう」と挨拶が行われた 後、三里塚反対同盟から北原鉱治事務局長、市東孝雄さんお二人の挨拶がありました。

 10年ぶりに関西に来られた北原さんは、14年前の阪神・淡路大震災から説き起こされ、「戦争になれば労働者は食っていけるのか」「他力本願ではだめだ。自ら決起して世の中を変えなければならない」「闘わなければ生きていけない」「若い人たちの未来のために三里塚闘争を勝利させなければならない」「関西の皆さんと一緒にがんばりましょう」と呼びかけられました。

 続いて立った市東さんからは、来る新幹線の車中で反対同盟と関実の30年を超える共闘の歴史を北原さん09118_6 から聞かされたことを紹介しながら、「裁判闘争を現地での攻防と一体のものとして考えている」「少数だけれども、同盟は誰一人負けてるという感じを持っていない」 「関西から大変でしょうが3・29に結集してください」と訴えられました。

 山本善偉関実世話人の「勝利のために乾杯」という乾杯の音頭の後、賑やかな旗開きが続けられました。

 10数年ぶりに参加された部落解放同盟全国連合会の中田潔書記長、被災地雇用と生活要求者組合の長谷川正夫代表、泉州住民の会から国賀祥司泉佐野市議と年頭の決意をこめた挨拶が続く。

 とめよう戦争・百万人署名運動兵庫県連絡会の梶原さんが扇子をかざしながらのアメリカの戦争、憲法9条に関連したトーク(落語?)を披露。全学連の学生から「史上空前の大弾圧」を跳ね返しての闘いと決意が烈々と語られた。高槻医療労働組合から吉岡さんがギターを弾きな09118_7 がら自慢の歌を数曲披露。関西合同労組関トラ分会の辻本さんから報告と決意の表明が続く。

 劇団ほうき星(風をおこす女の会)が、北原事務局長も引っ張り込んでの熱演。音響がおかしくなったりのトラブルを乗り越えて、北原さんも楽しそうに(右写真)演じられた。最後に遠路参加いただいた全国連狭山支部09118_8 の井田さんから報告と挨拶が行われました。

 ここで全体が丸く輪になって肩をくみあい、反対同盟歌を全員で歌って、団結ガンバローで最後に締めて、次は、「3・15 講演とパネルの集い 米軍再編と闘う-三里塚・沖縄・岩国・関西を結ぶ」を成功させ、3・29三里塚現地闘争に総決起することを誓い合って旗開きを散会しました。

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2009年1月16日 (金)

1・11反対同盟旗開き 萩原進事務局次長の挨拶

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 おめでとうございます。今日は、みなさん一人ひとりが発言したくてうずうずしていると思います。それほど今日の情勢が、確実に現実の世界の中で急展開しているわけです。そういう中で旗開きを迎えられるということは、文字通り喜びを持って迎えたいという風に思います。

 反対同盟の闘争宣言、そして北原さんの発言の中に全部網羅されております。食事を前に、若干時間をいただきたいと思います。昨日の動労千葉の旗開きに参加させていただいて、盛大な旗開きを体で受け止めて、本日躍動して参加しております。

 多くの労働者が、首切りや、あるいはこの寒空に路頭に投げ出される、そうい09111_2 う時代を招いておりますけれども、今、本当に、テレビ、あるいはマスコミでいわれておりますけれども、われわれの言葉以上に過激な表現で書かれていると思います。そこで言われている「百年に一度の恐慌」だとか「かってないリストラ」いうような形で表現されておりますけれども、文字通りそういう意味では、暮れにちょっとでましたけれども、「パーフェクト スコール」という言葉で表現された記事がでました。「究極の嵐だ」と。1991年、アメリカの東海岸の沖で3つの暴風雨が重なり合って、波が30メートルを超える大波が襲ってきた。これは現実にあったことが映画にもなった。そういう形で表現されております。アメリカから発した恐慌が、ほんの2、3ヶ月の間に全世界を駆け巡って、あのトヨタが、2兆円を上回る利益を出していたのが1年で赤字に転落する。どんなマジシャンだってこんなこと出来ないですね。自分は「トヨタをぶっつぶせ」と言ってましたけれども、先にギブアップされては、まだ困るんですよね。まだまだこれから追及していく、攻撃をかけていく、そのような闘いを展開したい。

