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2008年8月26日 (火)

三里塚援農報告(その4)

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 最後の日、22日の朝も6時半きっちりに上空を着陸機の轟音が続く。この三日間、午前中はこの方向に。午後になると風向きが変わって、離陸機が通る。冬場には一日中着陸機になることが多くなる。これで、30万回(現在の1.5倍)、24時間使用となれば、増えるのはこのコースの方で、しかも大型機が増えるのだから、大変なことになることは確実。あらためて怒りを覚えた。上の写真は上空を着陸機が通過する鈴木さんの家で、中央に座っておられるのがおばあちゃんのイトさん。

 この界隈がいかに豊かな自然に囲まれているかは右の写真をご覧いただければ。丁08822_2 度上の写真をとっていた左手にある茂みの中で、カメラマンのDさんが見つけた。何だと思いますか。そう、カマキリが最初の脱皮をしているところで、もう一度脱皮をしてはじめて羽が生えるそうだ。加代子さんがオオタカなどいろんな生き物の名前を出しながら、絶滅危惧種がたくさん棲んでいるところであることを語られる。ほとんど知らないので、話を聴く一方で本当に残念。

 この日は、4人で一緒に鈴木さんのところの援農に入る。出荷日当日なので採り入れだ。4人でモロヘイヤの収穫を任される。二人は初めてなので、わたし達が説明。鈴木さんご夫婦はほかの畑に。薄日が差す程度で、風も気持ち良く秋が近いなぁと思う。10時ごろ、ご夫婦がこられ、お茶の時間。加代子さんが、同盟と支援の関係について、いろいろとあったことを話してくださる。ずっこけるような話も。

 モロヘイヤの収穫を再開したら、ご夫婦は横の畝で関西・豊中の野菜市に送る分だと言いながらエンサイ(空心菜)を採っておられる。一昨日、豊中のMさんにあったので聞いたら、野菜市は完全に完売できたとのこと。5か月連続してやってきたので、お客さんが付いてきたのだ。本当にうれしくなる。豊中のEさん、御苦労さま。

 モロヘイヤが終わって、30 今度はそのエンサイを採る。そこで昼休み。三里塚で最後の食事に舌鼓を打ちながら御馳走になる。鈴木さんご夫婦(左写真。08・3・31山田耕平撮影)には本当にお世話になりました。それからご挨拶もそこそこに関西への帰途につく。車には、3軒から頂いた採れたての野菜の土産がどっさり。前日、市東さんのところで採りすぎたショウガが豊かな葉をつけたまま沢山ある。ショウガが大好きな私は思わずにんまり。ありがとうございました。最後に荷造りをしていて、いただいたかぼちゃを忘れてきたそうで、加代子さんが作ってくれたカボチャの味に歓声をあげていたB子さんとDさんはいつまでも残念そうに悔やんでいた。

 繰り返し当ブログで援農の大切さを書いてきていますが、反対同盟への支援としての重要性は言うまでもありません。今回、ほとんど草取りがなかったのですが、収穫が忙しすぎたからで、実は盆の間にたくさんの草が畑に生えているのです。まだまだ夏の盛り、大変です。一年中、お手伝いすることはいくらでもあります。

 同時に、援農をさせていただく私たち、とりわけ初めて三里塚を訪れる人にとっては、三里塚の暮らしと闘いを知る上で、これ以上の機会はありません。また、同盟のみなさんが、この地の暮らしと闘いをどれほど一人でも多くの人に知ってほしいと熱望しているかが、肌で感じることができます。みなさん。現地に行きましょう。一日だけの現地調査でもいいです。あるいは、半日の援農でもいいのです。現地の豊かな大地を、自然を感じ取ることの大切さを訴えます。身体の弱い方は、見ておられるだけでもいいのですよ。「知ってほしい」 この同盟のみなさんの篤い想いを是非受け止めてください。

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2008年8月25日 (月)

三里塚援農報告(その3)

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 3日目の朝、今朝も6時半かっきりに着陸機の轟音が続く。さあ、今日は一日援農。鈴木加代子さんが用意してくれた朝食に舌鼓。昨夜、調子に乗って飲みすぎた私には、少し多いかな?しかし、とれたての野菜の豊富な料理がおいしい。

 鈴木家にカメラマンの山田さんを残して、出発。先ず、萩原さん宅にB子さんとDさんを降ろし、私は市東さんの所へ。ちゃんと地下足袋を履いて、やる気十分というか、恰好だけ08821_2 は一人前。内心は「もつかな」と不安がいっぱい。早速、現闘さんの車の助手席に乗せてもらって畑へ。「ヘ」の字を強制している南台の畑の奥のきゅうりの畑(上写真)で、きゅうりの収穫。初日にここへ入ったA子さんたちから聞いていたが、お盆で休んでいる間にめっちゃ大きくなっている。大きすぎるものや、少しでも傷んでいるものをどんどん捨てながら、摘み取っていく。もったいないなぁ~と思いながら。そう思うせいなのか、現闘さんに私が集めたものを点検してもらったら、どんどん捨てられていくではないか。残ったのは半分?しょぼん。

 作業場にきゅうりを下ろして休憩。10時のおやつ。実は、朝食がおなかにつかえて、摘み取るために前かがみになるのが苦しかった私は、思わず腰が引く。おいしそうなでっかい(通常の10倍くらい)おはぎを、みんなでわけて食べたのだが、私はそれをさらに半分にしてもらってやっと食べた。

 今度はよく集会の会場になる東峰の畑に移動して、オクラの収穫。オクラの花がきれい08821_3 なので、作業の途中で思わず写真(左)。ここでも大きくなりすぎたのをどんどん捨てていく。私のとったものを選定してもらったら、やはりここでもどんどんよけられていく。それでも、現闘さんにすすめられて、そのはねられたオクラをかぶったら柔らかくておいしい。やはり採れたてというのはおいしいのだ。「もったいな~い」とここでも思う。市東さんの自宅横の天神峰の畑にもどって、ここでもオクラの収穫。

 移動して最初の畑に戻り、今度はピーマンの収穫。ピーマンはそんなに大きく育たないので小さすぎないように注意すればよく、安心して作業。今度は虫食いや痛みに注意。次は、すぐそばにすでに2~3か月前に収穫されて干されていたタマネギの収穫。痛んでいないものを探し、痛んでいるものははねる。それを作業場に持って帰って、根や頭をはねながら痛んでいないか再点検。ところが、よく見るとほとんど半数近くが痛んでいることが判明。どんどん痛んでいるもをはねながら、せっかく収穫したものをと、悲しい気分に。そこで、昼食。

