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2008年7月28日 (月)

農業問題と三里塚闘争(3)

08331   写真は、現地調査に訪れた私たちに、和やかに話される萩原進さん。土砂降りの雨と寒さに震えていた私たちには、ふかした八つ頭(中央の籠の中)が本当に美味しかった。

農業問題と三里塚闘争 「労農同盟論」への考察(3)

                        萩原進三里塚反対同盟事務局次長

 「各種法令の歴史(戦後史)」(後掲)というのが、下(別紙資料)にありますけれども、これを見ていただくと判りますけれども、体制を司るについてみれば、選挙法もありますし、労働法、あるいは教育基本法もそうですけれど、その中に農地法も入る。大きな位置としてそこに入る。つい先だって、国会での教育基本法の改悪という形で、闘争が組まれて、そういう形で今なされてますけども、憲法が作る前にやっぱり農業基本法なんかが、そこで成立していかなきゃならなかった、そういう歴史的背景があるわけですね。労働者の法律と農民の法律を作んなきゃしょうがない。そして、それをもって支配していかなきゃならない。この事実だけを見ても、日本のそういう戦後の支配体制の計画性の中で、その場をしのいでいくためには、こういう形を取らざるを得なかったという所があるわけですけども。まあ、何よりも、あらゆる機会で言われるように、農地解放なんていうのは、これはもう、農民の闘いによって全国各地、(資料に書いてなかったかな) 何千件という形で、農民組合とか、そういうものが闘いが勃発して、正に革命前夜的な状況を醸し出して、これはこのままではとんでもない事態になるという形で、農地解放に踏み切らざるを得なかったという歴史的なことがあるわけですね。そのことをもって運動の沈静化、そして農民の爆発を抑えてきたわけです。そして、それが一方では抑えたにもかかわらず、先ほど言ったような砂川の闘いまで続いてきてるいう形があって、その砂川から、我々は、宮岡さんの教えを受けながら、現地でも、初めての砂川と三里塚の闘いを組んで、その中に先ほど言った新左翼と言われる人たちも招き入れて、そして今の陣形を作って、そして三里塚闘争を闘いぬいたからこそ、今日、勝利的な大道が守られているということが一方で言い切れる。ですから、この問題をもう一度掘り返して、文字通りの労農同盟そのものを各々の立場から大上段に掲げてやりぬく、そういうことが一番今求められてるんじゃないのか。そして、そのやり方と言うのはいろいろありませけども、決して並大抵のやり方ではなかなか難しさはあります。時間的な制約によって非常な困難性を招いているのは、とりわけ農民階層のそういう、もうあきらめ論というのが非常に強くて、非常にそういう意味での決起というのが中々作り得ないというのが一つと、もう一方、都市と農村、都市近郊の農村と文字通り山間地帯の農村のそういう意識の問題、あるいは置かれている環境の問題、そういう問題での運動の仕方、そういう問題も含めて、問題性がありますけれども、やはり、ただ共通なのは、このままでは農民としてやっていけないし、農業を育てることもできないし、そして田畑を守ることもできないというところまで来てるということについては認識は一致してるわけです。唯一、そこでどうするのかという問題についてだけ、解き放つというところまで行けば、問題性ははっきりしてくる。