 商品が出口のないかたちで今日存在せざるを得ない。新自由主義の政策をとって、資本の新たな流動的なものとしてグローバリゼーションとかいろいろ政策をとってやってきましたけれども、みな破産したんだと。その結果が、今日こういう形で現れている。それが、全世界で同時に、そして広く表面化している。このことの現れは、資本主義の終わりが今始まったんだということを認識していいんじゃないんかという風に思います。

 であるならば、われわれの闘いをどういう形で組んでいくのか。生きるためには支配階級は、露骨な、あるいは過激な攻撃をかけてくるだろう。しかし、余裕があってわれわれに襲い掛かってくるのか。決してそうじゃない。我々42年闘い抜いて、こうやって立ってる地平というのは、最初に新たな希望を持てる年として迎えられると言いましたけれども、42年間闘い抜いた成果がほんとに現れ、出てきたんだという風に思います。こういう闘いが、あらゆる戦線が反対同盟とともに闘い抜いていただいて、しかもそういう中で、労働者である動労千葉を先頭にする労働者がこういう形で闘い抜いてきていただいた。その労働者が、今、文字通り「生きることが闘いなんだ」というところまでいきついできた。中間派的なもので生き延びようとしたって、絶対生き延びられないんですよ。資本に、権力にすがって、おこぼれをもらって生きようとしたって、もう駄目なんです。そういう時代は終わった。常識が常識じゃない、非常識が通るような時代なんですね。先に言ったけれども、あのトヨタが1年にして赤字に転落する。しかし、今までのもうけを絶対吐き出していない。彼らは彼らで生きるために隠して、労働者にやらない。そのために首切りをし、この場を逃げようとしているんですよ。彼らにその責任を一切取らせるという闘いを絶対にしなけりゃならん。それは、労働者、あるいは人民に対して、今、ここで1食の食事を与えることじゃなくてね、救済じゃないんですよ、こういう今日の事態を作ったその体制に対して、今は厳しいけれども、将来われわれは正しく、代表されるんだということを徹底的に追求していく闘いが必要なんだと。銀行が破産しそうになったとき、政府は日本の経済の中で銀行が潰れたら日本の経済はガタガタになる、労働者は明日09111_3 から食べていけませんよと言われた。しかし、そうじゃないんですよ。それにすがって行ったら、もっと上回る規模で労働者は死に押い込められる。その元を切らなければならない。我々の決意が本当に問われている。安易な妥協をしてはいけない。安易な方針を出してはいけない。文字通り、現実に即して闘い抜いていかなければならないと思います。それが42年間の教訓だという風に思います。

 そこから三里塚の現状を見た場合に、今年度は北延伸の工事が終了するんだ、来年春からの共用、成田空港は完成するんだ、日本の表玄関として存在するんだという宣伝を彼らはするだろう。またそういう形でしか言うことはできないだろう。しかし、見てください。2度も北へ、北へとおしやって、そこに滑走路を作って、そこに押し込めたのは、この間の闘いなんですよ。いわゆる「平行滑走路」といったて平行じゃないんですよ。新たな空港が別の方にできた、作らざるを得ない。本来であれば南側へもっていって、あのような誘導路なんて作る必要ないんです。あるいは、市東さんの畑、そういうものに今襲い掛かってきていますけれど、これがわれわれの闘いの真価として発揮できてるんです。こういう闘いでもって、今平行滑走路といってるけれども平行じゃない、あくまで「暫定」でしかない。こういうところに今押し込んでわれわれは勝ってるんですよ。そしてどんどんどんどん成田の空港が地盤沈下していく、それをわれわれは追及していくんだ。そして平行滑走路を切り離して廃港に持っていく。そういう闘いをやっていきたい。

 そういう中で市東さんの農地を守る闘いは、非常に大きな位置を占めている。一つは今日の司法の反動の中で、司法改革だという名の下に裁判がちゃんとした審理を行わずに、不当判決を出そうというのが三里塚の裁判で、ほんとに明らかになってきている。だって、地番が間違ってて、しかも土地収用法で取れない土地を、農地法で取る。土地収用法で取れないという、土地を取るための判決が一回出てるんですよ。取れないからと別の裁判をやる。二重の裁判をやって取り上げようとする。そのような裁判に対して、それは裁判自体がおかしいんじゃないかという、誰でもが気付くような裁判に作る。そういう司法反動に対する闘いが一つ。

