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2008年9月27日 (土)

何が「ごね得」か!

Photo  9月25日、国交相に前日就任したばかりの中山成彬は、報道各社のインタビューで、所轄する成田空港問題について「ごね得というか戦後教育が悪かったと思いますが、公共の精神というか公のためにはある程度自分を犠牲にしてでも捨ててもというのがなくて、なかなか空港拡張もできなかった」(朝日新聞報道)と放言したという。断じて許せない!

 ちょうど同じ日、千葉市中央公園で天神峰現闘本部裁判のために開かれた集会で、北原鉱治三里塚反対同盟事務局長は、マイクを取って道行く千葉市民に、「私たちはこの土地に住みたい、ここで農業をしたい、と言っているだけです。43年間、何も求めたことはない」と訴えかけられた。その通りだ! いったい、この43年間の反対同盟の闘いのどこが「ごね得」だというのか! 本来の農地と耕作者を守るためにある農地法を捻じ曲げ、憲法が保障する生存権、基本的人権、財産権をも踏みにじって農地を取り上げようとする千葉県、国に対して、市東孝雄さん(写真)は、「私は1億8千万円の補償よりも、1本100円の安全なおいしい大根を作って消費者に喜んでもらいたいのだ」と農業にかける熱い想いを語って、農地取り上げを拒否しておられる。一体全体、この市東さんのどこが「ごね得」というのだ! なにが「戦後教育が悪かった」というのだ!

 そもそも冨里空港案が3年にわたる冨里農民の怒りの声に破産し、1966年6月、成田空港案に行きついた佐藤政府が検討を開始し、何の地元への説明をすることもなく、公聴会や説明会といった一切の手続きもすることなく、わずか2週間で閣議決定をして、三里塚農民に一方的に「農地をよこせ」「出て行け」と「国策」を理由に突きつけてきたのはではないか! 佐藤栄作、日本政府のこのやり方自体が一切の元凶ではなかったのか。だからこそ政府自体が「ボタンの掛け違い」と言ったのではないのか。これのどこが「公共の精神」か! 冨里と違って三里塚の農民は開拓農民だから貧しいと機動隊の暴力と札束を投入して、43年間も脅し続けてきたのが何が「公」「公共の精神」か! 

 そもそも、この日、25日、公正な裁判を求める農民、三里塚反対同盟に対し、またまた機動隊を襲いかからせ、負傷させ、おまけに反対同盟農民を不当にデッチ上げ逮捕したのが、何が「公共の精神」か! 機動隊を導入して威喝する中で、実地検証を拒否し、農民や弁護団の声を一切無視して裁判長が法廷から逃亡するという無様な裁判が、いったいどこが「公正な裁判」というのか! 

 1971年9月21日、「今日はなにもしません」と言いながら大木よねばあさんに機動隊をして襲い掛かり、その居宅を破壊し、土地を奪ったのは誰だ! 1977年5月6日、裁判所と一体となって岩山大鉄塔をだまし打ちに倒したうえ、翌日、負傷者の救援医療にあたっていた東山薫さんをガス銃で狙い撃ちし、虐殺したのは誰だ! こんな暴挙は、挙げればきりがない。カネと暴力で、三里塚、芝山の農民の暮らしと村の共同性をずたずたに引き裂き、破壊したのは誰だ! こんなことを「自分を犠牲にしろ」「捨てろ」という国ならば、そんな国は倒すしかない! 断じて許せない!

 この中山成彬の暴言は、単なる「失言」などではない。三里塚芝山連合空港反対同盟が、43年間闘い抜き、成田空港の完成を阻み続けていることへの、日本帝国主義、国家権力、麻生政権の憎悪と敵意、そして消耗感を表明したものだ。しかし、それゆえに、今、法もかなぐり捨て、市東孝雄さんをはじめとした三里塚反対同盟に襲い掛かり、暫定滑走路北延伸攻撃、滑走路の3800メートル化による東峰部落の破壊、24時間空港化という住民の生活と生命を奪うものでしかない悪どい攻撃の宣言であり断じて許されない! しかも、それはすでに韓国の仁川(インチョン)国際空港に奪われている「ハブ空港」の位置を取り戻そうとする何の展望もない悪あがきでしかない。あるとすれば、すでに「パックⅢ」が配備されたことで示されているように米軍再編の下での巨大軍事空港化の攻撃であり、改憲と戦争体制構築への道であることは明らかだ! これを「公」であり、「公共の精神」というのか! ならば、われわれは三里塚闘争の爆発をもって、こんな中山成彬をはじめ、麻生政権、日本帝国主義を打倒する道へ進む。そこにこそ正義と大義があることはあまりにも明らかだということを、この中山成彬の暴言が明らかにしたのだ。10・5三里塚へ全力で攻めのぼろうではないか!

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2008年9月26日 (金)

強行突破をはかった国家権力・裁判所に抗議する!

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 早朝から千葉市中央公園で、「仲戸川裁判長は実地検証を行え」と、この日の天神峰現闘本部裁判公判に先だって集会とデモを行って裁判に臨もうとした三里塚反対同盟に対し、国家権力・裁判所は一体となって襲い掛かり、抗議した反対同盟の太郎良陽一さんを不当に逮捕、裁判では抗議を無視して実地検証を却下しようとした裁判長が激しい抗議に法廷から逃げ出すという事態が起こった。「09年北延伸・供用開始」のタイムリミットに追い詰められた国家権力・裁判所一体となったこのような襲撃、攻撃を断じて許せな08925_2 い。満腔の怒りをこめ抗議する。

 この日、裁判所がいつもと違う場所で「整理券」の発行を通告。そこに警察・機動隊が徘徊していることに抗議した反対同盟と支援に対し、警察・機動隊は部隊をもって襲いかかったのだ。裁判所構内ともいえる場所でのこのような暴挙に裁判所は、一切を無視して整理券の配布を叫び続けるだけ。明らかに裁判所が警察・機動隊を導入したのだ。怒った反対同盟と支援は、警察・機動隊に猛然と抗議を行った。右写真は、抗議する市東さん。写真左は、機動隊の盾に食らいつき抗議する鈴木加代子さん。30分以上にわたる抗議の闘いの中で、先頭で抗議してい08925_3 た反対同盟員の太郎良陽一さんを警察は10数人で襲い掛かり不当にも逮捕したのだ。