 昼食後、一休みしてから、市東さんの案内で、東市さんのお墓にお参り。この日が月命日なのだ。天神峰、十余三の部落のお墓で、近くには小川とかよく聞きなれた墓標がある。孝雄さんの横で、お線香をあげさせていただく。市東さんの農地を守り抜き、闘争に勝利することを誓う。なぜか写真がうまく写っていなかった。スミマセン。

 戻って、もう一度玉ねぎを干しているところへ行って、市東さんをはじめ4人で、玉ねぎを選定しながら取り入れ作業。痛んでいるのをどんどん後ろにほり投げながら、情けない気分に。

 そのあとが生姜の収穫。大きなカブになったものを引き抜いていくのだが、柔らかい土で見事にスポンと抜けていく。うれしくなってやっていたら、引き抜きすぎたようで、「多すぎた」となって、スミマセン。その場で、出荷できるように土と余分な葉っぱや茎を落とし、必要な量の束にたばねていく作業も。

 最後がモロヘイヤ。初日にやっているので自信を持って始めたら、雨が降り出した。雲行きが怪しいので、作業を終了。作業場にもどったとたんに土砂降り。だんだん雷が近づいてくる。光ったと思ったら轟音。とたんに電気が消えて近くに落ちた模様。それから夕食を先に頂いて、せっかくお風呂まで用意していただいていたのをお断りして(スミマセン)、萩原さん宅での二人、そして鈴木さん宅での山田さんを拾って、さらに鈴木謙太郎さんまでが乗ってきて、昨日行った「華の湯」へ。気持ちイイ~。ゆっくりと湯につかって、思いのほか仕事ができたことを自己満足しながら、汗と汚れを落とした。「菱田の郷」に戻ってにぎやかに話しながらのひと時の後、明日は帰途と眠りに。

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2008年8月24日 (日)

三里塚援農報告(その2)

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 二日目の20日、朝の6時半きっちりに着陸機の轟音がはじまり、次々と飛来するのにびっくり。話に聞いていた鈴木家が暫定滑走路南の直下にあることを体験。

 A子さんが仕事の都合でこの日に帰らなければならないので、予定を変更して現地調査を行うことにする。現闘の案内なしに、自分たちだけで現地調査をするのは初めて。前回6月で、大体わかってきたのでやってみることにする。

 先ず、東峰の開拓道路へ。幸い短く草が刈られていたのと、連日の好天に恵まれめっちゃ歩きやすい。いつもはここだけでびしょびしょに。滑走路の50メートル手前まで入れるここは、いつ来ても、暫定滑走路の破綻がよくわかり痛快。なぜ、ここを成田空港の観Photo 光コースに加えないのか不思議に思う。新誘導路の盛り土のために「対岸」の市東さんの自宅のある木立が見えにくくなっているのに腹が立つ。

 市東さんの家の周りと「へ」の字誘導路部分、そして天神峰現闘本部は、昨日、監視台に上った上で、A子さん、B子さんともにその畑で援農をしているので省略。東峰神社で、着陸機を見上げて二人に私が説明している写真がばっちり撮れたようで、写真展で乞うご期待。いつも集会で使う清水の畑、東峰の墓地(右写真は大木よねさんのお墓)を回る。

 次がいよいよ横堀の小屋。ここが見れれば、現地調査は終わったようなもの。私たちだけでたどり着けるかどうか。案の定、ぜんぜん違う工事の検問に突入し、向こうの方が驚いておろおろ。しかし、何とかたどり着いた。最初の写真は、小屋にある鉄塔の上から、管制塔と第2ターミナル部分を見たところ。二つのターミナルビルからはこちらは絶対に見れないようになっている。しかし、空港敷地のど真ん中(横風用C滑走路上)にこの更地と横堀の小屋と鉄塔がそびえているのには、いつ来ても本当に爽快になる。空港が半分も完成していないことが手に取るよう08820 にわかる。三里塚闘争の43年、国とその国策を相手に勝利していることが実感できる。「闘えば勝つ」という言葉が、身に沁みてわかる。そんな場所だ。左の写真は、小屋の前の一坪共有地と、向こうの方に、少し黒く見えるのが木の根の共有地(育苗ハウス)だ。そもそも空港のど真ん中に24時間稼働の監視塔があってガードマンが詰めているなど漫画ではないか。本当に面白い。

 この小屋の鉄塔には、岩山大鉄塔の中段に据え付けられていた金城実さん制作の「人間の像」(右写真)が、岩山大鉄塔だまし打ちと東山さん虐殺への怨念を示すかのようにそびえ立っている。08820_2

 次は岩山記念館。岩山大鉄塔の跡地に造られた建物だ。近くには、昨日、わたし達を歓迎して料理を作ってくれ、カラオケを一緒に歌ってくださった現闘のCさんが住む、成田治安法が今もかけられたままの闘争小屋(左下写真、08・3・31山田撮影)に、初めての二人はびっくり。うっそうと茂った木々に囲まれた記念館に。ここは、A滑走路南端にあり、63メートルの岩山大鉄塔が進入路を阻んで立っていたのだ。今も、航空法ギリギリの高さまで鉄塔が組まれ、成田空港への人民の怒りが象徴されている。しばらく、着陸機が来るのを待ち構えて、カメラマンがポーズを決める。B子さんが、鉄塔の最上部まで登って、待ち構える。ハラハラしながらそれを見ていたわたPhoto_2 し達は「若いなぁ~」と感嘆。ようやく飛んできた着陸機を私もデジカメを構え撮影。タイムラグがある安物のデジカメでいつもうまくいかないのが、今回はばっちりととれました(右下写真)。

 それから野戦病院へ行ってみることにする。ところが新しい道路がいっぱいできていて、ドライバー(カメラマン)のDさんの記憶どおりでないため、狭い農道をうろうろ。Uターンをするたびに、尾行している私服車が、気の毒なぐらいにオロオロ。なにしろ狭い農道ですから。「たぶんゲリラか何かをするため に探索しているかと思ってるよ」とわたし達は、ゲラゲラ大笑い。やっと野戦病院を見つけて、外から眺めながら二人に説明。さあ、現地調査を終わったと、スタートすると、私服車も、 単に迷っていただけだと納得したのか、それから尾行をやめた。あらためて大笑い。

 昼食をゆっくりとってA子さんを成田駅に送る。それからみんなで、二日間の汗を流そう08820_6 と、温泉「華の湯」に。のんびりと過ごし、明日からの援農のために英気を養い、夕食をゆっくりと食べながら、おしゃべり。どうしても、若いB子さんが、中心になる。

 夜は、「菱田の郷」に帰って、鈴木謙太郎さん、加代子さんと夜遅くまで、歓談。とりわけ加代子節の百論噴出に、若いB子さんが楽しそうに聞き入り、質問を乱発。楽しいひと時を過ごして眠りにつきました。

 

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2008年8月23日 (土)

三里塚援農報告(その1)