 そこで、だんだん、先ほど言いましたけれども、食料危機とか、…危機とか、そういう形07107_2 で非常に具体的なものとして浮き彫りになってきましたけれども、いわゆる結論を先に言えば、要するに資本主義社会において支配者と農民とは、対立関係以外の何物でもない。いわゆる、農業のように非効率的な、非効率なものを資本主義社会の中で商品化して、あるいは商業としてやっていくというのは非常に困難性があるわけです。どういう角度から見てもそうだけれど、ですから、いろいろ解き放して見てみても、一方では食料自給率という問題だけを堅持しながら、何とか国内で統治していこうとするんだけども、それをでき得ない国というのはどうしても出てくるわけです。いわゆる食料の奪い合いというのは出てくるわけす。典型的なのは、イギリスですよね。そういう意味では、農業国じゃなく、世界の工業国としての存在があった。しかし、それを、自給率を堅持しながら、食料を自分たちは確保するというためには、植民地を多数持って、あるいは食料危機を発信する地域を確保しながら、他国の支配によってそれを堅持していた、というのがイギリスの姿なんですね。それを真似しようとしているのが、いういろいろな国もあるわけです。そこにアメリカという、戦後、世界大戦後、強力な国が出てきて、地域が、いろんな意味で、争奪戦の中でかすめとられていく、そういう状況の中で、日本はどうするのか。いわゆる工業国、工業国という形で、まっしぐらに走ってきた今日の結果が、今の自給率の問題としてそういう形で出てきちゃったわけなんだけれども、そして、その結果、アジア諸国の中で権益を高めながら、食料自給率を高めていくんだというような方向性を出したのが「アジア・ゲートウェイ構想」として今日出てるわけですね。だけども、これはもの凄い危険性をはらんでるし、こういうことは絶対的には、・・・不可能に近いわけですね。これに踏み切ってやっていったら、これは、今の韓国だけじゃなくって中国もそこに控えてるし、アジアの中でもとんでもない話で、今までコメの輸出という形でやっていたのが、今、もう自己防衛的に輸出そのものを止めて、自己の食料自給率を高めていくという風にしか行きえない。そして、根本的には、先ほど資本主義の中で商品がということを言ったけど、大きくアジアの農業なんて言うのは、そういう意味では家族経営的な農業が非常に多かったわけです。ですから、金券作物、いわゆる金に、貨幣価値に換えられる作物というものは、作って、外国に輸出して、そして国の貿易を黒字にするようなそういう農業の国というのは少なかった訳です。だけども、それでは、資本主義社会の中で国は非効率だという形で、金券作物にど んどんどんどん変えられてきた、その結果が今日の食料自給率の低下を招いているわけです。いわゆる家族経営的な農業を全部つぶして、大型化するとか、集約化するとか、あるいは産地そのものを集団的に育成して、それを輸出するとか、あるいは国内の中でも経済的にこれをまかなっていく、そういう農業形態に変えていくのが資本主義社会の中での農業形態なのです。そうしないと日本の大きな経済の枠の中での農業分野というのは支配しきれない、というところにきて、やっぱり、全体の姿になってきた、いう形が一方であるわけです。

 だけども、そのことを、今、韓国が、貿易協定を結んでそういうものをやろうとして大きくのめり込んでるんですね。だけど、一方は、そのことを通して、やることを通して労働者そのものの首切りが始まるし、労働者そのものが仕事場がなくなるし、低賃金を強いられるし、そういう状況を招くんですけども、やっぱりそうせざるを得ない、そういう仕組みの中で農業というのがある。いわゆる、イギリスやなんかみたいに、産業革命なんかで、丁度、工業も、産業も、ひとつの改革的なものがなされて、手直しがなされて、分配がされて、そういうものが今日まで行きついたものじゃなくて、農民、農村、農業というものが、そういう意味では封建的なものそものの残存物を抱えたまま、本当に分解をされないできちゃった。それを資本主義社会の中で生き残って、そしてそれをどおして調和をとっていくかというところで、失敗して今日の姿になっているわけで、その具体的な例として、食料そのものを燃料に変えてというのも、誰でもわかるように金券作物としてそっちへ行っちゃうという形で出てくるわけですね。そういう形で、今まで自分たちの食料を作っておった農民が、そういう食料ではだめだという形で、金に換えられる作物、国のためになる作物という形でやられたのが、やっぱり飢餓をつくるもとでもあるし、そして格差ができてくるもとにもなった、というのが現在の姿です。そのことを、はっきりさせていかなくちゃあならん。そして、今日の原油高という形で、漁民が、何万艘といわれるひとたちが、操業を休む。これはある意味でストライキですよね。これをやればやるほど赤字が深まっていく。言う形で、大きくは、第一次産業が、そういう形で、林業も含めて、本当にできえない状況の中にあるわけです。だけども、今までは、それに対して、全漁、全林に対する一定程度の補助金を出してほしいという形で、地元代議士だとか有力代議士をつかいながらやっていけば多少のおこぼれは出た。今、はっきりしていることは、「もうそんなことはできない」と頭から言われてるわけです。そういうところまで今行きついてるわけです。これだけ困ってる漁民、あるいは、老人もそうだし、弱者総体がそうです。それに対する、そういう金を出すことが出来ない。おこぼれを出すこともできない。要するに、そのことをもって、逆に「批判されるかもわからないけれど、そういう形では構っちゃいられないんだ」というところまで来ちゃってる。そういう状況を、我々は、本当にこういう形で、今の資本主義の体制の中で、こういうことは絶対に相容れないものであると、そしてそれは解決でき得ないものであるということをはっきりさせた上で、こういう人たちと連帯を求めて闘いぬいていくいう形を作っていきたいということをはっきりして、そして、そのことを、日本の世の中を変える主人公は、やっぱりあくまでも労働者であるという、そのことは決定的なものとしてある。しかし、その労働者とともに闘いぬいていく、各階層がそこには存在しているんだということを、一方ではっきりさせる必要がある。