 始まった法廷で、冒頭、葉山弁護士から、今朝の異常な裁判所での警察・機動隊による事態は、裁判所が導入したとしか考えられないとして、裁判長に怒りをこめ釈明を求めた。仲戸川裁判長は、この要求を全く無視して当日請求されていた北原事務局長の陳述の趣旨を問いただそうとした。これに怒った一ノ瀬弁護士が猛然と裁判所の違法ともいえるこの事態の責任を問うた。仲戸川はこれをも無視して小さな声で「証拠調べがどう・・」と実地検証をも無視した訴訟指揮を行おうとした。怒った弁護団全員と特別傍聴人として法廷内に居た北原さん、萩原さんが裁判長席に詰めより、仲戸川の机を叩いて抗議した。弱々しくうつむきながら周りを見まわすだけの仲戸川は陪席の裁判官と繰り返し耳打ち話し。「そんなことは必要ない!」「答えろ」と傍聴席からも怒りの声が上がる。ほとんど聞こえないような小さな声で「簡易却下」「検証は却下する」などとメモを読みながら言い捨てて、突然裁判官3人は、「閉廷」を宣告して法廷を逃げ出したのだ。法廷は、当然にも怒りのるつぼと化した。

 あとで、弁護団が裁判所事務局に確かめたところ、仲戸川は、抗議の釈明要求に対し簡易却下をし、天神峰現闘本部の実地検証を却下。その上で、北原さん、萩原さん、石橋などの証人採用を認めるものの、本部の建設にかかわった人々の証言や加瀬さんの証言などの一切を認めなかったというのだ。そんな証言のことなど行った様子もなければ、その時間もなかったことを仲戸川の目の前にいて抗議を続けていた一ノ瀬弁護士が後の報告会で証言した。要するに、仲戸川・千葉地裁は、警察・機動隊を導入し、その威圧の下に、実地検証を拒否し、証人調べも限定して、原告・成田空港会社・国家権力の筋書き通りに裁判を早期に決着させようとしてきたのだ。「09年供用開始」のタイムリミットに追い詰められた故の、暴力的攻撃が開始されたのだ。こんなことがどうして許せようか。

 反対同盟と支援、私たちはそのまま歩いて、抗議と太郎良さんの直ちの釈放を求め08925_4 て千葉県警本部に押し掛けた。写真中央の後姿先頭が北原さん、左に萩原さん。抗議の途中から、警察は機動隊を部隊で導入し、逮捕をちらつかせながら排除しようとした。しかし、怒りの抗議は30分余り続けられ、怒りのシュプレヒコールを叩きつけて、この日の報告集会の会場へ移った。

 報告集会では、北原事務局長から、「みんな、今日は久しぶりに40年を思い出したんじゃないか。この勢いで頑張ろう」と、この日の闘いが、敵・国家権力・裁判所の攻撃を真正面から跳ね返したことを提起された。弁護士の皆さんは、「この不正義を絶対に許せない」(葉山さん)、08925_5 「この国家暴力を絶対に許さない」「裁判官としての職権の乱用」(一ノ瀬さん)、「訴訟行為として成り立っていない」(遠藤さん)、「裁判所が空港会社の意思を体現して進めてきた」(大口さん)などと口々に怒りを表明された。

 集会(左写真)は、戸村義弘さん、動労千葉の滝口さん、福日労、そして関実の私からのあいさつで終わった。この攻撃を、10・5三里塚全国集会の爆発で跳ね返そう!

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10・5三里塚へ 萩原進事務局次長の訴え (9・22集会)

08922_2  ご苦労様です。「襤褸の旗」の映画の上映がありましたが、反対同盟と当時は30くらいの団結小屋がありましたので、1日、200人くらいは集まるというところでエキストラとして毎日、毎晩かけずりまわるというようなことがありました。北原さんなんかも出てくるんですが官吏役で出たり (会場爆笑)。古い話で、記憶はなくなってるんですが、しかしああいう状況を見ると自分たちは代執行の闘いなんかをやりぬいたことを思い起こす。

 また、千葉では佐倉惣五郎というのがいたんですね。当時、冷害と凶作で年貢が払えない中で、農民が困っていた。佐倉惣五郎が代表として訴え出る。当時、直訴すれば切腹覚悟という時代ですから、それをやったというところで、今も生まれた家が保存されて記念館として残ってますし、印旛沼から船で渡った「甚兵衛渡し(?)」という漁師の所もありますし、妻と子供も一緒に処刑されたということも記録で残ってるんですが、詳しい何時、どういう形で処刑されたとかは、本当に残されていない。

 当時農民は作らされた作物を強制的にとられるわけですよ。しかも、いざ闘いとなったら農民を兵力として使うわけですね。しかも、死のうがが何しようが当然なんだと。それがこの間の第2次世界大戦でも、そういう状況があった。あの時、日本の農民の6割が亡くなった。戦争に赤紙でとられて戦死する。戦争が終わって、今度農民としてやろうとしたら土地がない。立ち上がって「土地をよこせ」と闘いとったのが、小作地を解消して自作農になっていく。そこで農地法を作らざるを得なかった。要するにこれは与えられたものじゃないんですね。そういうものとしてあったのを、今度はそれを撤廃して、要するに農民が土地を持って(補助金として)何億も何千万も金を使うなど許せない、「土地は国のもんだ」という形で、自分らで配分し、自由にしろと。そういうことで法律を撤廃しようとしている。

 そして60%近かった小作農が、戦後5%にまで減った。その5%の中にたまたま市東さんの土地が残った。東市さんが、戦争にとられ、抑留されて帰ってくるのが遅くなって、手続きができなかった。あの一角だけが解放されずに残った。本来なら市東さんの土地なんですよ。実際、開墾して畑にしたのは彼らですよ。本来なら、取り上げられないものを、取り上げるというやりかたが今、まかりとおている。こんな時代が本当にいいのかどうか。

 ちょっと横から入ったんでまとめるのが難しくなったんだが・・・(笑)。

 今日、福田が政権を投げ出して、アメリカ発の金融恐慌が世界を駆け巡っている。こういう状況は支配者の危機を如実に表している。そういう中で太田農林水産大臣が任期を残して辞めちゃった。これはいろいろありますけれど、ちょっと振り返ってみても自殺した松岡から熱海、遠藤、そしてこの太田と4人の農林水産大臣が任期を全うした人がいない。この短期間の中で。いかに、今、置かれている状況が、確かに個人の資質の問題もありますけれども、難しい中に叩き込まれているというのがある。そういう中で、今日の「汚染米」、この問題にしたってミニマムアクセスの問題として根底的にはあるわけですね。日本の農政の体制そのものの根幹にあって、その誤りが今日噴き出した。そいうところから業者に委託して、今日、大きな問題になって発展した。輸送問題だとか言って、何とか中国の野菜が悪いんだ、中国が悪いんだというところへ持って行こうとしている。だけど、足もとの日本の中でこういうことを無視して、本当に治さなきゃならんところが今、大きな問題としてあるわけです。