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 8月19日から22日まで、三里塚現地に援農と現地調査のために伺いました。今回は、まったく初めての労働者のA子さんと学生のB子さんに、いつものカメラマン2人を加え、5人で前夜に車で関西を出発。

 先ず萩原進さんのお宅に朝一番に着くと、前日3人目のお孫さんが生まれたことと(おめでとうございます)、前日が昨年亡くなられたお母さんの命日で、お寺さんに行くのでということで、この日は、市東さんと鈴木さんの所に別れて援農をすることになる。

 市東さんのところに初めての2人を含めて3人を残すことにして、市東さんの朝食の間08819 に自宅東側の畑にある監視台に4人で上がってもらい、私は散歩。何と、次々と警察の私服車が来るではないか。いずれも、カメラを向けてやると大慌てで逃げていく。民間の警備会社の車と見えるのにも(右写真)、私服が助手席に。マスクで顔を隠していることで、警察官であることを自己主張? カメラを向けてやると、これもあわてて向きをかえて逃走。国道51号の付け替え工事が終わって、することがないのか、しょっちゅう回ってくるとの市東さんの説明。

 それから、残った2人は、菱田の鈴木さん宅へ。行くと、ご夫婦は現闘の人たちと08819_2 もう畑に。携帯で連絡するとご夫婦で帰ってきていただいて、早速、畑に行ってモロヘイヤの収穫を。時折かがむものの、上の方に生えたものをちぎり取っていく収穫作業に、草取りを覚悟していた私は、思わず「ラッキー」。翌朝の朝食に早速、この日のモロヘイヤのおしたしが出てきて、少しぬるっとした感触ですが、やはり取れたてはおいしい。加代子さんの説明では、農家のおかずは、ほとんど前日か、その日の収穫したもので、おいしいのは当たり前。朝食は小食の私も、野菜尽くしの朝食に箸が進んだ。

 昼休みに、泊まる予定の「菱田の郷」の小屋で、寝泊まりの準備。何しろ凄い蚊の攻撃と聞いていたので、窓につける網を持参。それを取り付けたり、蚊取り線香等の準備。お茶やお酒などを持ち込んで、泊まりの準備完了。(三日間、蚊の攻撃に悩まされることなく、快適に休むことができました。)そのあとは、産直の出荷作業を夕方まで。市東さんのところで収穫作業をいろいろした3人も、2時過ぎに萩原さんのところへ移って出荷作業のお手伝い。

 私は、今回の援農の監督(?)にわざわざ関西から駆け付けていただいた永井満関実代表を成田駅に出迎え、皆さんと合流して、夜は、市東さん宅の離れで、萩原進さん、市東孝雄さん、鈴木謙太郎さんのおもてなしを受けて、大宴会。三里塚闘争の在り方などの率直な意見交換や、初めて訪れたA子さん、B子さんとの交流など。そして、食事の準備をしていただいた現闘の方も交えて全員でのカラオケ。

 前夜からの車の疲れと、援農の疲れもあり、鈴木さん宅の「菱田の郷」に着くやいなや、バタンキューと寝てしまいました。

 最初の写真は、翌日の現地調査で、横堀の小屋の鉄塔に登って、管制塔やターミナルビルの方を眺めておられるA子さん。

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2008年8月18日 (月)

市東さんの農地を守ろう!(5)

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 上の図は、先日5月19日、市東さんの耕作が違法耕作だとして空港会社が提訴している耕作権裁判第7回公判において、専門家の測量による実測図面をもとに争点になっている畑の様子を示した図面です(ここでま「図ー1」とします)。図面左側が、いつもデモの解散地点になっている道路と、暫定滑走路敷地のフェンスの側です。実際に、現在市東孝雄さんが交錯しているのは図ー1のA、B、C、Dの4箇所で、A、Bは遅くとも1927年までに祖父の市東市太郎さんが耕作しておられた畑であり、C、Dは、遅くとも1972年までに父の市東東市さんが耕していた畑であることが、この日、弁護団から入植以来の経緯を含めて明らかにされました。

 そして、農地について耕作している畑が、10年以上にわたって地主からの何らかの指摘や抗議、あるいは諍いがなく耕作が続けられた場合、その耕作地における耕作権は法律で保障されることは衆知の事実です。市東東市、孝雄親子は、このA~Dの畑についての耕作で、何一つ地主・藤崎から「困る」といったクレームをつけられたことなど、1988年まで一貫してなく、それに見合った地代を藤崎に払ってきていたのです。こうしたことから、市東さんの畑A~Dについて、少なくとも1988年以降における論議である以上分離して論議すべきではなく、一体の「農地」として考えるべきであると主張しています。

  ところが空港会社は、左下写真で示されるように、A(図ー1ではA、Eの下側ごく一部とBの上側一部)、B(図ー1ではEの左半分)が、市東さんと藤崎が契約した畑だと主張して、この部分を成田市農業委員会に市東さんの耕作権を解除する申請を申し立てたのです。そして、成田市農業委員会の受理と千葉県農業会議への送付が行われ、2006年9月20日、千葉県農業会議の諮問を受けて堂本千葉県知事が解除申請を許可したという経緯です。そして、空港会社は、この左写真のA、B以外の畑について契約をしていないのに耕作していることを違法として、直ちに明け渡すよう「耕作権裁判(イ)」を、06年10月に提訴しました。Photo_4

 昨年7月、市東孝雄さんは、堂本知事の許可決定が、農地法違反であり、憲法にも違反するとして「違憲行政訴訟(ロ)」を提訴しました。他方、空港会社総裁森中は、昨年10月11日をもって知事の耕作権解除申請許可決定から一年を経た事を理由に、明け渡しを通告。1年の経過措置(農作物の収穫などのため)を経たこの10月以降、新たな左写真のA、Bの明け渡しを求める「訴訟(ハ)」を求めてくることは確実です。従って、市東さんの農地をめぐる裁判が(イ)、(ロ)、(ハ)の3つが並行して進むことになるのです。なお、(ロ)、(ハ)については、市東さん自宅の東に隣接する畑と作業場や離れがある土地すべてが岩澤所有であったものが、1988年、藤崎所有のものと一緒に空港公団(空港会社)に買収され、ともに二つの裁判で争われていることに注意してください。この市東さん自宅の東側の強奪は、市東さんの農作業全体を破壊するものとして看過できません。