 もう一つは、空港反対のスローガンである軍事空港という問題で、あの滑走路をつくらせないということでもって。成田では7月の末から9月にかけて国民保護法という名の下に5千名規模の自衛隊、警察、各自治体、そして関係の機関そういうものが集まって訓練がなされてるわけです。それとは別個に米軍が40万、50万、成田に来た時にその宿舎があるか、あるいは・・・・、そういうことが昨年の秋までに調査が行われているわけです。そういうことを市東さんは土地F を守ることをもって、あらゆる人民の戦争への動員を押さえてるんです。このことはものすごく重要なんですよ。自治体労働者、運輸労働者、医療労働者、あらゆる労働者の動員されることを、彼が土地を守ることで、一切の反動をはねのけて守ってるんだという、このことの重要性、その闘いの正当性ということがあるんですよ。

 もう一つは、土地を持つ、耕作するということ、耕作することが土地を守り抜いていくという農地法の精神の中で、それを転覆し、改悪しようとしているのが、今の通常国会で農地法の改悪を行おうとしている。このことに対する徹底的な闘いの最先頭に立っている。このことは重要です。農地は、支配者から我々農民が与えられたものじゃないんです。農民が戦後、食糧難のなかで、農民として決起して農地を自分のもの、権利として取ったんですよ。与えられたんじゃなくて、闘いによって勝ち取ったものを、今度は国のもんだというところに持って行こうとしているこういう悪辣な策動が今なされてるんです。これを徹底的に粉砕しなきゃならん。そのことは300万戸農家そのものを守る闘いとして市東さんの闘いが存在している。

 自分たちは、農地取り上げ反対と、もう一つは、結論的になっちゃいますけれども、あらゆる政策を打ち出し、実現しようとする支配階級が、これからやろうとするのは、もはや評論家も言ってますが、戦争でしかもうけが回復できないんじゃないのかいうところに右足が傾いている。一歩入ってるんですよ。それが田母神の発言とか文章とかに現れてくる。改憲と戦争と我々は対決しなけりゃならん。その闘いを勝たなきゃならん。軍事空港反対というのはそこにあるんじゃないのか。我々は農地取り上げを阻止する闘いを通してそれを阻止するんだ。そういう時代になっていく、そういう社会に対して対峙して闘っていく。恐慌と戦争、それに対して闘い抜いていく。そういう形でやっていきたいと思います。

 北海道のサミットでも、WTOでも入口で破産しちゃう。いつ再開できるかわか07830 らないという状況がある。戦争に向かっていくしかない。「足音」じゃなくて現実の意味でそういう政策をとっていくということの怖さ。それをわれわれはひしひしと感じて、捉えて闘い抜いていかなくちゃならんだろうと。今度は中国やインドが大国の間に入ってきて、WTOなんかまとまらない時代に入った。ますます全世界が一挙にそういう闘いの中に落ち込んでいく。そうであれば自分たちは、世界の労働者、農民との連帯を積極的に、そして勝利のために求めざるを得ないだろう。そういう中で、昨日は動労千葉の旗開きに参加して平成採が6人入ってきたという形で、非常にみなさん喜んでおりましたけれど、われわれは、成田、芝山の地域を限定しないで、日本の農民をどんどんどんどん獲得する。そして反対同盟に入ってもらう。そういう闘いを展開していきたい。

 韓国の農民も同じです。アメリカの農民も同じです。そういう農民と闘いを共有し連帯し闘い抜いていきたい。そういう意味では、壮大な闘いが展開される09年だという風に思います。

 そういう中で敵も必死になって空港を総仕上げしようという、そういう攻撃があろうと思います。しかし、今、市東さんの闘いとして裁判所というかたちで闘い抜いておりますけれども、現在においてはその裁判の闘争という風に見えますけれども、決してそうじゃない。現地闘争なんです。あの代執行の闘いを振り返って見ていただきたい。代執行がきましたからそこでスクラム組んで、さあ闘いました。そうじゃないでしょう。先ず砦を作ったでしょう。建物を作ったでしょう。そして我々は塹壕を掘ったんです。この塹壕はあのベトナムの農民につながるんだというかたちで、掘って掘って掘り抜いて、そして代執行を闘い抜いたんです。今、それなんです。今、裁判闘争をやってるのは、われわれはここにおいて砦を作って、城を作って、塹壕を掘って、そして市東さんの土地に手を着けるんだったら大変なことになるよという闘いを今やってるんですよ。裁判そのものとは別のことなんですよ。この闘いを粗末にしては絶対に駄目なんですよ。そういう闘いを本当に準備してコツコツと積み重ねることが必要なんですよ。正直言って市東さんの闘いは後れを取りました。慌てて慌てて、そして弁護士先生達の尻をたたいて。しかし、今、それ以上に支配者はひっくり返ったんですよ。その機に乗じて我々は突き進む必要がある。ほんとに地に足を付けて、文字通りノッシノッシと誰からもどこからも手を出せない確かなものをやっていく。そのためにも、三里塚はこういう形で労働者を先頭にしながらも、そしてあらゆる戦線とともに闘い抜き、沖縄の住民、そして関西の住民、全国の市民団体とともにあらゆる闘いを展開していきたい。それをもって09年の闘いをもう一歩飛躍して、具体的な勝利を勝ち取りたいと思いますのでよろしくお願いいたします。