 こういう中で、一方でアメリカの金融恐慌が全世界をめぐり、証券会社の倒産が世界をPhoto 駆けずり回る。どうしようもない支配階級の体制的危機があるわけですが、これが資本主義だということを如実に示しているんじゃないかと思うわけです。その行きつく先が、戦争というところがある。そういう意味では、現に、アフガンやイラク、中東、そして今度はグルジアが戦争に入っている。そして今、北朝鮮が、また大きなうねりとして出てきている。アメリカは、今や、直接的に北朝鮮だけでなく、対中国、対ロシアという形で、ミサイル配備という方向へ確立させてきている。

 そして、日本ではどうかというと、ジョージワシントンが横須賀へ入港してくる、母港化すると。そしてパックⅢの日本各地への配備ということがあるわけです。我々のところの成田でも、8月30日、31日と習志野基地から自衛隊がきて警察と各自治体と医療機関、あらゆる労働者を動員して4千名規模で、炊き出しまでやって二日間にわたって防災訓練という名のもとに初めて大規模な訓練が行われた。三里塚空港が文字通り軍事化の中におかれてる空港として存在しているということを物語っている。こういう危機が何をもたらすのか。ますます支配者たちが、こういう争闘戦の中で一層の市場原理の特進とアジアへの侵略以外活路はないというところの深みにはまっていくだろう。

 そうなってくれば、あらゆる戦線で、自分たちの常識では考えられないような攻撃、今までの尺度では測れない攻撃として出てくるだろう。安倍や福田ではもたない。もっと右からの攻撃という形で、麻生という形で出てくるわけです。マスコミは民主か自民か、今度の選挙でどっちが勝つか、そういうところで世論をあおっている。我々はその壁を打ち破らなければならない。そういう壁で民衆が引っ張られている限りは、世の中変わりません。我々がここで旗揚げして、民主も自民党も同じなんだ、共産党も含めて同じなんだと、民衆が決起して、立ち上がって闘い抜いて、権力を奪取する、われわれが力を持つんだところでの大胆な歩みしかないだと打ち破っていく。そういう闘いが今必要じゃないのか。ましてや、そういう中で改憲攻撃がこの秋から来年にかけて具体的課題として出てくるだろう。本当に今、闘うものがどうすべきかという事が問われている。そういうことを考えたときに、今置かれている立場の中で、われわれは、できる限り、精一杯闘い抜いていく以外にない。自分を守るには、闘わない限り生きていけないということだ。

 そういう中で、三里塚の現地的なものとして、10・5、あるいは秋から冬、来年に向けて三つの課題を提起したい。

 先ず第一に、こういう中で、真に闘う労働者と農民の連帯だと思います。食えない労働者、農地を追われる、とられる農民。敵は、そういう意味では一つです。そういう闘いの中で、反戦、反核、反差別といった広範な闘いをやっている住民団体や市民団体、市民運動、そういう人たちとの連帯を積極的に求めていく。そういう運動を作っていく必要があるんじゃないか。今ほど、そういうものが求められている時はないと思うんです。三里塚は、そういう意味では、共闘と結集の場、砦だと言って過言ではないと思います。来るものは拒まず。国家権力と闘うものに対してはとことん連帯を求めます。共闘を求めます。そして、空港絶対反対、農地死守、実力闘争を展開する、そういう闘いを真に闘うものと、文字通り、真の連帯と共闘を組んでいこうと思う。そのことを三里塚闘争42年の中でやってきたわけです。関実もそうだと思います。大衆のよりどころの組織であり、大衆がここに結集するそういう組織だと思います。ですから、そういう関実と三里塚反対同盟は、一体となって闘い抜いていきたい。そういう闘いを具体的にたたかいたいということを訴えたい(拍手)。

 第二に、北延伸攻撃に対して不屈の現地闘争を展開したい。工事をやっているところへPhoto_2 はなかなかできません。これは鉄板に囲まれた中で、彼らはこそこそとやっている。しかし、問題は、彼らは、一回北延伸をやって、工事をやります、工事をやりますという脅しの中でも、われわれは崩れなかった。それじゃあ、工事をやりました、そして飛行機を飛ばしました、上空40メートルを飛ばしました。しかし、自分たちは、「何を!この野郎」と、今も闘い抜いております。崩れるだろうと思った北延伸で崩れなかった。今度はもう一回延伸して大型機を飛ばしてやろうと、それでもって今度は崩れるだろうと。そういう狙いが北延伸の狙いなんです。これは単に北側へ2500メートル作ることが目的じゃありません。むしろ南側へ、市東さんや自分たちを崩して、三里塚闘争を鎮静化させて、そして南へ延伸させ、3500メートル、3800メートル滑走路を作って軍用機も大型機もどんどん飛ばせる空港にしたいというのが北延伸の狙いなんです。このことを見据えているからこそ我々は、歯をくいしばって40メートルであろうと60メートルであろうと、土地を守りぬくんだと、農地死守の偉大さというのはここにあるんだというところを、天下に知らしめるというかたちで頑張り抜いてるんですよ。そのことの狙いをはっきりさせたならば、北延伸は粉砕できるんですよ。戦後開拓した木の根部落、天浪部落などありますけれど、唯一残っているのは東峰部落だけなんです。この東峰部落を自分としては守り抜いていく。60軒あった東峰部落が今、6軒になりました。6軒であろうと闘い抜く。市東さんのところは古い開拓で、天神峰部落といいますが、今、1軒で頑張り抜いている。毎年、区の区長として市東さんは、一人で部落を形成してやってます。だけども、圧倒的少数ですけども、ほんとに自分たちは胸張って歩けるんですよ。反対派がいなかったら、24時間空港も、あるいは騒音対策も、あるいは道路対策も、何もできない。みんな、おんぶにだっこで、代替地や補助金もらったり、税金取ったりしてやってるわけです。反対派がいることをもって、いちゃもんつけることもできるわけです。そういう意味で、われわれに対して頭から言いきれない。少数であるけれども、胸を張って、悪いことしてるわけじゃないし、正しいことをしてるわけで、役所行こうとどこ行こうと対応できる。ですから、われわれは42年間、正義、大義の中で闘い抜いている誇りを持ちながら闘い抜いていく。北延伸の現地闘争、現地での集会、デモで勝ち抜いていきたい。

