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2008年7月27日 (日)

農業問題と三里塚闘争(2)

08330    写真は、全国闘争(08・3・30)で、基調提起する萩原進さん

農業問題と三里塚闘争 「労農同盟論」への考察(2)

                  萩原進三里塚芝山連合空港反対同盟事務局次長

 今日は、いわゆる三里塚闘争がやはり単にそこに空港という問題が地に不時着して、そして農民が土地を守るために決起して、あるいはそういう中で既成政党、あるいは新左翼と言われる人たちの論理性の中で、軍事空港という自ら誰でもの課題として捉えられるそういう政治的課題として二つの柱が出来てきたわけですけれども、突然変異的に三里塚闘争みたいなものがそこに出来たというんじゃなくて、市東さん問題を突き放して考えて見た時に、戦後の農地解放、あるいはその前からもありますけれど、ここにも書いてありますけれど、やはり農民、あるいは地域住民、漁民の闘いとそこにおける労働者の結合の闘いによって闘いが展開され、一定程度間断はありますけれど、間はありますけれども、それらが代々引き継がれる形で三里塚闘争が引き継がれて今日来たという風な、歴史的なことが裏付けられるんじゃないかということを、自分たちははっきり言い切ることが、我々の学習会の中でできたわけですね。

 まあ、それの問題としては別紙で、「戦後の農民闘争、全国基地闘争と総評労働運動」、「各種法令の戦後史」という形で作ってありますけれども(後掲)、まあ、内灘と北鉄労組、妙義と群馬県評、砂川での東京地評や三多摩労協のたたかい、この辺では日本原の闘いなんかもあるし、そして直接的には砂川の闘いを大きくは引き継ぐような形で我々、三里塚の闘いが展開されてくる。そして一方では戦後の農地改革と、そして農民闘争を闘いぬいた茨城の山口武秀氏が率いる常東農民組合の闘いが、三里塚の中にも持ち込まれてきた、という闘いとしてある。そして何よりもそこの中には、労働組合、あるいは労働者がともにそういう形で闘いぬいてきた、そいう形でできてきた。ただ、三里塚の場合、そういう意味では大きくは総評の労働運動そのものの解体が一方ではなされ、社共の裏切り的なものが表面化してくるという中で、今の、当時言われた「新左翼」と言われる人たちとの結合という形で42年間闘いぬかれているという姿があるわけです。

 これの決定的な違いというのは、文字通り、いわゆる諸要求の闘いじゃないし、部分的Photo 改良主義的闘いじゃない。土地そのものに対して、土地を武器にして、そして権力を打倒するんだという改革闘争として存在させるし、そして軍事空港として戦争にたいして反対して、そして支配者を打倒するんだという闘いにまで上り詰めていくというような闘いとして三里塚闘争が、今日なった。これは、いわゆる社共の、あるいは総評、労働運動の殻を打ち破ったものとして存在したのじゃないのか、ということがそこにあるわけですね。それが、主人公的に誰がなされたのかと言ったら、それは、決して社共でもないですね。そして新左翼がやったのかと言ったら、そうでもない。社共を追い出すということ自体は、これは当時の「新左翼」と言われた者たちの論理性もありましたけれど、だけども実際にそれと闘いぬいて、そしてその姿を打ち砕いて、そして現在の非妥協の闘いを作り上げたのは、三里塚の農民なんですよ。そして、それとともにそれに共感して、そして共に闘うという戦線ができたのが今日の姿なんです。それを正しく今度は指導して、そして勝利に向かっていくというのが、やっぱり党と言われる立場の人たちの存在というのが、そこから問題視されるわけですけれども、やはり、今までの限界性が一方ではあったけども、解き放された戦闘力とそして思想性を今日の三里塚闘争というのは、ある意味では、新左翼と言われるそういう人たちも、逆に鼓舞激励し、そして一方では巻き込んでいくというような闘いとしてあったんじゃないのか、ということを自分は、今、声高らかに言いたいわけですね。それは何かといったら、今までのそういう形態とは全然違うものとしてそこにはあるんだという、いわゆるそれが・・・、絶対的な要素として非妥協、実力闘争を展開して、しかも、世の中を変えるんだ、いわゆる言葉としてストレートに「革命」という文字、言語を使わないまでも、そういう闘いとして今日存在しているというところがあるわけで、そういうものが根底にあって、そこからいわゆる農民という立場で、それじゃあ労働者に対して「一緒に闘おうじゃないか」ということを訴えて、しかもそれを実践しようとしているのが今の姿なんです。実践するに当たってそれじゃあどうするのかというところで考えざるを得ないというところで今来てるわけです。まあ、どういう形でいくかというところがあるわけですけれど。

(別紙資料)戦後の農民闘争、全国基地闘争と総評労働運動

●敗戦直後の1945年秋、ただちに農民闘争が始まった。農地解放に近いことを知った地主は小作地を闇値で売り逃げに奔走した。46年6月までに25万件。地主に対する小作農民の闘いが始まった。土地取り上げに反対、小作料減免、耕作権承認を求める闘いは全国に拡大し、農民組織が結成された。茨城東部では地主勢力と対決、小作地の開放に勝利し、軍用地の開放や未墾地解放、山林解放を闘いとった(常東農民組合)。後に山口武秀によって三里塚に続く。日帝支配階級は農地改革によって農民闘争の沈静化と労農の分断を計ったが、農民の闘いは続き、農地改革が一段落して農地法が成立した。

●1952年内灘米軍射撃場接収反対闘争。続いて妙義、北富士、大高根など全国基地闘争が展開された。立川飛行場の拡張をめぐる砂川闘争はその頂点の闘い。いずれも米軍占領期から続いた旧日本軍基地の米軍による継続使用をめぐって、数千数万におよぶ農民が長期闘争を闘った。

●50年代全国基地闘争に農民が大衆的に決起した要因には当時の先鋭化した総ひょう労働運動の存在があった。(内灘と北鉄労組、妙義と群馬県評、砂川での東京地評や三多摩労協の闘い、そして砂川・・・・・・全学連との連帯は三里塚労農学連帯に直接つながる)

●三里塚闘争はそれを引き継いで全地区的規模で部落ぐるみで行動隊を編成し、婦行、老行、少行と高校生協議会を組織し、積極的に全国支援を求め、労働者と連帯して日帝と対決する闘いを実現した。

(中段・右の写真は、07年8月5日、広島で行われた「国際連帯集会」で発言する萩原進さん)

 

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