 この3つの裁判の大前提として、空港会社の農地特定のでたらめさと、冒頭述べたように本来、市東さんの耕作する農地は一つのものとして扱うべきであり、その点で(イ)の提訴は、それ自体が無効なものであり、審理以前に受理されるべきではなかったシロモノだということです。第2に図ー2の市東さんが耕作しているとされるB(図ー1ではEの左半分)は、もともと南側に石橋政次(元反対同盟副委員長)の自宅に隣接し、その家の周りの高い立木のために耕作に不向きな土地だったのです。(この地域では、強い風が吹くためにほとんどの家庭で、家の周りに防風林の役目をする木を植えている)。このため、石橋政次が藤崎から借り受け、植木の苗を育てる場所に使っていたことを政次の妹が証言しているのです。ですから、市東さんの弁護団は、耕作権解除申請そのものが間違った土地を確定して申請されていることから、受理自体が無効であり、(イ)、(ハ)は存在しえないのだと先ず、主張しているのです。

 なぜ、きわめて正当な弁護団の主張が認められず、裁判が進んでいるのでしょうか。こPhoto_3 こで、私たちは、裁判所が果たしている役割を見据えておかねばなりません。1989年に成田空港にかかわる強制収用法の適用が20年の時効によって失効し、1993年に成田空港の事業認定自体が取り消されたのです。このことによって、本来、国・空港会社は市東さんの農地や一坪共有地、天神峰現闘本部などに手を出す法律的根拠を失ったのです。追い詰められた国・空港会社が考え付いたのが、裁判所に収用委員会の役割をさせるということでした。ですから、国の強い意志が働きかけられた裁判所は、千葉地裁、東京高裁、最高裁判所のいずれをとっても、でたらめきわまる訴訟指揮、審理無視などなどを枚挙にいとまがないほどにこの数年間続けてきているのです。正に、三里塚に法はなく、三権分立などたわごとにすぎないという現実が、国家意志をかけた成田空港拡張、暫定滑走路北延伸、3500メートル化に向けて、三里塚に、市東さんに襲い掛かっているのです。だからの、農地法を用いた農地の強奪なのです。このことの重大性を絶対に過小評価してはなりません。しかし、同時に、このむちゃくちゃな裁判所を用いた攻撃はまた、とりあえず「民主主義国家」である敵・国家権力、空港会社の弱点、破綻点でもあるのです。

 ですから、昨年の各裁判における反対同盟を先頭とした裁判官忌避を含む裁判、傍聴闘争における決起と闘いが、裁判所を追い詰め、ぐらぐらにさせているではありませんか。確かにブルジュア法の枠内のものですし、そこへの一片の期待も持つことはできません。しかし、そこをも戦場として、闘い抜き、1%でも可能性があるなら、そこで勝利しようと呼びかける萩原さん、市東さんの闘魂に私たちは学び尽くさねばなりません。

 最後に、弁護団が、堂本知事による許可決定が、憲法違反であると断じている論点を簡単に紹介してこの稿をひとまず終わります。

① 転用目的は誘導路整備で、知事の許可決定は農地法20条(賃貸借契約の解除)の手続きをとりながら、実質的には耕作権をはく奪するものであり、憲法29条が定める財産権の侵害です。

② 土地収用法で収用できなかった土地を、ふたたび公用収用することは法の定める手続きに反し、適正手続きを求めた憲法31条に反しています。

③ 農地法は、農地の権利移動について知事の許可を必要とすると定めています。成田(新東京国際)空港用地については省令(67年9月)で例外としたのですが、これは農地法に対する行政による立法権の侵害(憲法41条)であり、その省令による「無断買収」は許されません。

 この秋、10・5三里塚全国闘争への3000人決起が、三里塚反対同盟から呼びかけられています。先立つ9月1日、「耕作権裁判」第8回公判(10:30AM~)、9月25日「天神峰現闘本部裁判」再開第2回公判(10:30AM~)、9月30日「違憲行政訴訟」第5回公判(11:00AM~)が、いずれも千葉地裁405号法廷で開かれます。関西からも、可能な限り結集して傍聴闘争を担い切りましょう。なお、傍聴券の関係で開廷の1時間前に裁判所仮庁舎1階にお集まりください。9月22日、三里塚関西集会(エルおおさか 6時15分開場)を成功させて、10・5三里塚現地へ攻めのぼろう!

 なお、今晩から6人で、三里塚現地に援農などを目的に22日まで伺います。そのため、しばらく当ブログを休ませていただきます。報告などをご期待ください。

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2008年8月16日 (土)

市東さんの農地を守ろう!(4)

Y2  市東孝雄さんの祖父・市太郎さんは、蓮沼の漁師の家に生れ長竿(ながそう)の金持ちの家に奉公に出てから、1912年、現在の天神峰の地に入植しました。ですから、父の東市さんんも、石橋など古い付き合いの人からは「ながそう」と呼ばれていたそうです。

 市太郎さんは入植当初、現在の自宅の場所(1927年には所有)で、下総御料牧場の従業員への雑貨・飲食店を営んでいました。従業員が1923年ごろ移転したのに伴い、農業を始められました。遅くとも1927年ごろまでに、下左図の畑(ア)の一部を藤崎から、自宅東側の畑(イ)と隣接する土地を岩澤から借り受けました。畑(ア)が、現在の広さに東市さんが広げて耕作するようになったのは1972年です。

 本来ならば、すでに30年以上にわたって市東家が耕してきた農地ですから、戦後の農地解放によって市東家の所有に帰されるべきでした。しかし、孝雄さんの父の東市さんが敗戦後帰ってきたのが、1947年の夏で、御料牧場の分譲はもう終わっていたのと、「千葉県庁のなかに世話課ってのがあって、引き揚げ援護局、そこへ行けば一発で合格するのに、今になって後悔している。こっちはよ、軍隊で散々な目に逢って。だからもういやだ」(1991年、東市さんへのインタビュー)ということで、手続きが行われなかったようです。また、農地解放の動きを聞いて、各地で、地主による農地の違法な確保が行政との癒着の中で行 われたのですが、この地域でも地主による不正な土地の所有(確保)が行われたのではないかとも言われているそうです。結果として、市東家の小作状態が現在まで続いたわけです。

 1984年、地主・藤崎は土地の分筆を行い、それに基づいた手書きの地図を東市さんに示し、耕作をしている現状の境界線の確認、現場の東市さんの立会に基づいた確認もないまま、東市さんの「同意書」と「境界確認書」をだまし取ります。空港需要をあてにしたホ テル事業に失敗していた藤崎が、資金繰りのために土地を売ることを考え、そのための準備ではなかったかと言われています。

 1988年3月~4月、空港公団(当時)は、地主の藤崎と岩澤から市東さんの畑(ア)と、自宅東側の土地を秘かに買収しました。丁度、その直後の5月、空港公団総裁・秋富は成田空港二期工事のための土地収用法発動を宣言していました。即ち、空港公団によるPhoto_3 市東さんの畑の買収は、この土地収用のための準備だったのではないでしょうか。また買収できたからの、秋富総裁の宣言ではなかったのでしょうか。