 そして第三に、市東さんの裁判を頂点とする裁判闘争を徹底的に勝ち抜いていくということだ。今まで土地収用法というのがありました。しかし、それが期限が切れて消滅して、われわれが闘い抜いた。今度は、裁判所が正面に立って、それをやるという形でやってきた。裁判所が土地を取り上げる先兵になり下がる、しかも裁判の改革だというかたちで、拙速裁判で何としても二年以内に終わらせると、そういうやりかたで早期結審だと、証人調べとか内容について十分な時間を与えないというやり方で、裁判官が訴訟指揮を今行ってるわけですけれども、そういう裁判も一方ではぶち壊しながら、内容的に、実体的に裁判の勝利を勝ち取っていくという風にやりたい。そして、何よりも市東さんが土地を武器に守り抜いて、闘いそのものが、単に人の畑を守るということじゃないんですね。成田空港を、農地死守と同時に軍事空港反対という二つの大きな闘いがあります。そういう意味で、今、市東さんの畑を彼らが接収したならば、あるいは本部を取らして「ヘ」の字型の誘導路を直線に直したならば、大型機も、今までの発着回数も大幅に増やして、戦闘機も飛ばせる民間・軍用機がいつでも飛びだせるそういう施設になっていくわけですよ。市東さんは、あの土地を守り抜くことをもってね、戦争に使う滑走路をつくらせない、戦争に使う飛行場を完成させない、そういう闘いを今やってんですよ。自治体労働者、医療労働者、運Photo_4 輸労働者、いっさいの労働者が戦争の中に動員されることを、やらせないために首根っこを市東さんは押さえつけている。その闘いを、文字通り「わがもの」として考えていただきたい。ほんとにみんなの課題としてあるんだということを考えていただきたい。そのことを、市東さんは、今あそこで農業をやることを通して闘い抜いているんだということを、同じ課題としてあるんだということを確認していただきたい(拍手)。

 こういう中で、何十年ぶりで代執行が行われるかわからないという状況を迎えているということなんです。市東さんの土地を裁判所が取り上げることを認めるということになったときには、裁判所命令のもとに官憲があの土地を取りに来るんです。それに対して太刀打ちすることができるのかどうか、それが今求められているんです。10・5とか3月集会とか、これからそうですけれども、それだけの万余の陣形がある時に、勝ったならば、そう簡単にはできないんですよ。このことが重要なんだ。単に人を集めろと自分は言ってるんじゃないんだ。勝つためには、今までの陣形では勝てないんですよ。それを上回る陣形に、あの地にみなさんに立っていただいて、この土地を守るんだ意思表示をしていただければね、向こうも簡単に手を出せないんですよ。二次、三次にわたる代執行でね、彼らはこてんぱんにやられた、もう代執行はやりたくないというところに追い込んだ。だから何十年も代執行はできなかった。しかし、もう最後の最後として、ほんの一握りの市東さんの土地なんだと。それをとることで、三里塚をつぶしたい。ここなんですよ。ですから、まず三里塚に3千集め切ろうと言ってますけれど、そういう陣形ができたらなかなか代執行などできないですよ。こういう形で闘いを突破したならばね、必ず次のあらゆる闘いの中で生きてきます。そういう希望を自分は持っています。それを確信しています。ですから、あらゆるところで訴えているわけです。そのためにもあらゆる人たちとの連携、連帯、そして団結を勝ち取りながら、闘い抜いていく必要があろうかと思います。世界の情勢と日本の情勢を含めて、強権的にくるけれども、それは本当に弱さの表れですからね。本当に強いのかと言ったら、弱いのですよ。

 我々は43年もった。もったんじゃなくて勝利的に展開してるんだということを確認しながら、あいさつにしたいと思います。何よりも、10・5の集会にみなさんがおいで下さることをお願いしてあいさつにしたいと思います。(拍手)

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2008年9月23日 (火)

9・22三里塚関西集会、175名の結集

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 昨日、9月22日、エルおおさかで、三里塚反対同盟から萩原進事務局次長をお招きして、「三里塚関西集会」が、ここ数年で最大の175名を結集して開催された。

 会場左側の壁には、この間現地にいく度となく訪れた山田、古河両カメラマン撮影の現地の様子や援農の様子の写真が並び、早く会場に来たみなさんが、じっと観ていた。安藤事務局次長の司会で始まった集会は、いつもより30分早く開始され、先ず三国連太郎主演の映画「襤褸(らんる)の旗」(1974年制作)の初めの部分が上映された。足尾鉱毒による被害を訴える谷中村農民の竹槍で武装した「直訴」の隊列が警察権力と激突する場面からはじまった映画に会場の緊張が一気に高まった。

 山本世話人の開会あいさつのあと、中田書記長を先頭に20名以上の黄色いゼッケンを付けて皆さんが参加された部落解放同盟全国連合会を代表しての滝岡執行委員から、10・5三里塚闘争を全力で取り組むことを表明した上で、10・26狭山闘争への決起を訴える連帯挨拶。続いて、前世話人の森田さん(反対同盟)、葉山弁護士(反対同盟顧問弁護団事務局長)、群馬の青柳さんからのメッセージの紹介。

 1週間後に定期大会を控えた集会の協賛団体でもある国鉄千葉動力車労働組合から、08922_2 久しぶりに川崎執行委員が登壇して、「労農連帯で三里塚闘争を勝利させる」ために10・5に全力で闘うことを明らかにした上で、「国労、4者・4団体が1047名闘争を切り捨てようとしている」ことを明らかにして、「解雇撤回、国鉄闘争を堅持するために闘わねばならない」「10・24日比谷集会=4者・4団体路線は、民営化推進であり絶対反対」「11月2日、全国の労働者、市民が結集して、1万人集会を実現しよう」と訴えた。

 ここで、関西実行委員会が、三里塚闘争を勝利させていくためにこの間取り組んできている具体的闘いとして、援農・現地調査をカメラマンの山田さんが、三里塚写真展の取り組みを尼崎・伊丹実行委の弥永さんが、野菜市を毎月開いている報告を豊中の百々さんが、三里塚野菜の産直の取り組みなどを事務局の松原がそれぞれ報告した。関実の取り組みが、三里塚支援運動をぐいぐいとこじ開けようと踏ん張ってきていることが実感できた。