 

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2009年1月15日 (木)

訃報 三浦五郎さんご逝去

 1月14日午前7時30分、三里塚芝山連合空港反対同盟本部役員の三浦五郎さん(享年96歳)が永眠されました。

 戦前戦後の農民闘争を闘い抜いて来られた三浦五郎さんは、三里塚闘争の中09115 で常に闘いの中軸にあり、寡黙ながら一貫して空港絶対反対の意志を貫いてこられました。

 神戸空港反対闘争にも、「神戸空港の中止を求める市民の会」の会員になってくださり、私たちを感動させました。「闘い」がわかる方でした。

 三里塚闘争の闘い半ばで斃れたことのご無念がいかばかりかと想います。心から安らかに眠られることを念じるとともに、三浦さんのご遺志を引き継ぎ、絶対に市東さんの農地を守り抜き、三里塚闘争の勝利の日まで闘い抜くことを誓うものです。

 三里塚芝山連合空港反対同盟より、三浦さんの葬儀について以下のように連絡が入っております。それぞれの皆さんが、弔電を送ってくださるようお願いいたします。

故・三浦五郎様 葬儀

【日時】 1月16日(金)18:00~ お通夜   /  1月17日(土)13:00~ 告別式  【場所】 八富成田斎場 0476-23-4511 成田市吉倉124-11

【喪主】 三浦義徳(よしのり・長男) 山武郡芝山町宝馬3230番地

弔電を送られる方は喪主の自宅か、斎場へお願いいたします。

(三浦五郎さんの写真は、「前進」新年号から転載させていただきました)

     

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1・11反対同盟旗開き 北原事務局長挨拶

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 お集まりの皆さん。こんにちは。今日、反対同盟の旗開きを開催するにあたりまして、振り返ってみると、足かけ44年目に三里塚闘争も入ります。今まで闘い続けてこれたことは、ここに集まった全国の皆さんが、一人一人、一丸となって三里塚闘争の勝利のために人生をかけて闘い抜いてくれたからです。私たちはこう思っております。

 昨年一年間を振り返ってみますと、多くのことがいろいろあります。だが43年09111_2 間の反対同盟のたたかいは、まったく一貫して闘い抜いてきた43年間であったと自負しております。

 それは常にみなさんがたの共有の闘いとして三里塚はあるからです。今年も、おそらく裁判闘争と現地闘争と熾烈を極める時期に入るでしょう。とりわけ市東孝雄の農地を取り上げる、しかもそれが農地法で取り上げるというのだから、ますます今の情勢そのものはどこへ向かっているのか、それを真剣に考えなければ日本の将来はなくなってしまうんじゃないのか、そんな感じがしてなりません。我々の手によってこのかたちを根本から変えない限り、決して人類の未来はないんじゃないか、いう風に感じられます。

 そのために今日ここに一堂に会して、そして44年目に入った三里塚闘争の勝利を目指そう。三里塚闘争だけでは勝利はできません。

 三権分立を証明する闘いは、今、全国の人民にかけられている問題ではないでしょうか。そういう意味で三権分立の証明をしっかりと代理人の方々にはたたかってもらって、そして国民が真の平和に到達するよう闘っていかなければならない、ということをお願い申し上げておきたい。

 09111_3 今日一日、現地において集会とデモ、現地闘争を闘い抜いて、今、同盟の皆さんと一緒にここに同席しています。今日一日、いろんな意見の交歓があると思いますが、是非ともその意見の交歓が三里塚勝利に結びつくような交流会であってほしいという風に考えております。

 今日、青柳晃玄さんから電話がありまして、今日是非とも参加したいんだけれども、出席ができないことを非常に残念に思っているようでした。

 今日一日、どうか三里塚闘争、全国が共有する三里塚闘争の勝利を目指すことは日本の未来を作る礎になるだろうと考えています。私も、みなさんともども年頭にあたって、闘うことを宣言して私の挨拶といたします。ありがとうございました。