 しかし、その年の10月、収用委員会の委員全員が辞任し、収用審理ができないという事態に陥り、強制収用は不可能になりました。そして、国・空港会社は、1993年6月、二期工事について事業認定処分に基づく収用裁決申請および明渡採決申立の取り下げを行い、事業認定処分が失効。強制収用は法的にも不可能になったのです。

 二期工事の完成を断念した国・空港会社は、「ヘ」の字誘導路を含む暫定滑走路の工事を「軒先工事」としてすすめ、市東さん宅への騒音と排気ガス(ジェットブラスト)をあびせかけ、島村さん宅などの上空40メートル通過という「出て行け」と言わんばかりの現実を365日押しつける暫定滑走路の供用開始(開港)を2002年4月に強行したのです。

 この開港という現実を背景に、空港会社は、2003年になって突然、土地の買収を公表するとともに、市東さんに明け渡しを求めたのです。そして、なんと、その年も押し迫った12月24日に登記を行っているのです。

 実に15年間も、元地主たちと空港会社は共謀し、買収の事実を市東東市さんと孝雄さん親子に隠し、だまし続けてきたのです。耕作者の権利を保障した農地法では、耕作者の同意なしの売買を固く禁じています。また、地代を元地主たちが15年間受け取り続けたということは、詐欺行為でなければ、空港会社(公団)が、農業者でもないのに農地を所有し続け元地主に貸与していたことになるのですが、農業委員会に届けることのなかったこうした賃貸借による農地の使用は明らかな農地法違反です。

 しかも、2006年7月、空港会社が成田市農業委員会に対して市東孝雄さんへの耕作権解除許可申請を行うにあたって、耕作者の同意書を提出できなかったばかりか、買収したのが1988年でなく2003年であったと、まったく虚偽の事実をもって、こうした違法行為自体を隠蔽するという全く許せない脱法行為のもとに許可申請を行ったのです。こんなことがどうして許せるでしょうか。これは明らかに、15年間も買収の事実を隠し続けてきたことが農地法に違反する犯罪行為であることを空港会社自身が自覚していたからにほかなりません。

 同時に、これほどでたらめな許可申請は、直ちに受理そのものが拒否されるべきであったにもかかわらず、成田市農業委員会が、こうした違法、脱法行為を市東孝雄さんと代理人弁護団から指摘されながら無視し、受理するだけでなく許可し、千葉県農業会議に送付したこと自体が重大な犯罪です。そして、その送付をそのまま十分な審理をすることもなく、市東さんの抗議を無視して、「1億8千万円もの耕作補填をするのだから妥当だ」と全く許せない言辞のもと、許可を強行した千葉県農業会議と堂本知事の犯罪は、到底許せるものではありません。 (つづく)

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2008年8月15日 (金)

市東さんの農地を守ろう!(3)

 闘魂ますます盛んなり

Photo_2 市東さんの農地と孝雄さんを語る時、どうしても忘れてはならないのは、お父さんの東市(とういち)さんのことです。

 1912年、天神峰に入植した市東市太郎さんの長男として1914年に生まれた東市さんは、1934年、20歳で徴兵で、中国東北部の長春に通信隊に所属して従軍。36年、満期除隊して、東京で労働者に。結婚後、再び召集(41年)。中国東北部からビルマ(現ミャンマー)に転戦。敗戦とともに英軍の捕虜となり、マンダレーの収容所へ。そして47年夏復員して、生家で農業に従事したのです。

 1966年、突然の成田空港計画の閣議決定によって自らの農地が空港敷地に入ることを知って、三里塚芝山連合空港反対同盟に結集し、終始一貫して反対闘争の先頭に立たれました。従軍、戦争の体験から「おれはもう、どんな場合でも侵略の銃はとらない。だから土地を売らないのだ」と、天神峰部落で、石橋政次、小川嘉吉兄弟など次々と闘いから脱落、裏切っていく中で、ただ一軒残って闘い抜かれました。そして、二期工事が開始されようとする84年、自宅母屋を新築。89年、政府・公団が「軒先工事」を行って二期工事を進める中、自宅前庭に作業場を新築し、その闘う意志を 明らかにされたのです。84年(70歳で)、成田用水闘争で、重機搬入に抗議して機動隊を相手に泥まみれになりながら鬼神のごとく闘い抜き逮捕されたことは余りにも有名です。この東市さんの「空港絶対反対」の闘いが、ついに今日の成田空港の最大の破産を物語る「へ」の字誘導路の現実を政府・空港会社に強制したのです。

 集会に訪れるたびに東市さんにご挨拶すると、「松原君、神戸空港の○○○はどうなっ た」と、前回おたずねした時からの間にお送りした「東灘区住民の会ニュース」に目を通されていて、質問されるのに驚かされました。全国から集まる支援、一人ひとりを本当に大Photo_7 事にして接しておられました。 「私は三十年の闘いの中で素晴らしい同志を得た。この出会いを大切にして、この地で農業を生涯つづけ、空港を廃港にするまで闘う」(97年3月30日全国集会で)。

 また、東市さんが故・戸村一作反対同盟委員長を心底慕い続け、自宅居間にその遺影を飾り続けたことは有名です。 「戸村思想、これ抜きに三里塚闘争は語れないよ。農地死守も俺は言うよ。言うけど、最終的に敵を倒すには革命思想だよな。階級的憎悪の強弱によって決するんだと戸村さんは言っていたな。農民が何らかの形で敵と談合したら、すでに条件闘争に入っているんだって。階級闘争ってことだよ」(84年9月15日)。

 また「闘争が一番楽しかっただ。もう、おらの身はおらの身のようであって、おらの身でねぇだから、おら反対同盟さ、身預けてあるだから、6年間も、同盟や支援の人たちと、反対闘争やってきただから、誰が何といっても、こぎつけるまでがんばります」とただ一人で権力・公団を相手に抗いながら、三里塚闘争43年の歴史の中で唯一の住む家への強制収用を受けた大木よねばあさんをこよなく愛し、「大木よねさんね、貧乏人じゃなかったっておれは言ってんだよ。『日本一の貧乏婆』なんて公団は言うけど、あっちの方がよっぽど心が貧しいんだ」(1991年)と語っておられました。Photo_5

 この東市さんから、三里塚闘争が始まる前に、中学を卒業する孝雄さんは、「農家はもうだめだから手に職をつけろ」と言われて、家を出られたそうです。そして、病気の母とともに三里塚闘争を闘い抜く東市さんを手伝おうと「50歳をめどに帰ってくるつもりだった」そうです。そして99年1月16日、「親父が倒れたので帰ったわけです」(「耕す者に権利あり」4号より)。

 そして1999年1月21日、市東東市さんは永眠されました。享年85歳。東市さんの闘魂を引き継いだ孝雄さんとともに、市東さんの農地を守り抜こうではありませんか。(つづく)