 いよいよ萩原進事務局次長の登場だ。映画「襤褸の旗」から代執行の闘いや、佐倉惣08922_3 五郎への想いから話を始められた。農水大臣が次々と辞任していく日本の農政の破たんと資本主義そのものの危機を明らかにした。核空母ジョージワシントンの横須賀母港化、パックⅢの配備などに見られる攻撃の壁をわれわれはぶち破らなければならない。闘うものが本当にどうするのかということが問われている。第一に反戦、反核、反権力、反差別の広範な闘いを行っている住民団体や市民運動、そういう人たちとの連帯を積極的に求めていく。三里塚はそういう共闘と結集の砦だ。関実も大衆のよりどころとしてそうなんだ。第二に、北延伸、3800メートル化の攻撃の正体は、反対同盟農民を崩そうとすることにある。そのことを耐え抜くことを通した43年の闘いが「農地死守」であり、北延伸を粉砕できる道がある。第三に、市東さんの裁判を頂点とする裁判闘争を絶対的に勝ち抜いていくということだ。こういう状況の中で何十年振りかで代執行が行われるかもしれないということだ。これに立ち向かえるかどうかだ。10・5に決起してほしいと訴えられた。

 萩原さんからの30分にわたる烈々たる現地報告とアピールを受けて、関実を代表して永井代表からの基調提起が行われた。戸村委員長の鉄塔上からの訴えと、同盟からの08922_4 1977年1月冒頭の「鉄塔を百万人民の人塔と化せ」という檄を受けた関実結成の経緯を語りながら、「闘いの原則に立ち返り総決起しよう」と。「言いたいことは『10・5三里塚へ行こう』この一言に尽きる」と訴えた。

 集会が、この萩原さん、永井さんの訴えにすごい熱気と「やるぞ」という雰囲気に溢れた。その中で、明石住民の会の日原さんからのカンパアピール、関西労組交流センターと学生からの決意表明が行われ、関実事務局次長の国賀さんのまとめと団結ガンバローで集会を閉じた。いざ、10・5三里塚へ!

 なお、この日、「上関原発反対」「公有水面埋立を許可するな」の署名活動が行われ、今日までに251筆が、10日あまりの短期間に寄せられました。ご協力ありがとうございます。第1次集約のために送ります。10月15日まで署名は続けられますので、引き続き取り組んでください。9月10日、祝島の島民50名と支援の若者20名は、山口県庁に知事との面会を求めて、5時間に及ぶ座り込みを貫き、その後、怒りの声を県庁中をデモでとどろかせた闘いが打ち抜かれた。http://d.hatena.ne.jp/conokix/20080910に詳しい報告が掲載されています。ご覧ください。

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2008年9月19日 (金)

食糧自給率

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 「大豆の自給率、知ってますか?」 ―― 先日、9月13日、「知らないうちに食べている遺伝子組み換え食品 その問題点は?」と題して、「神戸空港の中止を求める市民の会」の例会(上写真)で、生協都市生活の大沼さんから教えていただく機会がありました。1時間あまりの熱のこもった講演と質疑が交わされましたが、この詳しい報告は別に譲ります。そこで教えていただいたことを土台に食糧自給率について考えてみました。

 日本で、遺伝子組み換え食品で輸入や販売が認められているものは、とうもろこし、大豆、菜種、綿、じゃがいも、トマト、てんさい、アルファルファです。たとえば飲料メーカーのキリンが、コストを下げるためにトマトジュースに遺伝子組み換えトマトを使おうとして、消費者の猛反発を受け、断念。などで、結果、今、輸入されているのは、最初の4品、とうもろこし、大豆、菜種、綿です。その自給率が、何と 0%、5%、0.1%、0%(順番に)なのです。そして食品表示制度で表示不要なものが、大豆はしょうゆと大豆油、とうもろこしはコーンフレーク、水飴、異性化液糖、デキストリン、コーン油、菜種はナタネ油、綿は綿実油。この中で、しょうゆは消費者の関心が高いことに目をつけた大手一社が「遺伝子組み換え大豆を使っていません」と表示したため、ほとんどの商品が同じように表示しているそうです。しかし、価格競争と利潤追求がより厳しくなった現在の新自由主義的流れの中で、いつ表示が外されるかわからない(義務がないのですから)。つまり、組み換え大豆がおおっぴらに使われる時代が来る恐れが大きいことが指摘されました。

 大豆を考えてみたいのです。大豆は、日本人にとって非常に重要な、そして日常的に親 しんでいる食品です。大豆そのものはもちろん、豆腐、油揚げ、おから、凍豆腐、ゆば、納豆、豆乳、きな粉などなど。戦後、食糧輸出大国アメリカから大量に穀物の輸入が始まったとは言うものの、1960年にはまだ28%の自給率がありました。しかし、連作がきかPhoto_3 ず、気候の変化に弱い作物で、生産量の変動が激しく、どうしても手のかかるコスト高な作物でした。そのため、1961年の自由化以降、急激に自給率は落ち始め、1993年には2%にまで落ち込んだのです。1996年、遺伝子組み換え作物の輸入が認められたことに危機感をもった生産者と消費者によって「大豆畑トラスト運動」がはじめられたことや、無農薬有機栽培が進んだことによって、現在、自給率が5%まで戻ってきたというのが現状です。

 「遺伝子組み換え大豆は使っていません」と表示される限り、大丈夫でしょうという大沼さんのお話しに、「日本のお役所と大企業をそんなに信じれるか」と神戸空港反対運動をやってきた率直な感想がぶつけられました。汚染米の騒動が起こり、農水省の責任が問われているのですから尚更でしょう。しかし、今の政府や大資本の資本家たちや御用学者によって、利潤追求の新自由主義的発想からすれば「遺伝子組み換えは問題ない、安全だ」といったキャンペーンが行われ、表示義務などの規制が緩和される恐れは十分にあります。遺伝子組み換えの場合、「こういう点で問題がある」というのはほとんど立証されていません。また、モンサント社などわずかの巨大企業がその利益をほしいままにし、研究や指摘に対し金に糸目をつけず妨害していることも明らかになっています。アメリカによるグローバリズムというアメリカの独占的利益を優先した世界政策(WTO)に与して、どんどん食糧自給率を下げ、アメリカの最大の食糧輸入国になっているのが日本です。そして、アメリカの思惑に従った規制緩和を行ってきた日本政府なのです。現に、農水省が自給率50%を目標にするという一方で、政府の諮問機関、経済財政諮問会議で公然と本間正義東大教授などは、「食糧自給率など12%になってもいいんだ」(2007年)と言ってはばからないではありませんか。そして、FTA(自由貿易協定)は、日本にとって、こうした食料にかかる規制をとっぱらうことを代償に、トヨタやキャノン、パナソニックの商品を東アジアに押し付け、体制を維持しようというものなのです。08821_2 (左の写真は、市東さんの「へ」の字の畑で、きゅうりの収穫)