 しかも、そういう中に三里塚闘争というものの位置があるし、その中で農民が、そういうことを自己目的的に、そして自覚をしながら、そういう働きを今、始めているんだということをはっきりと表明していく必要がある、いう形で、三里塚闘争を闘いぬいていく大きな要因としてある。ですから、単に農民問題、農業問題という形で言いますけれども、これはあくまでも労働者の問題でもあるわけです。プロレタリアートの問題でもあるわけです。そのことをはっきりさせたい。いわゆる、ある書物なんかでは、「プロレタリア革命によって一切の農民も解放されるんだ」と、確かにそうです。しかし、それに対して農民はどういう立場をとるのかと言ったら「階級的移行」という形で書かれてる。その内実がどういうものであるのか、本当に、そんな書き方、絶対に農民はついてこないし、農民は決起できない。やっぱり、農民の中に、そいう革命党なら革命党、プロレタリアートはそういうものに徹底的に学び尽くし、そういう立場に立ち切って、そして同じものとしてやらなくちゃあだめだ。我々は、労働者と同盟軍であるという立場で、今立ちあがってるわけです。やはり、農民も革命的農民として立ち上がる。そういう農民も労働者と同盟軍である。であるならば、「階級的移行」ではなくて、大合流なんですよ。そういう形を作っていきたい。マルクス・レーニンの問題を言うまでもなく、いろいろ誤解がありますけれども、農業・農民問題についてみれば、解決、またプロレタリア革命に求められる、農業・農民問題の特殊的意義が「前時代的である」とか、そんなものじゃ決してないということですね。第二次的問題じゃあ絶対ないんだと。現実には、革命党が、そういう意味では農業・農民問題の正しい解決の道を、その革命戦略の中にはっきり示していくということが求められていると思う。そういう方向の中で農民に全力で働きかけていく、農民自身の闘いを積極的に全力で支持し、そして助けていくというかたちで行かなければ、成否もなりえないということをはっきりさせていく形でいるわけです。そういう歴史が、三里塚闘争の歴史が、内灘であるし、妙義であるし、砂川であるし、日本原であるし、そういう形であったんじゃないか。しかも、今日の三里塚の闘いの中で、動労千葉はそういう役割を果たしたんです。逆の意味で言えば、動労千葉の存在が、三里塚反対同盟に果たしたんです。そして三里塚反対同盟の存在が果たした、そこに動労千葉があるんです。その相互の関係があってはじめて三里塚闘争の勝利的地平というのが築き上げられたわけです。そういう新たな労農同盟の萌芽的な状況というのがそこにあったし、あるんです。それを積極的な形で行くんだという形を作っていかなければならない。あらゆる戦線、あらゆる階層がそういう形で、大合流を図っていく、いう形の闘いが求められてるんじゃないのか、いうことが、今日、農業・農民問題を解き放ち、三里塚問題そのものをもう一度足もとから洗い流して見てみたら、そういうことがはっきりしてきた。ですから、いろいろ問題が出てきていますけれど、今こそ大きな意味での大同団結を図りながら闘いぬいていくというのが、非常に大きなものとしてあるんじゃないか。

(別紙資料) 各種法令の戦後史

1945年12月17日 選挙法改正公布(婦人参政権) / 1945年12月22日 労働組合法公布 / 1945年12月29日 農地調整法改正(第1次農地改革 松村農相) / 1946年10月21日 自作農創設特別措置法(第2次農地改革で本格化) ――― これらが新憲法制定に先立って行われた / 1947年3月31日 教育基本法・学校教育法交付 / 1947年5月3日 新憲法施行

★ GHQは、戦前の地主勢力が日本軍部の背後にあるとし、農地法を「憲法改正に匹敵する」と位置付けた

(右上写真は、昨年10・7現地闘争で、基調報告をされる萩原進さん)

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