右の写真は、春の代かき作業をしておられる東市さん(1991年4月14日)。左(すぐ上)の写真は、岩山大鉄塔の下で闘いに臨む東市さん(1977年)。

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2008年8月14日 (木)

市東さんの農地を守ろう!(2)

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 福田政権は、「2008骨太方針」の中で、「『強い農業構造』への転換に向け、農地の確保と徹底した有効利用、法人経営や新規参入の促進、多様な生産者の創意工夫の発揮、規模拡大等により農業経営を発揮させるとともに、農林水産物の輸出を促進する」と改革のポイントとして宣言しています。これは、06年に制定された「担い手新法」による農政を、さらに同じ時期に打ち出された「農政改革高木委員会・最終提言」に沿って改革しようというもので、政府の経済財政諮問会議で昨年、本間正義東大教授などによって叫ばれた「FTA、EPAによる新自由主義的政策によって食糧自給率は12%台に落ちてもかまわないんだ」とする農業破壊の攻撃以外の何物でもありません。

 それは、集積した農地での単一農作物の、農薬や化学肥料の大量投入による商業生産を目指し、「小規模農家は退場願う」と300万農家を、14万農家・農業企業体に絞り込もうとする農民切り捨て政策です。同時に、結果としての生産性の合わない農作物、農業からの撤退、耕作放棄の促進は、農地の有効利用(転用)による土地投機を生むことで、新たな経済活性化、利潤を追求しようとしているのです。そのために農地法の改悪、解体が目論まれています。しかも、こうした商業ベースでの大型農業の追及は、アメリカなどで既に現実の問題となっているように、農地の疲弊化を招き、狭隘な土地しかない日本では、壊滅的な農業破壊をひきおこすであろうことは確実です。

 こうしたことの対極にあるのが市東孝雄さんを先頭にした三里塚反対同盟の農業、営農への取り組みです。市東さんは、不法耕作でっち上げ裁判第一回公判(07年2月19日)で、次のように想いを法廷での陳述の中で語っておられます。

 「私は農業に誇りをもっています。生産者と消費者でつくる会の一員として、本格的な有Y4 機農業と産地直送を始めて以降、延べ3000軒以上の消費者宅に野菜を届けてきました。有機農業は、土作りがすべてです。畑を守るということは、土壌微生物が生息できる豊かな土を毎日の作業を通して作り続けることを言うのです。生殖異常や免疫異常を引き起こす殺虫剤、殺菌剤、除草剤などの農薬は決して使いません。この考えに基づいて畑は作られてきたのです。そうして作られた作物が、多くの人々の支えとなっていることに私は誇りを感じています。農地と農業はかけがえのないものであり、私たちの命です」

 政府が「担い手新法」で最低限とする規模は4ヘクタールです。市東孝雄さんが耕作しているのは、その半分にもなりません。「退場しろ」と言われているようなものです。しかし、その畑で、効率も無視して、年間50種類もの作物を作っています。作物によって、育つ期間も違います。また、輪作ができないだけでなく、次に何を植えたらいいのかも作物によって異なるようです。その工夫と努力は並大抵ではありません。しかも、そのことを通して、土を疲弊させるのではなく育てていくのですから。

 先日、洞爺湖サミットに抗議して札幌に集まった5千人の集会で、フィリッピンの農民の方が「農業は、小規模農家でなければできない」と、グローバリズムの下で進む農業の大規模化と少数のアグリビジネスによる世界の農業支配に怒りの声を上げておられました。

 日本の農業が、この狭い国土で世界から見ても最も豊かな農業として2千年も続けて来られたのは、土に向き合い、土を育ててきた家族経営を基盤とした農業生産のあり方にこそ支えられてきたのだと言われています。そして、消費者が送られてくる野菜で一年間の豊かな食生活ができるように、50種類もの作物を心がけるという、そこに込められた想いがあってこそこうした農業がありえたのです。

 こうした市東孝雄さんの農と土への熱い想いを踏みしだいて、福田政権が農地を強奪しようとするその攻撃は、正に、「2008骨太方針」が掲げた農業破壊を意図して、すべての農民、農業に先駆けて襲いかかっているのだと言っても過言ではないでしょう。

 穀物高騰、食糧高騰を背景に食糧自給率論議でようやく話題になり始めていますが、農業問題、食料問題は、労働者階級が生きていく上での賃金問題を含めた階級としての重大な問題です。今、「1億8千万円よりも、1本100円のおいしい大根を消費者に届けて喜んでもらいたい」と仁王立ちしている市東孝雄さんの闘いは、福田政権による農業破壊に対する農民階層の怒りを代弁するとともに、労働者階級の生活と闘いをも踏まえた闘いともなっているのです。この闘いを守り通すことなく、市東さんの農地を守ることなく、私たちに未来はありえません。

 その点では、「農民解放闘争としての三里塚闘争論は、理論として、農民の解放まで語ることのできない、『生きられなくなった農民』で終わってしまうもの」「市東さんの農地を守れるかどうかが総括軸ではない」などという論議があるようですが、以上述べさせていただいたことからみて、いかがなものかと思うのですが・・・・。(つづく)

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2008年8月13日 (水)

市東さんの農地を守ろう!(1)

Photo_4  市東孝雄さんの農地強奪に向けた国、空港会社との闘いがいよいよ正念場を迎えようとしています。

 この秋、10月にも、市東さんの農地を農地法で強奪しようと、農地の明け渡しを求める空港会社による提訴が行われる恐れがあります。一昨年9月、千葉県堂本知事が、空港会社による耕作権解除の申請を許可した農地の明け渡しです。空港会社は、この申請をした以外の農地の耕作は、不法耕作であるとしてすでに明け渡しの提訴を行っており、これで、天神峰にある市東さんの農地(下右図の農地(ア)と(イ)、ならびに(イ)に隣接する作業小屋などがある土地)すべてを強奪しようとしているのです。この土地は、市東さん親子が90年にわたって耕作し続けてきた、無農薬・有機農業による本当に豊かな農地です。「耕す者に権利あり」と耕作者主義を定めた農地法によって、市東さんの耕作権が守られていることは言うまでもありません。その農地法を用いて、「国策」だからと農地の空港への転用を認めるなど、正に法規を無視Photo_5 し、憲法をも踏みにじる暴挙と言わざるを得ません。まさに「生きる権利」を踏みにじる暴挙です。萩原さんは、こうしたことから「市東さんの闘いは、農民だけでなく労働者階級全体の生活を守り、戦争に反対する想いを、一人で、国家権力を相手に、真っ向勝負で闘い、押しとどめているのだ」と評しておられるのです。また、そこに三里塚闘争が、現下の情勢で、「反戦の砦」として労働者階級総体、全人民の闘いとしてそびえたっていることが明らかにされているのです。