 ヨーロッパでは、多くの国が食糧自給率が100%を超えながら、「地産地消」という言葉があるように、農産物についてはEUという全体的な規制とは別に、各国ごとの助成金や農産物関税などの法的な農業政策がとられています。これは農業が持つ小規模、生産性が低いといった特性に規定された方策であることはもちろんです。そして、高い自給率を背景にアメリカによる輸入圧力に対して、「GMO(遺伝子組み換え作物)フリーゾーン運動」さえ活発に行われているのです。フリーゾーン運動とは、「遺伝子組み換え作物を栽培しない」という運動で、消費者のレベルから、都市、州といった行政レベルでの規制にまで発展しています。これは、食糧自給率が高いが故に可能となった、食の安全、農業の保護を意図した流れであることは明らかです。

 ヨーロッパもまた帝国主義の支配体制下にあることはもちろんですので、その政策をそのまま鵜呑みにすることはできないとしても、われわれが住む日本で何が行われているかを考える手立てにはなると思うのです。農業問題とFTAを考えようとするときの重要な指標に、このGMO(遺伝子組み換え作物)問題があるように思えます。いい勉強ができました。11月19日に、「市東さんの農地の取り上げに反対する会」が天笠啓祐さんを講師に招いておられます。天笠さんと言えば、こういう分野のお話しになるのだろうと、今から期待をしています。みなさんも、ぜひ、注目してください。

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2008年9月18日 (木)

三里塚をどう語る?

Photo  9月22日の「三里塚関西集会」を宣伝するために、大阪と神戸で3度、マイクを持って街頭に立った。あわせれば1時間半ほどしゃべった。しかし、いつものことだが、何を言ったら道行く人に「三里塚が伝わるのか?」と悩む。

 大きな原因は、関西でマスコミが「三里塚」をほとんど報道しなくなって20年近くなるということだ。道行くほとんどの人が、「三里塚」を知らないか、知っていても報道されないから「とっくに終わっている」と思っている。この春の「開港30周年キャンペーン」でさえ、関西では関東と比較して、ほとんど流れなかったに等しいのだ。

 だから、必ず、三里塚農民が43年間も闘い抜いていること、国策を相手に今も押し返していることを先ず言う。そして、成田空港が半分も完成していないことを。その上で、何を言うのかだ。そのことが、同時に、三里塚闘争が今、どういう方向に向かっているのかを、そしてそれが道行く人々にどう関わるのかを指し示すことができなければ、ほとんど聞いてもらえない。共感を得ることはできない。

 上の写真は、暫定滑走路の南部分で、東峰の森が元の姿を残し、清水の畑に東峰の森側のフェンスがないことからも、少なくとも3~4年前の航空写真。滑走路南端手前の右側に開拓道路が滑走路間近(50メートル)まで迫っていることが細いがくっきりと見える。そして、滑走路南端から南に100メートル足らずの所にもやしの先のように見える東峰神社がある。あるいは写真左上に白く見えるのが誘導路だが、市東さんの畑に阻まれ誘導路が「ヘ」の字に屈曲し、滑走路に60~70メートルに迫るっていることが判る。これらはいずれも国際法で求められている安全性を無視したものだ。

 そして、滑走路南端からさらに300メートルくらいだが、小さく白く見えるところに島村さんの家があり、3代の5人家族が住んでいる。小泉さんの家もある。北風なら地上40メートルを110ホーンの轟音を直撃しながら着陸してくる(右下写真)。完全な人権侵害、生きる権利をも奪っている。

 これらは、暫定滑走路が明らかに違法状態にあることを示している。にもかかわらず、国と成田市などの自治体や財界は、現在進めている北延伸工事に続いて、旧来の計画通り南にも伸ばし、3800メートルの滑走路にして、24時間運用を行おうとしている。それは、東峰部落の消滅、そのことによる東峰神社、開拓道路の撤去と、市東さんの農地のY740_2 強奪による「ヘ」の字誘導路問題の解消を前提としなければ不可能だ。そんなことが「国策」の名のもとであろうと許されるものか。しかも、43年前に考えられた「国策」、アジアのハブ空港としての成田空港という絵は、すでに韓国の仁川(インチョン)国際空港が3本の滑走路(さらに1本計画中)があり、日本の25の地方空港ともつながって、東京からさらに1時間もかかる成田空港よりも便利であり、しかも安い、この仁川空港の存在によって破産している。すでに貨物取扱量も成田空港を超え始め、「成田パッシング(素通り)」という言葉が生まれたように、成田空港を拡張しても「焼け石に水」でしかないことは誰の目にも明らか。

 ではなぜ、違法状態を前提に、村を消滅させ、市東さんの農地を奪うことが行われようとするのか。それは安倍政権の「アジア・ゲートウェイ構想」、福田政権の「08骨太方針」で示されたように、航空の自由化、農業の集約化(農地強奪)を土台としたアジア諸国とのFTA/EPA締結による「東アジア共同体」を形成しようとする政治だ。これが、道行く人々にどう関わるのかということを、わかりやすく提示できなければならない。アジアの人々、農民と労働者にさらなる強搾取を強制し、安い労働力の日本への流入を促進して、日本の格差と貧困をより一層すすめる。このことによって生まれる利潤によって、日本の大資本が生き残ろうとする。こんな政治を許していいのかということだ。「FTA反対」というフィリッピンや韓国などで、農民や労働者によってすでに掲げられて久しい、米日帝国主義との闘いがあるのに比して、残念ながら、われわれの闘いの中で「FTA反対」を中身を持って掲げ切れているのか、これさえも明らかにされていない現実を絶対に越えなければならない。

