市東さんの農地を守ろう!(3)
市東さんの農地と孝雄さんを語る時、どうしても忘れてはならないのは、お父さんの東市(とういち)さんのことです。
1912年、天神峰に入植した市東市太郎さんの長男として1914年に生まれた東市さんは、1934年、20歳で徴兵で、中国東北部の長春に通信隊に所属して従軍。36年、満期除隊して、東京で労働者に。結婚後、再び召集(41年)。中国東北部からビルマ(現ミャンマー)に転戦。敗戦とともに英軍の捕虜となり、マンダレーの収容所へ。そして47年夏復員して、生家で農業に従事したのです。
1966年、突然の成田空港計画の閣議決定によって自らの農地が空港敷地に入ることを知って、三里塚芝山連合空港反対同盟に結集し、終始一貫して反対闘争の先頭に立たれました。従軍、戦争の体験から「おれはもう、どんな場合でも侵略の銃はとらない。だから土地を売らないのだ」と、天神峰部落で、石橋政次、小川嘉吉兄弟など次々と闘いから脱落、裏切っていく中で、ただ一軒残って闘い抜かれました。そして、二期工事が開始されようとする84年、自宅母屋を新築。89年、政府・公団が「軒先工事」を行って二期工事を進める中、自宅前庭に作業場を新築し、その闘う意志を 明らかにされたのです。84年(70歳で)、成田用水闘争で、重機搬入に抗議して機動隊を相手に泥まみれになりながら鬼神のごとく闘い抜き逮捕されたことは余りにも有名です。この東市さんの「空港絶対反対」の闘いが、ついに今日の成田空港の最大の破産を物語る「へ」の字誘導路の現実を政府・空港会社に強制したのです。
集会に訪れるたびに東市さんにご挨拶すると、「松原君、神戸空港の○○○はどうなっ た」と、前回おたずねした時からの間にお送りした「東灘区住民の会ニュース」に目を通されていて、質問されるのに驚かされました。全国から集まる支援、一人ひとりを本当に大 事にして接しておられました。 「私は三十年の闘いの中で素晴らしい同志を得た。この出会いを大切にして、この地で農業を生涯つづけ、空港を廃港にするまで闘う」(97年3月30日全国集会で)。
また、東市さんが故・戸村一作反対同盟委員長を心底慕い続け、自宅居間にその遺影を飾り続けたことは有名です。 「戸村思想、これ抜きに三里塚闘争は語れないよ。農地死守も俺は言うよ。言うけど、最終的に敵を倒すには革命思想だよな。階級的憎悪の強弱によって決するんだと戸村さんは言っていたな。農民が何らかの形で敵と談合したら、すでに条件闘争に入っているんだって。階級闘争ってことだよ」(84年9月15日)。
また「闘争が一番楽しかっただ。もう、おらの身はおらの身のようであって、おらの身でねぇだから、おら反対同盟さ、身預けてあるだから、6年間も、同盟や支援の人たちと、反対闘争やってきただから、誰が何といっても、こぎつけるまでがんばります」とただ一人で権力・公団を相手に抗いながら、三里塚闘争43年の歴史の中で唯一の住む家への強制収用を受けた大木よねばあさんをこよなく愛し、「大木よねさんね、貧乏人じゃなかったっておれは言ってんだよ。『日本一の貧乏婆』なんて公団は言うけど、あっちの方がよっぽど心が貧しいんだ」(1991年)と語っておられました。
この東市さんから、三里塚闘争が始まる前に、中学を卒業する孝雄さんは、「農家はもうだめだから手に職をつけろ」と言われて、家を出られたそうです。そして、病気の母とともに三里塚闘争を闘い抜く東市さんを手伝おうと「50歳をめどに帰ってくるつもりだった」そうです。そして99年1月16日、「親父が倒れたので帰ったわけです」(「耕す者に権利あり」4号より)。
そして1999年1月21日、市東東市さんは永眠されました。享年85歳。東市さんの闘魂を引き継いだ孝雄さんとともに、市東さんの農地を守り抜こうではありませんか。(つづく)
右の写真は、春の代かき作業をしておられる東市さん(1991年4月14日)。左(すぐ上)の写真は、岩山大鉄塔の下で闘いに臨む東市さん(1977年)。
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