 福田政権は、「2008年骨太方針」で明らかにしたように、安倍政権の「アジア・ゲートウェイ構想」をそのまま引き継いでいます。それは、「東アジア共同体構想」の名のもとに、FTA(自由貿易協定)、EPA(経済連携協定)によってアジア侵略の道へ突き進むことで体制の延命を図ろうとするものです。そのために、航空の自由化、成田・羽田の拡張を第1に上げています。それが、具体的には成田空港の暫定滑走路北延伸、3500メートル化、離着陸の1.5倍化(30万回)、空港の24時間化と、矢継ぎ早に出されてきた「開港30周年キャンペーン」の中での成田空港の将来像なのです。

 この目論見を土台で破産させているのが、いうまでもなく「ヘ」の字誘導路問題の現実であり、市東さんの農と農地にかけた熱い想いを軸にした三里塚反対同盟の皆さんの闘いです。右上図に明らかなように、誘導路が「ヘ」の字に曲がり滑走路に安全性を無視して接近させたまま強引こ開港したことによって、暫定滑走路は大型機を就航させることができないばかりか、便数を増やすこともできず、結果的には、1本の滑走路と大差ない現実が強いられています。たとえ、国が進めている北延伸を行おうと、この現実から逃れることはできないのです。「ヘ」の字の現実を強制しているものこそ、市東さんの農地(図では(ア))であり、天神峰現闘本部の存在であり、一坪共有地の存在なのです。

 ですから、土地収用法が失効した現在、裁判所を収用=土地強奪のための機関として、一坪共有地、天神峰現闘本部に次々と襲いかかり、法規をも無視し、でたらめな訴訟指揮によって乗り切ろうとしてきたのです。そして、市東孝雄さんに襲い掛かっているのです。私たちは、この裁判闘争が持つ決定的な意義を重視し、市東さんの農地を守る闘いの重要な契機としていかなければなりません。(つづく)

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2008年8月 2日 (土)

7・13関西新空港闘争(6)

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決意表明 松野尾かおるさん(婦民全国協関西ブロック)

 今日はご苦労様です。結集されたみなさんに、婦民全国協関西ブロックから、一言連帯の挨拶をさせていただきます。泉州住民の会の住民のみなさん。そして地元の労働者・住民のみなさんたちの闘いが営々と続けられて、今、関空二期が破綻に追い込まれているという現実をともに確認して、さらに闘いを進めていくということを申し上げたいと思います。

 基調報告にもありましたように、二期滑走路は着陸のみ、赤字も増え続け、倒産の危機にひんしている事態、そしてこれを乗り切るために国際ハブ空港構想が立てられています。この構想こそが「ゲートウェイ戦略」の一環であり、連絡橋の国有化方針とともに関空をアジア侵略の拠点空港にする目論見だという基調報告はじめみなさんの提起に対して、共に怒り、これを粉砕するために皆さんとともに力を合わせて闘いたいと思います。

 洞爺湖サミットは先進大国の危機を打ちのめしました。私たちの仲間も北海道まで行って世界各国から集まった労働者や様々な団体の人たちとともに、三日間の行動を共にして、文字通り国際的な労働者民衆の連帯でG8サミットを粉砕して、この帝国主義の社会をひっくり返していこうという決意をあらたにして帰ってきています。私たちは、韓国の百万人の労働者の決起に見られるように、もっともっと私たちの怒りを爆発していかなければならないと思います。

 三里塚をめぐる情勢は極めて緊迫しています。市東さんの土地を守り抜くこと、天神峰現闘本部裁判に勝利することを軸に、今こそ反戦・反権力の砦三里塚闘争を関西空港反対を闘いぬく私たちこそが、先頭に立って闘いぬいていきたいと思います。10・5三里塚現地闘争に、今までの倍以上の力でもって結集して、新たな三里塚闘争の発展を勝ち取りましょう。事態はそんなに悠長なものではありません。市東さんの土地も大変です。私たちは、婦人民主クラブ全国協は、結成以来、三里塚反対同盟と命運を共にしてきました。今こそ、私たちは、全力をあげて三里塚闘争を闘う時だと思っています。

 まだまだ話したいことがありますけれども、この場をお借りしてひとつだけ申し上げたいと思います。みなさん、ご存知のように政府与党はこの秋に自衛隊の恒久派兵法という法案を国会に出そうとしています。ご存知のように安倍政権の対テロ特措法が期限切れになって自衛隊の給油の船がすごすごと日本に戻ってくるという、かってない事態を全ての人たちの闘いによって切り開きました。今、新たな対テロ特措法の期限切れ、そしてイラク特措法の期限切れを前にして、この危機を乗り切るために自衛隊をいつでも、どこでも、勝手に国外に出せるように恒久派兵法の案がすでに出ています。今度の国会ではそれが上程され、民主党は基本的に賛成です。小沢は、この恒久派兵法について、最初から主張している、むしろ彼の持論です。ですから、今の国会の勢力に、何かゆだねることはできません。三里塚闘争、関空闘争を闘う私たちが先頭に立って、この恒久派兵法を粉砕しなければならないと思います。この恒久派兵法が通れば、先ほどから言われているように関空の軍事使用と言うのは、文字通りフリーパスになります。24時間、ひっきりな しに関空から迷彩服をもって銃を持った自衛隊が、これまで以上に大手を振って出ていくことになります。関西空港反対運動の最大の重要な柱である軍事使用反対のそのことの中身が試される時がきました。みなさん、ぜひ、この恒久派兵法については、まだ、ほとんど世論にも、マスコミも取り上げていないし、まだまだ私たちの宣伝も小さいです。この夏の反戦闘争を通して、恒久派兵法反対の声を、もっともっと広く大きくして、秋の国会成立を絶対に阻止していこうではありませんか。

 そして大阪府知事橋下に対する怒りは、あらゆる所に広がっています。関空に1400億08713_10 円も出しながら、私たちの生活、高齢者が、子供や、障害者に対する補助金の打ち切り、在日朝鮮学校に対する補助金の切り捨てとか、こうやって弱者切り捨て、そして排外主義をあおって、差別主義をあおって、橋下は労働者民衆をすべて切り落とそうとしています。このような怒りと、関空反対闘争の怒りを一つにして、この秋闘いましょう。10・5三里塚闘争に全力で結集しましょう。戦争に反対し、差別と排外主義に反対する闘いをみんなで強めていきましょう。婦人民主クラブ全国協関西ブロックは、みなさんとともに闘います。

【コメント】

 この発言の間中、凄まじい野次が、発言している松野尾さんに投げかけられました。それは、この録音を掘り起こすことが困難なほどの酷いものでした。発言を読んでいただいて明らかなように、その野次は、発言内容にではなく、松野尾さんが発言することそのものへの妨害以外の何物でもありません。発言内容にではなく、主催者が依頼した松野尾さんの発言自体への妨害は、明らかな集会破壊であり断じて許されません。