 今、三里塚では、市東孝雄さんが「1億8千万円の補償」を拒否して、「1本100円の大根を育てて消費者に喜んでほしい」と、農民として生きることを求めて、こうした流れに農民魂をかけて仁王立ちして阻んでおられる。反対同盟は、こうした市東さんを先頭に、「農地死守」、「軍事空港反対」、そして「FTA反対」を掲げて、流血をも辞さず、今、闘いに立ち上がっている。この反対同盟の闘いと日々の営農(それ自体が闘いとなっている)を、私たち一人一人が自らの血と肉に取り込めるような肉薄を、学ぶことを通してしか、「わかりやすく提示する」ことはできないだろう。今からでも遅くはない。現地に行き、現地を、農地を、土を、そして農民のくらしを、営農を、そして43年間つちかわれてきた農民魂を、一人ひとりが肌で感じることではないだろうか。

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2008年9月 3日 (水)

耕作権裁判第8回公判傍聴記

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「正しい者がなぜ被告席に座らされるのか、怒りに堪えない」                      報告  関実事務局次長 安藤眞一 

 91日、市東さんの耕作権裁判の第8回口頭弁論が千葉地裁でありました。この日も、9時半ごろから反対同盟や支援の皆さん、傍聴の皆さんがかけつけ傍聴券の抽選に75名ぐらいの方が並びました。 

(安藤)はこの裁判を含め、たびたび傍聴券の抽選をしましたが、なんと毎回「当り」です。

もちろん今回も抽選棒を引くと赤のマーク(当り)でした。本来なら、裁判所がもっと広い法廷を用意すべきなのに、傍聴闘争の高揚を恐れて、嫌がらせをしているように感じました。

また、裁判終了後の報告会で出た意見ですが、「裁判官の声や原告(空港会社)の声がボソボソと小声でやりとりするため傍聴席から全く聞えない。マイク設備を要望して欲しい。東京地裁では実現している」との声がありました。このことは、傍聴闘争によって裁判所と原告を圧倒し、彼らが小声でしかしゃべれないところに追い詰めていることを示しているのです。

1030分から始まった弁論の冒頭で、市東さんは怒りを込めて「正しい者が、なぜ被告席に座らされるのか。怒りに堪えない」との陳述を行いました。陳述の最初に「裁判も8回を数えますが、勝手に不法耕作だと決めつけて、空港会社が私に畑の明け渡しを要求するこの裁判が、私にはどうしても納得できません。」と述べて、市東さんは空港会社の不法を訴えたのです。市東さんが力を込めて陳述する一言一句に傍聴席と、廊下で聞いている皆さんが一斉に「異議なし」と応えて、裁判所と原告に怒りを叩きつけました。そして、市東さんは陳述の最後に裁判長を睨んで「私は裁判長に言いたい。この裁判は、契約していない土地を契約地だと主張し、本来の契約地を不法耕作だという、間違った主張のもとに提起されたものであ0891_2 り、即刻、却下を求めます。」と堂々と訴えました。

この市東さんの怒りの陳述に応えて、弁護団の葉山先生、一の瀬先生が交互に裁判所と原告を追及。焦点となっている「南台41-9」の土地を空港会社が故意に市東さんの耕作地だと決め付けている不法不当を暴露しました。これを裏付ける新証拠を今回の弁論で提出。空港会社は追い込まれて早期決着を画策しようと次回弁論日程を早めるように裁判所に求めましたが、被告弁護団の反撃で128日に落ち着きました。

裁判の最後に、被告弁護団から9項目の「再求釈明」を求める弁論を行いました。この中には、旧公団の関与を明らかにせよという項目や、隠している証拠を出すこと、市東東市さんとの交渉を明らかにせよ、など裁判の核心にせまる追及となっています。法廷内外一体となったこの日の裁判は1110分に終わりました。

裁判報告会(右上写真)

続いて弁護士会館で、記者会見と裁判報告会が開かれました。市東さんは「この先、おもしろい展開になると思う。空港会社は逃げ腰だ。早く終わらせたいと思っている」と挨拶。各弁護士から今日の争点について解説があり、一ノ瀬弁護士から「以前、原告から出されていた地籍測量図と耕作状況の図面を見比べて新しい事実に気づいた。7:3の面積配分通りに地籍測量図がつくられており、問題の41-9を特0891_3 定する有力証拠となった」ことなどを説明。

空港会社は、間違いを百も承知で故意に明け渡しを要求しています。ひょっとしたら書面関係を偽造したりしている可能性もあります。不法を行っているのは、原告であり、市東さんの正しさは益々明らかになっています。

私は、挨拶の中で「市東さんの怒りを我が物にしたい。関実は922関西集会を開催し、105への決起を目指している。また、写真展、野菜市も粘り強く続ける。襤褸の旗の上映会も検討し、とにかく三里塚の闘いを関西で広げる活動を続けたい」と訴えました。

(左上写真は、報告会で挨拶される安藤さん。後ろに元泉州住民の会代表の森田恒一さんのお元気な姿があります。この日、関西からは、3人がかけつけてくれました。)

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2008年9月 2日 (火)

一カメラマンの三里塚取材記(6)