(09年1月12日、三里塚芝山連合空港反対同盟旗開きでの北原鉱治事務局長の冒頭のあいさつ。1月18日の関実の団結旗開きに北原さんが久しぶりに来られます。ぜひ、お話しを伺うとともに大いに交流を楽しんでください。)

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2009年1月11日 (日)

1・11三里塚反対同盟旗開き

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 今日、11日、成田市で三里塚芝山連合空港反対同盟の新年団結旗開きが開かれました。関実の永井満代表世話人が出席し、あいさつを行いました。詳しいことは、「同盟ブログ」で報告されると思いますので、発表された闘争宣言を先ずお伝えします。

 闘争宣言

 わが反対同盟は恐慌と戦争がもたらす惨禍にこみあげる怒りをおさえること09111_2 ができない。

 資本は多くの非正規雇用の労働者を年越し前に路頭に放り出した。労働者のクビを切り賃金を引き下げる一方で、巨額の内部留保をためこんでいる。農漁民は生きる道を閉ざされ、医療・福祉の切り捨てが人々の命を奪っている。このさなかに、イスラエルは空爆と地上戦でパレスチナ人民を虐殺した。全世界で激しい怒りが渦巻いている。09年は文字通り闘いの年である。

 わが反対同盟は決意も新たに闘争を宣言する。矛盾の一切を働く者に押しつける自公政府・財界と闘い、改憲と戦争への道を阻止しよう。

 昨年、反対同盟は北延伸工事をものともせず、空港絶対反対・農地死守を不屈に貫き、空港会社と千葉県を圧倒する裁判闘争をうちぬき勝利した。

 見よ、空港のぶざまな姿を! 「へ」の字誘導路は直線化できない。欠陥だらけの北延伸は敗北の象徴である。平行滑走路は永遠に完成しない。空港会社も地元自治体・財界も、ハブ空港からの陥落と羽田の国際化にうちひしがれて、「年間飛行回数1・5倍化(30万回)」と「24時間運用」にしか生き残るすべはないと絶叫している。

 闘争43年、鍛えぬいた闘魂のもとで、わが反対同盟は自信に満ちている。

 「北延伸工事10月完成―来春共用」による生活破壊・闘争つぶしを断固とし09111_3 て粉砕する。民家上空40メートルのジェット飛行を許すな!

 裁判闘争は現地闘争と完全に一体である。収用委員会に代わって農地取り上げの前面に立つ司法反動を打ち破り、市東さんの農地を守り抜こう。

 FTAに反対し農業切り捨てと闘う農民の先頭に立ち、今通常国会における農地法改悪を阻止しよう。反対同盟は動労千葉と共に闘いとった労農連帯、沖縄や関西住民を始めとする広範な住民運動、市民運動との共闘をさらに強く発展させて闘う決意である。

 成田軍事空港建設阻止! 空港廃港へ。3・29全国集会に総決起しよう。

2009年1月11日          三里塚芝山連合空港反対同盟

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2009年1月 3日 (土)

大木よねばあさんの闘い

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 三里塚の43年を振り返る時、どうしても語られねばならないのが、71年9月20日の大木よねばあさんへの襲撃、よねさんの闘いだろう(最初の3枚の写真はいずれも、三留理男さんの写真集「三里塚-成田闘争の記録」より)。

 萩原さんの「農地収奪を阻む」に詳しく書かかれているので引用します。

 「9月20日、友納知事はこの日予定していた大木よねさん宅の代執行はしないと発表した。今日はないからというので・・・みんな引き揚げ、おれは家で脱穀71916_2 をしていた。ところが、それはわれわれを欺くためのウソだったのだ。だまし討ちだ。・・・・(略)・・・・一軒の家を取るのに、手続き上の話とか、机上のことで片づけられることではない。取香部落何百年の歴史の上に、何十年の生活がそこにある。一軒だということで、見せしめにやったという要素が強い。その民家の収用を初めてやったのだ。死人が出てもやるというのが彼らの方針だった。実際そういう扱いを大木よねに対してした。脱穀をしているよねさんに襲いかかり、歯を折ったり、盾に乗せて放り投げたりした。それはおよそ一軒の主に対する態度ではない。  普通だったら、土地を提供していただく、家屋をいただく、という話なのだ。それをまったく逆に白昼公然と強奪したのだ。要するに、今後反対してもこうなるんだよという、同盟に対する見せしめ以外の何ものでもない。国家の一農民に対する関係をこれほどあからさまに示すものはない。」(「農地収奪を阻む」65~66ページ)