 また多くの方の目撃にあるように、明らかに集会を取り囲んだ警察権力は、色めきだち、隙あらば介入しようという態勢にありました。多くの人々の冷静な対応によって、権力の介入を許さなかったとはいえ、こうした事態を招いていることを承知しながら野次を続けられたことは、重大な集会破壊であったと断じざるをえません。

 主催者の一人として、そして運営に中心的に関わった一人として、かかる事態を防ぎえなかった私たち自身の力不足を集会参加者のみなさんに心からお詫びするとともに、こうした妨害にもめげず発言を最後まで見事にやりおおせられたとはいえ、松野尾さん、そして婦人民主クラブ全国協関西ブロックのみなさんに心からお詫びいたします。

 同時に、終始ヤジり続けた皆さんの猛省を促すものです。永井満淡路町空港反対同盟代表のまとめの場を借りた訴え(昨日の当ブログ掲載)を、是非、熟読し、お考えください。そして、関空闘争、三里塚闘争を共に闘いぬいてくださることを心から訴えます。

              新空港反対東灘区住民の会事務局長 松原康彦

 

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2008年8月 1日 (金)

7・13関西新空港闘争(5)

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まとめの挨拶 永井満淡路町空港反対同盟代表

 お集りのみなさん。この炎暑の中、ご苦労様です。今、現下の状況、本当に大変な状況になってきているということは、先ほど来、お聞きしておりましても、それがひしひしと感じるわけです。今こそ本当に私たちが、固く団結して、力を合わせて闘わなければならない時だと、そんな風に私は思っております。

 関西新空港反対のこうした闘い、40年やってまいりました。ちょうど1968年の8月からそういう闘いが淡路で始まりましたから、ちょうど40年ということになります。そして、それ以来営々としてというか、毎年こうした集会が、年に少なくとも2回開かれてきたと思いますし、あるときは大きな集会、扇町公園に一杯の人たちに集まっていただいて、反対集会08713_5 をやったこともあります。そういう時に、いろいろ党派の方たちが参加して後ろの方でちょっと揉めたということも実際にはありました。けれども、そういうたびに、私たち住民、呼び掛けたものとしては、立場の違いというのはお互いにあるんだけれども、それを乗り越えて、違いというのはお互いに認め合いながら、今こそ本当に力を合わせていかなきゃならない。190名の結集ということで喜ばしいですけれども、これだけではとてもとても、闘いを勝利に導いていくことはできないと、私は正直思います。もっともっとたくさんの人たちに結集していただかなきゃならないと思っているわけです。

 それぞれのお立場というものはあると思うのです。それぞれのお立場の主張をされることは、それはそれで、私は正しいと思うんだけれど、それに対して発言をやめさせるというのか(ここで野次)、そういうことについて私は非常に残念だと思っています。ここは非常にフリーな言論の場だと思ってるんで、権力が止めに来るんならいざ知らずですよ、私たちが本当に闘う際に、多少と言うと違うと怒られそうですが、立場が違っておりましてもね、今、本当に力を合わせていかなければいけない時だと思うんですよ。

 だからね、私からの心からのお願いがあります。

 私、東京の方々とも何度かお会いしております。わざわざ淡路くんだりまで何度かお出かけいただいたこともあります。そこで、一番私が心配したのは、やっぱりお互いの違いということから集会をともにできないということだけは絶対にないようにしてくださいということをくれぐれもお願いしました。「それは約束します」とはっきり約束いただきました。私はその時、妙なことを言いました。「白い猫でも、黒い猫でもネズミを捕る猫がいい猫だ」と(ここで「私らネズミとちゃうよ」などと複数の野次)、確かに言ってると。闘うもののたとえです。立場が違っても権力に対して断固闘ういう線で一致するならば、それはそれでいいのではないかということを申し上げたら、その方々も「そうだ」とおしゃっていただいたんです。で、「関西の集会では絶対に、ですから、集会が成り立たなくなるようなことはありませんね」「約束します」と、固く誓って帰っていただいたんです。それで、私は安心していたんです。

 で、今日は大したことはないかもしれませんけれども、お願いです。これから本当に一致していかなければならないとき、お互いの立場はあります、ありますけれども、お互いに闘おうという決意を、それは認めるということでいかがでしょうか。(ここでも野次)権力が一番喜んでいると思うんですよ。

 (08713_7 大きな拍手)ありがとうございます。本当にうれしい。ありがとうございます。やりましょう。

 これからも、関西空港の軍事空港化、いよいよ具体化していくでしょう。され以外にも、夜中、12時、1時に、淡路、私たちの住んでる町の上を70デシベルの騒音を出して飛行機が飛ばしてるんですよ。今年になってから。もちろん、関空にも抗議に行ってます。それから、この間、淡路市長とか洲本市長とかいろんなところにこのことについて、自治体も動けと言いに行っています。神戸市にたいしても言いに行くつもりですけれども、そういう騒音というのは大したことじゃないと思われるかもしれませんけれども、漁師街で、早いところは7時、8時で寝てしまう町で、その上を70デシベルの轟音で、夜中ですよ、12時半、1時、飛ばしたらどんなことになるか、今、そんなことが行われてるんですよ。それも軍事利用をにらんでの傍若無人なことだと思っています。やっぱり、ここで、住民も労働者も、学生も市民も、一緒に力を合わせていろんな角度からこうした攻撃に反撃していかなければならない、本当にそう思っています。ですから、それぞれの正面に向かって全力で闘うとともに、またお互いこうして寄って、力を合わせて、この関西空港、そしてまた、三里塚の現地でも今、大変な状況を迎えようとしている、無茶苦茶な攻撃をかけられようとしています。関西からも、裁判ごとに、闘いごとに駆けつけておるんですけれども。そして、三里塚と同じように闘おうと、まあ、三里塚だって分裂したじゃないかと言われるとそうかもしれませんけれども、今、残って闘っている方々、本当に40年。筋金入りで闘ってるんですよ。三里塚のように闘えば勝つんだということを私たちも信じて40年間、関空闘争をやってきました。それは本当だと思います。また、三里塚のように闘わなければ勝てないと思ってるんです。

 学生のみなさん。労働者のみなさん。そして、地域のみなさん。どうかこれからも関空闘争に集まってください。力を合わせてください。みんなで、この空港を、軍事空港化を粉砕し、やがてあの空港もペンペン草が生える空港にしていこう、そんな夢を持って、願いを持って、これからも私はこうした集会に参加します。みなさんも、ご一緒に、どうぞ、たたかおうじゃありませんか。よろしくお願いします。

 

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