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京都・五山の送り火の日、8月16日を迎えると関西では夏も終わりに近づいたという一抹の寂しさに襲われる。その一週間ほど前から、路上に蝉の死骸をよく眼にするようになった。毎夏のことではあるが、蝉の死骸を見ると不思議な感慨がある。
 そんな光景を路上に観ながら、思い荷物を肩や手に集合時間に着いた。私たちが乗る車の側に、携帯を手に松原さんが立っている。右手の方からFさんがやってきた。
 今回の参加者は全員で5名なのであとふたりである。カメラバッグを肩から地面に降ろした途端に汗が吹き出してきた。時刻は夜の10時を少し回っているというのにこの気温である。ビルの電光掲示板が28℃を表示していた。同じ行程の行事に参加する他の人と比較して、カメラバッグの分だけ確実に荷物が多い。当然である。
  “新人”のふたりがやって来た。若い女性2名である。挨拶もそこそこに出発する。少し走ってコンビニで夜食を買い込む。後はひたすら走るだけである。パセンジャーシートを倒して仮眠をとる。総距離の単純に1/3のドライビングを受持つ。
 すっかり明るくなった中、反対同盟の鈴木幸司さんのお宅に着いた。今回の援農の宿泊場所を提供して頂いていた離れのプレハブ小屋に荷物を置く。
 私と“新人”ふたりは市東さんの畑で茄子、胡瓜、オクラ、エンサイ(空心菜)の順に園芸鋏で摘み採ってゆく。
 茄子は茎や葉と色が明確に違うので摘果は楽である。しかもある程度の高さがあり、作業性はよい。しかし、胡瓜は色も同じで高さも地面に極めて近く、作業効率は一段落ちる。葉で手首の辺りを切るという“副作用”まである。農業の大変さを改めて思う。
 また、しかし…とも思う。我々日本列島に暮らす民は、縄文以来一万年ものあいだ農に支えられてきた。決して狩猟・採集が主ではなかった。
 我々のDNAには土=農が組込まれているのではないか。現に日本人の腸内には肉類に対する分解酵素が少ない。いつぞや、ラジオ番組で「もし日本人が、毎日イタリア料理を一年間食べたら確実に身体(からだ)を壊す」ある医者の話である。地産地消の番組なので、多少のデフォルメはあるにしても説得力はある。
そんなことを思いながら必要量を収穫した。昼食は現闘のスタッフが作ってくれている。素材も勿論ではあるが、彼、(そう若い男性である)の姿勢であろう。ま、セクト活動家、しかも現闘スタッフに“姿勢”というのも些か失礼ではあるか…?
 実に旨い食事を頂きながらふと思う。三里塚には各セクトの現闘=現地闘争本部があり、私たち関西の人間は現地に行けば彼らの世話になる。確かにありがたい事である。以下、ある種の理想論ではあるが、援農は可能な限り自己完結性を持っていないとならないのでは…?理想論に過ぎるだろうか。午後は産直の出荷作業で初日を終えた。
 二日目。現地調査にあてる。
 三日目。鈴木さんの畑である。私は語る立場にないが“移転派”の屋敷(確かに豪邸である)のなかに畑がある。草取りをする。鎌を手に雑草と格闘する。確かにしぶとい。根絶やしの語源はこれか?
 最終日。全員鈴木さんの畑に集合。気温は30℃を下回っている。涼しい。モロヘイヤとエンサイ(空心菜)の刈入れ。午前中の休憩の時の加代子さんの話は終生忘れられないだろう。この稿は公開されたメディアなので詳細は避ける。しかし…いつの日にか語りたいと思う。
 疲労からかお昼はご飯が食べられなかった。南瓜を少しだけ頂く。
 着いた時の逆に荷物を車に積み込む。御土産の野菜も同様に。鄭重に御礼を述べる。柄にもなく“別れ”は感傷的になる。走り出した車の窓から見上げた空は秋の気配であった。

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2008年9月 1日 (月)

大学生B子さんの援農報告

08821  左の写真は、収穫前のごぼうを抜かせてもらうB子さん。左が萩原進さんです。大学生のB子さんから、「援農報告」が届きましたので掲載します(関実ニュース123号に掲載)。

 生きるための闘争

 高速道路をおりてすこしいくと歪んだひし形の頑強なトンネルが現れる。そこを抜けると市東さんの家がある。市東さんの畑は、それほど高くない白い鉄板のフェンス越しにかこまれている。踏み込めばぼっくらと足を飲み込んでいくよく肥えたやわらかな土も、そこに育つさまざまな色をした作物も間違いなくここが畑であることを示している。畑の茄子は不揃いでとげとげしく、素手で触れば白い細かなとげか皮膚に食い込む。じりじりと暑くなる太陽の下で新人の援農組みが軍手をしてこわごわと茄子をさわるなか、市東さんたちはなれた調子で素手のままひょいひょいと摘み取っていく。その取り立てて変わったところもない風景の中、鈍く空気をさく震えるように大きな音がして、フェンス越しに巨大な機体が現れる。何かの特撮映画を見ているように、畑のすぐそばを大きな飛行機がなんどもとおりすぎていく。
 『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』という映画を見たとき、わたしが覚えたのは気恥ずかしさだった。作品の中で若者たちは「革命!革命!」と恐れ気もなく声を上げる。現体制の打倒、社会の変革。彼らの主張の意味も重要性も理解はできる。だが私は大きな声でそれを叫ぶことができない。自由も平等も博愛も、そして世界平和すらも。わたしは声を大にして叫ぶことができない。小さくつぶやき、つぶやいたあとの自身の言葉のそらぞらしさにぞっとする。わたしは本当にそんなことを望んでいるのか。人に向けて主張するほどに自身のそのことばは重みがあるだろうか。わたしの日常とそれらの距離はとても遠い気がする。
 日本は平和な国だ。ほとんどの人間は飢えも貧困も衰弱もしらなくてすむ満ち足りた国だ。「平和」といったところで、これ以上何を求めたらいいのかもわからない。「自由」はもらったところでどう使っていいのかわからないから、いっそ重荷だ。「平等」や「博愛」なんて、容姿や知能に差がある以上世迷いごとだと知っている。生きるためにそれらを求める欲動を、昭和の終わりに生まれたわたしは知らない。物質的に希求すべきものがないなかで、人はゆるやかに周囲と断絶してく。分断してひとり宙をさまよう。「革命」も「社会変革」も自身とはかかわることのない遠い次元にある難解なものとしてただ通り抜けていく。
 わたしたちが到着する前日、萩原さんの家に三番目のお孫さんが生まれたそうだ。写真を見て、みなにこにこしている。先に生まれた4つぐらいのお孫さんが畑で「じーじ」と遊んでいた。小休止のとき、色白の丸いほっぺをしてきゃわきゃわとさわぎ、生まれたばかりの妹の写真を見て首をかしげる。ぼろぼろとおかしをこぼしても誰もヒステリックにとがめだてはしない。じーじもぱぱもばーばも現闘さんも穏やかに彼を囲んでいる。
 鈴木さんちのかよこさんがいう。「わたしたちはただ、生きていたいだけだ。」どこに行くにも覆面パトカーがついてきて監視される。嫌がらせを再三うける。わたしは活動家でもなんでもなくてただの農家のかあちゃんだ。そして先祖代々つづいてきたここで生きていたいだけだ。
 わたしは三里塚闘争が、新自由主義打倒であり、国家の変革であり、革命の勝利という構図でとらえられるとき、こころのどこかで一線を引く。そんな「大義」はおそろしい。そんな立派なものは、わたしにはつかみにくい。
 ただ、三里塚での営みが「生きるため」の闘争であるととらえるとき、わたしはやっと「三里塚」を自身の中に住まわせることができる。
 あまりに飛行機と近い合成写真のようなありえない風景のなかで、それでも朝起きて、働き、眠る。家族とあること、泣くこと笑うこと。非日常の中であえて日常を営み続けようとすること。国家のもたらす圧倒的な暴力の前に屈せず、生きることを放棄しない。理論も理屈も越えたうえでのもっとも根源的でもっともたくましい戦い方なのではないだろうか。

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