 よねさんの戦闘宣言

 せんとうせんげん

 皆様、今度はおらが地所と家がかかるので、おらは一生懸命頑張ります。  公団や政府のいぬが来たら、71916_3 おらは墓場とともにブルドーザーの下になってでも、クソ袋とみのさんが残していった刀で闘います。 この前、北富士の人たちはたった二〇人でたいまつとガソリンぶっかけて闘ったから、ここで頑張れねえってことはない。              ここで頑張らにゃ、飛行機が飛んでしまうだから。              おら、七つのときに子守に出されて、何やるって無我夢中だった。面白いこと、朗らかに暮らしたってのはなかったね。だから闘争がいちばん楽しかったた。              もう、おらの身はおらの身のようであって、おらの身でねえだから、おら、反対同盟さ、身預けてあるだから、六年間も、同盟や支援の人たちと、反対闘争やってきたのだから、誰が何と言っても、こぎつけるまで頑張ります。                                 皆さんも、一緒に最後まで、闘いぬきましょう。

 

 9・20の闘いを前にして、よねさんは、8月31日に以上のような宣言を発していたのです。

 萩原さんの「農地収奪を阻む」によれば、このよねさんの闘いを引き継ごうと、よね宅の地下壕に入って闘おうとするのに、9・16戦闘直後でもあり「弾圧を拡大するだけだ」と同盟の一部幹部が血相を変えて反対したという。萩原さんたPhoto_2 ちは、その制動を振り切って、機動隊によるブルドーザーによる殺人攻撃をもものともせず地下壕戦を闘い抜き、逮捕された。

 この闘いを、萩原さんは同書の中で簡潔ですが、「あの闘いは、9・16 への反動の前にたじろぐのか、のりこえて前進するのかという問題をはらんでおり、それは後の『3・8分裂』にもつながる問題でもあった」と述べておられる。非常に示唆に富んだ総括ではないか。

 右の写真は、東峰部落の墓地に大木よねさんが眠る墓です。この墓の奥の木々の向こうはもう空港の駐機場で、空港用地の中にあり、死してなお空港を阻んでいるのです。

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2009年1月 2日 (金)

共闘と結集の砦 三里塚

71916  左の写真は言わずと知れた駒井野鉄塔(福島菊次郎写真集より)。71年9・16、この日の激闘を私は知らない。その4日前に、関西新空港の神戸沖案に反対して「東灘区住民の会」を結成したところだった。この日、私と友人のMさんは、住民の会の結成集会に来ていただこうと大阪空港航空機騒音公害訴訟団原告の豊中の高さんを訪ねていた。駒井野鉄塔が人々を載せたまま引き倒されるテレビの映像を見ながら、高さんが、「私たちのように犠牲者になってからでは遅い。また、(映像を見ながら)こうなる前に闘いを勝たないとダメだ」と言われたのを印象深く覚えている。ついでに書くと、私が初めて三里塚を訪れたのは、その翌年、72年の春だった。

 この闘いを振り返って、萩原進さんは、自著「農地収奪を阻む」でこう書いておられる(同書 65ページ)。

「駒井野の鉄塔は破壊されたが、決死的な抵抗の姿がテレビでラジオで全国の人々の耳目を引きつけた。そして、数々のテロ・リンチを繰り返し、わが物顔で三里塚の地をじゅうりんしてきた憎き機動隊の一大隊が壊滅したのだ。しかも膨大な人々がこの闘いに拍手喝采を送った。これが決定的だった。これは革命だ。既成の法律や秩序がひっくり返った瞬間だ。農民が実力で権力に抵抗する081005 ことが正義であると国民が承認したのだから。自民党政権はそれ以後今日まで代執行を強行することができていない」と。

 昨年の10・5全国集会の基調報告の中で、萩原進さん(右写真)は「三里塚の闘いというのは、いわゆる人民の共闘と結集の砦であるという風に自負したい」と述べて、迫りくる決戦への一大統一戦線の構築を呼びかけられた。この確信の基盤に、この駒井野の闘い、1971年の闘いへの想いがあることを強く感じた。

 さあ、2009年をそういう闘いを実現する歴史的な年としよう。米軍再編、改憲攻撃の節目と言われる2010年を前に、必ず実現しよう!

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